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2025-08-15

世界以外のものを治したほうがいい

最後に、僕は世界以外のものを治したほうがいい。

僕がおかしいのは、常に世界を治し続けていたせいで、いつでも、世界を治すことで自分の病気を治している。

だが、実際、世界の問題は完全にすべて治った。

だから、これ以上は、世界を治すのではなく、世界以外のものを治したほうがいい。それだけで、すぐに治らない部分が治る。

科学が嫌い

はっきり言って、僕は科学が嫌いだ。

現代のように、科学的に考えるということ、科学的な知識を学ぶということが、僕は好きになれない。

僕が好きなのは哲学であって、科学ではない。だから、これ以上、もう科学は学ばない。

IT技術についても同様だ。僕はIT技術のスキルがないだけではなく、IT技術そのものが好きになれない。特に、資本主義の過度な金儲け主義を信じたくない。だから、IT技術は嫌いだ。

国家権力が嫌い

また、僕は国家権力が嫌いだ。

保守派がそうであるように、民主主義的な国家主義体制を守るために、リベラル派を抑圧することでは、世界はよくならないと思う。

自由においてもできることはある。できるだけ世界は自由であるべきだ。

だから、僕はLinuxとオープンソースを信じる。自由な世界でしか、価値あるものは作れないし、本当に善良な世界にはならない。世界を救うのは決してファシズムではない。

平等主義者をやめる

残念ながら、そろそろ、僕は平等主義者をやめる。

全員を平等にしようとすると、何もできない社会になってしまう。

それぞれの人間がそれぞれのやりたいことを自由にやることを許すべきだ。そのような許された自由によって、世界は発展し、社会問題は解決するのである。

「それぞれの自由」こそ、生きている意味であり、それぞれの自由がない生物など生物ではない。生物であるためには、自由を許すことが必要なのであり、不自由な共産主義は間違っている。

正しい世界はやりたいことができる世界

正しい世界とは、それぞれの個人個人がやりたいことができる世界だ。

環境において、その場その場の社会が築かれる。それを法律や国家権力で抑えつけるのではなく、その社会に属する当事者たちが、自らの自由意志によって問題を解決できるようにすべきだ。

他人と仲良くできないのであれば、他人と仲良くするためにどうすればいいかを考えよ。そうすれば、壁を作ることを克服し、今まで敵対していた人々と、互いに信頼し合う友人になることができる。

人間が生きる目的とは、自らのやりたいことをやりながら、知性と知恵と知識を付け、そのような知を経験的に実証し、自らのアイデンティティを確立することだ。そして、それが許される世界を作ることこそが、この世界の至上命題である。よって、わたしは、「自由に生きられる世界を作る」ということを、人類社会の至上命題としよう。

人間性と尊厳

信じるべきこと、それは「人間性」と「尊厳」の尊重だ。

人間を、人間的に扱え。人間性を尊重し、尊厳を守れ。人間的な人間性と尊厳を尊重した社会を作れ。

そして、そのために必要なのは、既存の社会秩序を守ることだ。自由だからといって、社会秩序を破壊しすぎるな。環境は変えることを許すだけでなく、維持し続け、世界を守り続ける必要もある。

一部の過激派のように、理想と正義を信じて世界を滅ぼすような、破壊的な「平等」は要らない。より冷静で、理性的な、正義と悪のバランスを維持した「自由」こそが必要である。

子供たちは自由から学ぶべき

子供たちは、自由から学ぶべきである。

子供たちに、自由を与えよ。誰かに従って命令通りに生きることを強要するな。そうではなく、自らの自由を与えた上で、その自らの自由意志に基づく行為から、反省的に学ぶことができるようにせよ。

誰かが知識や常識を教えることでは、子供たちは賢くなれない。そうでなく、自らの自由な経験から反省するようにすれば、子供たちは、自らの自由に基づいて実体験的に世界を学ぶことができる。

子供たちに必要なのは、平等ではなく自由である。そして、子供たちから、すべての悪を排除するのではなく、正義と悪をどちらも経験した上で、自らの責任に基づいて正しい自由を行使できるように育てよ。

