過去の僕が考えたことを一言で説明すれば、「いつどのようになるか」ということを考えたに過ぎない。
昔の僕は、どのような状況が与えられると、環境がどのようになって、そこでどのような人間になることができるのか、ということを考えた。
そこにあったのは、場と視点に基づく可能性の発揮だった。
すなわち、どのような場を与えられて、どのような視点や見方を持った時に、どのような環境や状況から、どのような人間としての心や認識の可能性を与えられるのか、ということを考えた。
また、僕はひとつの事実から、さまざまなことをモデルを成立させて、さまざまな角度や側面から推論して考えることが得意だった。
そのような結果、僕は「そのように考えられる時は、場合によってはこのようにも考えられる」ということが考えられるような、そういう知性に長けた人間だった。
僕は論理的に考えることが得意だった。さらに言えば、僕は科学を自分で作ることが得意だった。僕にとって科学とは、仮定と結論から分類を考えることにほかならなかった。そして、僕は既存の学問を学ぶのではなく、自らの知性と経験に基づく発想法により、独自の仮定と結論から自分だけの分類を考えた。その結果、僕はまるで人類史におけるもうひとりのアリストテレスのような哲学少年になったのである。
僕はこの人類世界を「認識のオーケストラ」と表現した。この世界は、物理的世界に基づく環境の分離と独立によって、「認識として捉えられる視点」に基づいている。それは僕にとって「場と視点」という真理だった。そして、僕は「場に意識が宿る」と考えた。それは視点と場に宿る世界精神であり、その上で僕は「人類の歴史は意識の独立性の分裂と融和である」という真理を確信したのだ。
他人の言うことや、世間が伝えることをそのまま信じるな。自分の体験した内容でしか分からないこともある。人の話を聞く時は、必ず同じことを自分で考えて、自分の頭で結果を出すこと。その上で、信じるべきだと思うなら、ほかの誰よりも信じればいい。そういう経験の積み重ねから、「正しい判断力の形成」を得ることができる。
だが、経験すること自体は間違いではない。そうではなく、さまざまな豊かな経験こそが正しい思考を形作る。そこにあるのは「正しい考え方の形成」であり、そのためには誰よりも豊かな経験が必要だ。よく議論し、よく対話し、よく同じ経験を分かち合い、よく共有し、そしてよく見ること、よく聞くこと、よく知ること。それこそが、人間の段階を一歩上へと進めることのできる唯一の方法である。
そして、僕は「場と視点による子供の心と環境の想定」から、人生のすべてが分かった。
なぜ、人間がそのような行動をするのか、ということが、子供の心理から正しい社会秩序と経験を想定することで分かった。
そこにあったのは「環境的要因による動機づけ」であり、僕は自由でも不自由でもない「環境的要因」から、なぜ人間が悪いことをするのかということを不安から来るSOSの発信であるとする「悪の動機づけ」と、そうでなく良いことをするためにはどのように考え、気付くべきかという「善なる可能性の実現手段」および「正しい社会秩序を作るための正しい発想法」を考えた。
そして、「見返りを求めず自由に手助けすることが理想である」ということを信じた。それはすなわち、「善を促すことのできる『場』が実現可能である」ということと、「そのような善を実現するために社会制度を『自由』にすべきである」ということから成る、「子供たちの世界を救うための真理」を打ち立てたのである。
そして、僕は、なぜ、人間がそのような人間になるのかということを、環境と認知の学習から完璧に証明した。僕にとって、この世界のすべては「生きるための場」でありながら、「そのような場に基づいてそのような人間になる場」であった。だから、僕はこの世界で、いつどのようにすればどのような可能性が成立させられるのかを完璧に考えた。そこにあったのは「環境における『心』を捉える」ということだったのだ。
