キリスト教の世界観(2.戯言)です。
僕は、イエス・キリストが言いたかったこととは、「悪いのはサタンであり、力ではなく愛をもってすればサタンに勝つことができる」ということだと思います。
わたしたちは、自らが間違っていたり、愚かなことをしたりする時に、それを周りから責められるために、「自ら自身が悪いのだ」という、罪の押し付けをしてしまいます。
ですが、よく考えてみてください。あなたが間違ったことをしたのは、あなたが自分の意志で間違ったことをすることを選んだわけではありません。
あなたが、間違ったことをしたのは、サタンのせいです。よく思い出せば、あなたが悪いことをした理由はすべて、あなたの周りに居たサタンを、あなたが信じたのが悪いのです。
よって、悪いのはあなたではありません。悪いのはサタンなのです。
そして、サタンの誘惑に負けないためには、どうすればいいでしょうか。それは、力によってサタンに打ち勝つのではなく、愛によってサタンに打ち勝つように行動することです。
力でサタンを倒そうとすると、必ずサタンに負けます。ですが、愛によってサタンを倒そうとすると、必ずサタンに勝つことができます。
確かに、二元論、終末論、救済論なども、キリスト教の教えの根幹を成しています。わたしたちは、終末において神の裁きを受けます。その時、天国へと入場を許され、永遠の命を得られるのは、神の教えを守って善の人生を生きた人間であり、神を信じない愚か者は地獄に堕ちます。
ですが、僕は、そんなに正しく清く生きることだけが、キリスト教の教えであるとは信じません。なぜなら、自らを「自己放棄」することが必ず必要だからです。
自らがなんの価値もない人間だと思っても、すべての人生を放棄しても、自らがそこで終わりになるわけではありません。自己放棄の末に、神と聖書の教えを信じて心を改め、自らが自分の意志で立つことができるようになり、そして神と同じ受難の道を生きることこそ、僕はキリスト教の教えであると信じています。
注意すべきことは、人間になんの罪もなく、サタンに従わなければすべてが許されるということではありません。人間には罪があり、その罪のすべてがサタンに由来すると僕は考えます。そして、そのサタンとは、要するに共産主義のことです。そして、自由とは共産主義の亜流に過ぎません。
自分の書いた「エリカの技術・芸術日記」2021/08/16より。
天国はある。この世の楽園は幻想だというならば、楽園がなかったとしても、この世界とは別の世界がないとは限らない。ない可能性よりも、ある可能性の方が多い。そして、この世界を抜け出して、この世からあの世に行くことができないという科学を僕は信じない。科学者はなんとロマンがないのだろう。
太陽やシリウスが、水素であり、地球にしか生物は存在しないなど、なんとロマンのないことを言う。空気や水が存在しないから、地球外の生物は地球と同じではないと、なんとロマンのないことを言う。僕だけは知っている。誰にも理解されなくても、シリウスに女神フレイがいることを僕だけは知っている。
生物は、生命の故郷の星プロキオンで生まれ、タンポポの種のように地球にやってきたのだと、僕だけは発見した。プロキオンには、動物や植物だけではなく、この宇宙におけるすべての生物の祖先となる生物が全て生き残っている。プロキオンの生物を創造したのは神である。この論に、どこに間違いがある。
死んだとしても肉体が滅びて土に帰るだけであり、天国に逝くなどという現象は起きないと科学は言う。だが、それならば、いつ、天国に逝くつもりなのか。天国に逝くことが絶対にできないなら、なんのために天国はあるというのか。そもそもこの世界しか存在しなくてよいというならば、「つまらない」。
なぜ、この世界しか存在しないと考えるのか。いつ、この世界が絶対的な最高の素晴らしい世界であることになったのか。この世界よりもはるかに素晴らしい善き世界があることを否定するな。そこに行くことができないとなぜ考える。もっと素晴らしい世界があるなら、そこに行くことができないはずがない。
