営みについて考えよ。
この世界を正しく理解する方法、それは世界のすべてを「人間の営み」だと考えることである。
営みとは歴史であり、社会であり、世界であり、人類の文明だ。そのような文明的なことは、歴史であると同時に、世界のことを「営み」であると考えると見えてくる。
学校の勉強で馬鹿になるのは、そのような営みについて、高校の専門知識のせいで分からなくなってしまう。そのような人間であっても、再び営みについて考えれば、子供の頃に戻れる。
実際、僕のやったことは、中学時代にやったことを、ただゆっくりと繰り返しただけである。
何年もの長い時間をかけて、中学時代の僕の分かっていることを、ゆっくりと繰り返して同じことをやると、それ以後の僕の人生ができる。
必要なのは、中学時代に戻ることだ。そして、精神について、きちんと治した結果、僕は中学時代に戻った。
そもそも、昔の僕と同じことは、誰でもすぐにできる。四年もの長い時間を費やす必要はない。自由になって、中学時代と同じことを、たった一か月程度繰り返せば、昔の僕は誰でもすぐにできる。
精神の治し方は、足ばかり治そうとせず、上半身を治すことだ。
足ばかり力を入れていると、逆に足に血が通わなくなる。そうではなく、上半身に力を入れることで、まるでポンプのように足に血を通わせることができる。
それだけで、精神はすぐに治る。
あとは、中学時代に戻ればいい。昔と同じことは、誰でも数学を学べばできる。僕は数学だけが分かっていないだけの頭をしている。だから、もっと数学を学んだほうがいい。
異常をすぐに治そうとするな。
僕の精神が治らないのは、異常をすぐに治そうとするせいで、すぐに治して治る部分しか治っていない。
実際には、ある程度異常を保ったままで、もっと異常の先にある「すぐに治そうとしても治らない部分」を治す必要がある。
いつでもすぐに異常を治そうとするせいで、すぐに治る部分しか治らない。そうではなく、異常をいくらか保っておいて、「これだ」というタイミングで異常を治せば、狂った部分が治せる。
人間について考えるコツは、「悪をしたくなる理由」を考えることだ。
すなわち、さまざまな場面において、なぜ、悪をしたくなるのか、ということをよく考えよ。
さらに言えば、「破壊的な自由」と「建設的な自由」についてよく考えよ。この世界を破壊するかもしれない自由について自らを律して、建設的なことだけが行われるような社会を目指すことが大切だ。
そして、人間の生きている理由がなんなのか、ということを、よく考えることだ。昔の僕にとってそれは、「自分の好きなことをやる」ということだった。だが、それは必ずしも正しくはない。
そして、そろそろ僕は昔に戻った。
昔に戻るために必要なこと、それは「数学をやりたい」と望むことだ。
数学をやりたいなら、昔に戻ればすぐにできる。それは、昔は数学的知性だけが高いだけの、何も知らない人間をやっていたからだ。
数学とほかの学問の違いは、数学以外の学問は、学ぶと教養がついて、この世界で大人として生きられるための役に立つ。
だが、数学はそうではない。数学は役に立たない代わり、「知性」を高めることができる。
だから、数学を学んだところで、大人として生きるために必要なことは何も分からないが、その代わり、さまざまなことを直感的に捉えることのできる「知性」を身に付けられる。
そして、結果的に、そのような知性を身に着けることに成功した人間こそが、世界においてもっともまともに生きられる。
だから、数学と数学以外の学問は、分けて学ぶ必要がある。数学以外の学問ができる人間には数学はできないし、その逆もまた然りだ。だが、僕は今、数学ができないだけの頭をしている。そして、昔の僕は数学ができるだけで、ほかにはなんにもできないだけの頭をしていた。だから、「数学をやりたい」と望めば、それだけで昔の自分に戻る。それだけで、簡単にすぐにできる。
数学を学ぶことで到達可能なのは、ブッダである。すなわち、ブッダは数学的知性に加えて、人間の人生や社会における経験が分かっている。あるいは、そのような経験の内容を菩提樹の下で悟った。悟りを啓くために必要なのは数学だ。なぜなら、ブッダの啓いた悟りとは、昔の僕のことだからだ。
数学的知性を高めるための方法、それはゲームで遊ぶことである。
昔の中学生時代の僕は、誰よりも知性が高かった。それはゲームをしていたからである。
学校の数学の勉強をしたところで、数学的知性そのものを高めることはできない。数学的知性がどれほどあるかという「チャレンジ」を行うことができるだけで、学校の勉強では数学的知性は高まらない。
数学的知性を高めるためには、ゲームで遊ぶことである。テレビゲーム、ネットゲーム、あるいは将棋やオセロのようなボードゲームで遊ぶことで、数学的知性は高くなる。
あるいは、昔の引きこもり時代の僕は、DelphiやPerl/PHPやC#やGentoo Linuxに触れることで、IT技術の知識を知ったが、それは逆効果なところもあるから、注意が必要だ。IT技術によって一時的に数学的知性は高まる。それは数学的なロジックが極めて分かるようになるからだ。だが、IT技術には人間の知性があるように見えて、実際はない。それはコンピュータという機械は「人工無脳」であり、脳がなく機械的な回路の仕組みでロジックを計算するため、逆に人間の脳がなくなってしまうのである。
多くの人が、C/C++などのプログラミング言語を学ぶと、それによって純粋な数学的知性が破壊され、数学的に考えることができなくなる。IT技術は諸刃の剣であり、真に数学的知性を高めることを目指すのであれば、逆に排除したほうがいい。IT技術は数学とは似て非なるものだ。
ゲームをやっているちびっ子のような子供たちは、いつも元気で、行動的で、さまざまな活動を元気いっぱいやっているが、大人になると、そのような元気いっぱい遊ぶということはできなくなる。
僕も最近、もっぱら、音楽を聴いて、何もせず、休みながら、暇つぶしに文章を書いて過ごしている。僕が書いているのは、ほとんどが昔の記憶であり、過去の素晴らしかった時代である。
音楽を聴くと、懐かしい昔が思い出せる。たとえば僕は嵐やポルノグラフィティのような音楽をいつも聴いているが、彼らの音楽を聴いていると、昔の懐かしい世界を思い出すことができる。
最近は、僕は新しいことを何もしなくなった。することは、思い出すことと、治すことだけだ。過去の素晴らしかった時代を思い出しながら、過去の自分の間違いや過ちや失敗を反省し、今の自分の異常な部分だけを治して、楽になるように生きる。このように生きることは恥かもしれないが、実際、僕という人間は、大人になって、そのような生き方しかできなくなってしまった。
今、10代の年齢の子供たちは、決して僕のようにならないでほしい。自分の青春を、自分だけの個性ある人生を生きてほしい。僕と同じ人生を生きることを、僕は万人には望まない。