環境でなく、空間と考えよ。
昔の僕が考えて間違っていたのは、昔の僕はこの世界を「環境」と考えたからだ。
環境とは、人間本位の経験や体験に基づく考え方であり、昔の僕はこの世界を環境の変化や生起であると考え、世界を環境という単位で分割した。
だが、そのせいで、全体のまとまりが分からなくなった。
これは一種のゲシュタルト崩壊(部分に分裂して全体が分からなくなる症状のこと)であり、僕は世界すべてを環境という単位でバラバラにした結果、全体が分からなくなった。
真に世界を捉える上で必要なのは、世界を「空間」と考えることだ。
全世界を、単一で、全員がともにいる空間と考えることで、ゲシュタルト崩壊を克服し、この世界における人々の営みや、自分が世界でできること、すべきことをきちんと考えられる。
僕にとって大切なのは、「許す」ということだ。
僕の頭がおかしいのは、僕は許すということの方法が分からなくなっている。
この世界を許してやればいいのに、その方法が分からないために、いつまでも「世界を許さない」ということになってしまっている。
だから、世界を許すことができた段階で、僕の病気は治る。
実際、僕が動き回るのは、「環境」だと思うから動き回っている。
環境だと思うから、環境を変えるために、歩き回って環境の部分である足を変え、自分の位置を変えることで世界を変えようとしている。
だから、環境と思わず、「空間」と思うようになれば、歩き回る病気は治る。それが僕の精神異常であり、疲れていても限界まで足を使うため、とても疲れる。神経を治しても治らない。
怖いのは、環境とは学校の環境だからだ。
人間は、幼児の頃は世界のことを環境だと思わない。だが、学校のクラスを経験すると、そのクラスのことを環境だと思うようになる。
だから、世界のことを環境だと思う時点で、世界のことを学校だと勘違いしている。
そして、僕は学校でいじめや学級崩壊などの堪え難い経験をしたせいで、学校の環境がトラウマになっている。
それ以後のインターネットのような環境は消え去った。僕が歩き回っているのは、その消え去ったインターネットの環境をいつまでも回顧し、今を拒絶し、昔に戻りたいと思っているに過ぎない。
実際は、環境などといったものは、学校以降の大人には存在しない。
大人にとって存在するのは、環境ではなく、空間である。
だから、環境と思わず、空間と思うようになれば、大人がまともに分かる「普通に分かること」が分かるようになる。そして、僕はその普通に分かることが分かっていないだけである。
中学時代に不登校になった僕が正しかったのは、あのようないじめの環境から逃げ出したことはよかった。
あのような最悪の環境からは、逃げ出したほうがいい。不登校の引きこもりになったことで、今までの人間関係を断ち切ったことを代償あるいは報いとして、僕は心の安心を手にした。世界の同じような人々を救うためにどうすればいいか、ということを考える余裕も得た。
だが、僕が間違っていたのは、自分の環境が変わったこと、自由に環境が解放されたことから、「環境の変化の理論」を作ってしまった。
それは、経験的に環境がどのように変わるのか、ということを考えることで、自分の力を使って自分の手で積極的に環境を変えられる理論だった。
その時点では、それはまだ、僕自身に牙をむいていなかった。
だが、僕は世界を救いながらにして支配することに成功すると、言葉に環境を書くようになった。僕が書いた文章は、すべてが僕の考えた環境であり、環境を変えるための方法と、環境を変えることでどのようなことが分かるのか、ということを、具体的な環境から想定して創造し、分析する理論だった。
それと矛盾するように、僕は世界の環境を破壊した。かつてあったような世界の救済を自ら否定する僕は、世界を救うために世界を変えるのではなく、ただ破壊するだけのために世界の環境を壊した。
だが、その真意は、「環境」という考え方そのものを、認識を破壊して文章に書き、世界の環境を破壊することで消し去る、ということだったのだ。
そう、僕は「環境」という観念自体を、自分からも世界からも消し去りたかったのである。
すなわち、すべてのルーツは中学時代にあった。なぜなら、環境の理論自体は僕の到達地点ではあっても、世界の環境は中学のままだと僕は分かっていた。その中学世界を僕は破壊したかった。それが僕の行う「救済」のイレギュラーなバージョンだったのである。
そして、そのような環境をいつまでも覚えているのを、もうやめていい。環境ではなく、空間と信じれば、今までの理論も間違った支配も全部消える。今までのすべてが、中学あるいはインターネットと一緒に、「環境」ということを忘れることで全部消え去る。そして、それでしか、僕の狂った心や神経は治らない。
2025.08.27編集
そもそも、この世界をまともだと思うのが悪い。
学校も、インターネットも、マスコミやテレビも、あるいは資本主義社会や科学もまともじゃない。
