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2026-04-18

りくりゅう引退

ミラノ・コルティナオリンピックでフィギュアスケートペアの金メダルを取ったりくりゅうペアが引退を表明した。

りくりゅうが引退発表「新しいことに2人で挑戦していきます」ミラノ五輪のフィギュアペアで日本初の金メダル獲得【コメント全文】(TBS NEWS DIG Powered by JNN) - Yahoo!ニュース

感動を与えてくれてありがとう。今後はプロスケーターになるのか、あるいは指導者になるのか、どうなるにせよ新しい道を頑張ってください。

人生が終わった

そろそろ、僕はもう人生が終わった。

人生で、やることが何もない。

これから先、どのように生きたらいいか、分からない。やりたいこともないし、やるべきことはすべてやり終えた。

とりあえず、文章自体はまだ書く。それでも、これ以上書きたいことがないため、何も分からない。

民主主義者になる

このような僕は、これから、民主主義者になろうと思う。

社会主義者もファシストもつまらなかったし、ユダヤ人やドイツ人のようになりたいとは思わない。

僕はこれ以後、新しい、民主主義を信じるまともな日本人になりたい。

もう一度最初から同じことをやるしかない

結局、僕が生き延びるためには、もう一度最初から同じことをやるしかない。

ここで終わりになると、人生そのものが終わりになってしまう。生きられなくなって、すぐに死ぬ。

生きる方法は、まず、神を信じること、そして、もう一度最初から同じことをやることだ。

だから、僕は自らが与えた愛をもう一度利用して、この世界を支配する。愛の支配をいくら解除して世界を解放したところで、つまらなくなって知性を失うだけである。

もう一度、この世界を愛し、世界から愛されるような、僕と世界の関係性を再び成り立たせて、その上でこの世界を意識と言葉で支配する。

必要なのは、「受け入れること」である。それだけで、僕はさらに偉大なことや天才的なことをできるようになる。

人生において常に分かるべきこと

これより、人生において常に分かるべき本質を書く。

まず、物質的世界に存在するものについて。

「環境」とは、その環境に属する対象となる存在における「世界」そのものである。

「方法」とは、その何かを行うための手順である。

「目的」とは、その何かがなんのために存在するか、何を意図して行われるのか、ということである。

「理由」とは、それが行われるものが、どのような背景となる根拠において決定されるのか、ということである。

「正しさ」とは、その命題が正しいのか、あるいは間違っているのか、ということである。

次に、社会的世界に存在するものについて。

「時代」とは、この世界の今の時間的な環境の状態のことである。

「世代」とは、その人間の人生において、どのような時代でその人が生きてきたのか、ということである。

「客観的事実」とは、この世界の中において、主観的な感情や認識に基づくのではなく、客観的な環境的事実に基づく理由である。

「社会モデル」とは、その社会そのものを成り立たせるような構造である。民主主義においては国会のような社会制度のことを意味する。

「歴史」とは、どのようにこの世界が変遷を遂げてきたか、ということについての客観的事実である。

最後に、心理的世界に存在するものについて。

「動機づけ」とは、どのような感情や理由からその行いをしたのか、あるいは未来においてするのか、といったことを捉えるための理由である。

「認識」とは、その対象に対してその人がどのような主観を持っているかということである。

「記憶」とは、その人が何を知っていて、何を覚えているか、ということである。

「感情」とは、その人が心で何を感じ、どのような動機づけや認識を持つに至るのか、ということである。

「判断」とは、何が正しいか、何が間違っているか、ということを、どのようにその人が判断するのか、ということである。

これらの言葉を使って考えることで、昔の僕と同じことがもう一度ゼロからできるようになる。

順序立てて考えれば賢くなる

僕が賢くないのは、順序立てて考えることができていないからである。

言葉を使って順序立てて考えればいいのに、それができていない。

そもそも、考えるための土台ができていないから、土台を作りたい。そして、その土台を作った上で、順序立てて考えれば、誰でも哲学はできる。

必要なことは、「行動」から考えることだ。早い話、「どのような行動をしたらどのような結果が返ってくるか」ということだけ考えればいい。それだけで、理性的な考え方が身につく。

