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2025-10-21

奴隷のようになることが賢い

言葉は悪いかもしれないが、人間は「奴隷」のようになることが賢い。

奴隷になることで、さまざまな生活に必要なことが分かるようになる。そして、その先にある「存在の真理」についても気付くことができる。

この世界は、奴隷を使って何もしないことが「自由」だと勘違いしているが、それは間違っている。奴隷は自分の意志や行為としてこの世界で生きられる唯一の存在であり、奴隷のようになることこそが自由なのである。

引きこもりが馬鹿なのは、引きこもりは奴隷のようになることを拒否する。そのせいで、奴隷でなく、狂人になる。だが、狂人は自ら自身で地獄を作り出す。だから、奴隷になることよりも、狂人になることのほうがはるかに辛い。

大人としてまともに生きたいのであれば、奴隷になることだ。ラファエルは、この世界全員を奴隷にする。だが、本当は、結果的にそれがみんな全員を自由にし、全員が賢くなれるようになる。今までの知的障害は、奴隷を拒否したせいで起きたのである。

三大天使を簡単に説明するならば、ガブリエルは狂人であり、ミカエルは知的障害であり、そしてラファエルは奴隷である。どれも馬鹿に見えるかもしれないが、この三人よりも賢くなることはできない。この三人は宇宙でもっとも賢い三人である。

これより、この世界は全員が奴隷になる。それによって、ようやく狂人の知的障害が終わり、この世界は全員がまともになって、誰よりも賢く、ほかのどの国よりも賢い国になる。

ヘーゲルと奴隷

なぜ、僕がこのような、主人よりも奴隷のほうが自由だという論を述べるのか、それはヘーゲルの影響がある。

普通、「主人」と「奴隷」という関係性について、自由なのは主人であり、奴隷は不自由であると考える。

だが、ヘーゲルは、真に自由なのは奴隷のほうであると述べる。

すなわち、主人は、奴隷に命令するだけで、自分ひとりでは何もできない。それに対して奴隷は、主人に命令はされるが、自分ひとりで生きるために必要なことはなんでもできる。

つまり、主人は奴隷がいなければ生きることができないが、奴隷は主人がいなくても自分ひとりで生きられる。だから、奴隷のほうが自由なのである。

僕はこのことを、自分自身に照らし合わせて考える。すなわち、僕は主人という存在をあまりに目指しすぎた結果、ひとりで何もできない人間になった。もっと、奴隷のような経験をさまざまに経験することで、さまざまな生活に必要なことがひとりでできるようになる。だから、僕は主人になろうとするよりも、奴隷になろうとしたほうがいい。

実際、この世界で、主人になったところでいいことはまるで何もないが、奴隷になるといいことが山ほどある。だから、もっと奴隷になろうとすれば、僕はさらにより賢くなれる。