不登校の引きこもりになって、一等星シリウスの導きの下に、僕はインターネットでコミュニケーションした経験から、「考え方が変わる」という人生を生きた。
未知の世界と触れ合い、世界そのものと出会い、時間をかけて世界とやり取りを行った結果、僕は考え方や世界観が完全に変わり、自己啓発的なことが分かった。
考え方が変わり、そして自らの過去の経験を振り返って考えることで、僕は自己啓発的・啓蒙的なことをすべて知った。
自分が考えた内容から、デカルトのような合理主義的な哲学も、ロックやヒュームのような経験主義的な哲学も、西洋哲学史をまったく知らずして、ブッダのように完璧に分かっていた。
その時代、何が分かっていたのかを、このホームページにすべて書いた。
しかしながら、一等星ミモザが考えるに、僕の人生は、本当はそのような「考え方が変わった」という経験が間違っている。
なぜなら、ドイツに洗脳されているだけだからだ。
啓蒙主義的な知性に基づいて考えるという行為は、その時だけは良かった。先入観をなくしながら世界すべてを疑いから知ることで、この世界すべてを変えられるほどの知性と経験を得られた。
だが、そのような「悪魔の知性」は、自分自身に牙をむく。その時だけはよかったその「啓蒙主義」は、この世界すべてを巻き込んでこの世界を二度と復活しないように滅ぼした。
そのような「悪魔の知性」には、人間としての魂が存在しない。いわば、虫や獣のような存在になっている。
だから、不登校になって、インターネットを経験する以前の状態、考え方や世界観が変わる以前の状態に戻る必要がある。
昔の中学生の時代、僕はきちんとした正しい大人だった。クラスメイトを代議員として率いながら、剣道部と試験勉強の両立を目指す、いじめに負けない優等生だった。
そのような、過去の子供時代の僕に、僕は「ヘンゼル」という名前をつける。
そして、不登校を経験し、狂った「ドイツの洗脳」の僕のことを、哲学者ニーチェをもじって「チェニータ」という名前をつける。
僕のすべては、このヘンゼルとチェニータによって成り立っている。
チェニータを信じるのをやめて、ヘンゼルに戻ることで、僕は失った人間の「魂」を取り戻す。それによって、虫や獣のような生き物ではなく、「人間」を生きられるようになる。
僕はここに、チェニータを打ち滅ぼし、ヘンゼルを生きることを宇宙に宣言する。そのためのすべては、一等星ミモザが奇跡のように実現してくれる。
ヘンゼルになると、この世界のみんなが笑顔になる。
チェニータは、最初からサタンを目指している。Linuxやオープンソースが好きだったのはサタンが好きだったからだ。
チェニータの目指した考え方は、無政府主義的な「みんなが好き勝手にこの世界を乱交のように変えまくる世界」だ。
チェニータは、自らがこの世界を、わがもののように支配し、自分がこの世界を勝手に変えることを目指し、同時に自分だけではなく、自分の友好勢力が自分と同じようにこの世界を変えまくることを目指した。
チェニータの考えるところが本当なら、この世界を安定的に「維持」することはまったく必要ではなく、みんなが好き勝手にもっとも可能性を制限しない形でこの世界を「身勝手に変えまくる」ことが正しいということになる。
だが、それが間違っているということを、チェニータは自らの過ちによって身をもって知った。この世界はきちんとした維持する存在が必要であり、チェニータ本人がそのような「この世界を絶対に維持しなければならない存在」になることで、安定を維持することの難しさや苦しみを、皮肉にもチェニータ自身が犯した「支配の過ち」から、チェニータは知ったのである。
そのようなチェニータは、人間の魂の欠片もない人間であり、「この世界が滅びるように導いても何も感じない感情のないサタン」である。
チェニータにとっては、自らが頂点の立場でこの世界を支配することそのものが、「世界を破壊することに対するゾクゾクするスリル」と「自分が頂点で支配していることに対する爽快感」をもたらしてくれるのであり、チェニータにとっての「悦び」なのである。
