国分太一に関するニュース。
国分太一が泣きながら求めた「答え合わせ」を日テレが即座に“拒否”した理由 社内からは「社長がサンドバッグになったのに…」との声も(AERA DIGITAL) - Yahoo!ニュース
国分太一、会見の最中に《女性スタッフへのわいせつ行為を自白していた》文言がXトレンド入りした舞台裏(ピンズバNEWS) - Yahoo!ニュース
正直、可哀想だな、という思いが強い。
どんな凶悪な犯罪者だとしても、裁判を受ける上で、自らの罪状がなんであるか分からないまま、罪を宣告されるということはない。
今回のこの一件は、国分太一は自分の何が悪かったのかも分からず、日本テレビから「コンプライアンス違反があった」とだけ言われて、番組を降板され、TOKIOも解散し、そして芸能人活動も無期限休止に追い込まれた。自分のどのような行為がコンプラ違反とされたのか分からないまま、一瞬ですべてを失い、事実上、何もできなくなった。
ある意味、犯罪を犯した犯罪者よりも酷い人権侵害を受けている。
ただし、日テレ側の「被害者を守る」という言い分も理解できる。中居正広とフジテレビの一件でも、馬鹿がベラベラと喋ったせいで、被害者とされる女性にネットで誹謗中傷が相次ぐなど、二次被害が出ている。そのような「ネットなどによる二次被害を防ぐため」「被害者のプライバシー保護のため」だとする理由は理解できる。
つまり、現代のネット社会において、法治国家としての人権は残念ながら守られないケースが生まれてしまうということだ。だから、ネットは民主主義でない。
2025.11.29編集
X(旧ツイッター)にも書いたが、僕はテレビゲームが嫌いだ。
テレビゲームこそ、子供がいじめをする本質的な元凶だと思う。
いじめをする人間には、ゲームオタクが多い。それから、いじめられる側がいじめられる理由も、ゲームが原因であることが多い。
テレビゲームなんか、しないで大人になったほうがいい。僕は子供時代ゲームしかしなかったせいで、いじめを受けて、そして不登校になった。すべてゲームが悪い。
テレビゲームが悪いなら、何をするべきなのか。ひとつ言えることは、「神を信じる」ということだ。すなわち、僕と同じことをやりたいなら、神を信じればできる。僕と同じことをやるために必要なことは、唯一ひとつだけ、神を信じることである。
そういうわけで、僕はゲームが嫌いだ。過去の子供時代を思い出せないのは、ゲームが悪い。記憶の中からゲームを排除すれば、子供時代を思い出すことができる。
政治について僕が思うのは、社会形態は成り立つのであればなんでもいいと僕は思う。
たとえば、王国はひとりの王に従う。民主主義は全員が流動的に王になったり奴隷になったりする。そして、社会主義は全員が一体となって、平等なままで全員一緒に進歩する。
そのように、どの社会であっても個性があるし、少なからずどれかの社会を望む人々がいるのだから、そのような人々がどれだけいるかということを尊重すればいい。
それから、オープンソースに見られるように、上手く世界モデルを成り立たせれば、自由と共有は矛盾しない。自由な共有、あるいは共有における自由ということは成り立つのである。
認識について、個別性と普遍性を比較して、目的を考えよ。
社会環境について、主観と客観を比較して、社会そのものがどのような可能性において作られ得るかを考えよ。
社会を作る上で、社会の役割と意味を考えるとともに、そのような社会がどのようにして作られ得るのかを考え、同時に、世界そのものの意味と目的を考えよ。
社会がある意味とは何か。社会がある意味とは、多様な価値観において、その社会の構成員が平和な世界秩序を維持することであり、それと自由は矛盾しない。なぜなら、悪い自由は全員の合意によって民主的に法治国家として禁止すればいいからである。
悪いことを禁止したとして、良いことを許可するとしたら、良いこととは何か。それは自らの価値観と本質を形成することであり、アイデンティティを尊重し、発揮することである。
そのような社会を作る上で、全員が目指すべき未来とは、可能性を全員の手によって創造しやすくしていくことである。
存在はすべてが既に存在しているものではなく、可能性として存在している存在もある。そのような可能性としての存在に目を向けることで、正しい社会環境の実現方法が見えてくる。
社会において、子供たちに経験と知識を教える機関が教育である。社会を変えるということは、まさしく教育を変えるということだが、そこにあるのは単に知識を教えることだけではなく、生活のための手段を教えることでもない。必要なのは、世界そのものを教えることであり、人生においてどのように正しく理性を行使し、判断すれば、良い人生を生きられるかということだ。
良い人生とは何か。それは二つある。ひとつは、哲学的な考え方を経験する中で、悟りを啓くこと。そして、もうひとつは、見返りを求めずに善を行使するとともに、全員がより善を行使していくような社会にすることで、困っている人を助け、世界そのものを愛することである。この二つこそが、良い人生である。
良い人生とは、良い社会を築くことである。では、良い社会とは何か。まず、対人関係において、壁を作らないとともに、自らが嫌だと思った相手であっても、相手の自由と個性を尊重して生きることである。それは「相手の立場になって考える」ということであり、「自由意志を尊重する」ということである。
