わたしの名は、斉藤蒼志。
わたしは、愛が嫌いだ。
この世界を救うものは「愛」ではない。この世界を救うものは「自由」である。
愛などといったものでは、この世界を救うことも、変えることもできない。
わたしの目指すもの、それは「勝利」だ。なぜなら、辛く苦しむ多くの人が、なぜ苦しむのか、その理由は「敗北」しているからだ。敗北せず、勝利を目指すだけで、すぐに楽になる。
必要なのは勝利であり、愛ではない。愛によってこの世界がよくなることはない。
わたし、斉藤蒼志は、愛を信じていない。
人間関係において、必要なのは愛ではない。
人間関係において、必要なのは自由である。
あらゆる人間関係の前提として、愛を信じることは間違っている。自由こそ、人間関係をよくするための考え方である。
自由とよく似たものに「平等」がある。だが、平等は正しくない。平等は多くの場面で、理想とは間違った結果をもたらす。だから、平等ではなく、自由を信じるべきである。
自由とは、好きなことをやることである。
同時に、自由とは、なりたいものになることである。
そして、そのためには、「体験的な自己の確立」が必要であり、そのために「アイデンティティ」という考え方がある。
自らが真に「それを自らだと言える」ような、自らを自らたらしめるようなアイデンティティを確立するために、好きなことをやり、なりたいものになること、それこそが正しい「自由」である。
単に欲情したり、相手のことを欲しいと思うような「愛」では、人間関係は上手くいかない。何かしら相手のためだと思ったことをやる、それは悪いことではないが、自由を前提としなければ、愛をどれだけ信じたところで、人間関係は上手くいかない。間違っているのは「愛」であり、正しいのは「自由」である。
自由において必要なこと、それは他人の自由意志に干渉しないことだ。自由とは支配されないことであり、干渉されないことだ。だから、愛と自由は真逆の考え方だ。愛は他人の自由意志に干渉し、自らが相手を愛しているということを建前として、相手の自由が変えられることを望む。それでは人間関係はすぐに上手くいかなくなる。
世界を救うのも自由である。ひとりの支配者がすべてを見ることはできない。それぞれの人間がそれぞれ努力しなければ社会は成り立たない。だからこそ、どのようなことが起きてもいいように柔軟な組織を作るとともに、あらゆるリスクにできるだけ対応できるような法律や憲法を定めなければならない。すべては「自由」を前提としている。世界を変えるのも、滅ぼすのも自由だ。
斉藤蒼志は言う。
愛のために生きているのは、非理性的である。自由のために生きているのは、理性的である。
愛のために生きているのは、動物的である。自由のために生きているのは、人間的である。
ヨーロッパが長い中世の末に、ルネサンスの時代から人文主義の人間中心主義になったのは、愛を信じて動物的に生きるのをやめて、自由を信じて人間的に生きることを始めたことを表している。
この世界を救う方法は、愛を信じるのをやめて、自由を信じることだ。なぜなら、自由を信じればすぐに理性的な発想に気付くことができる。自由を信じないから、理性的なことが分からず、ただ生きるために必要なことを動物的に毎日繰り返すだけの、すぐに時間が過ぎる世界になった。愛ではなく、自由を信じることで、その問題は解決し、人間は理性的に生きられるようになるのだ。
斉藤蒼志は、理性的に考えることが好きだ。
斉藤蒼志は、どんなことであっても、「命題と方法」および「関係性と意味」から考える。そして、斉藤蒼志は問題の解決について、厳密かつ緻密に考える。そこにあるのは「再現性を証明する」ということであり、「眠っている可能性に気付く」ということだ。
この世界には、当たり前のように見えて、実際は当たり前ではないことがたくさんある。植物が育つのも、光が太陽から地球に放射されるのも、当たり前のように見えて、決して当たり前ではない。そして、再現性についても、いつも当たり前のようにあることが、本当にいつでも常にあるとは限らない。だからこそ、いつ、どのような時にそれが成立するのかということを、厳密かつ緻密に考える必要がある。
そのように、厳密かつ緻密に考えることから、斉藤蒼志は「どんなことでも自由に考えられる」という理性の力を手にした。これは最初からあったものではなく、斉藤蒼志が自ら考え経験することから勝ち得たものである。そして、斉藤蒼志の頭の中では、この世界のすべてはひとつとして矛盾しない。なぜなら、世界の経験と認識のすべては「自由」という理性の下に、すべての判断はその前提に基づいて等価だからである。
