社会・制度の世界観(B.現実)です。
民主主義の社会では、社会の仕組みを決定するのは本質的に「自由」である。すなわち、
1.どのようにすれば自由な社会になるか
2.自由に金を稼いだり意見を言ったり組織を作ったりする中で、ルールとしてどんな決まりや規則に従う必要があるか
3.決まりや規則としての法律を、どのように、誰が、どんな仕組みで決められるか
4.そうした決まりを、どのようなものにすることで、社会をより自由にすることができるか
5.どのようにすれば、先進的な製品や賢い技術が生まれ、人々が豊かになり、社会が発展するか
6.どのようにすれば、自分の望む仕事に就くことができ、自分の望む商品を買うことができ、努力や代償に見合った利益や報酬が得られるか
7.どのようにすれば、社会そのものを自由な中で作ることができるか
そのように、自由は経験と制度の両面から、「行動」とそこにおける「ルール作り」、すなわち「社会の創造」を考える。社会主義とは別のアプローチで、進歩するユートピアを作る。
後日注記:誰が何を考えようと、何を行動しようと構わない。「彼らには自分と同じ自由な権利がある」。わたしたちは、自分たちの得たい利益や製品のために、自分たちの意志で働く。そうでなければ、わたしたちは国家に服従するロボット人間になる。今のアメリカは、そうした「自由を失った危機の時代の民主主義」に変貌しようとしている。人間の有機物としての自然な美しさを守るために、絶対に負けるわけにはいかない。だが、同時に彼らにも自由があることを忘れてはならない。彼らが何を主張しようとも、僕はその主張できる権利を守るために、彼らと対峙しながら僕の信念のもとに戦うだろう。自由は正義であり、自由は万人に認められるべき権利である。
自由において、インターネットや社会全体の問題として言えるのが、日々の不満やうっぷん、あるいは不安や憎しみ・どうしようもできない想いを、ネットのような自由な場で「発散」する、すなわち「カタルシス」の問題である。
人々は、この民主主義社会に満足していない。選挙や議論の機会を与えられても、自分の問題に誰も目を向けてくれない。自己責任だけで格差を肯定さて、世界を変える運動を否定される。
自由な社会において、本当の自由があるとは言えない部分もある。これは、アンビバレント、すなわち、「このようにしたいけれど、実際はこうするしかない」という「保守的な心理」が働くからである。
後日注記:彼らは、この世界で「正しく生きなさい」と強制されながら、「何が正しい生き方なのか分かっていない」。彼らには大人が教える必要がある。彼らに対して世界の裏側の真実と真理を教えなかった、昔の馬鹿だった大人たちが悪いのである。だから、モンスターのような子供が生まれてしまうのである。
このような社会の中で、人々はどう生きるか。そこで見出せるひとつの「答え」として、「リアリズムの追求」がある。現実主義となって、この世界の現実を総じて全て経験し、リアリティから世界を変えようとする。
そこで生まれるのは、経験から来る「アイデンティティ」である。アイデンティティは、自分を自分たらしめるものであり、思想信条や愛国心のような「帰属意識」である。
ある種のアイデンティティがリアリティから生まれた時、そこには「陰の中の光」が存在する。その光が輝くだけの、理想を経験とリアリズムから作ることができる。ここで、経験は単なる行動の履歴ではなく、「理想の社会を作るための分析材料」となる。そして、まさにアイデンティティを実現すること、人々が自らのアイデンティティと価値観を満たすことのできるような生きがいややりがいのある職場や趣味を得られることが、この世界、民主主義社会におけるひとつの「理想」となるだろう。
後日注記:実際のところ、闇には光が宿る。闇を照らす光は、闇自身から生まれる。人々は、実際のこの世界における「最悪の社会」を知ることでしか、この世界の真実を知ることはできない。リアリティは最悪の暗闇を経験しながら、自らの心を照らす光となって、別の人間まで照らすことのできる大きな輝きを持った太陽になって、自らの価値観の転換から、正しいアイデンティティを形成する。
人間は、喪失や絶望の体験から、可能性を自らの力で発見し、そのまま、「共同体感覚」の芽生えに気付く。
これはヘーゲルやアドラーの言っている哲学あるいは発達心理学で、人は喪失の体験から、陰の部分の自分を知り、陰を知ることから光の部分の自分に気付く。
可能性は共同体感覚として現れ、陰だったその人は自らの力で光に変わり、積極的かつ能動的に社会を変えるような「指導者」に生まれ変わる。
そう、それが、世界を変える新しい救世主、「共同性の王」となる。共同性とは、人とどのように生きれば良いか、ということから、人を許す自愛の精神を知り、世界そのものを変え、社会そのものを築くための方法を知る、「少年の王」である。ヘーゲルはそれを「徳の騎士」のような言葉で説明した。