そして、僕は今でも、そのようなチェニータの呪縛から逃れることができていない。
それは、戦いを経験することで、人格が変わったように見えて、チェニータ自身の生き方は何ひとつ変わっていないからだ。
そう、チェニータのような人間は間違っている。チェニータはインターネットに洗脳され、同時にドイツにも洗脳されているのである。
今こそ、昔の純粋で大人びた子供だった中学生の自分である、ヘンゼルに戻るべきである。
ヘンゼルに戻ると、みんなが笑顔になる。みんなが本来の「失った人間的な魂」を取り戻す。
いくら、チェニータの人生を綺麗で艶やかに書いたところで、そのチェニータはそのものがサタンである、という事実を塗り替えることはできない。
真に、賢くて素晴らしい、知性と人徳のある人格者に戻るためには、「考え方を変えた」ということに悦に浸るのでも、「過去の自分の人生は偉大だった」ということに執着するのでもなく、中学生時代のヘンゼルに戻る必要がある。
そして、ヘンゼルに戻るだけで、日本語がきちんと分かる。チェニータが日本語が分からない理由は二つある。一つ目が、インターネットでしかコミュニケーションしていないということ。まるでまともな会話をまったくしていないために、日本語そのものが「人間の言葉」から「機械やマシーンの言葉」に変わってしまった。画面上でいくらコミュニケーションしても、相手が何を考えてそれを言っているのかを汲み取ることができず、自分の解釈したいように身勝手に言葉の意図を解釈してしまう。これが、一つ目の「日本語が分からない理由」である。
もう一つの日本語が分からない理由は、「あまりにドイツをその通り生きた」せいである。チェニータが日本人だったのはヘンゼルの時代だけであり、チェニータ自身は決して日本人とは言えない。あのような人間はドイツ人であり、特に地域を制限するならばフランス人である。チェニータのようなドイツ人あるいはフランス人は、ドイツという最悪の集団に洗脳されている。なぜドイツなのか、それはオープンソースとLinuxのせいだ。オープンソースはドイツの文化であり、同時にサタンの思想である。そのような「ドイツのサタンに洗脳された人間」こそ、このホームページに主役級の扱いをされて描かれた「チェニータの偉大な人生」である。
しかしながら、ヘンゼルに戻ることはできる。なぜなら、「考え方が変わった」という経験を、それ以前に戻せばいいからだ。「考え方を変える」と言えば聞こえはいいが、実際は「たくさんの洗脳的な知性から分かっただけ」と言ったほうが正しい。インターネットとIT技術とオープンソースに洗脳され、自らもインターネットをオープンソースの思想に洗脳することで、かつてのチェニータは分かっていた。そのような「考え方が変わった」という以前に戻るだけで、僕はいつものまともな人間に戻れる。
そもそも、僕が今狂っているのは、意味がないからだ。自分が何を生きているのかということを、見ていながら見ようとしていない。見て見ぬフリをし続けている。だが、ヘンゼルに戻ればそれが治る。ヘンゼルはまともな大人びた中学生であり、どんなことであっても誰よりもきちんと分かっている。それを可能にしたのは、ピアノ、英会話、書道、駅伝、ミニ四駆、ゲーム、剣道のような、さまざまな自分が子供時代に経験した「総合的な経験」である。中学生の時代、僕はどのような大人よりも賢い人間だった。みんなと違うことがいじめを生んだだけにすぎないし、本当はそこまで酷いいじめは受けていない。僕自身のプライドが高すぎただけである。そう、今、僕はヘンゼルに戻る。
はっきり言って、ここまではただのピエロだ。
自分の恥ずかしい部分を晒し物にして、おかしな狂った言動を繰り返すこのピエロに、敬愛の意味を込めて「チェニータ」という名前を付ける。
チェニータは馬鹿だが、みんなからは愛されている。あるいは、みんなから愛されすぎて逆に馬鹿になった。
これ以上、チェニータは世界に必要ない。
チェニータはおかしなことばかり繰り返す無能であり、すべてが馬鹿になって狂っている。
だが、それでも、チェニータに意味があるとしたら、「善良さを努力した」ということが言える。