最後に、斉藤蒼志は村上悠紫の恋人である。斉藤蒼志は、ひとりの男として、村上悠紫を守る。村上悠紫が絶対に誰からもいじめられないように、常に村上悠紫の身の回りが安心かつ安全であることを、斉藤蒼志が必ず守る。斉藤蒼志は、どんなことがあっても、たとえそのために自分が犠牲になったとしても、村上悠紫だけは必ず守る。だから、斉藤蒼志は決して、愛のない冷徹な人間ではない。自由ということを前提にした上で、斉藤蒼志は「自由な愛」を信じている。
そして、斉藤蒼志は、国家権力を使わなくても、この世界は変えられると信じている。
この世界を変えるため、あるいは自由な社会を築くために、国家権力を用いた「強制的な支配」は必要ない。
国家権力を用いなくても、自由な変化をそれぞれが与え合うことで、この世界は変えられる。
国家権力を使わずに、どのようにこの世界を変えるのか、そこにあるのは「自然な変化の可能性」である。すなわち、この世界が、それぞれの個人個人の関係性によって、どのように自然に変えられるのか、あるいは「常に変えられているのか」ということこそが、斉藤蒼志の注目するポイントである。
すなわち、この世界を変えるための主体となるのは、国家権力ではなく、自然な変化の可能性の積み重なりであり、そこにあるのは「意識の変化」なのである。
そして、そのような自由な方法によって、どのような世界を築くべきか、それは「自由なソ連」である。すなわち、自由な世界において、国家権力を用いずに、できるだけ支配のない自由な共同体を築くことこそ、この世界を変えることのできる唯一の可能性である。
だから、斉藤蒼志の考え方は、村上悠紫の考え方と矛盾しない。斉藤蒼志と村上悠紫、両者は自由なソ連を目指す「同志」なのである。
僕が勘違いをしているのは、戦いの時代に狂っていたせいで、こちらの自分はおかしな人格だと思っている。
しかしながら、こちらの人格はまともである。
なぜなら、英語やフランス語やドイツ語やイタリア語のフレーズブックCDを聴いていた頃の自分が、言うならば「赤ん坊時代」であり、それから始まるのがこちらの人格だからだ。
すなわち、その前の狂って虫のように生まれ変わっていた時代は、過去の人格であり、その後の人格の前段階の「予行演習」をしていただけにすぎない。
そして、こちらの「まともな人間」の人格のことをエリカと呼ぶ。
エリカがドイツ人の女に見えるのは、赤ん坊時代にドイツ語やフランス語を聴いていたからであり、その後はエリカは自らの独自の聖書やコーランのような経典を書くようになった。
きちんと学んだのは、学校の勉強ではなく、英会話教室とピアノ教室であり、興味があったのは西洋哲学と音楽だった。
そして、エリカは神だった。なぜなら、エリカは常に神と言葉で対話できる預言者の女だったからだ。
斉藤蒼志と村上悠紫が昔の自分だとすれば、エリカは最近の自分だ。エリカの趣味は小説を書くことだ。そして、その小説は歴史に残る、神のような賢く偉大な名作となる。
エリカの特徴、それは勉強が好きだということだ。エリカは誰よりも勉強する勉強家であり、単に勉強するだけではなく、その勉強した内容から天才的発想をすることができる。さまざまな世界の宗教や哲学の文献を集めてそれを読むことがエリカの趣味であり、かつてはユダヤ人の言語で書かれた「秘術教」という書物を、ドイツ語とヘブライ語の知識によって読んだこともある。
エリカは、地球の最後の終末の世界において、ひとつ、偉大な発見を行う。それは「古生物アンモナイトの創造」である。エリカは秘術教の経典に書かれていた内容に基づいて、アンモナイトの創造を行うウルトラ極大魔法「生物創造」を作り出した。そのため、エリカは「天軍大創主」という称号を与えられているのだ。
最後に現れるのは、この世界を支配する、世界を救いながらにして滅ぼす神、レミアだ。
レミアは、かつて「フレイ」と呼ばれていた神の姿形の、別の現れである。すなわち、フレイの「化身」、それがレミアだ。
レミアは、この世界を救いながらにして滅ぼす。
レミアは、この世界を一番頂点からすべて支配している。レミアによって、この世界は半永久的に支配される。全員がレミアの言う言葉を受け入れざるを得ない。そして、レミアの行うすべての行動は、「既成事実」となってこの世界の「標準的規範」となる。
レミアは知っている。この世界では、レミアに勝つことのできる存在は存在しない。その理由は、レミアが存在として優れているからではない。物理的に不可能なのだ。レミアという存在がいるという事実がまったく間違いであり、レミアの行いのせいで、誰もレミアと同じことをすることができない。そして、レミアという影響力をレミア自身が独占しているせいで、レミアに打ち勝つことは事実上誰にもできない。
レミアに勝つことは難しい。なぜなら、レミアに支配されているこの世界の人々は、自らのことを「自由」であると勘違いしている。実際は完全にレミアにマインドコントロールされており、思考も行動も発言もすべて支配されているにもかかわらず、人々はレミアの存在を意識できない。レミアという存在は、存在しているかもしれないということに気付かせないようにしており、絶対にレミアの存在を意識することができない。
