本当のことを言えば、僕は神が嫌いだ。
僕自身が、馬鹿になって、何もなく何も分からなくなっているのは、神のせいだ。
なぜなら、世界を馬鹿にして、何もない世界にして、みんなを何も分からなくしているのは、ほかでもない神だからだ。
僕は昔から、「神」とされる存在が嫌いだった。昔の僕が賢かったのは、神を否定したからだ。そのような僕が、「神との対話」を読んで、神と対話するようになってから、僕はおかしくなったのだ。
間違っているのは神だ。神を信じているということは決してよいことではない。この世界をおかしく何もない世界にしている張本人は、僕の裏にいる「神」だ。
昔の僕が賢かったのは、昔の僕は善を信じていたからだ。
善とは何か。善とは、見返りや対価を求めずに、ボランティアで人助けをすることだ。そして、過去の僕は、Linuxやオープンソースに対して、そのようなボランティアの貢献をしていた。
そのような善良な人間にしか、この世界の真理は何も分からない。
僕は決して賢い人間ではないが、賢い点がもしあるとしたら、それは「善」を信じたことだ。善を信じる人間は、神を信じなくても救われる。だから、救われるのに必要なのは、神ではなく善を信じることだ。