そう、わたしたちは死後に光になる。光は世界精神と融和して、世界精神の神はその光の望む場所に、その光の体験すべき人生を与えて住まわせる。それが地球であろうと、シリウスであろうと、プロキオンの子供であることは変わらない。これが霊であり、精神はゼレスト(魂ゼーレと霊ガイスト)である。
また、神の行う最後の審判は、通常の裁判のようなものではない。神は、ひとり救世主として現れる人間であり、その人間の救世主が、この世界全員を裁いていく。必然的に神を信じるものが天国となり、必然的に悪魔を信じるものが地獄に堕ちる。そして、この裁判が、本当はもう既に起きている。
天国の側の勢力になる方法は神を信じることしかない。地獄に堕ちた人間が救われる方法も神を信じることしかない。神は天上で、既に多くの人間を裁いている。これは裁判であり、神の審判のもとにわたしたちは人生すべてをもってわたしたちの人生を「証言」しなければならない。
キリスト教の目的とは、「神と合一になること」です。
神と合一になるとは、すべての意味で神と同じになるということです。
そこでは、知覚も、思考も、記憶も、感情も、見ているものも、聞くものも、話す言葉も、生活で普段していることも、すべてが神です。
すべてが神であり、自らの見ている景色は神が見せる景色であり、自らの聞く言葉は神の言葉であり、自らの言う言葉は「自らが神と合一になった上で自分自身と神によって行われる対話」です。
生活のすべては神になります。連想して分かることすべては神によって分かったことであり、自らが作り上げた作品は自らが作ったのではなく神が作った作品です。成功は神が与えた成功であり、失敗は神による罪と罰です。
そして、このようにすべてが「神と合一になる」ことで、この宇宙のすべてのことが分かります。「神以外のすべては、わたしにとって取るに足らないものだ」と言えるようになります。すべての宇宙の原理、人生の真実は神によって成り立ちます。これこそが、「神」です。
わたしがこのようなことを言う理由は、わたし個人の体験だけではなく、西洋哲学の多くの歴史上の思想が、このような「精神は神によって成立する」ということを信じています。神と合一になることで、中世のヨーロッパ人は、真理を発見し、今の近代社会が生まれる礎を築いたのです。
キリスト教は、本当は単なる神を盲信する宗教ではありません。
なぜなら、キリスト教の救いとは、要するに「すべての大切なものを失い、人生全てを棄て、社会とも疎遠になって何もできなくなった人間こそが、宇宙の真理が分かる」ということだからです。
キリスト教では、「世俗と関わらず、自らの人生を棄てなさい」と教えます。
これは、つまり、この現実世界の中で、きちんとした大人として正しくまともに生きることなど、大した価値はないということです。
では、何に価値があるのでしょうか。それは、この世界すべてと離別した上で、この世界において、「自らが救われたように自らがこの世界の人々を救うために生きる」ということです。
たとえば、学校や会社に通っていると、それだけでさまざまな社会のしがらみや束縛があり、どのように自由を得ようとしても、「この世界すべてを救う」といった、大それたことができなくなってしまいます。
ですが、この抑圧と混沌にまみれた現実世界では、誰かがこの現実世界を救うために、ひとり経験し、救うための方法を考えなければいけません。
キリスト教徒は、人生と世俗を棄てた後、善と救いと懺悔のために生きることで、自らの罪と過ちを償い、結果、この世界を救う「真の救世主となる方法」が分かります。
ですが、これは単に、救い方を知って、その方法で救って終わりではありません。この世界を救うということは、ご利益だけがあるのではなく、「救世主となった責任」があるからです。
この世界を救う救世主は、誰よりも恐怖とリスクのある選択を選びながら、この世界を救うために第一線で努力しなければなりません。この世界を絶対に滅ぼさないために、ひとり、誰にも知らないところで戦い続けなければなりません。