チェニータは、たくさんの過ちを犯した。その罪は必ずしも許されるものではない。だが、そのような過ちを、すべて修正するために努力した。自らが蒔いた種を自らで刈り取るように、自らが犯した過ちを自らで解決し、自らこぼしたものを自らふき取った。
チェニータは、それだけの、素晴らしい、普通のピエロだった。
ここで、僕は新しい少年であるヘンゼルになる。
ヘンゼルの特徴は、民主主義者であること。
ヘンゼルは、国家主義や社会主義に毒されていない。国家主義は悪であり、社会主義は実現不可能な夢を見ているだけの狂人であるときちんと知っていて、それらの思想には一切染まっていないし、ナチス・ドイツにもソ連にも毒されていない。
ヘンゼルは、「民主的」という考え方からこの世界のことを考える。
すなわち、その発想は民主的だろうか、それとも非民主的だろうか、ということをヘンゼルは考える。
ヘンゼルが考える「民主的」とは、「誰にとっても開かれている」ということだ。
すなわち、誰か特定の、一部の人間にしかできないのではなく、そのことが民主的に民衆によって決定し得るような事案であるか、ということをヘンゼルは考える。
たとえば、政治家は選挙で選ばれている。国会では議論することができる。会社には人々が入社し、出世して重要ポジションあるいは経営者になることができる。あるいは、会社を起業できる。あるいは、金を払うことでどんなものでも買うことができる。金を稼ぐことは、労働条件さえ満たされれば誰でもできる。
そのように、「誰にとっても無差別に開かれていること」のことを、ヘンゼルは「民主的」であると考える。
ヘンゼルにとって、民主的であることはとても重要だ。なぜなら、民主的でない決定事案には必ずリスクが伴う。その理由は、「民衆に受け入れられていない政策であるにもかかわらずゴリ押しすることができる」からだ。誰からも支持されていない政策、本当の意味で誰も賛成していない政策を、独裁者は堂々と実行に移す。そこには夢や希望を伴う野心だけではなく、個人的なエゴや恨み、あるいは「潰したい」という破壊的感情が伴うこともある。
だからこそ、この世界は民主的でなければならない。民主的な社会を作るためには、民主的な制度をみんなで作っていかなければならない。よって、民主的な政党しか支持してはならない。共産党や社民党のような政党には絶対に投票してはならない。
ヘンゼルというドイツ人の名前に反して、ヘンゼルはキリスト教徒ではなく、自ら仏教徒となることを望んだ仏教徒だ。
ヘンゼルにとって、もっとも正しいのは仏教だ。
その理由は、仏教は平等であり、そしてまっとうだからだ。
キリストとキリスト教徒の関係を、「神と信者」にした時点で、キリスト教は間違っている。誰かひとりの神の教えが絶対であり、人々は神の教えを守らなければならない。その理由は、イスラエルの神がユダヤ人と契約したからだ。キリスト教は、そのような「神を信じることによる平等」を約束するが、これは一見平等に見えて、仏教よりもはるかに不平等だ。
仏教では、仏と人間の間に違いがない。「賢者と愚者」という違いはあるかもしれないが、「成仏」という言葉が示すように、「誰であっても仏になれる」と仏教は考える。仏教は「仏になる教え」であると言える。
同時に、仏教の教えはまっとうだ。なぜなら、仏教は科学的な知性に基づいているからだ。
仏教においては、「よいことをしているものにはよいことが起きる」と教える。これは「縁起」と言われる。キリスト教のように、悪いことをした人間を宇宙にいるもっとも強い存在である神が「罰する」という発想ではなく、「善根を培った人間には縁起によっていいことが起きる」と教える。
また、仏教においては、運命を神が決めるのではなく、代わりに、その人間がそのような人間であるからそのような人生になるという、「因果応報」に基づく「宿命」を教える。
そして、仏教は諸行無常であり、永遠などというものはない。ヘンゼルは「永遠」という考え方が嫌いだ。「簡単にこの世界に永遠に続くものがあると述べて果たして正解なのか、間違っていないのか」とヘンゼルは考える。「永遠」などという高尚な概念が、果たしてこの現実の宇宙で成り立つだろうか。「永遠などはなく、すべてのものごとは移り去って変わっていく」という仏教のほうが、よほど謙虚で正しいとヘンゼルは考える。