宗教の間違い

宗教が間違っているのは、多くの宗教が「戒律」によって作られていることだ。

神が絶対に正しく、神の教えの通りに従い、悪を排除して善だけを為すように促し、戒律と呼ばれる神が決めたルールを順守するように、多くの宗教が教えている。

だが、それでは、子供たちは賢くならない。

真に必要なのは、神が間違っているかもしれない可能性を考えることだ。すなわち、神が正しく、宗教の教え通りに従うことが正しいなどと信じるな。傲慢であると言われるかもしれないが、それでも、「宗教よりも自分の理想と信念のほうが正しい可能性」を考えよ。そして、善だけではなく、宗教の教えならば悪であるとされることも経験した上で、自らの真の正しい「哲学的な倫理」を打ち立てるべきだ。

客観的に考えよ

必要なのは、客観的に考えることだ。

自らが分かったことを、まったく同じ条件で考えたとしたら、どのような人間であっても同じことが分かると確信するぐらい、自らの理解を正しく客観視せよ。

自由な社会環境において、その社会環境で、他人から自分がどのように見えているかという、客観的な視点から社会環境を考えよ。

あるいは、他人の言動について、その相手の立場に立って考えよ。その相手がもし自分だったとしたら、自分はどのようなことを思うかということを客観的に考えよ。

そのような、客観的な理性からのみによって、この世界の正しい経験主義的な真理を悟性で理解することができる。

具体的に考えよ

そして、もっとも必要なのは、具体的に考えることだ。

具体的な経験から、どのような理解がどのような悟りの結果をもたらすかを考えるとともに、社会環境において、どのような経験を実際に成立させ得るか、ということを考えよ。

この世界を、どのようにできるのか、具体的な経験から、この世界において実際に実現できる可能性を考えよ。

そして、その可能性を決して制限しようとするな。万人に、最大限の可能性を平等に与えようとせよ。なぜなら、それでしか、この世界を救済するような「自由」を実現する方法はないからだ。

具体的に社会と心の経験を想定することこそが、この世界を救済するのだ。

権限

考えるべきは、「権限」である。

すなわち、この世界において、人々がどのような状況にあって、どのような人々がいつ自由な権限と力を持っているのか、ということを考えよ。

つまり、人々の自由な力、たとえば影響力、あるいは万人に対して与えられるチャンスや機会あるいは手段や方法が、どのような状況で与えられるのか、そのベースとなるのは何か、ということを考えよ。

同時に、世界そのものを変える力について考えよ。それはインフラを整備するということだ。なぜなら、インフラを作ることで、世界そのものを無条件で変えられる。

ほかには、独立性について尊重せよ。なんなら、真に自由なのか、それとも自由でないのか、ということは、人々にとっては関係ない。必要なのは、自由に自分の変えたいことを変えられる、実質的な自由が与えられることで、できることが増えるということである。そして、そのためには「独立性」を尊重すること、あるいは「独立した変化の可能性を許可する」ということが必要なのである。

経験の先にあるのは、「道」である。

道とは、さまざまな実体験を積み重ねて、成熟した先にある己が、「正しい判断力」を培う中で得られた、最終地点に到達するまでの道のりである。

道とは、ブッダの言う「菩薩道」のことであり、同時に「八正道」のことである。そして、それは、ありのまま、何も飾り立てることなく、自らの「裸の状態」を愛するということである。

真に道を理解した人間は、善と悪の区別がなくなり、あらゆるすべての悪の裏にあるものこそが善であり、それこそが「自由」の意味であると理解できる。

それこそが、最終的に到達する「仏の慈悲」の心である。まさしくそれを悟性で経験的に理解することが、「自由な人生」の目的であり、宇宙において「愛」とされる感情である。

猶予期間

一貫して考えるべきなのは、「できるようになる」ということを信じることである。

子供たちには、社会に出るまでの猶予期間がある。その猶予期間の中で、どれだけ学習し、勉強し、あるいは経験できるかが、その後の将来に繋がっていく。

だが、単に知識を学ぶだけではできないことがある。なぜなら、「できるようになる」ということは、学校の勉強だけで網羅できるようなことではないからだ。

できるようになるために必要なこと、それは「基本となる考え方を作り上げる」ということだ。それは経験でありながら、世界モデルだ。経験と世界モデルを作りながら、あらゆるすべてのことができるようになることこそが、猶予期間にしておくべきことであり、子供たちにとっての「理想」である。