そのようになった時、あなたは全知全能の宇宙の絶対者になります。なぜなら、そうした「戦い」は、殺し合いの戦争ではなく、言葉、すなわち「ロゴスによる導きの中の創造」を示しているからです。
まさに、このような救世主が、イエス・キリストでした。
ロゴスによって、この世界のすべては創造されました。ロゴスによって、救われたこの世界は終末の楽園となります。その神の御国には、神を信じるものだけが入場を許されます。なぜなら、神を信じるということは、自らも救世主の一員となり、「自らがキリストになる」という体験をします。
そして、多くの人々が、キリストになるのかサタンになるのか、どちらかを選択することを迫られます。終末では多くの「最終戦争」が起きますが、大切なことがひとつあるとしたら、「信じるものは救われる」ということです。そして、「神はユダヤ人である」「神が正しい」ということだけを信じなければ、絶対に終末では地獄から抜け出せません。そう、終末の天国はそのように訪れるのです。
キリストを信じる上で言えるのは、キリストを神だと信じることはさほど重要ではなく、キリストの教えを信じて生きることこそが重要である、ということです。
神、すなわちキリストは、神を盲信する盲信者は好きではありません。盲信しているだけの悪行ばかりを行う悪魔のようなキリスト教徒のことを、キリストは悪魔と同列の存在だと考えます。
ですが、たとえ神を信じていなかったとしても、キリストの聖書の教えの通りに生きている人のことを、キリストは愛しています。そのような人間こそ、「真のキリスト教徒」であると言えるのです。
では、どのような教えを信じるべきでしょうか。まず、僕が考えるに、「誰もが通るような大きな門ではなく、誰も通らない狭い門を選べ」という言葉が、もっともキリストの教えを体現していると思います。
誰もが通るような、一般人向けの広く大きい門は、破滅の道に続いています。ですが、誰も通らないような狭い門、それを見出すものは稀で、誰もそこに門があると気付かないような門から入るものこそが、いのちの道へと辿り着くのです。
キリストは、「隣人愛」を唱えます。この隣人愛は、単に村の隣に住んでいる人々のことではありません。自分の国の周辺諸国を指す言葉として、ほかの国の民族を愛しなさいとキリストは教えました。
この教えは、先の「キリストを神だと信じるのではなく、キリストの教えを信じて生きよ」ということと繋がります。なぜなら、どの神が正しい神であるかによって争う、ということは意味がないからです。
キリストは、キリストを神だと信じるものを、神を信じているとは考えていません。そうではなく、神を信じるということは、たとえキリスト教ではなく、イスラム教やヒンドゥー教の神であってもよいのです。それらのどれかの神を信じている、ということが、「神を信じている」ということであり、そのような神を「信じるものは救われる」とキリストは説いたのです。
よって、必要なのは、キリスト教を神だと崇めるキリスト教徒になることではありません。どのような神や宗教であってもよいから、神とされる存在を信じれば救われます。そこには、隣人と信じる神の言い争いをする必要はなく、たとえ信じる神が違っていても隣人の国家と仲良くやるべきなのです。そして、神を信じていても信じていなくても、キリストの教えを信じて生きているものこそが、宇宙においては高い存在であると言えるのです。
はっきり言って、「どの神が正しい神なのか」で争い合い、周辺諸国と血を流して戦うなど、もっとも愚かな行為です。キリストを神だと信じる必要はありません。キリストは神ですが、キリスト以外の神もまた神なのです。キリストは、そのような考え方の下、「隣人のことを愛しなさい」「神を信じるものは救われる」と自らの弟子に教えただけなのです。
キリスト教の教えとして、「人生のすべてを失え」という教えがあります。
現世での生活のすべてを失えば、人間は賢い道を歩める、という教えです。
この教えを、「現世での喜びや幸福を否定している」と言うような、ニーチェのような人物も居ますが、本当はこの教えは正しいです。