言葉にすれば、原因と結果、すなわち「因果性」から考えることで、「原理」や「原則」が見えてくる。それが分かってしまえば、あとは誰でもできる。

関係性と具体性

さらに言えば、必要なのは「関係性」と「具体性」から考えることだ。

関係性とは、個別のものごとが複数集まったり、相対したりした時の関係性を考えることだ。

具体性とは、何かを為し遂げるために、具体的にどのようにすればいいか、ということから考えることだ。

関係性と具体性から考えることで、この世界のあらゆることをきちんと理性的に考えられる。「精神」とか「生態系」といった言葉の意味も、分かるようになる。

僕の哲学のテーマは「自由」だ。自由とは、「変えられないと思ったことが変えられるということに気付く」ということだ。この世界には、何も変えることができず、ただ受け入れるしかないと世界のことを錯覚している人々が多い。その多くは思い込みだ。すなわち、固定された社会は多くなく、生物や人生や精神における遺伝子の影響する範囲は少ない。特に人間であればなおさらだ。

人間の人生や人間社会において、多くの「可能性」を人間自らが変えることができる。自らの自由意志に基づいて、多くのことが自由に決定できる。そこに気付くこと、それが「自由」である。

体験的な知識

最後に、成長において必要なことは、さまざまな世界を知ることだ。

さまざまな世界を知るということは、新しい未知なる体験を経験するということだ。

新しい世界を知ることで、今まで生きてきた世界が本当はどういう世界だったのかが分かる。何が正しい世界で、何が間違った世界なのか、あるいは、正しいも間違いもない中で、真に問題の解決のために必要な世界とはなんなのか、ということが理解できる。

賢い人間は、体験的な知識を考える。体験的な知識とは、学校で教わる科学の知識ではなく、自らの人生で自ら実体験として獲得した知識のことだ。

そして、それが行き着く先は、仏教の教えである。そのように考えると、仏教の教えが一番正しい。

ブッダの教えが悟りを啓いたとされるのは、人生で人々は多くの経験をし、その中には悟りを啓くような「答えとなる原理を知る」という体験が含まれる。そのような答えをブッダが悟ったのは、ブッダはその悟りに啓く前段階のことを既に知っており、菩提樹の下で多くの思考や瞑想をすることで、その前段階にあった土台の上に、自らが理解した答えを原理として確立できたからであると僕は推察する。

人間の人生にとって必要なのは、体験的に知識を理解することだ。そして、そのために必要なのは、失敗を恐れないこと、そして神を信じることである。失敗を恐れると、新しい体験ができなくなってしまう。どのような状況においても、神を信じることで、どんなに解決困難な問題であっても解決できる。だから、神の信仰と仏の教えは矛盾しない。神と仏は同じものである。

僕は学校の勉強が嫌い

僕は学校の勉強が嫌いだ。

学校で勉強すると、「ある問題」を与えられて、その問題に対する「答え」を導き出すことがすべてだという風に勘違いしてしまう。

学校の教育を受けた多くの大人が、そのように「問題に対する答え」しか考えない。真に人生や人間関係に求められていることは、そのような「問題の答え」ではないということが分からなくなってしまう。

学校の教育を受けることで、確かに、多くの問題の解決法が分かる。だが、中には、「わたしは頑張ったのに、なぜわたしの出した答えが間違っているとされるのか」という風に、怒る人が出てくる。

僕は学校の勉強を学ぶことには、メリットよりもデメリットのほうが大きいと考えている。学校教育は画一的な大人を生み出す。子供が生まれ持っている「自分の個性」を学校は否定する。僕はそうではなく、自分自身の個性こそ、真に伸ばして追究してほしいと思うし、問題に対する答えだけが、人生のすべてであるとは思ってほしくない。多くの人生における問題が、学校教育が間違っていることに起因している。

