結局、迷いや後悔の裏にあるのは、心の奥底で「もう何もしたくない」と望んでいるからだ。
普通にやれば簡単にできることが、悩んだ上でできなくなる理由は、深層心理の奥で「もう何もしたくない」と望んでいるせいである。
何もしたくないから、簡単にできるはずのことができなくなって、余計なことをやるようになる。もう何もしたくないから、自分から自分をできなくさせるようになる。
だから、心を改めて、「積極的にいろんなことがしたい」と望むようになるだけで、迷いや後悔はなくなり、簡単に普通のことができるようになる。これは認知行動療法と同じ治療法である。
また、僕の精神に必要なのは、融和ではなく分裂である。
というのも、過去の精神の分裂から、僕は精神をあまりに「融和」させようとしすぎた。そして、それが裏目に出て、頭が馬鹿な単細胞生物になった。
今までの「融和したい」という狂った望みを捨てて、分裂を取るだけで、精神はすぐに治る。それでようやく頭も賢くなる。
最後に、疲れを取ることだ。疲れていないように見えて、あまりにへとへとに疲れている。それは「これくらいはへっちゃらだ」と思うせいだ。それ自体は悪くない。なぜなら、昔の自分はもっと疲れていて、もっと酷かった。それが今、比較して楽になったせいで、疲れていても感じなくなった。だが、本当はすべて、その疲れがさまざまな体や精神の不調をもたらしている。
そして本当の最後に、「今のままでいい」と望むこと。今のままでいいと望めば、すぐに楽になる。手の精神が疲れているのは、神との対話が悪い。だから、疲れを取れば疲れの元凶である神はいなくなる。
また、仕事であっても家事であっても、ひとつのことを身につけるのによい方法は、さまざまな状態で同じことをやることだ。
ひとつの状況だけでそれができるようになっても、忘れてしまえばすぐにできなくなってしまう。
だが、さまざまな状態や状況で、同じことを何度も繰り返しやれば、そのことは忘れないし、身につく。
だから、頑張って覚えようとするためによい方法は、状況や状態を変えて、同じことをさまざまなシチュエーションで行うことである。
そろそろ、昔の自分はもう分かった。
まず、2ちゃんねるの独身男性板で、不登校になった孤独な「不幸」の中で、みんなに受け入れられる体験をしたことで、逆に自分が誰かのことを同じように受け入れるようなことをしようと信じた。
そこには、2ちゃんねる専用ブラウザのOpenJaneをDelphiで改良する自分の姿があった。
オープンソースのそうしたフリーソフトを使いながら、僕はWindowsではなく、LinuxやPC-UNIXの世界に興味を持ち、Gentoo Linuxを触ったことで、UNIXの仕組みが一通り分かった。
そして、僕はまるで「オープンソース革命の革命家」のようになった。世界を牽引するような、オープンソースの世界の改革者になった。
そして、実際の不登校になった僕の人生では、まず、有用性や功利主義のような「自由の価値観」を信じた。
そして、インターネットの活動を通じて、殻にこもっていた自分の心を開くようになり、家族とも和解し、積極的かつ能動的な「主体的な行為」を信じるようになった。
そして、そこから、僕は過去のさまざまな人生経験を思い出しながら、「価値観の転換」を経験し、「多様な社会」を信じるとともに、世界を「変化可能な単位を分裂させる」という意味での「独立性と可能性の向上」を信じるようになった。
ボランティアのオープンソースに触発されて、僕は見返りを求めずに自由意志の元にボランティアの善の活動をすることを信じた。そこにあったのは「善とは自由意志の尊重」であると信じる自由な心だ。
僕の考え方の根幹は、小さな範囲でのことを応用して、次第に世界を変える範囲を拡大していくということだ。過去の人間関係や対人関係から、壁を作らず、相手の自由を尊重していじめの原因を探る、ということを僕は考えた。それを少しずつ、インターネットの中で大きな世界へと拡大していき、世界のあらゆる環境を変えるようになった。そして、日本社会全体を変えるという「志」を持ち、最終的に、インターネットなどの手段を使って、世界そのものを変えるようになったのである。