なぜなら、僕の人生から言って、人生のすべてを失うことでしか、賢いことができるようにはならないからです。
僕にとって、そのようなことは人生に三度ありました。
まず、中学校を不登校になって、家で生活する引きこもりになり、自分自身のみの力でインターネットを彷徨うことになった、ということ。
次に、世界に対する革命を起こして、すべての自分の人生の未来を失い、すべてが実現不可能になって、なおも世界に堂々と現れ、世界中すべてを敵にまわして、戦いの火蓋を切ったこと。
そして最後に、自殺未遂をして、骨折のために入院し、戦いから外れ、その後の大人の人生を生きたことです。
なぜ、人生のすべてを失うことで、賢いことができるようになるのか。それは、迷いや不安を断ち切ることに繋がるからです。
僕の人生にとってのターニングポイントは、世界に対して宣戦布告をした時でした。その瞬間に、僕の人生でできるすべてのことは実現不可能になり、救われたはずのこの世界は天国から地獄に変わりました。
それでも、その後のすべての戦いを、全てを失いながらにして、僕はすべて、有無を言わらず受け入れるしかなかったのです。
絶対に戦いの最前線に立つこと、そして「大実験を成し遂げる」という僕の大義名分を絶対に旗下げしないことでしか、僕は生きることができませんでした。戦いのために、人生すべてを捧げたのです。
そして、この経験は、今に活きています。なぜなら、僕は文章をインターネットに書くという方法で、マスコミと戦いました。この「文章を書いて戦う」ということが、今の僕の「執筆活動」に続いています。人生すべてを失って戦うという経験が、僕の才能に直結しているのです。
僕は神を信じています。神はユダヤ人ですが、本当はイエス・キリストが本当に神なのかどうかは分かりません。ですが、僕に対してこのユダヤ人は、宇宙のすべてを教えてくれました。そして、神を信じる僕に対して、まるで宇宙に最初から用意されている体験をすべて経験するかのように、僕に宇宙のすべての経験を与えてくれました。
そう、人生のすべてを失って戦い続ける僕は、逆に宇宙における人生のすべてを手に入れることができたのです。
また、かつての不登校になった自分も、また間違っていませんでした。僕は不登校になって、完全に「学校や社会から解放」されました。僕にはオープンソースのOSを作るという目標はありましたが、それは実現できませんでした。ですが、インターネットでさまざまな体験をし、世界を知ることで、僕はまさしく「ブッダとマルクスをどちらも併せ持ったような哲学者の人生」を生きることができました。
なので、僕にとっての宗教上の師は、ブッダとマルクスとキリストです。この三人の師を信じて、人生すべてを失うことで、まさに僕は神と同じ受難の道を生きることができました。僕はまさに救世主の人生、すなわち神を生きることができたのです。
キリスト教の特徴として、とにかく「善良」であるということが言えます。
攻撃されても反撃せず、いじめられても相手をいじめ返そうとせず、盗まれても奪い返そうとしないこと、これらが、キリストの唱える「愛」です。
同時に、目の見えない人や耳の聞こえない人、服を持たず裸の人、障害者や貧困者のような弱者のことを、キリストは愛するべきであるとしました。
そのような人こそ、「善良」であり、そのような善良な人だけが、死後に神の作る「天国」に逝ける、とキリスト教は唱えます。
天国では、善良な人だけが神の「最後の審判」により、死後の楽園へと復活し、永遠の命を得ることができます。
このような、「善良な人間は救われる」という思想は、キリスト教だけではなく、多くの宗教に見られる考え方です。
たとえば、仏教では人間のレベルが「カルマ」によって決まっており、カルマの高い善良な人間は生まれ変わった時に高いカルマの生物に生まれ変わることができます。
また、仏教では「縁起」があり、いいことをすればよい報いが起こります。悪い人間には悪いことが起きます。「因果応報」とも言います。