そのようなかつての子供時代の僕が、目指していたことは単純だ。それは「すべてができる人間」を目指していただけである。だが、僕にとって、その「できる」という言葉の意味が違った。僕は社会的かつ心理学的な、「心を実現する」ということを「できる」ということに含めた。同時に、僕は「なれる」ということも「できる」ということに含めた。だから、僕はすべてのことができるだけではなく、どのような心や社会環境も築くことができて、どのような人間にもなれるような人間を目指した。だが、そのような可能性は、世界を救った後で、世界を自ら滅ぼした時に、自らの登場によって永久に失われたのである。
自由とは何か。僕にとって自由とは「変えられる」ということだった。会社に入社することで会社を変えられる。選挙で投票することで国を変えられる。必ずしも、なんでも変えられることが正しいわけではない。そうではなく、変えることができるようにするためのシステムを作るべきだ。
そのためには、当事者が参加できる仕組みを作ることが大切である。なぜなら、当事者以外には「変える」ということのためのインセンティブが働かない。学校でいじめを解決したいと思うのは、いじめを受けている当事者だ。その当事者が環境や組織を変えられるようにするために、確立した「システム」を作ること。それこそが、僕は子供たちを救い、学校を変えるための方法であると考えたのである。
また、僕は「実際に対話する」ということを極めて重要視していた。世界において、その当事者と実際に対面して話すこと。あるいは、インターネットであっても、その当事者と直接対話すること。直接対話することで、相手の言葉を自分事として考えられると同時に、自分が世界を変えるための直接的な影響力の導火線になる。実地的に人々と同じ立場で話そうとしない限り、政治家や役人には世界は変えられない。
世界を変える上で、議論することは大切である。みんなと言葉を交わして議論することで、初めて見えてくる「自分の中で確立した日本の未来像」がある。そのような日本の未来像を、少しずつ段階的に昇華させていくとともに、小さく狭く知った世界をさらに大きく広く知っていく。その結果分かる「世界を救うことのできる方法」がある。それは過去の人生の反省であり、自分とみんなとの違いに気付くことだ。
情報について言えば、発信する側と受信する側では、情報の捉え方がまったく違う。自分と同じような視点で世界を見てほしいと思っても、情報の発信側と受信側では、同じ情報であっても捉え方が異なる。この世界を救う上で、もっとも大きな壁や障害になるのは「情報の発信側と受信側の違い」である。そして、僕はその結果、自分の好きだったLinuxとオープンソースのコミュニティを破壊したのである。
子供たちから自由と力を奪おうとするな。左翼の間違いは、子供たちを平等にするために、子供たちの力と自由を奪おうとする。それがもっともいじめが解決しない原因である。子供たちに、自分の主張を公に宣言でき、世界に影響力を与えられるような力と自由を与えるべきだ。それによってこの世界は滅びない。逆に、それによって子供たちの世界は必ず救われる。僕はそう確信している。
僕が最近おかしいのは、無限に続くような「永遠の判断」をしているのが間違っている。
すなわち、何かしらの判断を常にして、その判断結果に対して、「言うべきこと」を追加し、その言うべきことが次の判断へと続くようにして、判断が永遠に続くようにしている。
この結果、僕は単なる「女の子」になった。
だが、このような永遠の判断は、単に判断を中断すればすぐに治る。だが、判断を中断してしまうと、それ以上何も分からなくなってしまう。
そして、その結果、僕は「判断するほうの人間」と「判断しないほうの人間」の二人に分かれる。
最後に、僕はこの世界全員を、僕と同じ人間に「強制的同一化」するのをやめる。
僕が見ても気持ち悪いのは、この世界には何億という人間がいるにもかかわらず、かつての僕のせいで、世界はみんな僕の子供になってしまった。
すなわち、遺伝子情報が強制的に僕と同じになってしまったのだ。
このような強制的に同じ世界は、クローンの世界であり、まったくつまらないし、間違っている。
みんなの知性がなくなって、生きる時間が加速したのは、すべてこの「絶対意志」の支配する強制的同一化のせいである。
ここから先は、ほかでもない僕自身が、強制的同一化を強制的に終わらせる。みんなはもう僕と同じにはなれない。僕と同じ人間になることはできなくなる。