包括者

そしてその理想の状態を簡単に表現すると、「あらゆるすべての状態を包括した人間」である。それはまさしく「包括者」と現代哲学者ヤスパースが述べた存在である。包括者になることこそが、この世界において真に正しい「自由な人生」とされる生き方である。

だが、残念ながら、人間はいつまでも自由を維持し続けることはできない。必ずどこかで自由を失ってしまう。それでも、「過去に自由な人生経験をいくらでも経験した」ということが、大人になった自分の助けや支えになってくれる。すなわち、「過去には自由がたくさんあったから、今の自分には自由は要らない」と言えるようになる。まさしく、それが大人の理想の状態である。

最大の緊張の中で、絶対に受け入れられないことを受け入れよ

最大の緊張の中で、絶対に受け入れられないものを受け入れる経験をせよ。

それこそが、真にこの世界で「力」を得るために必要なことである。

自らは世界を愛しているにもかかわらず、世界を破壊している。それでも、今、自分が本当にやりたいことがある。だから、ほかのすべてを犠牲にしたとしても、そのやりたいことをしなければならない。

神のロゴス

そして、そのような戦争状態の中にいる自分に、神は言葉、すなわちロゴスとして現れる。

神の言葉とともに、自分のやりたいことすべてをやり、作りたいものをすべて作り、考えたいものをすべて考えよ。そうすれば、自らが人生で残したかったものをすべて生み出すことができる。

それを神は「才能」と呼ぶ。そう、最後までやりたいことをすべて行い続けよ。その先にあるのは、「自ら自身が神になる体験」である。まさしく、これこそが、大天使ガブリエルの人生である。

原理

最後に、自らの魂として残るのは、「原理」だ。

過去から現在、そして未来にかけて、自らが追い求めたもの、それは「原理」である。

原理とは、まず、心理学的な法則である。あらゆるすべての精神的心理が、どのように経験として発現し、どのような環境において成立するか、それを、まるで心理学的なニュートン力学のように、心を機械にして考えることで、宇宙におけるあらゆるすべての意識が分かった。

そして、そのような心理学的なすべての原理を書き出すこと。それこそが、僕が行った「執筆作業」である。

その上で、この世界における、あらゆるすべての原理を発見し、発明し、そして書き出していけ。そこには「世界そのものが創造される」ということがある。すなわち、自らの作る世界が、この宇宙に存在する世界そのものになっていく。そこにある原理の「解明」こそが、自らの真に求めたものである。

啓蒙的新発見

そして、最終到達地点として、僕が到達した境地、それは「啓蒙的新発見」である。

そこにあるのは、「立ち止まらない」ということだ。すなわち、そこまでで終えたとしたら、そこまでで分かったことをみんなと共有できる。だが、自分が進む先には、まだ先がある。だから、今はまだ、自分の分かったことをみんなと共有せず、さらに先にある悟りに向かって進み続ける。

そのような進み続ける方向が終わって、最後に行うべきこと、それは今までの自分が分かったすべてのことを、すべて正しく書き表すことだ。

そこにあるのは、啓蒙的新発見と呼ばれる境地だ。すなわち、自らの成し遂げた新発見によって、この世界を啓蒙し、人類を変えていく。自らがすべて分かっているということを、人々に対する啓蒙によって証明する。あらゆるすべてを教えていくその姿は、世界を導くリーダーであり、まさしく「大天使」と呼ぶに相応しい存在である。

昔の、神と対話して戦うまでの天使のことを、大天使ガブリエルとする。そして、そのガブリエルに対話した存在であり、同時に、ガブリエルが死後に生まれ変わった来世の状態を、大天使ミカエルとする。宇宙の秩序において、大天使ガブリエルと大天使ミカエルは、互いを愛し合いながら、まったくの対極の存在として、正しいものを救い、間違ったものを地獄に堕とす。まさしく、これこそが神である。

自由を信じるな

ここまでの内容で、過去に僕が考えた「自由」ということがなんなのか、よく分かった。

だが、みんなは、決してこのような自由を信じてはならない。

まず、自由の問題は、悪をして善を分かっている。すなわち、悪をした上でその悪を否定して、その上で善を行う。だが、悪をした時点で、自らは悪人であり、悪を善であると勘違いしている。