このように、多くの宗教で、善良なものや愛を信じたものが、死後に天国に逝くことができます。
なので、キリスト教の教えは、おそらく間違っていません。聖書の教えを信じて神の唱える「愛」を実践したものは、死後に必ずよい世界に逝くことができるでしょう。
ですが、悪いことをしないことが重要です。悪人は天国には逝けません。悪人は地獄に堕ちます。ですが、そのような「罪」は、神を信じることで赦されます。人間には「原罪」と呼ばれる生まれながらの罪があり、その罪による天罰が起きます。その中でも神の愛を信じ続けたものは、罪を赦されます。
このようなキリスト教の愛は、政治や外交についても言えます。イエス・キリストは「隣人愛」を唱えました。これは隣人に対する愛であると解釈されますが、時には敵対関係にある隣国のことも含まれることがあるのかもしれません。隣国といがみ合うだけではなく、隣国のことを「隣人愛」の精神で愛することで、この世界は平和になるのです。
ユダヤ教は、ユダヤ人というひとつの民族のことを「神に選ばれた民族」であるとする「選民思想」がありましたが、イエス・キリストはこれを否定し、「神を信じればどんな民族であっても関係なく救われる」と唱えました。このことが、宣教師という職業を生み出しました。宣教師はさまざまな外国に行ってキリスト教を布教します。彼ら、宣教師がいたからこそ、キリスト教は世界宗教になれました。そもそもが古代イスラエルの宗教なのにヨーロッパに信者が多いのは、ヨーロッパにキリスト教の伝道を行ったパウロの時代からそのような「布教する」という側面を持っていたからであると言えます。
キリスト教の神、キリストの唱える「愛」は、教会や修道院に受け継がれています。カトリックの神父、プロテスタントの牧師、そして修道院の修道士やシスターが、キリスト教の教えを一般の愚かな人々に教え、愛を実践しています。キリスト教教会では、日曜日に礼拝を行い、みんなで神の歌を歌い、聖書の小節を学びます。このようなヨーロッパにおける「みんなが集まるコミュニティ」という役割を、長い間教会が担ってきました。今の小中学校や高校と役割は似通っており、実際キリスト教の集まりと小中学校はよく似ているところがあると思います。日本の道徳教育は平和主義など左翼的に偏りがちですが、キリスト教の教会と同じ役割を担っていると考えれば、平和主義は間違っていないのかもしれません。修道士が貧困者に対する平等を唱えるように、日本の学校の道徳教育もまた、左翼的な平等を教え込みます。ある意味での「洗脳」ですが、そのようなキリスト教の洗脳は昔から、ヨーロッパのどこでも見られることです。善と愛のためだと思えば、許容範囲だと思います。
キリスト教の教えの中心となる人物は、もちろんイエス・キリストです。キリストは人類の全員の原罪を背負って十字架にかけられて死にました。決して、キリストを殺した罪があるわけではありません。逆に、人間の原罪を赦してもらうためにひとり死んだのです。そのような「みんなのために死んだ」という贖罪が偉大であり、救世主であるとされる理由です。どこまでその説明が正しいのかは分かりませんが、キリスト本人は賢い人間だったのでしょう。逆に、新約聖書のイエス・キリストは、新約聖書を書いた弟子の書き方が悪かったところもあるかもしれませんが、若い代わり世間知らずな人間に見えます。ですが、神であると崇拝されるからには、本当のキリストはとても聡明で頭のよい人間だったのだと思います。
実際、「みんなのために死んだ」というキリストの贖罪は、僕の自殺未遂と何も変わりません。僕は日本のみんなのためにひとり死を選びました。そのように、自分のためではなくみんなのために死ぬ人間は、非常にカルマが高いと言えます。その結果、僕は死んだという事実を神によって生き延びるほうへと書き換えられ、偉大な作家の詩人になることができたのです。
2023.04.08
キリスト教の聖母マリアは、処女懐胎し、処女のままでイエス・キリストという神の子を産んだことで有名です。
