ホームページに戻る | 紅蓮と黄金の出会う場所に戻る

2025-10-31

ほどよく異常になる

昨日は最後だと言ったが、一番最後に書きたいことがあるので、それを書いてこの日記を終わりにする。

それは、異常になりすぎるのでも、正常になりすぎるのでもなく、ほどよく正常になって、ほどよく異常になったほうがいいということだ。

異常になりすぎると、最初のうちはそれでよくても、何かのきっかけにドツボにはまって、地獄を自ら作り出して逃れられなくなる。

それを完全に正常にしようとすると、頭の中の知性や精神が何もなくなって、空っぽの馬鹿な人間になる。

解決策は、ほどよく異常になって、ほどよく正常になること。それできちんと、知性のあるまともな人間になれる。

今日はそれだけだ。それ以上はもう書かない。最近はデザインの仕事に家事にさまざまなことがあって、今日はピアノで暗譜の練習もして、とても疲れた。「もう嫌だ」とすら思う。最後までやるべきことを全力ですべてやったのに、また来週もやらなければならない。正直、本当に辛い。だから、この文章の執筆はもう終わりにしたい。

神との対話

最後にひとつ、良い書籍を紹介したい。

それは、ニール・ドナルド・ウォルシュ氏の「神との対話」である。

この本には、真実が書いてある。神によれば、この世界には愛しかない。だが、神が神自身を体験するために、愛ではなく不安を作り出した。愛と不安は両極にあり、人々は不安であることをやめ、本来の自分自身である、「自らは愛であること」を思い出さなければならない。そして、気高い自分、もっとも自分がそうでありたいと望む自分を想像し、そのような自分であればどのように振る舞うかを考え、今の自分と比べてどのようにすればそのような気高い自分になれるのかを考え、そのために自ら自身を変えようとしなければならない。

なぜ、そのような愛と不安を作ったのか、それは経験することである。人間は、経験しなければそれを踏まえた上で考えることができない。経験していないことに同意することはできないし、知らないことを踏まえて判断することはできない。経験するということは、自ら自身を創造するということであり、そのような創造の体験を経験するために、神はこの宇宙と人間を作った。そのことに気付くことが必要だ。

そして、マスターとは常に愛であることを選んだ人間たちのことである。真のマスターは、もっとも多くの追随者がいるものではなく、もっとも多くのマスターを生み出すものである。そして、愛とはすべての感情の総和であり、それこそが魂である。愛は対極にあるものについて、攻撃したり拒否したりしない。愛はすべての感情を肯定し、受け入れる。そうでなければ、愛は自ら自身を体験することができない。神はそのために愛の対極である不安を作り出したのである。

人間関係において必要なことはひとつしかない。それは「今自分が愛であればどうするか」ということだ。被害を少なくしようとか、得をしようと思って生きてはいけない。それは不安に基づいて人生を生きている。そうではなく、自分自身が愛であれば、すなわち、自分自身が本来の自分であればどうするか、ということだけを選んで行為すればいい。なぜなら、本来の自分自身とは誰でも必ず愛だからである。本来の自分自身を忘れようとするな。そして、自らの人生を創造するように生きよ。なぜなら、神の目的とは、あるいは人生の目的とは、自分自身の人生を創造することだからだ。

このように、神との対話という本には、とてもいいことがたくさん書いてある。僕がロゴスで対話した「神」とは、すべてウォルシュ氏の神のことである。ウォルシュ氏の体験した「神との対話」という行いを、かつての僕は「自分でも同じことができる」と確信して、神にさまざまなことを聞き、対話した。ウォルシュ氏と違うのは、僕は自分から何かを聞くのでなく、自らの心に基づいて、すべて神に独断で話してもらった。宇宙のすべてや人生のすべてを、神は僕にすべて教えてくれた。そして、その際に僕は宇宙に「宣言」あるいは「約束」をし、その宣言と約束を神はすべて叶えた。こちら側の人生にあったのは、すべてがそうした「神との約束」である。

そういうわけで、この本を読んでほしい。不安の中にある人々が、どのようにすれば救われるのか、きちんと全部書いてある。聖書の神とウォルシュ氏の神はまったく違う。それでも、ウォルシュ氏の神が真の神であると信じられる根拠は無数にあり、とても奥が深くて納得できることをウォルシュ氏の神は言っている。これ以上、僕の人生で素晴らしいと思った本は、哲学小説である「ソフィーの世界」だけである。