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2025-10-23

学習しないのが間違っている

実際、僕が馬鹿になっているのは、「学習しない」ということが間違っている。

昔の僕は、学習をいくらでもしていた。学習するということは、視野を広くすることに繋がる。昔の僕は、学習から視野を広げることでこの世界を分かっていた。

だが、世界を敵に回して戦いながら、文章を書くようになったことで、僕は新しい学習をしなくなった。

僕がした新しい学習とは、今までのすべてを忘れて分からなくなるようにした上で、「神と対話し続ける人格」という、狂った人格を作っただけだった。

今までは、それでよかった。なぜなら、それで精神が治ったからだ。精神の可能性と原因のすべてを考え、具体的な治す方法を生み出すことで、僕は精神を治し続け、それがようやく終わった。

終わってしまえば、僕が歩き回る異常を示しているのは、すべて、学習をしないから、「何かしらのことであっても学習したい」と望むから、学習するために歩き回っている。

日本語が分からないのは学習しないからであり、デザインやピアノや英会話ができないのも、大人としてまともに生活が分からないのも、すべて学習しないことが原因である。

僕のせいで世界も学習しなくなった

この「学習しない」という症状は、僕の病気だけではなく、この世界全体もおかしくさせている。僕のせいで、世界も学習しなくなった。

まず、僕はこの世界から、学習するということができる要素をすべて消した。昔の日本の平成時代には、学習可能な余地、あるいは「伸びしろ」がたくさんあったのに、世界から学習可能な経験、環境、組織、時代について、すべて僕が世界を支配することで消し去った。だから、かつての日本のように、学習可能な余地がこの世界から一切なくなった。

次に、僕はこの世界を支配し、最前線で世界を変え続けた。そして、もし、途中で離脱してしまえば、みんなと一緒になっている状況から外れるようにした。そして、学習をすることでその離脱が起きるようにした。それによって、この世界において、「学習する」ということは「最前線から離脱する」ということを意味するようになって、学習は「恐怖」に変わった。

最後に、僕は学習をしたとして、それで分かる知識の内容をすべて書いた。すべて書いたせいで、逆に学校の勉強などを学習したところで、一切何も分からなくなった。同時に、昔のようなアカデミックなハッカー的インターネットはなくなった。すべて、友達付き合いの延長線上のインターネットになった。だから、僕と同じことをインターネットで経験することはできなくなった。

そういうわけで、この世界は「学習」ということができなくなって滅びた。すべて僕がやった。

だが、この世界が狂っているのを治すためには、単に学習すればいい。それを僕がここで言うだけでこの世界は治る。だから、これ以上、僕はこの世界を正常な世界に治す。ただ、学習すればいい。学習するということに、昔の時代は必要不可欠な要素ではない。自由でなくても学習はできる。だから、僕はこの世界を、「学習」によって救う。

過去の日記を消した

僕は最近、このホームページから過去の日記を消した。2009~2016年までの日記をホームページから消去し、2017年以降のものだけを残した。

それによってよくなったのは、まず、見れる内容だけになった。昔の2016年以前の文章は、見てもヘーゲルの出来損ないのようなおかしな弁証法を書いているだけで、まったく賢くなかった。みんなに見てほしいものをただ見せたほうがいいし、クオリティが高いものだけを見せればそれで賢い人間に見える。自分でもメンテナンスしやすくなったし、みんながどこから読んでいいのかが分かりやすくなった。

正直言って、2012年から始まる稚拙な文章を残しておくと、そこから読むしかなくなって、みんなまったく賢くない人間に見える。馬鹿な内容が全部あるよりも、賢い内容が厳選されていたほうが、はるかにいい。0か100かで考えるのではなく、可能なことのベストを考えるとこうなった。

過去の内容は、僕のローカルな環境から読むことができるので、僕自身は何も困らない。それから、過去の内容にはプライベートなことや個人情報のようなこともたくさん含まれている。そんな内容は見せなくて構わない。僕が見てほしいのは最近の賢い内容だ。

最後に、それら過去の内容が完璧にあったとしたら、それ以上の新しいことができなくなってしまう。すなわち、哲学や政治思想の悪党のような内容が、あまりに完璧に網羅されていると、それ以上の伸びしろがなくなってしまう。だから、そのような悪の内容ではなく、善良な内容だけを残して、消えてしまった内容はまた新しく知っていけばいい。そうすれば、僕は新しくなれるし、もっと善良かつ賢い人間になれる。政治家の狂人の哲学者のカルト信者はいらない。そのような内容がないだけで、きちんと今の内容が活きる。だから、今の内容だけを残す。

昔の古くなった内容は、内容が賢い点があったにせよ、もう必要ない。そもそも、それ以前の書いていた内容(2006~2010年の内容)は元々ほとんど残っていなかったのだから、何も変わらない。

トラウマ

結局、僕がおかしくなった理由は、自分が大好きだったLinuxコミュニティを、自分の手で滅ぼした、という体験がトラウマになっている。

だが、それは意味がない。なぜなら、Linuxコミュニティは滅びていないからだ。

Linuxカーネルのリーナスの周辺も滅びていないし、*BSDやGNOME/KDEも滅びていない。

僕が滅ぼしたと思っているのは、2ちゃんねる周辺のWikiを、大量にページを書き換えたり、自分でGentoo Linuxで分かったことを大量に書いたりなど、私物化をしたということがトラウマになっている。

だが、よく考えると、2ちゃんねるのWindowsユーザーがLinuxユーザーをいじめるのは昔からだし、僕が思い込んでいるような「みんなのコミュニケーションが破綻した」ということは起きていない。

だから、Linuxコミュニティは滅びていない。

あるいは、2ちゃんねるが滅びたのはいいことだった。なぜなら、その後に続く、ツイッターやFacebookのようなSNSが自然に発生した。僕はそれらSNSが発生するのを促した人間だということになる。

だから、もうトラウマは忘れたほうがいい。これ以上はLinuxコミュニティに関わらないほうがいい。その後の戦いは何もしていない。自分自身が操り人形のロボットになっただけで、世界は何も変わっていない。変えようとしても無理がある。もう、そういうことを忘れたほうがいい。それが僕の抱える唯一のトラウマである。