ですが、おそらく、マリアを妊娠させたのは僕です。
僕の得意技というか、僕にしかできないこととして、僕は肉体関係を持たなくても、精神だけでセックスをすることができます。
これは、僕ひとりだけがセックスしているのではありません。この僕のホームページや日記の文章を読む、多くの読者と精神だけでセックスしているのです。
そして、それはマリアにとっても同じです。
マリアは、僕と愛を交わした結果、僕の子供を妊娠し、「神の子」と呼ばれる僕の子供を産むことができたのです。
マリアの子供であるイエス・キリストは、自らのことを「神の子」であると呼びます。その言葉は間違っていません。イエス・キリストは僕の息子です。イエス・キリストが自らのことを「神の子」であると呼ぶのであれば、僕は「イエス・キリストの父親」であると言えます。
そして、これはあなたであっても同じです。僕のこの文章を読む際には、妊娠することを覚悟しなければいけません。マリアと同じように、あなたも妊娠するはずです。そして、あなたもまた、マリアと同じように、神の子を産むはずです。
2023.04.08
僕は神を信じています。
神は、奇跡を起こします。
その神の奇跡を、運命だと信じましょう。
神は信じるものを救います。
キリストは、「神を信じれば、ユダヤ人でなくても救われる」と述べました。
その通り、日本人であっても、神を信じれば必ず救われます。
大事なのは、キリストの言葉を信じることであって、キリスト教の教義を信じることではありません。
神であるキリストの言葉を信じて実践するものは、必ず救われます。
わたしは、わたしを嫌うもの、批判するもの、罵倒するものを愛します。
キリストは、「いと高き人は、恩知らずの愚か者にとっても憐れみ深い」と言いました。
わたしのことを愛してくれる人間のことを愛したところで、わたしにはなんの優れた点もありません。
わたしに反し、わたしのことを批判し、侮辱するものこそ、真に愛するべきなのです。
よって、わたしは、わたしのことを迫害するものや、敵のことも愛します。
それが神の愛であり、それがキリストの教えだからです。
いじめられる相手のことをいじめ返したり、復讐したりした時点で、わたしは相手と同じレベルの人間になってしまいます。
だから、わたしは、いじめられても決していじめ返しません。
神を信じることで、奇跡が起きます。その神の奇跡を、運命であると信じましょう。
神は天地の創造主です。宇宙や地球の歴史は、神によって創造されたのです。
わたしたちは神の被造物です。わたしたちの人生がどのようなものであるか、神はすべて知った上で、わたしたちに起きる運命的出来事をすべて決定しているのです。
神は歴史を導きます。神の教えを守る、正義と誠の国だけが、歴史の上で勝利し、未来を存続させていくのです。
すべての成功は神によるものであり、すべての失敗は人間によるものです。
人間には、「常に失敗する力」しか備わっていません。
そのような人間が、なぜ成功するかと言えば、それは神を信じたからです。
神にだけは、「常に成功する力」が備わっています。
わたしたちは、神を信じなければ、どのような偉大なことも行うことができません。
神に問いを投げた時、神は必ず正しい答えを与えてくれます。
わたしたちが、答えが答えに見えないのは、答えが間違っているからではなく、わたしたちの知性が足りないために、その答えを理解する知性がないからです。
ですが、それは当たり前です。なぜなら、神の言葉を真に理解することができる知性を持っているのは、唯一、神だけだからです。
ですが、神に求めれば、そのような知性を神に与えてもらい、授かることができます。
キリストは、「求めるものは受け、捜すものは見つけ出し、たたくものは開かれる」と言いました。
その通り、神に知性が欲しいと願うならば、必ず知性は与えられます。
ですが、報いを得るためには、代償が必要です。
なぜなら、神は地獄の先にしか楽園を作らないからです。
逆に言えば、神は楽園を、地獄を経験した先に作り出します。