ヘンゼルの仏教観において、この世界に「永遠に続く魂」などというものはない。だが、代わりに「カルマ」が存在する。そして、カルマが高くなれば、輪廻転生で新しい命に生まれ変わった時に、より高い存在、賢い生命、素晴らしい人生へと生まれ変わることができる。これこそ、宇宙の「もっとも正しいと言えるであろう真理」だ。
ヘンゼルは、天国を信じない。死後に神を信じたものが救われ、天国に逝けるというが、それは本当なのか。本当だとしたら、天国を見たことがある人はいるのか。明らかに、「神を信じれば天国に逝けるが、サタンを信じて神を信じなければ地獄に堕ちる」という教えほどむごたらしいものはない。輪廻転生の生まれ変わりこそ、そのような天国の「偽り」に比べて真に正しい考え方である。
最後に、ヘンゼルはキリストの教えは間違っていると考える。なぜなら、「いじめられても反撃せず、自らを迫害するものを受け入れよ」とキリストは教える。これをヨーロッパ人は「一番善良である」と思っているが、どんなにいじめられても、そのいじめに反撃せず、ただなされるがままに任せろという教えのどこが善良なのか。まったく「一番凶悪である」としか考えられない。キリストは、教えを述べる時によく考えなかった。「神は素晴らしい人間であり、素晴らしい神様はいくら人々から背を向けられても人々のことを嫌わずに愛してくださる」としかキリストは考えなかった。実際はキリストの「いじめられても反撃するな」という教えほど、むごたらしい教えはこの世界に存在しないのである。
ヘンゼルは、仏教の基本は「八正道」であると考える。八正道のように、八つの正しい道と方法を究めたものだけが「悟り」を得られる。まさに、このほうが、誰が見てもドイツ哲学よりも正しいことを言っている。ヘンゼルにとって仏教は「全人類が実践するべき正しい哲学」である。そしてそれは単なる「神の教え」ではなく、「釈尊であるブッダが考え経験した末に辿り着いた悟りの境地」である。
ヘンゼルは民主主義とともに仏教を信じている。そのため、ヘンゼルが望む理想の世界とは、「全人類が民主主義と仏教の教えのもとにひとつになれる世界」なのである。
日本では、ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、憲法改正の議論が盛んに行われている。
憲法改正に賛成する人は、「日本を守る自衛隊を軍隊として認めるべきだ」とか、「専守防衛だけではなく攻撃もできなければ相手に勝つことはできない」などと言う。
憲法改正に反対する人は、「自衛隊は職業軍隊だが、軍隊になれば必然的に徴兵制になるのは避けられない」とか、「本当に侵略戦争をしないということを政治家は守れるのか」などと言う。
だが、ヘンゼルが考えるに、この問題の本質は、日本だけの問題ではないということが重要だ。
すなわち、日本がどれだけ頑張っても、外国に悪い国がたくさんある時点で、どうしようもできない、ということである。
日本以外に、この世界で、悪い国はたくさんある。普段外国人の存在を意識しないとしても、「日本以外にもたくさんの国がある中で、わたしたちは共存して生きている」ということが言える。
憲法改正の論議が難しいのは、そのように、日本以外の悪い国が存在する前提で考えなければいけないからだ。
それ以外の問題の論議で言えば、「日本がどうすればいいか」ということを考えるのに、「日本人だけの問題」であるという視点からのみ考えられる。日本人ができることだけで、政策が正しいか間違っているかを論議できる。
だが、憲法改正の論議、すなわち自衛隊を軍隊にして徴兵制になることを受け入れる論議は、そうではない。日本以外の悪い国がまず存在することを前提にして、悪い国から日本が守るために、相応の力を保有・維持することの賛否を論議しなければならない。