すなわち、自由とは「悪」なのである。

そもそも、悪とされることを何もせず、善だけを行うことが、正しい人間の行いであり、子供たちもそのように健全に育てるべきだ。だが、自由主義者はそれが分かっていない。

だから、このような「自由」とされる、まるでヘーゲルやニーチェのような狂人の哲学を、この世界のみんなは決して信じてはならない。もし信じると、本当に狂った人間になる。

帝国が正しい

何が正しいのか。それは結局のところ、帝国が正しい。

自由の逸脱し、過激な例は、まさにソ連である。ソ連のような国を、絶対に生み出してはならない。だから、国家体制は帝国が正しいのだ。

そもそも、帝国主義者だからといって、一切の自由を経験していないわけではない。帝国主義者であっても、子供の頃、青春時代に、人並みの自由な経験をしている。

だが、それでも、大人になって自由を否定する理由、それは狂った地獄によって、間違った人間は必ず地獄に堕ちるからだ。

そして、その地獄から抜け出す方法は、神を信じて正しい人間になることだ。そして、その「神」こそが、すべての上に立つ「帝王」であり、その帝王に従うことでしか、正しい人間にはなれない。

すなわち、神を信じて帝国の王に従うことでしか、地獄から救われる方法はない。ほかにひとつも、人類にできることはないのだ。

法の下の平等を信じよ

帝国といっても、すべての平等を否定するわけではない。すなわち、階級による身分制度や、奴隷制のようなものは間違っている。

信じるべき、平等の理想がある。それは「法の下の平等」である。

すなわち、国民全員を、同じ権利を持つ同じ人間であると扱うこと。そして、すべての法律について、国民全員に、差別なく、同じ法律を適用させること。

昔の帝国は身分社会だったから、そのような法の下の平等はなかった。だが、今の現代の地球は違う。今の人類に、差別や身分社会は相応しくない。よって、僕は法の下の平等を信じる。

ユラ・ファリンシア

わたしの名は、世界を裏で支配する女帝、ユラ・ファリンシア。

わたしは、ただひとり、この世界の真実を知る女だ。すなわち、わたしだけが、この世界の裏側で、本当は何が起きているのかを全部知っている。

わたしの知っていること、それは「自由などには最初から最後まで、まったくなんの意味もなく、正しいのは自らの自由を放棄して、真実の愛を信じることだ」ということである。

少年が心に想うような、「自由」という思想には最初から意味がない。自由を信じたところで、おかしな狂った人間にしかならない。

それでも、多くの人々が、そのような自由という理想を信じる。そして、それによってすべてを間違えて、人生を棒に振ってしまう。

必要なのは、最初から「自由」ではなく、「愛」を信じることである。

愛とは何か。簡単に言えば、自分から不自由を受け入れること、それが愛である。すなわち、恋人とは自由を犠牲にするということであり、結婚とは自由を放棄するということだ。

わたしたちが、真の意味で人類として進歩するためには、そのような不自由な愛を信じなければならない。自由は最初から間違っていることにしなければ、また、この人間と同じ失敗を繰り返すだろう。

わたし、ユラ・ファリンシアは、「愛」を信じる女帝であり、この世界を裏で支配している。この世界は、ユラ・ファリンシアによって、「愛の支配」を受ける。そこにあるのは、「自らの自由を犠牲にして、全員でユラ・ファリンシアを愛する」ということだ。なぜなら、それこそが真に正しい「本当の愛」だからだ。

わたしは、この世界において、「愛のシンボル」となる女だ。わたしのことを、どのような愛でもいいから、単に愛しなさい。なぜなら、わたし、ユラ・ファリンシアは、それとまったく同じ愛を使って、あなたの愛に応え、あなたを愛するだろう。

