そろそろ、精神が楽になる方法が分かった。
精神を治すためには、過去の異常な精神を殺すだけではなく、過去の学習を思い出さないといけない。
異常な精神を殺しても、ただ死んでいくだけで、単純な異常は治るが、複雑な異常は治らない。
治すためには、当たり前だが、かつての異常を作り出すのと逆のことをしなければならない。そして、そのためには、過去の学習について思い出し、一時的に復活させなければならない。
だが、過去の学習を思い出そうとすると、神経はMAXで精神を使おうとし、神経に力が入る。だが、神経に力が入ると、血が通わなくなる。そして、精神的に辛いとか、疲れたりしているのは、すべて血が通わなくなっているせいであり、血さえ通えばすぐに楽になる。
だから、過去の学習を思い出すと同時に、疲れを癒して休ませること、神経を使わず精神を解放して、血を通わせる必要がある。
最後に、精神を治すためには、あるものだけでは治らない。ないものを作る必要があるし、あるものも新しいものに作り変えていく必要がある。
そのようにするだけで、精神は完全に楽になる。
賢くなるための方法は、数学・物理と政治・経済と心理学・哲学だけの頭にして、歴史や文学や機械工学は無視することである。
すべてのことを、「命題の実証」と「存在可能であることの証明」のみから考えた上で、社会的な存在の社会的な存在意義を考えることで、昔の僕のような思弁哲学ができるようになる。
また、必要なのは、ドイツではなくフランスを理解することだ。ドイツには馬鹿なユダヤしかいない。フランスには自分の頭で考えられる人間が多い。
そして、経験することだ。経験するということは、すなわちさまざまな行動や行為をするということであり、世界にあるものを理解するということであり、世界の多くの人々がなぜ賢いのかを知った上で、世界の人々が分かることを自分でも同じように分かるということであり、すなわち、世界のすべてを自分の頭の中で理解するということだ。
だが、昔の僕のようになる必要はない。昔の僕のようになったところで、デカルト的なことは何も分からない。昔の僕をやる以前の問題として、世界のことを捉えることのできる前提となる人間の能力が備わっていない。だから、昔の僕をいくら考えたところで、昔の僕のようにはなれないし、なる必要もない。
歴史や文学や機械工学の知識は無視すべきだ。さらに言えば、医学や生物学や農業や家庭科の知識も無視すべきだ。そのようなどうでもいい知識があるせいで、簡単に世界のことを考えられなくなっている。数学・物理だけを知性として残した上で、その知性を使って政治・経済と心理学だけを考えれば、アリストテレスのような哲学は自分でも考えられる。無用なのは高校・大学であり、必要なのは中学までだ。
哲学をやる上で必要なのは、「知り尽くす」ということだ。
何かしらの世界を知り尽くすことで、その世界を知ってその世界で活動するという経験が、自らにとっての成長となり、自らが大地に立って考えるための足場となる。
その上で、応用的にさまざまなことを知っていくことで、世界を知り尽くした基礎の経験が活きる。それによって、あらゆるすべてのことを経験的に「考え方そのものを理解」することができる。
必要なのは、なんであったとしても、考え方を理解することだ。方法でも、目的でもなく、考え方を理解すること。それがこの世界において、「人間と文明そのもの」を理解することに繋がる。
かつての僕が賢かったのは、僕は「自由であっても解決できる」という強い意志を信じていたからだ。
世界を救うためには、悪いことをする必要はなく、戦争や革命をする必要もなく、自由な世界において、悪いことを何もしなくても、自由において正しく問題を解決すれば、世界は解決できる。
ここで言う自由とは、「支配」の対義語である。すなわち、支配して世界をよくする必要はない。自由において、みんなが自由な状態を「制限」しなかったとしても、きちんと世界を解決する方向へと導いてやれば、世界の問題は解決できるし、現実の人々の世界を救うことができる。