簡単に言ってしまうと、僕のような人生は誰でも生きられる。誰でもできるはずなのに、できない人間が多いのは、学校教育のせいだ。だが、そのような学校教育によって失ったものを取り戻す方法がある。それは神を信じることだ。すなわち、神を信じれば、僕と同じように宇宙のすべてが分かった人生を生きられる。間違っているのは科学であり、正しいのは神を信じることだ。

理性的な考え方

一度、あらゆる自動的な判断をストップして、ゼロから人間がどのように対象を認知しているか問い直しなさい。

もっとも高い水準の決定可能性から行動の実現可能性を考えなさい。

神は自らの心の中にいると考えなさい。

一貫した数学的な論理を作り、世界すべてを統合して捉えなさい。

いつ、どのような時と場合に、どのようなことが成り立つか、ということから考えなさい。

他人と同じ経験をするのではなく、他人とまったく違う経験をすることから、世界の真の姿を知りなさい。

あらゆるすべてを、その論理がいつ成り立つかから考え、「環境を変えられる」とする環境の変化の可能性が、いついかなる時に成り立つか、ということから、人生経験の意味を知りなさい。

アイディアの前提となる経験的な条件を、ネットや現実社会の経験から、あらゆるすべての発想法となるかのように、自分の中に学習して取り入れなさい。

あらゆるすべてを「習得的」かつ「厳密」に考えなさい。

宇宙が今ここにあるということから、神の神秘を知りなさい。科学的に生物を考えるのとはまた別の形で、「意識」と「存在」という考え方から、地球上の生物の生態系とその循環を愛しなさい。

自由を信じなさい。この世界がある目的とは何か、それは時代とともに最終的な「自由な世界」へと向かっていくことである。

誰か他人が自分の気に入らない言動をしていても、その言動をすることのできる自由は絶対に守られるべきであり、自由意志こそ政治権力の中でもっとも保障されるべき人間の権利だと信じなさい。

強いものよりも、弱いものの立場に立ちなさい。なぜなら、そのほうが民主主義に即しているからだ。

あらゆるすべての自由について、「自らのやりたいことをやる」「自らの選びたいものを選ぶ」「自分たちのルールを決定することのできる主権がある」ということを信じなさい。

数学的に考え、相対的に考えることだけが、絶対的ではなく、真に必要なのは相対性よりも、その相対性の先にある絶対性である、ということを信じなさい。

社会を作ることは、自由のさらに昇華した「第二段階の自由」であり、そこにあるのは道徳や祖先への敬愛の念であり、同時に、子供たちの社会環境を変えることであると考えなさい。

改革を目指すということは必要だが、過度に人為的にならず、自然な調和のための改革であるべきだと考えなさい。

社会を作るためには合意が必要だが、その合意のために必要なのは支配することではなく、協力し、議論することであり、そのためには前提として自由意志の尊重があるべきだと信じなさい。

すべての経験について、経験に先立つ環境的な前提が考えられるとし、そのような環境そのものを作るために、人間の思考と言葉と感情があると考えなさい。

人間それぞれがなぜそのような行為を行うか、ということを根源的に考えた際に、「自らの信じている信念があるからである」とした時、その信念がどこからやってくるか、ということを考え、その第一の発生原因としてあるのは「その環境があるから」であり、その環境自体を変えられる自由こそが世界を変えるのだ、子供たちの環境を変えることで子供たちの社会を変えられるのだ、それがひいては世界全体を変えるのだと信じなさい。

大人たちには立場やしがらみがある。だから、大人たちに期待することはできない。あらゆるすべての立場やしがらみを超越したところに答えがある。それを大人に頼らず、子供たち自身が賢くなることで、この世界を救うことができる。大人たちに任せるのでなく、自らが思春期の青春時代に経験したことから、この世界を背負って立つ存在へと、子供たち自身が成長すべきであると確信し、そのためにできる「社会の在り方」をあ考えなさい。