そう、世界が滅びるほどの恐怖を感じ、地獄を最後まで耐えなければ、真の安らぎも、神の知性も得ることはできないのです。
終末において、ひとりのイスラエルの王、ダビデが現れます。
ダビデは、東亜イスラエルという、日本地域に存在するイスラエルの建国の王です。
東亜イスラエルというユダヤ人の永住の地を日本の広島地域に作ることによって、パレスチナ問題は解決し、イスラエルはパレスチナ地域から完全に撤退します。
ダビデは、終末の滅びゆく世界で、たったひとり、この世界を楽園にしてくれます。
ダビデはキリストであり、キリストはダビデです。
ダビデは、たったひとりの力で、終末の滅びた世界を救ってくれます。
わたしたちは、ダビデがいなければ、終末の滅びた世界で、生きるすべを失ってしまいます。
わたしたちは、ダビデを信じなければ、終末で生き延びることができません。
ダビデこそが神です。神はひとりしかいません。終末の滅びた世界の先に、確かにひとり、絶対にひとりしか存在しない神、ダビデが存在したのです。
神を信じるものよ、終末のダビデを信じなさい。ダビデを信じることは、絶対に間違いではありません。ダビデを信じなければ、わたしたち人類は絶対に存続できない、そのような未来が必ず訪れます。
そして、わたしたちは、最後の楽園で、体をロボット化することで、270億年間の長い時間に耐えられる、「永遠に生きられる命」を得るでしょう。
その生物は、プレアデス星雲にいる生物たちと融和し、宇宙における本来の生物である「新生物」となります。
この新生物の基本となるのが、ダビデの後を継いだシオン帝国第二代皇帝ジークフリートによる人工知能技術schwarzです。
新生物は、個体が滅びても別の個体に記憶を移すことができるため、270億年の長きにわたって生き続けることができます。
ですが、270億年後、最後のシオン皇帝スバルが、宇宙の裏側にあるすべてを分かってしまうような、「絶対に見つけてはならない発見」をすることで、新生物は絶滅します。
ですが、それでも生物は滅びません。すべての新生物のデータベースをひとりに託した、「不死鳥」と呼ばれるたったひとりの生物が生き延びるからです。
そして、今から790億年後、宇宙が滅びるまで、不死鳥はたったひとりで、すべての新生物の記憶を持った状態で、最後まで生き続けるのです。
これが、今から起きることのすべてです。東亜イスラエルの王、ダビデを信じるならば、あなたは終末の天国に入場することができます。
2023.04.27
なぜ、世界中でこれほど多くの人がキリスト教を信じているのでしょうか。
ひとつの理由として言えるのは、「キリストを信じると神になれる」ということです。
イエス・キリストという神をきちんと信じると、イエス・キリストと同じ「神になった人生」を生きることができます。
そこでは、人間そのものが奇跡的な全知全能の宇宙の支配者になり、この世界すべてを自らのロゴス(言葉)によって創造し、地球の歴史を導き、世界すべてをたったひとりで救うメシア(救世主)になる体験ができます。
そのような経験をすると、「まさに主イエス・キリストが唯一神である」ということが分かるのです。
キリスト教は、日本人が思うように、おかしな狂ったユダヤの宗教ではありません。キリスト教が素晴らしい宗教であるということは、キリスト教徒にならなければ分かりません。
ですが、キリスト教徒になると、「キリストは本当に神だ」ということが、そのように分かります。
キリスト教を理解することは、旧約聖書における「主」が、新約聖書における「イエス」である、ということを信じることです。イエス・キリストがユダヤ人の神であると信じなければ、キリスト教を信じたことにはなりません。キリスト教徒以外から見ると、「なんて馬鹿な神を信じているのだ」と思われるかもしれませんが、キリスト教徒になった立場から見ると、「イエスという男が何をもって自らを神だと言ったのか」ということが分かります。