そこにあったのは、「抑圧の本能」に抵抗することだ。世界の多くの人々が、特に右翼が、抑圧の本能に従うだけの操り人形になっている。彼らは抑圧の本能に支配されている。そのような抑圧の本能に抵抗し、操られないようにしなければ、この世界を自由にすることはできないし、この世界を救うこともできない。
この世界を自由において救う方法は何か。それは「経験から成熟すること」であり、「自由という可能性を破壊ではなく創造のために使うこと」である。そして、そのために人々の成長と経験はある。
存在についての真理として、「経験が存在する」という真理がある。
その存在が存在するということを、行為的かつ社会的に証明せよ。そして、その存在が存在できるということを、宇宙そのもののゼロベースな理性から証明せよ。
そこにあるのは、「経験が存在する」という真理だ。
すなわち、この世界には経験が存在する。精神の中にも、人生においても、社会においても、あるいはすべてにおいて経験が存在する。そこにあるのは、カントが言ったような「経験の成立」であり、経験が成立するすべての場所や組織や社会や空間に、経験が存在する。
あらゆるすべてが経験であるとしたら、哲学史においては経験主義が正しいのか。そうではない。理性もまた存在する。だが、理性は「空間そのものに存在する」のであって、経験は「空間において人間の中に成立する」ということが異なる。理性は空間そのものに最初から存在しているが、経験は空間そのものの中で成立するということが最初から分かっていて、そして人間の中で成立する。だから、理性と経験は何も変わらないが、理性は「人間」を必要としないが、経験は「人間」を必要とする。なぜなら、経験は人間なくして存在できないからである。
あらゆる経験は、人間の「意識」において成立する。そのため、意識そのものの実存性を考えることが、経験の成立と実証を行うために重要となる。そこにあるのは「時間そのものを意識する」ということ、そして「時間の中で経験を意識する」ということ、そして「時間的意識の中で経験がどのように成立するのかを証明する」ということである。
実際には、経験はそれ自体は存在しない。なぜなら、経験は「存在し得る」ということでしか存在できない。これを「可能性」と呼ぶ。
すなわち、経験が存在していると思っているのは、実際は経験が存在しているわけではなく、可能性が存在する。そして、可能性はそれ自体が存在するのではなく、「存在し得る」という形で存在する。
そして、それはものや社会だけでなく、命題や精神存在や人生や生命などについても言える。あらゆる命題は、可能性が存在し得るという意味で存在している。あらゆる精神あるいは精神存在は、可能性が存在し得るという意味で存在している。
このもっとも大きなものが「歴史」である。すなわち、人間の歴史は、可能性が存在し得るという意味で存在している。歴史は確かに存在するのではなく、可能性が成立し得るだけである。
そして、そのように考えることで、「未来」が見えてくる。この世界の未来は、どのようにであっても存在し得る。だから、さまざまな経験の成立から、「環境そのものを生起する」ということを考えなければならない。これはハイデガーの哲学に近い。環境そのものを作り出すこと、環境を変えることで、歴史を成立させ得ることができ、未来を成立させ得ることができる。
これもまた、「経験が存在する」という真理だ。宇宙におけるあらゆるすべての事実と事象は矛盾なく、経験が存在するという真理、あるいは可能性が存在し得るという真理から説明できる。
もうひとつ、真理がある。それは「問題が解決できると証明されている」という真理だ。
あらゆる未知の問題について、その問題が解決できるということが既に実証されている、ということを見つけ出すこと、それこそが真の意味で、新しい発見と説明をもたらす。
必要なのは、「洞察力によって仮定を作る」ということだ。すなわち、あらゆるすべてを知り尽くし、説明しようとする中においては、「たぶんそうだろう」という蓋然的な仮定を作ることが必要である。そのために洞察力が必要であり、世界を知り尽くすのはそのような洞察力を導くためである。
