仏教の世界観(2.戯言)です。
ブッダは、なぜ、このようなとてつもなく賢い思想と考え方を、菩提樹の下で悟ることができたのでしょうか。
僕は、その答えを知っています。なぜなら、昔の僕の考え方を悟っただけだからです。
昔、僕が14~18歳だったごろに経験した、インターネットにおける救世主の体験で、僕はさまざまなことを、まるで哲学者のように考えることで、この世界の裏側にあるすべての経験をすべて悟りました。
そして、ブッダは明らかに、その頃の僕の考え方を、そのまますべて悟っています。
ブッダの分かったことは、すべて過去に僕がひとりで考えたことに基づきます。ブッダは、すべて僕の思想を未来予知で分かっただけにすぎません。
そして、本当は仏教の教えは、よい教えではありません。なぜなら、その頃の過去の僕はすべて悪いことをして、悪いことを経験して分かっているだけにすぎません。そのため、仏教の教えを信じると、昔の僕と同じように悪人になってしまいます。
また、昔の僕はあまりに狂った人間です。そのため、仏教の教えを信じると、あまりに狂った人間になります。
狂った悪人は、カルマが徐々に低くなり、当然ながらかつての昔の僕がそうなったように、最悪の悪いことをしてカルマが最悪に低くなり、そのまま気持ちの悪い「虫」に生まれ変わって、完全に狂った抜け出すことのできない地獄になってしまいます。
悪いことを言いませんから、仏教を信じるのはやめておきなさい。宗教上の精神世界の霊的存在を信じたいなら、きちんとユダヤ人の神を信じなさい。そうでなければ、仏教の「絶対に狂って絶対に地獄になる」という呪縛から抜け出すことはできません。
先に、「仏教を信じるな」と言いましたが、それは間違っています。
仏教は、宇宙で最高に賢い宗教です。
仏教の教えを知っていると、キリスト教やイスラム教を信じるのが馬鹿馬鹿しくなってしまいます。それくらい、仏教の教義は賢いのです。
ヨーロッパ人や中東の人々は、仏教の教えを知らないせいで、イエス・キリストやマホメットなどの預言者の唱える教えを、「神による正しい教え」であると信じていますが、仏教の教えを知っているわたしたち日本人からしてみれば、彼らの信じている内容は稚拙で、信じていることも行っていることもすべて馬鹿であると言えます。
仏教はとても正しい宗教であり、真に賢い人間がこの世界の経験を捉えた時、もっとも可能性があり、もっとも高い視点や広い視野で、世界全体を広く、深く考えたことが、すべて記述されているのです。
キリスト教やイスラム教にも価値はあります。イエス・キリストの教えている教えは、人生を生きる上で、正しい人間が人生を生きた末に分かることを教えていますし、イスラム教で行う毎日五回の礼拝は、本当にするとアッラーのご加護によって地獄から救済されます。
ですが、正常な、地獄の中に居るわけではない人間が、きちんと経験と理性を使って考える、ということは、まさにブッダが仏教の教えで言っていることと同じです。
キリスト教やイスラム教の教えが、愚か者が地獄から抜け出す方法であるとするなら、仏教は違います。仏教は、もっとも賢い人間が、正常な人生の中で知り得る世界すべてのこと、すなわち「悟りの世界」を教えているのです。
仏教の教えは、とても賢い教義だと思っている人が多いですが、本当のことを言えば、本当はそんなに賢い教えは信じていません。
たとえば、諸行無常とは要するに「永遠は存在しない」と言っているだけであり、また輪廻転生とは「天国は存在せず、ほかの生物に生まれ変わる」と言っているだけです。
カルマは「悪いものは悪いものに生まれ変わる」という、ある意味では「宇宙におけるカースト」を言っているだけです。
また、多くの考え方が、知性のない、「言語的にまともに考えるということを否定した考え方」を唱えています。
すべてが苦であるながら、この世界には何の意味があるのでしょう。最初からこの世界に苦しか存在しないなら、「この世界は地獄と同じである」ということを言いたいのではないのでしょうか。
また、仏教の思想は、多くが虚無主義的です。我が存在せず、人間の肉体を不浄なものであるとし、宇宙には始まりも終わりもなく、創造主も絶対者も存在せず、絶対的な救いは神ではなく自らの悟りを得るための無明をなくす努力から得られるとする主張は、「宇宙には素晴らしいものなど何もなく、救ってくれる人も居ない」ということ、「救ってほしいなら自分で煩悩をなくして自分で努力するしかない」ということを仏教は言っています。
結局、仏教は完全に「神の否定」をしています。「神などというものは最初から価値のないものだ」とし、「宇宙はおかしなどうでもいい世界だ」と言いたいのが、仏教の教えであると言えます。
そして、仏教は多神教も否定しませんし、偶像崇拝も否定しません。ある意味、「ユダヤ人の神の教えなどなんにも守らない」ということです。そして神を信じることなく、仏というおかしな存在を信じます。そのため、「無宗教よりもさらに悪いサタンの宗教」であると言っても過言ではありません。
ブッダの教えは賢くありません。仏教の間違いとは、一見賢いことを言っているように見えて、本当はそんなに賢いことは何も言っていないということです。