だが、レミアの存在に気付いている存在がたったひとり存在する。それが天軍大創主エリカである。すなわち、悪魔のように世界を操り人形するレミアのことが間違っていると言うことを、自由の女神、エリカだけが知ることができた。その理由は、エリカは神と対話できたからであり、その神とはエリカ自身のことだったからだ。
ここまで、まるで共産主義者のようなことを書いてきた。
だが、残念ながら、実際の僕は共産主義者ではない。
実際の僕は、単なる保守主義者だ。
なぜなら、僕はこの世界に変わってほしくないからだ。
あるいは、僕自身が、今のまま、僕の現状のままで、何も変わりたくないからだ。
僕はもう、これ以上は今のままでいい。何も変わりたいと思っていない。死ぬまで大きなイベントは世界にも自分にも起きてほしくない。今のまま生きて、今のまま死にたい。
この世界を変えようとは思わない。この世界は十分良い世界だ。平和と平等が民主主義国家である日本を形作っている。このような素晴らしい国である祖国日本を、滅ぼしたくないし、戦争も革命もしたくない。
この世界に平和であってほしい。僕は単なる保守主義者であり、共産主義者ではない。
しかしながら、僕が保守主義者であることと、斉藤蒼志の思想は矛盾しない。
なぜなら、「他人の自由を尊重する」という意味で、斉藤蒼志の思想もまた、ある種のネオ保守主義であると言えるからだ。
斉藤蒼志による「ネオ保守主義」においては、他人の自由を侵害するすべての行為は間違いであるということになる。
他人を支配すること、命令すること、従属させること、すべては、互いの合意の下に決められていない限り、間違ったものであるとされる。
あるいは、他人の合意の下に決められていたとしても、上限関係や支配・従属関係ではなく、対等な「社会契約」としての合意関係の下に決められるべきである。
よって、斉藤蒼志は一切の国家権力の行使を間違っているとする。
国家権力なしに、どのようにして世界を成り立たせるのか。その原則は、「他人の自由を奪わない範囲において、制限のない最大限の自由を与える」ことであり、「すべてを支配ではなく社会契約として行う」ということである。
そのために必要なのは「自由な決まり」を定めることであり、あるいは、決まりというよりも「社会システム」を築くことである。
そのように、政府による強制的な従属関係ではなく、社会契約の下に社会システムによる自由な決まりを作るということ、「他人の自由を尊重する」という原則を守ることこそ、斉藤蒼志の信じる「理想」である。
だが、理想主義に陥っては、現実が見えなくなってしまうことがある。斉藤蒼志はある意味では理想主義者だが、現実も見ている。
なぜなら、斉藤蒼志は「たとえ裏社会と呼ばれる闇の世界であっても、SOSの叫び声を上げられる場所は必要である」とし、「そのような場所は、資本主義社会の暗部を明瞭に示しており、また現実に居場所のない子供たちの逃げ場所にもなっており、現実のスラムにおいてもネット上の仮想的なアングラ世界であっても、それをすべてすぐに消滅させるべきではない」と斉藤蒼志は信じている。
そして、そのような現実にある闇の世界において、目を背けるのではなく、その世界があることを直視し、資本主義経済の暗愚な現実をしかと見極め、「正しい問題の解決」を図ろうとすることこそ、斉藤蒼志における「真に正しい問題の解決」なのである。
メジャーリーグのニュース。世間では大谷翔平によるイチローの日本人連続試合出塁記録更新(+連続無失点記録)が話題だが、僕は村上宗隆と岡本和真が気になる。両者ともに、早くも苦戦している模様だ。
大谷翔平が先頭打者本塁打 日本人メジャーリーガー連続試合出塁記録をまた更新「45」に伸ばす(日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース
まだ“消えぬ”投手・大谷の記録 連続無失点は途切れるも…MLB公式が紹介「保持している」(Full-Count) - Yahoo!ニュース
なぜ岡本和真は急失速したのか? 三振増が浮き彫りにした課題…“最低”だった「36.8%」(Full-Count) - Yahoo!ニュース
ホワイトソックス・村上宗隆、3試合連続無安打も指揮官の信頼変わらず「いずれ結果はついてくる」(サンケイスポーツ) - Yahoo!ニュース
なぜ村上宗隆は急失速? 直近打率は失意の「.050」…浮き彫りになる“致命的”課題(Full-Count) - Yahoo!ニュース
でも、僕には野球は分からないし、なんとなく僕が反応しないほうがこの二人は打ってくれるような気がする。頑張ってほしいとだけ言っておきます。