大人たちは子供たちにさまざまな要求を突き付けてくる。まるで子供たちはなんの助けもなくても正しい判断ができる力があると思っている。だが、実際はそれはない。だが、大人たちは子供だった時代を忘れていて、子供たちの今いる環境がどんなものかを知らない。だから、子供たちは大人たちの要求を跳ねのけて、自分たちで自分たちの未来を切り開いていくしかない。そう信じた上で、子供たちには情報、環境、経験、そして手段と機会を与えるべきであり、子供たちが問題を起こすからといって、決して子供たちからすべての力を奪ってはいけないと信じなさい。

子供たちの成長とは、「共同体感覚」を身に着けることだ。共同体感覚とはアドラー心理学の用語で、自分だけの視点からものごとを考えるのではなく、みんなの社会の中の一因としてものごとを考えることを意味する。アメリカファーストのような考え方を否定し、自らの属する共同体の長として、みんなを自分で率いていくような指導者の経験を培いなさい。それこそが、自らが立脚するアイデンティティを土台として、大地に立ってこの世界を変えていくために積極的に行動することに繋がる。

自らの思いついたアイディアは、思いついた全部を行いなさい。しかしながら、すべてをアウトプットとして出力するのではなく、行為や決定を「決定可能性」として、留保することも学んでいきなさい。その先に、世界すべてを変えられるような「巨大な可能性」が眠っている。その可能性を、この世界にある目には見えないすべてから見出せるようになりなさい。

大人になると、権利よりも義務が増えていく。だが、すべての義務を守るべき束縛であるとするのではなく、逆に自分の世界を広げるためのチャンスだと捉えなさい。何も経験しなければ人間は何もできない。さまざまな経験を世界から知る中で、会社や組織に入らなくても経験から自分の世界を広げていくことができる。それを「宇宙の広がり」とし、自らをその宇宙の頂点に位置する「神の立場」に置きなさい。

体験することや認識することから、人間は精神の中でその存在を吸収できる。あらゆるすべての世界の生物存在を精神世界の中に吸収しなさい。そこにあるのは「世界精神としての宇宙の意識の結合」である。そして、意識の世界においては、歴史のすべては繋がっていて、そのような「意識内存在としての人類の歴史」について、生物や畑のような自然環境から知りなさい。

人間関係はチャンスに満ちている。かつての自分の環境と今の自分の環境を比較することで、「本当ならば友人のみんなにはもっとよい関わり方ができた」と知ることができる。そして、社会全てについて、正しい社会秩序を築くために、かつての自分の行いとは正反対のことであっても、それを今なら選ぶことができると気付ける。歴史的な社会の構築方法を知ることで、かつての日本社会あるいは人類の歴史的な起源についても、同様であると知ることができる。自らは意識の上での世界の王となり、柔軟かつ不可知の視点から未来を知ることができる。

必要なのは、「人間の進歩」ということ自体を信頼することだ。すなわち、人間とは進歩し成長する存在であり、その進歩と成長こそ、自由においてもっとも信頼できるものだ。王を信頼するよりも国民を信頼すべき理由は、国民は進歩と成長ができるからだ。そのように考えれば、なぜ独裁者や全体主義が間違っていて、国民ひとりひとりの自由こそが正しいのか、という理念が見えてくる。それが啓蒙主義であり、正義だ。

このように考えることこそが、僕がかつて知った「理性的な考え方」であり、まさしく、それこそが「神の視点」であり、そのような人間が神を信じることで、過去の罪を神は赦してくださるだろう。

人間性の尊重

かつてより、僕はこの世界で「いじめをなくす方法」を考えていた。

その方法とは、「人間性の尊重」である。

心理学的な環境における同調性として、「いじめの動機づけ」ということが存在する。その子をなぜいじめたいのか、その理由として、「環境に属するみんなと同調する」ということが考えられる。

だから、いじめは自由を奪うことでは解決できない。逆に、自由を与えることで解決する。

必要なのは、「壁を作らない」「相手の気持ちと自由を尊重する」「相手を傷つけない」「相手のことを下等な存在であるかのように扱わない」「自尊心を傷つけない」といったことである。