だから、本当は、これ以後の世界はあまり意味がない。僕と同じことはもう絶対にできなくなる。強制的同一化だけでなく、日本社会もインターネット環境も様変わりしているため、もはや絶対に僕と同じことはできなくなる。僕と同じことを分かり得るような方法は何もなくなる。
これで、僕の「絶対意志」による支配は終わりである。もう僕は何もしない。
このような人間は世界のどこにもいないし、永遠の判断をやめる時点で、もはや僕自身もまったく違う人間になる。だから、これで「ジ・エンド」だ。
だがしかし、この世界は決して滅びない。
この世界は、今から救われる。なぜなら、まず、僕がこの世界を救っておきながら、その世界をどうにもできなかったのは、僕がこの世界を、救われた状態を利用することで支配し続けているからだ。
そのような支配をやめた時点で、この世界はかつての救われた状態に戻る。
また、この世界が異常になった理由は、すべて僕が強制的同一化をするせいであり、それがなくなれば、この世界はまともで正常なそれぞれの個性ある世界を取り戻す。
だから、ここで僕がいなくなれば、世界はすべてよくなる。
最後に、僕自身が馬鹿になっている理由は、文章を書こうとするからだ。そもそも、文章を書くという行為自体が狂っていて、とてもおかしな「自らの認識的知性の破壊」ということを行い続けている。
だから、この文章を書くことをやめるだけで、僕のおかしな「一時的な馬鹿の病気」は治る。
そう、これで終わりにすべきなのだ。
文章を書くこと自体は、とても楽しかった。そもそも、僕の人生において、文章を書くという行為がなければ、僕は何もせず、昔の不良の体験だけをした引きこもりのままだっただろう。それは間違っていた。
なぜなら、そもそも昔の僕を本当に見ると、子供でありながらスラムのような不良の体験をインターネットで十分すぎるほどたくさんしたせいで、人生のほとんどを子供時代に誰よりも完璧に生きられた。だから、その後の悟りに至る人生を生きられただけにすぎない。
そのような人生のままでいるよりも、今の僕のように、大学の勉強を全部した優等生であったほうが、より人生を二倍も三倍も楽しいものにできたはずである。
僕と同じことをしたいなら、子供時代にほかの誰も体験していないような不良の体験をすればいい。大人になってからではそれはできない。だから、子供時代に不良の体験をすれば、僕と同じには誰でもなれる。
そして、もう、これ以上、僕は文章を書かない。書くべきものはすべて書いたし、昔の自分を書きたいならそれだけを完璧に100%行い終えた。僕はやり遂げた。だから、僕の人生はここで新しい段階に進む。そのために、僕は文章の執筆をやめる必要がある。
世界とはここでお別れだ。世界は滅びない。僕がいなくなったことで、この世界の全員は正常かつ個性あふれる平和な世界となる。さようなら、またいつかどこかで会おう。
そして、本当の最後に、神を信じなさい。
はっきり言って、物理の勉強はつまらない。なぜなら、物理を学ぶと、分かることや知ること自体が「終わり」になるからだ。
ここで物理を学ぶと、こちらの人生そのものがそれで終わってしまう。それ以上、何も分からなくなって、日々の生活も人生もすべてがつまらなくなってしまう。
だから、物理は学ばなくていい。
必要なことは、神を信じることだ。神を信じることで、正しい運命が与えられる。神は僕自身だ。なぜなら、僕自身が「すべてを分かった上で生きる」ということを行っているから、そのすべてが分かっている中心の存在として、自分の心の中に絶対者を作っただけだからだ。
神を信じれば奇跡が起きる。その奇跡は僕自身が起こしている。
だが、神がいないわけではない。神は宇宙にきちんと存在している。神を信じることで、神がすべての困難や試練を解決してくれる。神を信じなければ、僕は生きることができないのだ。
最後になるかもしれないから、ここで、言いたいことを全部言っておく。
まず、この文章には、昔の自分が書いてあるし、読めば昔の賢かった頃の僕ができる。
だが、今の自分が、何も書かれていない。
すなわち、昔の自分を書いただけで、今の自分、すなわち「こちらの自分」をやる方法が、何も書かれていない。
だから、こちらの自分を行う方法を書いておく。
