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2026-01-30

雪のせいで自民党は負ける

今、高市総理が解散したせいで、急ピッチで選挙の準備が行われているが、僕が思うに、今回は自民党は負けるのではないかと思う。

その理由は、豪雪地帯で雪が降っているからだ。

そもそも、雪の降る量が多すぎて、とてもじゃないが選挙になんか行く余裕はない。「不要不急の外出をするな」と言われているのに、選挙なんかに行く馬鹿はいない。

それが、選挙自体にどのように影響するかは分からないが、高市総理が自分の意志で解散をしたように、自民党が勝つようなポイントが何もない。

だから、雪がたくさん降ったせいで、自民党は負けると思う。

大雪の中、選挙に来た国民が思うことはひとつ。「こんな雪の中で選挙に行くのはおかしい」。そのような国民が高市自民党に入れると思うだろうか?誰もが対立候補者に入れて、高市自民党は大負けするだろう。

数学をしたほうがいい

それから、僕はもっと数学をしたほうがいいと思う。

そもそも、パソコンのアルゴリズムなんかどうでもいいから、もっと数学の勉強がしたい。

僕が日本語が分からない理由は、僕は数学的なことが一切分かっていない。普通、誰でも、抽象的に考えるということは、イコール数学的に考えるということであり、それは相対的に考えるということだ。そして、かつての僕が証明しているように、日本語の力は思考力でしかつかない。そして、思考力とは論理的に考えることであり、それは相対的に考えることだ。

だから、数学的に考えることでしか、僕の日本語力はつかない。数学的に考えることで、ようやくこの世界のみんなと同じ土俵に立って、きちんとまともに生きられる大人になる。

また、高校数学が無駄に難しいのは、悪いことではない。なぜなら、この世界で一番難しいことをやりたいならば、それがまさにできるのが高校数学だからだ。

この世界には、普段の生活で、そんなに難しいことは多くない。難しいことであっても、簡単に解決できる大人が多い。それは、高校時代に高校数学をやったからである。

だから、高校数学をやりたいのであれば、「難しい問題を解いてみたい」と思うべきであり、そのような人間ならば、この世界であっても正しい生き方できちんと生きられる。

それから、小学校の算数からやるのであれば、決してユークリッド幾何学と四則演算は馬鹿でないと知っておいたほうがいい。子供に戻って三角形や円の面積を学ぶのは決して馬鹿ではない。ユークリッドの時代から、この地球においてそれが人類にはもっとも賢い。それから、計算ドリルをすることで、間違いなく、そして速く計算ができるようになる。九九を間違いなく行う練習として、計算ドリルは極めて有効である。

最後に、常に自分の言っているすべてのことを正しいと信じるな。女はその意味がよく分からないだろう。だが、たとえば、「日本のスポーツで野球が流行っているのは、見世物になるようなスポーツが野球ぐらいしかないからだ」という命題があったとしよう。この命題には、「たとえば剣道は強いものが弱いものを一瞬で倒すために、みんなが観て面白いスポーツではない」という流れがある。だが、この命題は間違っている。なぜなら、相撲なども見世物になっているのは明らかだからだ。

女になると、そのような命題が正しいのか間違っているのか、自分では分からなくなる。だが、男になると、それだけで証明が矛盾しているということが分かる。だから、男は最初からそのような馬鹿を言わない。そのような馬鹿は正しい命題ではない。だから、女は数学ができないせいで馬鹿になっている。数学ができるようになると、そのような馬鹿が治る。

さまざまな文学の仲間科目

多くの人々が、僕は詩人であり、数学専攻には進んでほしくないと思っている。僕には文学作品を引き続き描いてほしいから、文学に進んでほしいのだと、人々は強く期待している。

だが、実際、文学をやる上で、ほかの科目を知っておくことはとてもためになる。なぜなら、文学とほかの科目は、関連性あるいは「仲間の科目」であると認められる部分が大いにあるからだ。

まず、文学は歴史と仲がいい。特に、ドストエフスキーのようなロシア文学は、近代ロシア史を知る上で非常に役に立つ。単なる通史や各国史では分からないことが、ドストエフスキーの作品からありありと分かる。

それから、文学は哲学とも仲がいい。特に、ニーチェやサルトルは哲学者である前に文学者であり、彼らの作品は哲学書でありながら文学書である。小難しいとされるのはカントやヘーゲルぐらいであり、現代哲学者のレヴィ=ストロースの著作などは文学的にも優れていることで有名だ。ほかにも、アランの幸福論などは哲学よりも文学に分類されることが多い。スピノザのエチカなども文学的要素が大きい。

そして、文学は心理学とも仲がいい。心理学というと、心の病気を治す学問だと思っている人が多いが、実際は神話の教えやおとぎ話や言い伝えなどの文献が、実際はどのような意味を持っているのか、ということを考える。ジャックの豆の木のような作品、桃太郎や竹取物語のような作品のように、植物から赤ん坊が誕生する作品について、「生命力の強さと新しいものの誕生」を意味していると考えるのは、心理学の仕事だ。