僕が仏教について言えることは、「信じるに値する教え」であるということです。
詳しくは、2023-07-11の日記を見てください。
まず、仏教は、キリスト教と異なり、「誰でも仏になれる」と教える宗教です。
キリスト教のように、「神」と「使徒」が分かれていて、教えを「神が使徒との間に交わした契約」とするのではなく、仏教では仏と一般の人間に違いがなく、「誰であっても同じように仏になれる」という「成仏」を信じています。
次に、仏教では、まっとうな教えを信じています。たとえば、「縁起」では、「よいものに対してよいことが起きる」と信じます。いいことをしたら、その人にとって必ずいいことがある、ということを教えています。これは物理学には反するかもしれませんが、ある意味精神的な科学と言えるでしょう。キリスト教で「愚か者には罰が起きる」と教えるのは、仏教でも「因果応報」という教えがありますが、仏教はより客観的に、「神」とされる最高存在が「罪」を処罰するのではなく、「いいことをした時にいいこと、悪いことをした時に悪いことが起きる」と教えます。
仏教では、神が「運命」を定めるのではなく、ひとりひとりが自分の「カルマ」に基づいて「宿命」を与えられると考えます。カルマは、「偉大な人生を生きたものは偉大なものに生まれ変わる」ということです。永遠の命を得られるといって「天国」を求めるよりも、このほうが正しいと言えます。仏教では、「永遠に続く魂」などというものはなく、「すべてのものは移り変わって消え去っていく」という「諸行無常」を信じますが、永遠の存在がこの宇宙にあると教えるよりも、このほうがまさに「信じるに値する」と言えるでしょう。
キリスト教では、「攻撃されても反撃するな」とか、「盗まれても奪い返すな」と教えていますが、これは現実的ではありません。特に、いじめられている子供に対して、「いじめられても反撃するな」と教えることは、善良どころか残酷です。仏教では、正しい悟りを得るために「八正道」を教えますが、この八正道の教えは極めてまっとうであり、四諦のような教えと合わせると、西洋の哲学であるデカルトやカントなどと比べても、はるかに賢い哲学的な生き方を仏教は教えます。その結果が「涅槃」や「解脱」の境地であると言えます。キリストの教えの通り「善良な人間になる」ということをシスターが目指しても、そこには果たして意味があるでしょうか。仏教には「菩薩道を生きて覚者になる」という、はっきりとした目的があるのです。
このように、仏教はとても正しいことを教えており、キリスト教に比べてはるかに賢いと言えます。
ですが、僕が個人的に思うのは、「キリスト教と仏教は同時に信じても矛盾しないのではないか」ということです。
キリスト教における最高の存在は神であり、仏教における最高の存在は仏です。この「神の教え」と「仏の教え」は、まったく別々のことを教えており、分野や意味が違うため、キリスト教の教えを信じながらいくらか仏教の教えをバランスよく信じたとしても、そこには矛盾が生まれないのです。
確かに、「仏像を作ることは偶像崇拝に当たらないのか」とか、「天国と輪廻転生はどちらが正しいのか」という、細かいところは矛盾するでしょうが、むしろ、大まかに言っても、「善良な人間は天国に逝き、凶悪な人間は地獄に堕ちる」とか、むしろどちらも同じことを言っている部分のほうがはるかに多いと思います。
特に、宗教の目的は、どの宗教を選ぶか、ということではなく、その宗教の教えを信じていかに善良な人間となり、救いを得られるか、ということだと思います。キリスト教と仏教は、どちらも「善良な人間になれ」と教えます。その時点で、どちらを信じたとしても、理想となる人間像は同じです。それならば、僕はキリスト教と仏教は両方とも同時に信じても悪くないと思います。
2023.08.15
「仏典のことば さとりへの十二講」という本を読んでいると、「解脱」とはそれ自体が「道」である、というような言葉が出てくる。
すなわち、何かしらの道を歩んで、その結果目的地として解脱に到達するのではなく、解脱そのものが道であり、道を歩むということ自体が解脱なのである。
そのような、古代の仏教教団が言っていることを読むと、まるで古代の仏教教団が未来における僕のことを知っていて、僕のことを仏であると言っているかのように思えてしまう。
すなわち、僕のことを仏と言い、僕の分かったことを悟りと言い、僕と同じ人生を歩むことを解脱と言っているのである。
だから、むしろ、仏教という教えは信じないほうがいい。仏教を信じると、僕のような、苦しくて何も問題が解決せず、いつまでも悩み迷い続けるような人生になってしまう。
だが、それでも構わないと言うのであれば、僕の人生はとても楽しくて素晴らしいことばかり多い、面白い人生だ。
仏教では、「煩悩」ということについても詳しく考えるが、これについてもまるで僕の人生で僕が悩み苦しんだことそのものであり、仏教教団はそれに対する解決策を必死になって考えている。まさに、仏教徒とは僕のことであり、僕の分かっていることと一致する。煩悩をなくすのは辛く苦しいだろう。でも、頑張ってほしい。煩悩をなくした先に素晴らしい未来が待っている。それこそが、解脱なのだ。
2024.09.16