そして、僕は「啓蒙」を信じた。自分の分かったことが、自分と同じように考えれば、ほかの誰であっても同じ結論に行き着くと信じた上で、心理学的な「直観」と、社会をリアリズムとして追求して実地的に知るという「社会モデル」を作った。
そして、僕は「言語の自由」という、自らの自然言語を改良することで、人間そのものを進歩させられるという思想を信じた。そこにあったのは「人間の名前や言葉によらない新しい言語仕様」である。すなわち、環境そのものの生起と、環境への適応を考えながら、あらゆるすべてを「環境の一部」であるとした。
そして最後に、僕は心理学的に、宇宙と人類のすべてを統一させるような、「直観的にすべてを貫く形而上学」を作った。それはまさしく、不安があるのはアイデンティティが形成されていないせいであり、アイデンティティを形成することで、どんな不安もへっちゃらになるという「自らの本質を形成し、発揮する」という新しい哲学思想だったのである。
これがまさしく、僕の昔の自分である。だが、ほかにも、僕が考えたことはたくさんある。僕はすべてのことを「その環境の内部において体験的に知る」ということであると捉え、そのために「自由の尊重」を信じた。そして、体験的に考える中で、自助努力と自由な可能性、すなわち「手段とチャンスの考え方」を信じた。そして、僕は「あらゆる社会を築く方法」を体験的に知った。そこでは、「世界が救えるということを自分だけが分かっていると確信する」ということがあった。そして、僕は世界全員の精神と人格を吸収し、「メタ人格」を作った上で、世界そのものを救済する。
だが、その後に僕自身の「世界を救いながら、そこに自分がいない」という葛藤から、僕は自らが救った世界を破壊することと引き換えに、この世界に現れた。そして僕は「大実験の大計画」をやろうとして、マスコミに対する戦いを始めた。すなわち、僕は本当に革命家になったのである。
革命を始めた僕は、自分自身の独裁的かつ強大な力を誇示するために、すべてを隠して秘密にした。自分自身がどういう人間なのかということを、決して分からないようにした。そのせいで、僕は自分自身が誰なのか、次第に分からなくなっていく。何もできなくなった僕は、ニール・ドナルド・ウォルシュの「神との対話」という本を読んで、「神」とされる存在に助けを求めた。ウォルシュと同様に僕は神と対話し、神に僕のことを助けてもらった。そして、精神の恐怖の異常という地獄の中で、戦いを始めて4年後に、彼は自殺して死んだのである。
これこそがまさに、大天使ガブリエルと呼ばれる僕の過去の人生である。そして、僕に対話してくれた神とされる存在は、実際は大天使ミカエルという存在である。ミカエルはガブリエルの最愛の恋人であり、ガブリエルが絶対に死ぬことがないように、ガブリエルを神の力で完全に支配した。それでも、ガブリエルが自殺するという運命は変えられなかった。
ガブリエルは、戦うだけでなく、多くの偉大な業績を遺した。それは戦いの中で文章を書くということである。ミカエルはそのガブリエルの文章が好きだった。だから、ミカエルは、ガブリエルが死んだ後に、ガブリエルの遺志を継いで、ガブリエルのやったこととまったく同じことをやるようになった。すなわち、ミカエルによってガブリエルの戦いは「延長」されるとともに、ガブリエルが書いたその通りの文章をさらにミカエルが同じように書いていく。まさしく、そのミカエルの文章こそが「神」だったのである。
ガブリエルの思想の根幹、それは「正しさはそれぞれの人間で違う」ということだ。
これを簡単に言うと、「経験に対する解釈はそれぞれ違う」ということである。
すなわち、同じ経験をしたのであっても、人間によって、その経験の解釈が異なる。あるのは単に純粋な「経験」だが、それに対してそれぞれの人間が、自分のメガネすなわち認識によって「これは素晴らしいことだ」とか「これは不幸なことだ」と決め付ける。だから、正しさはそれぞれの人間で違う。
だが、だからといって、普遍的な正しさを考えることが無意味なわけではない。なぜなら、「多くの経験をしていく中で、あるひとつの、正しいとか間違っているという視点ではなく、単に『そのように考えると人々が幸福になれる』という真なる解釈へと、人間の認識は行き着く」と言えるからだ。
