昔の僕については、昨日の日記にきちんと書けたので、今度は最近の僕を書きたい。
世界を救った後で、自ら世界を滅ぼすようなことをして、永遠のように長い時間、神と対話しながら、世界を支配して文章を書き続けた。
本当は、それは大した出来事ではなかった。支配といっても、単にネットに文章を書き続けただけにすぎない。だが、僕は味方がひとりもいない中で、神を信じた。神は対話の言葉として現れ、僕の援護をするとともに、宇宙のすべてを僕に教えてくれた。そして、僕は過去からその時点までに至るすべてを書き、宇宙のすべての意識を辿った。これが「戦いと神の時代」だ。
4年間ほど、最大限の緊張状態だった戦いの時間が過ぎ、自殺未遂を経験して、僕は入院しながら本を出版することができた。入院中は足のリハビリをし、退院後に父親の推薦で詩集を出版できた。
その後は、「さまざまな時代」を僕は経験した。まず、僕は文章を書くようになった。物語や詩のような文章を書いたのちに、今まで戦いの時代に書いた文章が残っていなかったので、それをもう一度すべて書いた。戦いの時代に書いた文章を、そっくりそのまま、何年もの長い時間をかけて、すべて網羅するように書いた。それも、常に自分を「昔」と「今」の二つに分けながら、昔と今のすべてを完璧に書いた。
それから、戦いの時代におかしくなった精神を、自分自身で治すようになった。放っておいても治らない精神の異常、特に歩き回って疲れてしまう異常を治そうとした。本当は、戦いの時代においてもそれは既に行っていた。僕は戦いで、「大実験の大計画」を最初目指したが、あまりに精神が恐怖でおかしくなったために、僕は計画を中断し、いつまでも恐怖を治し続けるようになった。その恐怖は、自殺未遂の経験の後に楽になった。それでもおかしくなっていた精神を、僕はその後に全部治した。
そして、最近の僕にはいくつかの時代がある。まず、「哲学と歴史の時代」と「ピアノと英会話の時代」がある。哲学と歴史について僕はさまざまなことを学んだ。過去の自分が思い出せなくなった僕は、哲学の勉強をすることで、哲学者の言葉を借りながら過去の自分の分かっていたことを分かった。ソクラテス、プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、トマス・アクィナスから、デカルト、スピノザ、ロック、ヒューム、ルソー、カント、ヘーゲル、キルケゴール、そしてマルクス、ニーチェ、サルトル、ハイデガー、ヤスパース、フッサール、あるいは孔子、老子、ブッダなど、さまざまな哲学者の思想を学び、日本史と世界史と心理学の勉強をした。そして、それをしながら、長いブランクを経てピアノ教室と英会話教室に再び通うようになった。ピアノは演奏と作曲、英会話はネイティブとの会話が楽しかった。
そして、僕はホームページを書くようになり、書いた文章をホームページに掲載した。そこにあったのは「毎日の日記」という名前の付いた、実際には「過去の自分の分かっていたことを思い出すための文章群」だった。僕は日記を書きながら過去の自分の人生と文章を思い出した。同時に、政治経済や社会主義的な独自の社会理論などを始めとする、さまざまな思い付きを書いた。これが「日記の時代」だ。
さらに、僕はパソコンのことをきちんと学ぼうとした。そのためにたくさんの本を買った。過去の引きこもり時代には、インターネットを見ていただけで、プログラミングのようなことはほとんど何もできなかったが、それはきちんとした専門知識を勉強していなかったことが理由だった。だから、プログラミング言語やネットワーク技術やOS技術などの本をたくさん買って、たくさん読もうとした。実際は、それをホームページに要約して掲載することで、僕はIT技術のきちんとした専門知識を得た。これが「IT技術の時代」と「ホームページの時代」である。
そして、パソコンだけではなく、さまざまなことを勉強し、それをホームページにどんどん書いていった。本を読んでホームページに書く、ということが、僕の新しい人生の中核にあった。また、勉強以外にも、自分で考えた小説なども、ホームページの中に掲載するようになった。これが「小説と勉強の時代」である。
そして、最後に、僕はデザインの作業所に通って、平日は毎日仕事をするようになった。これが「デザインの時代」である。デザインは最初からできたわけではなく、デザインソフトの使い方をゼロから学び、またスタッフに教えてもらったり、デザインや美術関連の本もたくさん読んだ。最近は仕事ができるようになってきたが、実際は仕事ができるようになる前が賢かった。すなわち、できるようになる前に、できるために頑張っていた時代がとても賢くて優秀だった。僕はその時代が好きである。
最近は父親が入院したため、家事をきちんとやるようになった。父親には、たくさんのことを教えてもらって、とても感謝している。今は、母親のサポートも受けながら、少しずつ自分ひとりで生きられるようになってきている。過去の僕の分かっていたこともほとんど全部分かった。何より、自分の作った日記や文章の作品がたくさん生まれた。僕は自分の作品が好きだ。ほかには、音楽が好きで、たまによく音楽を聴いている。僕は音楽を運命的な奇跡だと信じていた。哲学や歴史について学んだ過去の日記は古くなったためホームページから消したが、また新しく学んでいきたい。終末のイスラエルや宇宙の一等星のことを書いた小説は、誰にも負けない唯一のオリジナルストーリーだ。そして、僕が今日まで生きられているのは、すべて神のおかげだ。
