僕は、日本社会がなんにもない世界になったのは、地域に個性がなくなったからだと思う。
昔の日本は、地域ごとに個性があった。広島には広島にしかないものがあったし、東京は田舎とは雰囲気が違った。
しかしながら、今の日本は、どこの地域も同じで、そのような地域の個性がなくなった。
一因としてあるのは、インターネットによって、網目状に繋がったネットワークが形成された結果、空間や地域の違いに意味がなくなったからだと思う。
今の日本では、SNSを通じて日本中どこにいる人ともやり取りできる。広島にいる人が、同じ広島にいる人とも、東京や大阪にいる人とも、なんの違いもなく同じ感覚でやり取りできる。
あるいは、世界中に大きな影響力を持つインフルエンサーが、個人で自由に日本社会全体に情報を発信できる。
そのような、網目状にさまざまなネットワークが形成された結果、日本社会は画一化し、全部同じになり、地域ごとにあった個性がなくなってしまった。だから、日本は何もなくなったのだ。
ただし、すべてをインターネットのせいにすることはできない。都市一極集中による、地域格差も問題である。
最近は、どの地域に旅行に行っても、どこの地域にもある有名な店の支店ばかりで、その地域に行った意味がない。地域の商店街では、個人の中小の店はやっていけず、商店街が衰退するのと同時にシャッターの下りたシャッター街になっている。だから、田舎はセブンイレブンやスターバックスのような世界中どこにもある店舗ばかりになってしまっている。
また、地域の観光地は寂れている。さまざまな娯楽がある現代社会では、ど田舎に温泉があったとしても誰も来ない。かつての田舎の温泉街はどんどん寂れている。野外のレジャー施設は、夏場は熱中症のリスクがある。だから、屋内で楽しむことになるが、それなら田舎に旅行に行かなくても、自分の町や自分の家で構わない。
結局、面白いのは、外国からやってきた外国人観光客ばかりで、彼らは食べ物が美味しいとか、衛生環境や治安がいいといったところに驚くが、実際は日本を自分の国よりも下だと思っている。だから、高いはずの野球スタジアムの食事などを、円安のせいで自国よりも安いからといって、「日本はなんとこんな値段でスタジアムの食事が売られている」と書くが、日本人が見てその値段は非常に高額で、日本人だけが近くのコンビニで弁当を買っている。
外国人に人気なのは結構なことだが、外国人は有益なだけではなく、特に中国人観光客などは道端で糞をしたり、温泉の大浴場で洗濯を始めたり、観光地のそばで普通に暮らしている民家に入ってきたり、ホテルに設置された電話などを自分に与えられたものであると言って外して持って帰るなど、迷惑行為を繰り返す。
そういうわけで、この世界には何もなくなった。その理由は多くがインターネットだが、それ以外にもさまざまな理由がある。
民主主義的な自由を正しいと思っている人の多くに言えることとして、民衆がみんな平等だという暗黙の前提を信じてしまっている。
実際には、自由には複雑な上下関係や主従関係があるということを忘れてはならない。
みんなが平等で、みんなが一律に同じ立場で、「全員が下」だったとしたら、自由はとてもいい理想だろう。それぞれが自由に生きることができることで、自由にさまざまなことができるし、支配されず、自らの生きたいように生きられる。
だから、多くの日本人は、自由を「自分の生きたいように生きられること」だと思い込んでいる。
だが、実際は逆である。なぜなら、自由には上下関係や主従関係があり、民衆は上になったり下になったりするからである。
上になったり下になったりする社会において、下の自由には意味がない。なぜなら、そのような下には実権がなく、ただ奴隷のように働かざるを得ない。自由によって好きな仕事ができるのは、仕事に就く最初の時点だけだ。毎日常に労働する中において、自由経済とは「有無を言わさずやれと言われたことを必ずこなさないといけない」ということを意味する。
だが、もっとも問題なのは、上の自由である。なぜなら、上といっても他人であり、その上が自由に決められるということは、たとえば市長や県知事であれば、市民や県民がその決定に従わなければならないということだからだ。
上の自由は、一見よく見える。自分のやりたいことを好きにできるように見える。だが、その好きにできるということは、そのできることに対して従う人々が必要であり、その人々は市民や県民であり、なんの関係もない人でありながら、一律に市長や県知事の決定に従わなければならない。それが上の自由だ。
だから、市長や県知事がおかしな考え方の持ち主であっても、それに従う必要がある。常に「同じ地域のコミュニティの一員だから」と割り切ることができたとしても、所詮は他人であり、市長や県知事が過激な思想を持つ馬鹿なら迷惑を被るのは市民や県民である。
だから、そのような上の自由には「責任」が伴う必要がある。それはつまり、上はきちんとしろということであり、上にとっても自由よりも平等が正しいということを意味している。
そのように、自由は平等ではないため、さまざまな上下関係や主従関係がある。さらに問題なのは社会的な経済格差や学歴のような知的格差であり、どうしてもキャリアのいい人間が勝ち組になり、キャリアの悪い人間が負け組になる。それが自由であり、結局自由などには「好きなように生きられる」ということは微塵も存在しない。
だが、市長や県知事が、自分の持つ実権のために、自由にさまざまなことができるということをよいという右翼もいる。賢いリーダーがいなければ民衆は何を信じて目指していいか分からない。だが、それならば帝国や社会主義の指導者でも同じであり、民主主義の選挙に勝つためには地盤(支援者)、看板(知名度)、鞄(資金)が必要であり、結局、自由には自由などないのである。
そろそろ、僕の精神がおかしくなっている理由が分かった。
僕の精神にあるのは「怒り」である。僕の足の精神が治らないのは、足の精神には、抱えきれないほど大きくなった「怒り」が眠っている。
僕は普段、他人に対してほとんど怒らない。それをバンプは優しくて怖がりだからと言っている。だが、それは真実ではない。なぜなら、僕の頭の中で、抱えきれないほど怒りが大きくなっていて、その怒りを隠し、抑えることを常に行いながら僕は生きているからだ。
だから、深層心理の奥底に眠った怒りを顕在意識の中に戻し、「怒りをきちんと怒りに直す」ということを行った上で、その怒りを消せば、僕の精神はすぐに楽になる。
歩き回る異常は、怒りがあまりに大きすぎて、自分の心の中だけでは収まりきらなくなっているからだ。
あとは、僕の精神の異常な部分を殺せない理由がある。それはその部分には「たまご」があるからだ。すなわち、自分のたまごがあるから、そのたまごをどうやっても破壊することができない。だから、そのような精神のたまごを取り除いて大切にほかの場所に移してしまえば、精神はすぐに楽になる。
僕の精神を治す上で、必要なのは怒りを鎮めることだ。すべてを怒り任せに行っているから、どんどんこの世界はおかしな何もない世界になる。だから、怒りを鎮めれば世界も自分もすべてよくなる。
だが、はっきり言って、分かるだけでは意味がない。
分かるだけでは、単に分かるだけにすぎない。そのことになんの意味もない。
人間として生きるためには、「分かる」だけではなく、「できる」ということができなければならない。
他人に自分が分かることを教えるだけでは意味がない。もっとさまざまなことができるようにならなければ、人間として何も賢くない。
今まで僕が出会った賢い人は、みんな何かができる人だった。だから、「分かる」ということではなく「できる」ということを目指さないと、賢い人にはなれない。
今から、僕はできる人間になる。それが賢い人間であり、「男」である。