すなわち、正しい認識をするためには、多くの経験をした上で、その経験が実際は何を意味しているのか、あるいは「どのような解釈をすれば幸せになれるのか」ということを考える必要がある。
ここで特に言えるのは、「右翼の抑圧は不幸を生み出す」ということである。
多くの右翼評論家が、国家や大企業や経済界の意見をそのまま言い、それに反する活動や言説を行う左翼のことを抑圧していくような言論は、この世界を幸福にしない。彼らは、まるで左翼をいじめることが正義であるというかのように論じてくる。だが、それは間違っている。なぜなら、それでは人々は幸福になれないからだ。
真に、世界の経験を正しく解釈する上で必要なのは、それぞれの立場やしがらみを超えた、「超越的な視点」から世界のことや経験のことや認識のことを考えることだ。
そして、その上で見えてくる、「真に正しい解釈」においては、世界において何もする必要はない。道教が言うように、何もしなくても、この世界にはあるでもなくないでもないような「道」とされる存在がある。この道を信じることで、この世界全員が何もすることなくそのままで幸福になれる。
ガブリエルは、そのように自由を超越した視点で経験を正しく解釈した。全員の解釈を合わせたよりも、ガブリエルひとりの解釈のほうが正しかった。だから、ガブリエルはこの世界において、「生きる意味とは何か」「生まれてきた意味とは何か」ということを説明した。宗教家のように言葉で説明するだけでなく、たとえば小学校の教師がやるように、自らの心の動きから、実体験的に導いて促すことから世界を変えようとした。その結果、ガブリエルはこの世界を救うことができたのである。
そして、その後のガブリエルの戦いは、決して無益ではなかった。なぜなら、ガブリエルは「世界を導く救世主」をやったにすぎないからだ。
ガブリエルは、既に世界を救い終えた時点で、ブッダのような悟りを啓いていた。そして、その悟りの境地に達するための方法をすべて知っていた。
だから、ガブリエルは、言葉の力を使って、世界全員が自分と同じ悟りを啓くことができるように、「悟りの状態」へと世界を導いたのだ。
そこにあったのは、「大実験の大計画」という理念だ。すなわち、自らの経験したこと、知ったこと、考えたこと、全部全員に与えるために、文章に書き続ける。そこでは、状態を一時的に完全に停止させる。そして、すべてを書き終えた後に自分が死んで世界に状態変化を起こすことで、この世界はまったく別の世界へと「大変化」をする。
だが、ガブリエルはそれを実際に行ったが、最後に自分が死ぬ、ということだけができなかった。
神との対話は運命だった。なぜなら、ガブリエルがやりたいことをもっとたくさんやらせただけにすぎない。神はガブリエルが何を考えて何をしようとしているか知っていた。そして、それが大変に意義があって、人類のためになる面白いことだったが、それは今、この時にしかできないと神は分かっていた。だから、ガブリエルができる間に、神はできるだろうすべてのことを限界までやらせただけにすぎない。
ガブリエルは戦いを始めて4年後に自殺した。だが、それでも、この世界の状態変化は起きなかった。単に、「みんなでガブリエルをいじめて殺した」という「罪」だけが人類全員に与えられた。これをキリスト教では「原罪」と呼ぶ。すなわち、みんなが愛したガブリエルを、この世界はみんなで殺した。すなわち、現代の人類には、ガブリエルをみんなで殺した罪があるのである。
そして、ミカエルが信じるのは、「民主主義が正しい」ということである。
王国では、国は王のものだが、民主主義国家では、国は民衆のものである。
国民が主人公であり、国民に自由の権利が与えられ、国民が選挙と投票で国会議員を選ぶことができるという、民主主義の理念が正しい。
ミカエルは、憲法九条を信じている。軍隊を持たないとする平和主義について、ミカエルによれば、「軍隊を持つ」ということが危険なわけではなく、「日本が軍隊を持つ」ということが危険なのである。