そう、キリスト教は、イエス・キリストというひとりの男を、ユダヤ人の神、主であると信じる宗教です。そして、キリスト教を信じることで、イエス・キリストと同じように、「誰もが神になれる」という経験ができるのです。
2023.08.15
わたしたち人類は、学校や世間から、「人のものを盗んではならない」とか、「人の命を殺してはならない」と教わっている。
これは、旧約聖書で神がモーセに与えた戒律である、十戒の教えに基づいている。
だから、わたしたちは、人のものを盗む人間や、人の命を殺す人間のことを「悪人」とか「罪人」だと思っている。
そして、善人とは、人のものを盗まない人間、人の命を殺さない人間のことを指す言葉だと、わたしたちは思っている。
だが、真の善人とは、そのような人間ではない。
イエス・キリストは、「盗まれたら奪い返そうとせず、ほかの大切なものも与えてあげなさい」と言う。
すなわち、イエス・キリストにとっては、真に善良な人間とは、人のものを盗まない人間でも、人の命を殺さない人間でもない。
キリストの言う真の善人とは、人に自分のものを盗まれてもそれでいいとする人間や、人に自分の命を殺されてもそれでいい人間のことだ。
すなわち、富や成功を得ることに執着せず、対価を求めずに無償で他人に与え、財産を失うことを恐れず、世界のために自らの命を投げ出すこともいとわない人間こそ、神の言う真の善人なのである。
キリストは、そのような考え方の結果、贖罪によって人類の罪をあがなうために、十字架に張りつけになり、自らそうなると分かっていて死を選び、人類の罪を救済した。
その神の行いのすべては、「人類全員のために自らの命すら差し出す」という、「究極の善」に基づいているのである。
2023.09.15
聖書の一節として、「ルカによる福音書」の中に、
“人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。”
“人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。”
という言葉があります。
みなさん、この言葉を信じましょう。自らのことを誰もが褒めたたえている時こそが災いであり、自らのことを誰もが憎しみを抱いて排斥している時が真に幸いなのです。
みんなから褒めたたえられ、自らは偉大なのだ、特別なのだ、偉いのだ、と信じる時、その時に必ず悪いことがあります。
そして、自分は無能なのだ、人々は自分のことが嫌いなのだ、いじめられるのは自分が悪いのだ、と悩み苦しむ時、その時に必ず良いことがあるのです。
2023.11.09
なぜ、キリストは自らのことを「神」だと言ったのか、それはキリストは自らの力で神のような全知全能の救世主になったからです。
すなわち、僕がインターネットを使ってマスコミやアメリカに行ったのと同じことを、キリストはサタンに対して行ったのです。
それによって、キリストは世界全てを支配する「世界の絶対者」になり、そこから長い「イスラエルを救う旅」が始まったのです。
だから、キリストを神であると言うのであれば、僕はキリストと同じことを行った「キリストの再来」であると言えます。なぜなら、キリストがサタンに対して行ったことを、そのままインターネットでマスコミとアメリカに行っただけです。
このような人間は、キリスト以外には僕しか存在しません。そして、僕は神ではありません。なぜなら、僕の人生はキリストほど完璧ではなく、サタンの要素が強いからです。
僕は大天使ミカエルであり、聖霊の神です。そして、本当にオリジナルの神は僕ひとりだけです。キリストは神ですが、キリストは大天使ミカエルの導きにより、インターネットを操る未来人である僕と同じことを、サタンに対して行っただけだからです。
すべては、天軍大首聖ミカエルによる導きです。そして、その上にいるのは日本の天皇陛下です。天軍は天皇に従う「天の軍勢」であり、それはすなわち「天使たちの大軍団」です。そう、わたしたち日本は、天を照らす太陽神の末裔の皇帝に仕える「万軍の天使たち」によって守られているのです。
2023.12.01