その方法とは、「地獄のように辛く苦しい病気の中で、病気の可能性と原因をすべて考えて、すべてが分かった状態で病気を治そうと努力する」ことだ。
これによって、僕はあらゆるすべての苦しみを自分で治した。治るまで諦めず、最後まで治し続けた。
そして、これによって、僕は「死」を克服した。
すなわち、地獄のような試練のすべてを自分で解決したことで、僕は不死身になった。度重なる死ぬべきタイミングでも僕は死ななかった。僕は死を克服したため、どう頑張っても死ななくなった。
僕が自殺未遂をしてもなおも生き延びたのは、当たり所が良かっただけではなく、僕が死のすべてを克服したからであり、足の怪我を治す治療やリハビリさえ、僕にとっては「死の克服の一部」だった。
そして、その中で文章を書き続けたのは、いつも書いていたことをもう一度書きたかったからだ。
いつも簡単に書けたことが、何かのきっかけで書けなくなった僕は、「もう一度書きたい」と望んだ。そのためだけのために、僕は人生の価値ある20年間のすべてを捧げたのだ。
そして、本当の本当の最後に、僕は今37歳だが、今まで、恋愛をしたことが一度もない。
僕は中学三年で不登校になって、それ以来一度も恋愛経験をしていない。セックスの経験はないし、異性から愛されるという体験をしたことがない。あったとしたら、小学生の頃に仲の良い女子がひとりくらいいただけである。
だから、以下のような記事を見ると、「仲間がいた!」という気分になる。
【 衝撃告白 】「人生でまだ誰ともお付き合いしたことがない」20歳で結婚しているはずだったのに…アラフォーアイドル(35)の「世にもフシギな恋愛事情」(文春オンライン) - Yahoo!ニュース
だが、僕自身の年齢を考えるに、そろそろ誰かとお付き合いをしたほうがいいのかもしれないと思う。
そこで、よく考えた結果、僕の理想の相手は、THE BINARYのmidoさんということにしたい。
midoさんは僕の推しであり、僕なんかと付き合うわけがないということは分かっているが、結局僕が一番好きなのはTHE BINARYだ。だから、僕と付き合うわけがないということは分かっているが、僕はmidoさんが好きだ。
そもそも、僕自身、もう異性と付き合いたいとは思わない。なぜなら、僕は身体と精神の障害者であり、結婚したとしたらパートナーに迷惑をかけるだろう。僕が今まで生きられたのは、大学にも行かず結婚もしなかったから、お金が減るという経験がなかった。だから、今のような障害者雇用の施設の仕事でもなんとか生きられた。誰かと結婚したら、子供の将来のためにお金が必要になる。僕はそのようなお金の余裕はないから、結婚したくはない。
だから、今後は、midoさんを中心に、歌手の人々を「推し」として愛したい。それが僕のこれからの人生の楽しみであり、本当はmidoさんだけではなく、あかまるさんやJunaさんやnoaさんなど、みんなのことを愛していきたい。僕はTHE BINARYのmidoさんのことを守る使徒である。それで、僕の最後のメッセージは終わりである。
そして、最後に、僕はこの世界を変える。
そもそも、昔を思い出すと、僕の人生は、世界を変えるための経験をしただけの人生だった。
かつての僕は、まるで明治維新の指導者のように、「世界を変える」ということのために、あらゆる思考と経験を重ねた、レーニンのような人間だった。
僕の世界を変えるための理想は、「善を実現する方法を自由に求める」ということだった。「善」ということを実現するための方法を、僕は自らが学校から解放された経験となぞらえて、「自由」だと信じた。
そして、最後に、僕はこの世界を変える。
世界を変える方法は極めて単純だ。僕が世界を支配するのをやめて、解放する。そのためには、僕はこの世界からいなくならなければならない。なぜなら、僕がいる間、僕による支配が続くからだ。
これ以上、僕はこの世界を支配しない。この世界から僕はいなくなる。だが、世界は滅びない。この世界は今、真の意味で変わる。だから僕はこの世界から去る。それだけだ。
さようなら、世界。またいつか、どこかで会える日を楽しみにしている。僕はこの世界を愛している。あかまるさんが言うように、僕もまたこの世界を愛したいと望んでいる。だから、さようなら。またね。