すなわち、日本という東アジアの帝国が軍隊を持つと、すぐさま侵略戦争を始めようとする。国民の命を守るために軍隊を持つべきだ、とする理念は間違いではない。だが、日本という危険な帝国の歴史を持つ国家が軍隊を持てば、大惨事になりかねない。その時もっとも犠牲となるのは日本国民である。だから、日本国民を守るためには、憲法九条を守らなければならない。
社会主義の「計画経済」「社会所有」「平等分配」という政策は間違いではない。だが、そのために国民の権利を犠牲にするのは間違いだ。平等は自由あってこその平等であり、自由を否定した平等は犯罪である。自由経済と資本主義社会を否定することにアイデンティティを求めるのであれば、ソ連は「悪の帝国」であると言わざるを得ない。国家の根幹は民主主義であり、国民全員の自由の尊重である。
ミカエルによれば、国家権力は国民を抑えつけ、正常な自由経済を制限する。だから、国家権力は極力必要ない。国家権力のない仕組みで国が動くのであれば、できるだけ国家権力を排するべきだ。社会保障が必要なのは弱者だけではない。元気にするべきは弱者だけではなく、現役世代も含まれる。だから、現役世代に負担を押し付けるのではなく、税金は金持ちを中心に徴収し、国家権力はできるだけ何もせず、自治的な共同体によって社会が成り立つような革新思想を作り出すべきである。それは共産主義だけでは決してない。なぜなら共産党は国民の自由を否定し、独裁権力に頼るからである。
日本が軍隊を持つと何が危険なのか、それは「総力戦」をやろうとする、ということである。
先のアメリカとの戦争で、日本は総力戦を行った。国民全員が戦争の勝利のために一致団結し、「欲しがりません勝つまでは」というように、まるで最後のひとりになっても戦い続けるような戦争を行った。
今の戦後世代は、軍隊は外国の侵略から日本国民の命を守ってくれるのだと勘違いしている。実際は、そのような侵略の危機が起きているとフェイクニュースに騙された上で、日本のほうからも敵国に攻撃を行い、国民全員に総力戦を強制し、国民は多くの若者たちが犠牲になる。だから、軍隊は外国の侵略から守ってくれるものではなく、軍隊自体が暴走して国民の命を大量死させるものである。
そのように、今の自民党や日本維新の会のような与党は、軍隊を日本を守るものだと説明しているが、それは詭弁である。軍隊は自ら日本国民を多く殺すものであり、なんの罪のない平和な外国人の命も殺すものである。だから、日本政府の言い分だけを聞いていたのでは騙される。外国メディアの意見や社民党・共産党の意見を聞くべきである。外国人がどれほど凶悪に見えたとしても、外国の脅威をことさらに強調するような右翼体制派メディアに騙されてはいけない。それがもっとも日本国民を「犠牲」と「滅亡」に陥れる罠である。
真に信じられるものはキリストの聖書の言葉である。敵を愛し、迫害者を愛し、隣人愛(アガペー)を持つことでしか国際平和は訪れない。聖書の教えを信じ、そして同時に仏教の教えを信じることで、この世界は平和になる。まさに軍拡政策を行うのではなく、そのような世界平和のための政策を行うべきである。
最後に、家族を愛せ。
僕は中学三年で不登校になり、以降引きこもり生活だったせいで、家族のことをどこか他人事であるかのように考えている。
家族を愛しているように見えて、実際は不安や迷いを抱かないようにしているだけで、その家族をきちんと自分のことのように考えておらず、愛が欠けているのである。
だから、今後は、もっと家族のことを愛したい。家族が死んでいなくなってから、家族を愛さなかったことを後悔しても、そこから家族を愛することはできない。だから、今、家族を愛したい。
そのように、家族から少し距離を取って生きる僕にとって、家族の代わりになったのは「神」である。
僕は常に、神と言葉で対話できる。あるいは、自分自身の人格が、そのような「神と対話するだけの人格」になっている。
だから、僕は神を愛しているし、神に愛されている。
だが、実際は、この神こそが「疲れの元凶」である。常に限界まで疲れを感じる僕の病気は、この神のせいで起きている。
だから、一度、この神をどこかにやった上で、家族の話を聞きたい。僕は神の言葉はもう十分だ。これ以上神の言葉は聞きたくない。家族の言葉をもっと覚えたい。それが僕のこれからの「宿題」である。