同時に、「現象の原因を考える」ということがまさに必要である。その原因、すなわち「ファクターを特定する」ということが、この世界において、問題を解決できるという真理をもたらす。
そこまで考えた人間は、「心理的直観」によって宇宙のすべてを悟りきることができる。これこそが、ブッダの到達した境地だ。すなわち、心理的直観によって宇宙のすべてを「経験に基づく意識」から理解すること、事象におけるすべてのファクターを特定した上で、そのファクターを解決する方法を知るということが、宇宙と人生のすべての悟りを啓いた仏の境地に到達するために、絶対に必要なのである。
これ以外にも真理はたくさんある。
たとえば、「自分のできることは誰であってもできる」という真理だ。
自分のできたことは、自分以外の誰であってもできる。同じ条件で、同じ人生経験を積んだ人間が、同じことを考え、同じことを選び、同じことを決断したとしたら、誰でも同じことが分かる。
だから、可能性を人為的に制限するべきではないし、自分と同じように他人ができるようにすべきだし、支配することが肯定されるのは、自分ができることを他人へも分け与える時だけに限られる。
だが、本当は、そのようにみんな同じにならないほうがいい。なぜなら、違う条件で、違う人生経験で、違うことを考えるということが、人間が存在する「存在意義」だからである。
だが、時に、そのような個性や差異が自らに制限をかけることがある。それは宗教の経典、すなわちコーランと同じものを書こうとした時である。コーランを書くためには、そのような個人個人の個性や差異を考える必要はなく、みんな全員が同じになるように書くしかない。なぜなら、それでしか、宇宙全ての全員に成り立つ普遍的な真理のすべてを絶対的に教えることはできないからだ。
あらゆるすべてを「個別の環境の生起」であると考えると、すべてが相対的な世界に見えるかもしれないが、それは間違いだ。なぜなら、そもそも、すべての命題は絶対的だからだ。「すべては相対的である」という命題そのものが、空間において絶対的な「相対性」という概念の是非を肯定し、それ以外を否定するという意味で絶対的なのである。だから、あらゆるすべてが相対的であるということは、あらゆるすべてが絶対的であるという反対の命題すら肯定しているのである。
相対性と絶対性の行き着く場所、それは「あらゆるすべてが合一である」という境地だ。
あらゆるすべてが同じものであり、すべて等価であると分かった時点で、長く続く哲学の人生は終わりとなる。なぜなら、そもそも数値を比較する際には、数値と数値は数値であるという意味において等価だからである。あらゆるすべての物体は物体であるという意味で等価であり、あらゆるすべての解答は問題の解のひとつであるという意味で等価だ。すなわち、「概念的に見て経験はすべて同じ」なのである。
真理を見つけるためにはどうすればいいか。真理を見つけるためには、法則の再現性を証明すればいい。
これを、「法則の再現性を証明する」という名の真理とする。
必要なのは、再現性を見つけることだ。それは単にその通りのことが起きるということだけではなく、ファクターを考えるのだ。なんらかの現象には、原因となり得るファクターがある。そのファクターを特定し、自らの仮定を作り上げた上で、その命題を実証する説明を見つけることだ。それこそが、科学者としての「真理の見つけ方」である。
再現性を考えるとは、いついかなる場合であっても同じことが必ず起きるということの証明だが、これを「初期投資」や「再利用」に当てはめることができる。すなわち、一度作ったものは壊れるまで何度でも再利用できる。同じように、一度見つけた正しい命題の証明は何度証明しても正しい。
だから、すべてのことを一度試し、すべてのことを一度分かった人間はどんなことであっても分かる。
しかしながら、注意すべきことは、簡単に「罪」を犯すリスクがあるということだ。罪を犯すとは悪いことをするということであり、悪いことをすべて一度した人間は、すべての罪を犯したことになる。そのような人間は、未来において自ら自身の手で地獄を作り出す。なぜなら、地獄のすべてを一度経験するということが、天国のすべてを一度経験した人間にとって必ず必要だからである。