これが最近の僕である。そして、これ以後は、もう、ここまでの人生はすべて忘れたいと思う。忘れることで、また新しい人生を生きられる。もう、これ以上、知るべきことも考えるべきことも何もない。
昔の僕に、「大天使ガブリエル」という名前を付けた。これは僕の出版した詩集のことを表す。そして、最近の僕に、「大天使ミカエル」という名前を付けた。これは僕の書いたホームページのことを表す。ここから先の僕に、「大天使ラファエル」という名前を付けよう。これはX(旧ツイッター)のことを表す名前だ。
最後のほうで、生物学の勉強を一通りした。そして法律も学ぼうと思ったが、実際のところ、これ以上は知識の詰め込みは必要ない。知識については十分に分かった。
そろそろ、いつもの賢かった時代に戻る。そのために必要なのは、言葉の論理を使って、考え方を考えることだ。
たとえば、「目的と方法」「個別性と普遍性」「分類と包括」「可能性と必然性」といった、言葉の論理と考え方から考えれば、いつもの賢かった時代に戻れる。
それから、世界のこと、そして世界にいる人々のことを知るべきだ。それを今からやっていきたい。
僕が狂って何も分からなくなっている理由、それは、問題に対して、YesとNoがどちらも間違っている。正しいことが間違っていることになって、間違っていることが正しいことになっている。
その原因は、「ある意味正しいこと」という、おかしなことを信じているからだ。
この世界には、「ある意味正しいこと」ということは存在しない。絶対に正しいことと、絶対に間違っていることしかない。だが、僕は過去のインターネットの匿名掲示板の経験から、人々が言うことが嘘やフェイクであっても、その根源には「ある意味正しい」という一定程度の根拠があると考えてしまった。
実際、これは学校教育が悪い。なぜなら、学校教育では、「どんなことであっても理由がある」と教える。だが、正しいことが正しいことに理由などないし、間違っていることが間違っていることに理由などない。意味のないことをやっているのは、意味のないことにもある意味で正しいという根拠があると考えるからである。
だから、まともになるためには、正しいことは正しく、間違っていることは間違っていて、それに理由などない、と考えることだ。これは、神を信じる上で正しい態度である。
そのように考えれば、問題に対して、Yesと思ったことがきちんと正しく、Noと思ったことがきちんと間違っているようになる。そのようにしなければ、何も分からなくなってしまう。
学校教育のせいで、子供たちは意味のないことだと普通に思っても、それを意味のあることだと洗脳されて、そのために多大な努力を払うようになる。それを「努力の練習のための努力をした」と試験のテストの点数と成績表で評価する。だが、それは意味のないことであり、間違いである。そのようなことでは子供の努力を評価することは絶対にできない。
さらに言えば、いつまでもリミッターで制限し続けることを続けていると、そのリミッターが解除されることを恐れるようになる。だが、狂っているのは、そのようなリミッターの維持や解除と絶えず無駄に格闘するのが原因である。だから、怖くてもリミッターを解除して、その上で「狂うことを自らやめる」という自由意志の転換を行わなければならない。
だから、リミッターを解除するのが怖かったとしても、それを解除し、その上で、自らの「狂ったままでいたい」という自由意志を、「狂ったままでいたくない」という風に転換すれば、狂っているのは治る。
僕が馬鹿から治る方法は、唯一ひとつしかない。それは正しいことと間違っていることを考えることだ。
すなわち、僕は正しいことを信じているように見えて、実際は間違っていることを正しいと信じているだけにすぎない。
昔の引きこもりの人生が正しいわけがない。あれほど間違った人間はいなかった。
最近は、神を信じることだけが正しいが、それでも、戦いや悪の支配など、間違ったことばかりをやっている。そのような間違ったことをやっている限り、僕は救われることはない。
本当は、今現在の自分が一番正しい。なぜなら、昔よりは正しくなったからだ。今の僕はまともで、昔の僕よりもはるかに正しくなった。それでも、僕はまだ間違っている。もっと正しくなれる。
頭が馬鹿なのは、全部間違っていることにした上で、どうでもいいと考えているからだ。大人はそういう人間が多すぎる。そうではなく、正しいことを正しいと信じ、間違ったことを間違っていると信じれば、まるで小学校に入る前の幼児のように、きちんとしたまともな知性がつく。馬鹿の病気はそれでしか治らない。
結局、僕が間違っているのは、「神」とされる絶対者に、正しいことと間違ったことの判断を丸投げしたのが悪い。
僕は、自分自身で何が正しいか何が間違っているかという判断をすることを放棄し、神にすべて任せたことで、自分自身の手で何も考えなくなった。
だが、そのような考え方は、誰が見ても、あるいは神が見ても間違っている。
治すためには、正しいことと間違ったことの判断を、自分でする必要がある。
だが、そのためには、正しいことは正しいと信じ、間違ったことは間違っていると信じるように、自分の考え方を変えなければならない。
「ある意味正しい」とか「それはそれで正しい」という考え方は間違っている。正しいことは絶対に正しいし、間違っていることは絶対に間違っている。宇宙には、それ以外何もない。
それが分からないと、知性はつかない。それが分かった時点で、対話の神はいなくなって、僕は自由になる。それで僕の精神障害は、すべてが治る。