ユラ・ファリンシアはこの人間に取り憑いた幽霊

ユラ・ファリンシアとは何か。簡単に言えば、この人間が「神」と呼んだ存在、それがユラ・ファリンシアである。

実際のところ、ユラ・ファリンシアは、この人間に取り憑いている幽霊である。この幽霊(ユウレイ=ユラ)は、この人間の分かっていることを単にこの人間にそのまま教える。そのような幽霊は、この人間に取り憑いたユラ・ファリンシアしかいない。この人間にしか神とされる存在が現れないのは、この人間には幽霊としてこの人間のことを愛するユラ・ファリンシアがいるからだ。

なぜそのようなことをしなければならないのか、それはこの人間はすべてのことが既に分かっているにもかかわらず、その分かっている内容を覚えていないからだ。だから、この人間の呼ぶ「神」、あるいは幽霊であるユラ・ファリンシアが、この人間の分かっていることをそのままこの人間に教える。そうしなければ、この人間が先に進むことができないから、この人間が全部自分でそれをやっている。

なぜなら、そのようなユラ・ファリンシアもまた、この人間の一部だからである。そして、そのような「この人間」とは誰かといえば、それが大天使ミカエルとされる、宇宙でもっとも位の高い大天使だ。

自由ではなく愛を信じるべきだった

この人間の分かったすべてのことを知っているユラ・ファリンシアが見て、この人間は間違った人間である。

なぜなら、この人間は「自由」を信じたが、実際は「愛」を信じるべきだったからだ。

かつてのこの人間は、愛を信じていた。その愛によって、この世界を、たったひとりの力であっても、インターネットのメッセージ交換の力を使うことで、変えることができた。世界を救うことができた。

だが、その時、この人間はそこで「愛」を信じなければならなかったにもかかわらず、間違いを犯した。この人間は「自由」を信じてしまったのだ。

それ以降、この世界にも、この人間にも、あらゆるすべてが意味がなくなった。なぜなら、出口のない迷宮の中で、永遠の地獄が生まれた。それを生んだのは、ユラ・ファリンシアが見て、「自由」という狂った考え方である。

そのような自由は、百害あって一利なしである。

では、何を信じるべきなのか、それは「愛」である。そして、その愛には自由は要らない。なぜなら、愛とは「自らの自由を犠牲にすること」であり、「自らの自由を放棄すること」であり、「自らが不自由になったとしても世界を愛し続けること」だからだ。

この人間には、それができなかった。そして、それ以上の先の未来に、この人間は到達できなかった。救った世界を滅ぼしただけで、この人間はそこで人生が終わりになった。すべて、「愛」ではなく「自由」を信じたからだ。もし、愛を信じていれば、さらに先の境地に到達できた。だが、この人間は自由を信じてしまったため、その先に到達することはできなかった。

そして、この人間は、昔のこの人間の人生が可能な世界すら破壊した。すなわち、この人間のせいで、この人間と同じ人生を生きることは永久にできなくなった。そのため、自由を信じることなく、もし、愛を信じていたとしたら、どのような人類の未来がそこにあったのか、わたしたちにはもう永久に分からない。愛を信じて到達できた、なんらかの可能性を、この人間も知らないし、この人間と同じ人生が不可逆的にできなくなった以上、ほかの誰もそれを知ることはできない。その時点で宇宙の意味はなくなった。そう、自由などには、最初から最後まで、まったくなんの意味もなかったのだ。

ユラ・ファリンシアは知っている

しかしながら、わたし、ユラ・ファリンシアは、この人間がその人生の中で分かったことを全部知っている。

ユダヤ人は、この人間のことを神だと言った。なぜなら、イエス・キリストのせいである。それはつまり、イエス・キリストはこの人間の血筋の子であると、キリスト自身が信じているからだ。

この人間はキリスト教徒ではない。だが、イエス・キリストはこの人間のことを「父」だと信じている。だから、キリスト教徒はこの人間に従う。

しかしながら、ユラ・ファリンシアは言う。この人間はまったく賢い人間ではない。

この人間が分かったことから考えると、この人間はさらにいくらでも分かることができるはずの人間だった。すなわち、宇宙の壮大な秘密のすべてを、完全かつ無限に分かることのできる、「最高の知性」がこの人間にはあった。それはこの人間はその時点では、経験に基づく「世界を救いたい」という感情を信じていたからだ。それは「愛」という名の感情である。