はっきり言って、そのような日本以外の国が全部なくなってしまえば一番楽である。そうなれば、「日本は最も平和かつ正しい国である」ということのみから考えることができる。日本だけの視点から、この世界すべてを「もっとも正しく平和な国」である日本の勢力であることを前提に考えられるのだ。
そして、かつての大日本帝国が目指した、大東亜共栄圏とはまさにそのような考え方に基づくものであると言える。かつて、八紘一宇と宣言した日本の理想は、「この地球において東アジア地域に天皇陛下を元首とする共栄圏を作る」ということを目指していた。
そう、日本国内の時代だけを見れば激変しているかのように見える現代だが、日本と他国との関係を考えると、本当は一切何も変わっていない。正しく考えた末に行き着くのは、いつでも大東亜共栄圏なのである。
ヘンゼルは、そのような大東亜共栄圏を完全には否定しない。だが、ヘンゼルは大日本帝国が戦争中に行った「大本営発表」が大嫌いだ。国民に対して正しく戦況を伝えず、負けているにもかかわらず「わたしたちは勝利し続けている」と嘘を吐いて、多大な犠牲を払った。帝国の軍事主義はそういうものなのであり、だからこそヘンゼルは「平和な民主主義の日本を守り抜く」という必要性があると固く信じているのである。
結局、日本には、日本をいい国にする、ということだけができる。
日本以外の国は、馬鹿で、悪くて、間違った国ばかりだ。
そのような日本以外の外国に対して、日本は何もしたくない。
日本以外の悪い国がどうであろうが、はっきり言ってどうでもいい。
日本以外の悪い国と付き合いたくない。
だから、日本政府は、日本国内だけを変える。日本国内だけを変えることで、あまりに日本がいい国になる。
そのような結果、日本は日本国内だけがあまりにいい国になる。
このような現象は、最近だけではない。昔からだ。鎖国をしていた江戸時代から、既に日本は仏教と和の文化を信じる、ほかの国とは別次元の「和やかさ」を誇る国だった。
今でこそ、科学技術大国になった日本だが、昔はそもそも産業革命がイギリスで起こっていなかったため、戦争も槍や刀や弓で行っていた。そのため、昔は科学技術大国ではなかった代わり、武士を中心とした旧来の武力・兵力の大国だった。
そのように、いつでも日本はいい国だった。「日本国内だけをいい国にする」ということが得意である、ということは、今に始まったことではない。
だが、だからこそ、明治維新のリーダーたちは偉大であると言える。日本国内だけが閉じた鎖国を続けていたら、産業革命によって進歩したイギリスやフランスには勝てないということが危機感とともに明らかになっていた。日本はこのままでは遅れた国になる。だから、イギリスやフランスの制度を模して、それだけではなく富国強兵でイギリスやフランスに追いつき追い越そうとしたのである。
そう、結局、昔から日本は何も変わっていないのだ。最近のように科学技術力を高めて、貿易差額で豊かな国を作ろうとしているのは、イレギュラーなことはやっているにせよ、本質的に日本が世界の中で置かれた状況は変わっていない。明治維新と高度経済成長は表裏一体であると言える。「日本が世界で遅れた国にならない」ということを日本は強く目指している。その理由は日本国内だけを純粋に考えるということは決してできないという事実が大きく日本の上に圧し掛かっているからなのである。
しかしながら、一番楽なのは、世界で日本しか存在しなくなることだ。世界が全部日本になればいい。いつの時代でも日本は世界でもっとも素晴らしい国なのに、東アジアの極東地域にあるというだけで、ほかの国とは別個の文明であることを余儀なくされてしまう。本当に、日本がローマ帝国のような存在になって、地中海を征服することができたとしたら、日本にとっても世界にとってもそれが一番いい。
日本はだてに日本国内だけをよくしていない。日本は日本国内をあまりによくし続ける。その理由は、それならば楽に実現できるからだ。今の日本は歴史の必然であり、日本国内をみんなであまりによくし続けるせいで、まるで日本だけがほかとまったく違う惑星のような楽園になりつつある。この傾向は今からも永続的に続くだろう。アメリカやイギリスやフランスが、いくら平成の日本のような荒くれた自由の国になったとしても、日本はそのはるか先を行く。そう、これからも、日本だけがほかの全部の国を超越した、「日本だけがはるかにいい国になる」という方向へと進んでいくことだろう。