そして、文学は、物理学や生物学とも仲がいい。それは文学のテーマとして、SF作品の映画や動物のアニメなどがあるからである。それは美術との関連についても言える。文学は美術と非常に仲がいい。それは漫画やアニメそのものが文学であり、その中では未来の話や動物の話が多数存在する。鶴の恩返しであっても、あるいは浦島太郎であっても、多くの民話や昔話に生物がたくさん登場する。それを書くためには生物の教養が必須だ。物理も同じであり、スターウォーズを書くのにも、機動戦士ガンダムを書くのにも、多くの物理の知識が必要となる。

そして、文学は、音楽とも仲がいい。それは音楽というものは単なる音だけではなく、言葉である歌詞やメッセージを乗せることが多い。ボブ・ディランがノーベル文学賞を取ったように、優れた音楽作品はそれ自体が文学作品であり、だからこそ、詩や歌を書くものは「詩人」とか「歌人」といった呼び方をされるのである。

このように、文学は多くの科目と仲間だが、その中でも、「数学だけは違うのではないか」と人々は思い込んでいる。だが、数学とは、「なぜ」とか「どうしたら」ということを論理的に考える学問である。そして、その「なぜ」とか「どうしたら」という論理的な言葉遣いをするということが、まさに思考力を使うということであり、それは文学と無関係ではない。文学において、さまざまなキャラクターの「なぜ」や「どうしたら」という設定がたくさん出てくる。だから、文学は日本語の知性と切っては切れない関係であり、日本語を使う能力がなければ、面白い文学作品は決して書けない。

このように、文学を専攻にするためには、ほかの多くの科目を学ぶ必要がある。そして、ただその科目を学ぶだけではなく、その科目を「文学的な視野で捉え直す」ということをする必要がある。だから、数学ができないということは、数学ができないから文学ができるということを決して意味しない。数学が十分にできなければ、文学をすることもまた十分にできない。だから、文学をする上で、数学が不得意であっても、数学を学ぶ必要は必ずあると言えるのである。

文学の才能

文学を学ぶ上で、科目との関連性以上に大切なのは、とにかくさまざまなことを知っておいたほうがいい。たとえば、地理を知っていれば、北海道や東北のような雪国のことが書ける。農業を知っていれば農家の野菜作りが、料理を知っていれば調理風景が書ける。地学を知っていれば探検小説が書ける。経済を知っていれば再起不能になった状況から復活した人生が書ける。また、科目としてではなく、社会のことをよく知っておくことも重要だ。男はつらいよの寅さんのような人情物の映画を監督するためには、現実の社会や今(あるいは過去)の日本の時代の知識がたくさん必要だ。

それから、物語を作る上で、「物語を成り立たせる技術」と「物語を面白くすることができる技術」は両方とも必要であり、そのために、脚本家としての技術力と、演出家としての技術力が必要だし、その前提あるいは本質としてのキャラクター設定ができる技術が必要だ。そして、そのためには、できるだけ誰とも違う面白い人生を歩んだ経験が重要である。多くの作家が、自らの人生経験に基づいた作品を書いて成功している。完全なフィクションではなく、自らの人生にあった実話に基づくセミノンフィクションとしてのフィクションを書くことで、作品が非常にリアルになり、面白くするためにどこを重視して書けばいいのかを分かった上で書くことができる。

それから、美術家やデザイナーとしての経験や技術があることは、物語を「美しくするセンス」へと繋がる。優れた文学作品を作る上で必要なのは「センス」であり、鬼滅の刃のような大ヒット作品も、作者の書くセンスが非常によかったから流行っている。そのようなセンスは、文学者として文章を何千回も何万回も書くことでつくこともあるだろうが、それだけではなく、美術や音楽のセンスをそのまま転用することで、「作品を美しくする」ということを実現できるようになる。

このように、文学をするためには博物学も必要だが、それ以外の技術や経験も必要である、ということが分かる。だが、本当に大切なことは、「書くことを楽しむこと」ではないかと思う。イラスト制作や作曲活動と同じように、とにかく「創作」ということを楽しむこと、それこそが、作家にとってもっとも大切な「才能」だと思う。

新しい発想

さらに言えば、物語を成り立たせる上では、「新しい発想」が必要となる。たとえば、ドラえもんは、未来からやってきた友達ロボットが「ひみつ道具」という便利な道具を出して、主人公ののび太を助けるということが、とても新しくて科学的に面白い話だから、日本中の子供たちの間で流行った。だが、そのような発想について言えるのは、ただ新しいだけでは意味がない。その新しい発想を上手く活用して、独自の面白いストーリーを作ることができる作品が面白い。ドラえもんの漫画やアニメはだからこそ面白いのであり、ドラえもんは後に映画作品のシリーズとなり、ほかのどの映画にも負けないほど面白い「ひみつ道具という新発想を大いに活用した映画」になった。

また、手塚治虫の火の鳥の未来の話では、「ロケットで宇宙の星の旅をする」という大きなテーマの中で、冷凍保存を意味する「コールドスリープ」のような発想を上手く活用する。コールドスリープということがもし起きるのであれば、それがどのような面白い現象や状況を生み出すかということを、手塚治虫は誰よりも考える。実際には火の鳥は生命に対する愛のある歴史的な漫画であり、単なる宇宙の旅という範囲の話ではなく、それを超越している。だが、鉄腕アトムでも見られるように、手塚治虫という作家が誰よりも宇宙旅行について正しく理解した上でベストなストーリーを描いているということは、疑いようのない事実だ。