路上で歌っているストリートミュージシャンは名前を売るために許可を取らずに活動している。街中でデモをしている左翼活動家は実現不可能なことを叫びながら、略奪や襲撃のような悪いことをする。Linuxやオープンソースは世界をおかしくしながら「自由」と言って、IT世界をどんどん狂った世界に変えている。ICを使った機械はブラックボックスで、中で何をされているのかユーザーには分からない。
ガンダムやハンターハンターのような漫画やアニメは人殺し表現や性愛表現でいっぱいだ。YouTubeなどの動画配信サービスには許可を取らずにアップした違法性のある動画であふれている。資本主義の格差社会は異常かつ強欲で、堕落へと一直線に向かっている。科学技術の盲信によってどんどん自然ではリサイクル不能な環境破壊物質が増えている。子供たちの環境ではいじめや虐待は増え続けている。
この世界はまともじゃない。
最初から、みんなこの世界をまともだと勘違いしているが、実際はこの世界そのものが既にまともじゃない。夏の気温が40度を超えるぐらいで気付くべきだ。この世界はそもそもがおかしい。
共産主義者が言うには、この世界は革命で変えるしかない。
だが、実際には、革命ではこの世界は救われない。
その理由は、そもそも全知全能のスターリンなんかいないからだ。
やろうとしても、ソ連が精一杯だ。そして、ソ連では計画経済が破綻し、労働者の労働意欲は上がらず、生活に必要なものを十分に生産できなかった。
計画経済は必ず破綻する。全知全能のスターリンなどはいないのだ。
だから、この世界は自由にするしかない。そして、自由にすることでこの世界は滅びていく。それを食い止めるすべなど存在しない。この世界は滅びるべくして滅びた。そしてこのまま、誰も救うことができなくなって、人類は滅亡する。ガンダムSEEDのラウ・ル・クルーゼが言ったことが起きている。あるいは、同じくガンダムZZのハマーン・カーンが言ったように、人類はそもそもが賢くなかったのだ。
僕の頭の中では、ガンダムZZのハマーンと、ガンダムSEEDのカガリが戦っている。
僕の正体はカガリだ。そして、このカガリを、ハマーンが殺そうとして、執拗に僕のことを狙っている。
僕が勝つ方法は、ハマーンに殺されることなく、逆にハマーンを殺すことだ。
この「ハマーンVSカガリ」が、僕の今の状況であり、アクシズおよびネオ・ジオン代表のハマーンは恐ろしいが、オーブ代表のカガリも恐ろしい。まさに宇宙が滅びる。
このハマーンとカガリという人物、どちらも僕自身だ。なぜなら、昔の不登校の時代をカガリと呼び、今の革命戦争の指導者をハマーンと呼ぶ。どちらも僕で、そしてどちらもあり得ないほど全知全能だ。
このように書くと、僕はこの世界のありとあらゆるすべてのものが嫌いなように思われるだろう。
だが、僕はそんなにこの世界は嫌いじゃない。
僕が嫌いなものを挙げると、むしろ、マスコミぐらいしか僕が嫌いなものはない。
僕は音楽やアニメは好きだし、学校の教育やIT技術も好きだ。それでも、僕が唯一嫌いなものはある。それはテレビを含むマスコミである。
この世界は、マスコミの与える幻影から目を覚ましてほしい。僕はマスコミが嫌いで、特にCMが嫌いだ。CMはすべて、僕を侮辱しているだけにすぎない。僕はマスコミを決して許さない。
結局、僕は歴史の勉強をするしかない。
僕が馬鹿な理由は、すべて勉強不足のせいだ。みんなと同じように中学高校や大学に通っていないせいで、勉強量が極めて足りない。
これくらいでは賢くない。みんなはもっと勉強している。そのようなみんなに勝つためには、もっと勉強するしかない。
法律の勉強はつまらない。大人になれるだけで面白くない。もっと歴史の勉強をして、本を読むしかない。日本史も世界史もヨーロッパや中国やイスラムも全部学ぶしかない。
結局、僕が信じた理想から言うと、自由とオープンソースが間違っている。
全員の自由を尊重して、理想を貫いて、コミュニティや共同体を平等にすることでは、まともな国家を築くことはできない。
必要なのは、ひとりの支配者が強い力を持つことであって、それ以外の方法で、国をよくすることはできないし、世界を救うこともできない。
だから、帝国は間違っていない。
社会主義は共同体を目指すが、共同体を目指すということはその共同体に属する人々の自由を認めるということでもあり、その中には少なからず悪党も混じっている。悪党の支配を否定するのであれば、共同体を自由かつ平等にすることが一番間違っている。正しいやり方は、王の正義によって統一することである。
だから、結局、この世界で何かをするためには、帝国にするしかない。現に、民主主義では自動車のような化石燃料による温暖化は解決できない。帝国ならばすぐに自動車を廃止して解決できる。
結局、神を信じるしかない。
哲学は間違っている。哲学者はサタンになっている。昔の僕のように考えれば、哲学は誰でもできるが、そのように考えたところで、実益はまったく何もない。
哲学を勉強すればするほど、頭が何も分からなくなる。分かったことのせいでさらに分からなくなる。それは狂った言葉を分かっているからだ。
サタンを排して、神の言葉、すなわち、聖書とイエス・キリストの教えを信じることでしか、真に救われる方法はない。哲学の勉強は完全に、自らがやりたいことの真逆、正反対をやっている。