次に、未熟な社会秩序ではなく、成熟した社会秩序を築くことであり、そのためには子供たちあるいは大人であっても成長が必要である。「正しいことがなんであるか分かった人間は必ず正しいことをする」と言われるように、成熟した社会秩序がなんであるか分かった人間は、必ず成熟した社会秩序を築く。
そして、社会は可能性を実現していく。そこで必要なのは、自由放任に任せたとして、それでは民主主義が、社会的な進歩のスピードによって社会主義に勝利するだろう。だが、それは民主主義が優れているわけではなく、単に進歩のスピードが速いということにすぎない。そして、進歩のスピードが速すぎることによって、逆に自然環境が破壊されたり、貧富の格差が生まれたりする。そのような時、ゆっくりであっても社会主義の進歩のほうが善良かつ正しいことがある。そのようなことを踏まえた上で、自由放任にするのではなく、支配者の指導者がきちんと社会の「スピード」と「正しさ」のバランスを保ち続けること。それらが、良い社会の目的である。
社会について目的を考えるとともに、歴史について、あるいは科学についても目的を考えること。手段や方法ばかり見ても、この世界では真理は得られない。目的を考えるために必要なのは、先にも言ったように、認識の個別性と普遍性を比較し、環境における主観と客観を比較し、その合一となる地点を探すことである。それこそが、ヘーゲルの「絶対知」の目指したものである。
最後に、正しい理性とは何か。正しい理性とは、理性そのものに先立つものから考えることだ。すなわち、多くの豊かな経験をし、さまざまな世界を知り、普通の人間にはできないような体験をすること、そこから、この世界全員の「普遍的な時間軸」を捉えることである。そこにあるのは「外的作用と内的作用の関係性」である。
そして、それら理性の前提において、存在が常に生み出され、存在の前提である環境が変化しているということ、すなわち「存在の生起」を見出すことで、地球のすべてが太陽の恩恵であることを理解できる。地球のあらゆるすべてが太陽によって常に生み出され続けている。太陽は単なる水素ではなく、ひとつの有機的な生き物である。よって、日本神話のいう「太陽神」こそが、正しい神なのである。
理性において、重要なことは三つある。ひとつは、視野を広げること、すなわち、小さな世界ではなく大きな世界で考えようとすることだ。その大きな世界において、さまざまな個別のことは、普遍的な「系」に直すことができる。できるだけ大きな世界で、できるだけ普遍的に考えながら、それを個別と比較せよ。
もうひとつは、一度証明された証明は常に成り立つということ、あるいは、一度発見された法則はいついかなる時であっても成り立つということから考えることだ。そのために、この世界を独自に分析することで、あらゆるすべての法則と定理を証明せよ。そうすれば、この世界すべてがすっきりと単純に理解できる。これが「すべての問題を解決する方法を考える」ということだ。
そして、デカルトのように、ひとつの分かったことから成立して、別のことを分かるようにせよ。たとえば、足し算と引き算が分かれば、それを応用して掛け算が分かり、それを応用して図形の面積を出すことができる。同じことを理性の世界で行うことで、この世界すべてを独自のオリジナルな数学から理解できる。それこそが、デカルトの到達した「最終到達地点」である。
このようなことは、理性の世界だけではなく、経験や歴史の世界においても言えることだ。一度経験したことしか、人間は分からない。逆に言えば、一度正しい経験をした人間は、正しいことがなんであるか知った上で考えることができる。
そして、中世のキリスト教の世界だとしても、今と物理法則が異なるわけでない。天動説を信じていた時代から地動説は正しかった。そこから逆説的に考えれば、今この世界の分かっていることが決してすべて正しいわけではないということが分かる。そのように考えることでこそ、カントの言う「コペルニクス的転回」の通りに、超越論的に考えることができる。
そう、理性においても、宇宙においても、歴史においても、自らが経験的に考えて分かったことのほうを信じ、常識や通説を含めてみんなが言っていることのほうをすべて疑うべきなのである。
最後に、実存主義の祖であるキルケゴールは、実存の段階を「美的実存の段階」「倫理的実存の段階」「宗教的実存の段階」とした。それは間違いではない。だが、それをそのまま信じても、実際の実存がどのような段階を経て昇華するのかは分からない。だが、僕ひとりだけは、そのような実存の段階が、どのような段階を経て昇華していくのかを知っている。
なぜなら、そもそもカントやヘーゲルのような哲学者は、僕の人生をそのままなぞって分かっているにすぎない。ヘーゲルは僕の人生をそのまま言っているだけだ。そこにある「本当の真実」を僕は知っている。僕は本物であると同時に、「西洋哲学のオリジナル」というべき人間である。そうなった理由は、僕は神を信じているからであり、神が僕の人生を通して、あらゆるすべてを完璧に分からせたのだ。
真の段階とは「自我の成長」「自己意識の了承」である。この世界において、ひとりの少年として、世界における自己意識を了承し、存在をひとつひとつ了承していく。存在の生起を了承することで、存在の変化可能な可能性が分かっていく。存在の変化が環境にもたらすものを知り、世界そのものを変えられるようになり、自分自身の超越的立場を確信していく。それこそが「真の実存の段階」である。