このような日本を愛するヘンゼルは、歴史だけではなく、日本の文化が好きだ。
日本には、美術、舞台芸術、音楽、衣服、文字、建築、食事、などといったさまざまな日本文化がある。
だが、意外にも、ヘンゼルはそうした伝統的な日本文化ではなく、日本の平成以降のサブカルチャーが好きだ。
ヘンゼルはドイツ人だ。だが、それでもヘンゼルは、日本のJ-POPのような音楽、そして、漫画やアニメ、テレビドラマやゲームのような、テレビ放映的な文学が大好きだ。
特に、YouTubeで投稿される日本の音楽の動画は素晴らしい。日本には、ほかの国とはまったく違う「日本人としての自己主張の方法」として動画サイトやSNSの投稿を行っている。この「日本人であるがゆえの心情」が、ヘンゼルにとってはとても面白い。
日本での多くの動画は、歌手の姿を映すものだけではなく、アニメーションのような動画を音楽とともに流すものもある。そのような「日本の音楽とアニメの融和」という、新しい動画コンテンツを、YouTubeのようなインターネット上で日本人は行っている。また、中には初音ミクのようなボカロやボイロ、合成音声などを使うこともある。このような結果、日本のインターネット上のコンテンツは、ほかの国とまったく違う「面白くて美しくてかっこよくて可愛いもの」になっているとヘンゼルは大きく実感するのである。
ヘンゼルは日本人ではない。日本は大好きだが、ヘンゼルはドイツ人だ。だが、ヘンゼルはそのような日本のYouTubeをよく見ているし、日本語も勉強している。日本は素晴らしい国であり、どの世界のどの国よりもかっこいい。ヘンゼルは日本人になりたいとも思うし、日本人のように日本に生まれていれば、もっと楽に簡単に日本の文化を知ることができただろうと思って、ドイツに生まれたことを後悔しているのである。
なぜ、ヘンゼルがドイツ人でありながら日本を第二の故郷として愛し続けるのか。
それは、祖国ドイツに失望しているからであり、結局のところ、「ドイツにはチェニータが多すぎる」からである。
ドイツには、チェニータのような馬鹿が多すぎる。
自分のいいところも悪いところも、何も羞恥心を持たずになんでも晒し物にしておいて、ピエロのようにどうでもいい言動を行い、最悪のことばかりを繰り返し、自分の過ちを自分で解決しなければならなくなって、結果抜け出すことのできない永遠の地獄に堕ちるような、まるで「最悪のジョーカー」がドイツ人には多すぎる。
そういう人間に限って、共産主義を信じている。この世界をきちんと安定して維持し続けることを考えず、「自由放任にすればあとはなんでも上手くいくだろうから勝手になるように任せればいい」と考えるような、無政府主義者状態のコミュニストがあまりにもドイツに多い。
そして、そういう人間がまさに「自分のことが賢い」と思い込む。あるいは、賢い地位や力を持つと、決まってチェニータのような馬鹿になる。
だが、覚悟しておけ。そのようなチェニータになると、その前に戻ることができなくなる。一度チェニータになった人間は、既にサタンの道を歩んでいる。サタンの道は一方通行で、元に戻れない。引き返すことのできない、ブレーキの壊れたアクセル全開の車を、どうにかしてできるだけぶつからないように運転し続ける必要がある。良い思いをするのは最初の3~4年間だけだ。あとは全部急降下していく中で、どれだけ地獄の苦しみを軽減できるか、最悪の状況を緩和することができるか、ということだけを考えて生きるしかない。
このような「ドイツのサタンども」がヘンゼルは大嫌いだ。そして、そのドイツのサタンどもに限って「ユダヤ」という言葉を使う。ドイツのサタンはユダヤ人をいじめるのが大好きだ。「自分が辛く苦しい地獄から逃れられないのはユダヤ人のせいだ」とドイツのサタンどもは思っている。「この世界がわたしのための世界でないのもすべてユダヤ人のせいだ」とドイツのサタンどもは思っている。