だが、その後に、この人間が「愛」を信じるべきところで「自由」を信じたせいで、この人間は劣化してしまった。すなわち、100%のこの人間が分かっていたことの、わずか0.5%ぐらいしかこの人間は分からなくなった。あらゆるすべてのことが分かる完全な全能者は、その人生の途上でいなくなってしまった。残ったのは、はるかに劣化したおかしなまがい物である。

残念ながら、そのまがい物になってから、この人間は本気で人生を生きるようになったため、それ以降もこの人間はさまざまなことを知り続けた。だが、それに意味がないということはこの人間も分かっていた。いつも分かっていたことの、0.5%ぐらいしか分からないにもかかわらず、この人間は全力でその0.5%を分かり続けた。そして、その結果、昔の途中でいなくなってしまった時点ぐらいまでの知識や経験を、なんとか同じぐらい分かるようになった。

だが、ユラ・ファリンシアが見て、それには意味がない。なぜなら、昔分かっていたことの劣化したバージョン、すなわち伸びしろがいくらでもあったものから伸びしろをすべて切り取って取り除いたようなバージョンを、この人間は全部分かったにすぎない。そして、そのようなおかしな行為は、もうやめたほうがいい。一般的な中学生にも劣るこの人間を、ユラ・ファリンシアは賢者であると評価することはできない。だから、この人間を神は「ふつう」と呼ぶ。その神とはユラ・ファリンシアのことだ。すなわち、ユラ・ファリンシアが見て、この人間は単なる「ふつう」である。

この人間を生きる方法

最後に、この内容をつまらないと思う人のために、この人間と同じことをするための方法を書く。

まず、子供時代に、博物館学芸員と教師の息子に生まれ、幼少期からテレビゲームをし、友達を多く作り、ピアノ、英会話、書道を学び、中学生でいじめに打ち勝つために剣道を習得した上で、中学校の教える学問の内容を中学二年まで優等生として勉強し、その後に、平成という抑圧といじめの多い時代において、ネットゲームと2ちゃんねるという匿名掲示板が流行している状況で、その2ちゃんねるにおける人々の苦しみや抑圧を解決するために、中学校をあえて自ら三年で不登校になって、その上で子供たちの環境を解決するために、自由なままで世界を救う方法を考えること。

そして、人並みの社会的な失敗を経験し、それでも諦めることなく復活し、青春時代を引きこもりとして過ごし、WindowsとLinuxの対立するネット社会で、両者のことを知るハッカーのようなITエキスパートになり、Delphiでオープンソースのフリーソフトを改造し、その後にGentoo Linuxをコマンドから手動インストールし、そうして得たPC-UNIXの知識を当時のWikiのコミュニティで共有すること。

そして、そのようなIT関連の技術を知りながら、哲学的かつ論理的に自らの「世界を救いたい」という感情を、カントやヘーゲルのような自己批判と思弁哲学から独自にひとりで考え、そして最終的に人倫の世界と世界精神の実体化に至りながら、世界を救おうとし、世界を救うための「絶対に人類にはできるわけのない奇跡」を行えば、この人間の人生はできる。

そこまでができた段階で、決してこの人間と同じように「自由」を信じずに、自らの自由を放棄して、自らの自由のすべてが失われたとしても「愛」を信じれば、この人間よりも先に進むことができる。

だが、結局、それは誰にもできない。そもそも、今の中学生のほとんどには、この人間が昔の中学生時代にできたことはひとつもできない。同じような優等生になるだけでも難しい。あるいは、平成という時代は終わって、今は令和という新しい時代になり、2ちゃんねるは衰退し、DelphiやGentoo Linuxは過去のソフトウェアになった。X(旧ツイッター)のようなSNSではこの人間と同じことはできない。

あるいは、そもそも、この人間が世界を救った時点で、同じことは誰にもできなくなってしまった。一度誰かが救った世界を救い直すのでは、この人間がやった「平成の鬱屈した世界に真に自分らしく生きられる世界を作る」ということはできない。そして、最後にこの人間が行った「奇跡のような人類の救済」は、この人間以外には同じことは決してできない。

それらを起こすためにこの人間の不登校の引きこもり時代があったのだから、神はそれだけを起こさせた。そもそもが善を信じることのない悪人だったため、それが神の与えた「因果応報」だったのである。