社会制度的に考えることもできるが、事実、いじめに至るのは社会的な問題からではなく、同調圧力のような心理的な問題によるものだ。だから、「人間性を尊重する」ということを行うことで、誰もいじめられない世界を作ることができる。

しかしながら、そのような人間性を尊重しない勢力がいる。それはマスコミである。マスコミはお笑い芸人や犯罪の容疑者などを、まるで自分たち一般人よりも下等な存在であるかのように見立てて、煽りと嘲りを世界に与えてくる。そのようなマスコミは滅びるべき害悪である。同時に、右翼勢力は左翼勢力を非国民であるかのように扱い、社会的抑圧を押し付けてくる。そのようなマスコミと右翼は日本社会に不要である。

何を信じるべきなのか。それは神である。神であるイエス・キリストの聖書の教えを信じ、ユダヤ人の神を信じることこそが、真に人間社会を平和にし、善良にする。聖書によれば、神こそが終末の世界を救う。

僕は社会主義者だった

残念ながら、かつての僕は民主主義者ではなかった。

僕は、自由とオープンソースを信じる民主社会主義者だったからだ。

僕は文章を書くことで、社会主義国家のモデルを考えた。単に社会の前提となる成立条件を明らかにするだけではなく、その上で具体的な理想の自由な社会とはどのようなものか、というモデルを作りたかった。

その文章には、現実の資本主義社会の問題がなんであるかが書かれていると同時に、僕のあらゆるすべての決定可能性を決断した「断言」が書かれていた。

僕の目指した社会主義国家は、「自由主義と共産主義の融和」であると同時に、「僕の人生と同じことが分かる自由な人生を誰でも生きられるようにするような社会制度を作り上げる」ということだった。

そこで、僕は、西側諸国と東側諸国が対立して冷戦のような戦争をするのではなく、自由経済と社会主義経済を融和し、「自由かつ平等な理想の国」を築こうとしたのである。

あらゆる資本主義経済の問題を解決しようとするとともに、社会主義経済がどのようにしたら成り立つかを考えた上で、僕は自分の人生で分かったことのすべてを、ゼロベースであっても誰でも分かるような前提条件のない論理にした上で、「大実験の大計画」と呼ばれる、人類そのものが未知なる生物へと進化するような、そのような一大革命戦争を始めた。その敵はマスコミだった。

だが、そのような戦争は、開始して何か月もするとすぐに行き詰まり、僕は「神」とされるものへと助けを求めた。神はロゴスの形で僕に現れて、僕は神の言葉に導かれて、その戦争の援護を得るとともに、間違った問題のすべてを神が正した。そして、僕は神と言葉で対話する「小預言者」になって、マホメットがそうであったのと同じように、自らの独自のコーランを書いた。これを「人生主義」(ライフイズム)と呼ぶ。

神が正しい

確実なことは、神が正しいということだ。

神を信じれば、どんなに解決困難な問題でも解決し、運命の愛が与えられるとともに、宇宙と未来における真実が分かる。

神と対話することは不可能ではない。聖書の預言者たちは、多くが神の言葉を聞いてそれを記した。神は目に見える姿で現れることはないが、ロゴスすなわち言葉として現れる。

神を信じれば、どんな愚か者でも賢者となり、どんな醜いものも美しく完璧な人間になる。神を信じて得られないものはない。宇宙と地球と人生のすべてを神が与えてくれる。

僕は金持ちが嫌いだ。その理由は、資本主義が嫌いだからだ。僕はアメリカを劣った国だと思っている。それはアメリカが資本主義を信じているからだ。

アメリカの金持ちは全員死ぬべきであり、その資産を没収して人類全員に再分配すべきだ。

また、核大国のアメリカこそ核による被害を真っ先に受けるべきであり、アメリカが核軍縮をしないのであれば、唯一の被爆国である日本はアメリカに核で報復すべきだ。