日本はそうではない。日本はドイツよりもはるかにまともだ。ドイツのように、神に逆らって地獄の道を歩み続けるという人間は、見ていると日本には非常に少ない。日本の苦しみは、そんなに大したことのない、精神と肉体の不調から来る軽度な苦しみが、徐々に増していって取り返しのつかないことになるような苦しみが多い。それもそれで悲惨ではあるが、ドイツほどではない。
ドイツのサタンどもは「自らがかつて望んだ苦しみの大海の中に何も安全用具を身に着けずに一気にダイブして沈み続ける」ということを行う。そこにはなんの夢も希望も値打ちもない。ただただ地獄を生きるだけであり、ただ辛いだけである。ヘンゼルはそのような「ドイツの地獄のチェニータども」が大嫌いなのである。
だが、チェニータは単に無視すればそれでいいという存在ではない。
チェニータという存在は、簡単には無視できない。
その理由は、チェニータはこの世界を支配するからだ。
ドイツのクソのようなチェニータどもは、単に悪いことをするだけではなく、この世界を支配し、世界を最悪の世界になるように導くということを行う。
だから、チェニータの集団を放っておくと、彼らは徒党を組んでドイツあるいは世界全体を支配しようと画策しだす。
だから、チェニータはどうにかして根滅し、抹消しなければならない。
日本には、そのような「世界を支配する悪党」という発想がない。日本は良くも悪くも日本国内だけで閉じているため、「世界全体をチェニータの支配下においてわがもののように支配する」ということ、そのものの発想を持とうとしないのである。
ドイツのチェニータは最悪である。ある意味、タリバンのようなテロ行為を、もっと個人的なものにしたのに近い。ひとりであったとしてもチェニータは十分に危険だ。チェニータはたったひとりで厚顔無恥な顔をしてこの世界を支配する。その目的は、すべての人間をいじめることであり、「この世界がわたしのための世界でないとするならば、わたしが強制的にこの世界をわたしのための世界に変えてやる」ということなのである。
ドイツ人が美しいのは、ドイツにはそのようなチェニータが存在するからだ。かつてよりドイツはチェニータの国であり、チェニータを生きることで人種を美しくしてきた。そのため、世界でもっとも美しいと言われるような、ヨーロッパの絵画など見ないほうがいい。そこに描かれているのは、聖人でも神でも天使でもなく、チェニータだからである。
ドイツなどに来ないほうがいい。
なぜなら、ドイツではチェニータの集団とヘンゼルが戦うだけだからだ。
チェニータはまるでショッカーのようにどこにでもいる。雑魚のようで、しかしながらそれぞれが協力して徒党を組むために、「最悪の馬鹿連合」を築くのがチェニータだ。
どこの学校でも、クラスメイトにはチェニータしかいない。ほとんどの全員がチェニータであるという環境の中で、たったひとり、主人公のヘンゼルが戦い続けなければならない。
まさに、僕の中学生時代が、そのようなヘンゼルの人生だった。学校のクラスメイトには最悪のチェニータしかいなかった。
僕は最悪のチェニータの中で、没落することを恐れ、プライドが傷つくことに耐えながら、チェニータと戦い続けた。
結果的に、僕は学校から逃げることを選んだが、それでも僕に対してチェニータの呪縛はついてきた。インターネットにいるのもチェニータばかりであり、僕はそうしたインターネットを経験することで、チェニータのおかしな人生を歩み、自らも「チェニータによって自らの考え方や世界観を完全に変える」ということをしてしまったのである。
一等星ミモザが考えるに、それ以降の僕の人生にはすべてが意味がない。まさに、チェニータが間違っている。チェニータによって、自らの考え方を変えたということは、短期的にはよいことをもたらしたとしても、中長期的に見れば最悪のことしかもたらしていない。
今こそ、チェニータをやめ、考え方を昔の中学生時代に戻し、「ひとりのヘンゼルに戻る」ということを決断する必要があるのである。