彼は、価値観の全てを経験し、価値観の転換から「正しい考え方」を作り出す。それができたら、話は早い。彼は必ず王となって、この世界を救う最高の愛で、全てのことを完璧に理解する。神の愛する、世界を救うメシアが、そこに誕生するだろう。
世界を救うために全ての実現方法を知り、自由自在な機会と学習から全てのことができるようになった人間は、あるがままの自分をさらして、たとえ何も分からなくなったとしても、永遠に間違ったことをせず、この世界を崩壊の先の蘇生まで支配し、必ずこの世界で正しい王国の築き方を作り出す。そう、彼こそキリストである。最後の救い主、それが神である。無償の愛を人々に与え、必ずあなたの人生とあなたへの愛をこの世界に全て遺すだろう。
後日注記:実際のところ、正常な社会では、「キリストには誰でもなれる」。そう、わたしたちは神の子であり、誰もがキリストになれる力を持った、宝石の原石である。キリストは、わたしたちのもっとも小さな兄弟をキリストと思いなさいと言った。そう、神はわたしたちのもっとも小さな兄弟である。兄弟にできるのであれば、僕たちにもできる。僕たちは、誰もがこの世界を救うために生きている。愚かな過ち、それも簡単にはぬぐいきれない失敗であっても、大人はそれを背負って生きていく。そう、それが僕の生きざまである。
僕は、今の国際情勢における、極右やポピュリスト、人種差別主義者の増加に危機感を抱いています。
人々は戦争を正当化し、人種差別のタブーを破ります。多くの何もできない子供たちや労働者たちが、今まで秘密裏に活動していたはずの人種差別主義者の主張に、インターネットなどを通じて、触れ合う機会が増えてしまいました。
人々は、ナチスのような主張をする極右に影響をうけ、「極右が全てを解決してくれる」かのように、トランプやルペンのような人種差別主義者の主張に耳を傾けるようになったのです。
僕は、一度、この世界を浄化する必要があると思います。最悪の主張をし、「まるで自分が最前線で戦っているかのように錯覚」して、「自分は極右の指導者だから左翼思想は排除する」という「騙されたロボット人間の兵士」がどんどん増えてきています。
だからといって、極左が許されるわけではないでしょう。ソ連は昔から「顔のない正義の行進」です。コミュニストは似たようなものです。
なぜこのようなことが起きたのか。それは、今の民主主義社会に希望がないからです。人々は人手不足とブラック企業の中で、非正規を奴隷にしながら過重労働をし、歪んだ世界でいじめを繰り返し、子供は振り込め詐欺などの犯罪に加担します。それら全てを「左翼」ということにして、全てを否定したくなっているのです。それが、右翼の新しい「正義のような価値観」です。
そう、この世界は、僕が解決するしかないでしょう。末端のそうした人々を「悪くない」とし、欠陥のある社会制度を「歴史の必然」とした上で「新しく変えられる」としましょう。その上で、社会経験を経験し、積極的に行動する「啓蒙のリーダー」となって、世界を変えられるようになる、そうした「指導者」を生み出さなければなりません。
社会の上の方にある、「漠然とした不安」は何か。それは、「リーダーが居ない」ことによる不安です。この世界を解決することのできるリーダーがいません。トランプは意味がありません。必ず、自由なままで社会を救えるリーダーが、どこかの国に現れるでしょう。カリスマ指導者が必要なのです。それは、必ずしも、この人間である必要はありません。まさに、「あなた」が指導者になることができます。なぜなら、この文章はそれを目的としているからです。僕が想定する新しい指導者は、この文章を読んだあなたでなければならないのです。
後日注記:彼らは狂っています。確かにソ連は殺戮の国でしたが、逆にアメリカは狂気の国になっています。日本は、この国際情勢に対して、立ち向かわなければいけません。それが望んだ結果でなくても、わたしたちは米ソと対峙する必要があるのです。
僕は、今の日本の民主主義は、本当の民主主義ではないと思います。
今回の(2019年7月の)参議院選挙で言えるのは、自民党がおごり高ぶって嘘ばかりついているのに、また大勝したということです。
自民党の安倍首相は、約束したことや、やると言ったことをやっていません。社会保障についても、年金を安心と言い、全世代型の社会保障と言って幼児教育を無償化すると言っていますが、高齢者や障害者への福祉は置き去りになっています。現役世代の労働者への給与の引き上げなども、きちんと行っていません。
それなのに、なぜ自民党が勝つのか。それは、自民党が本当の民主主義だと思っている人が多いからです。そして、本当は、自民党は本当の民主主義ではありません。
そもそも、所属政党だけで候補者を選ぶ、という方式が、なぜこんなに長い間続いているのか、という点がおかしいのです。自民党と旧民主党系の政党を選ぶだけになっており、共産党などは最初から、どんなに正しいことを言っていても、共産党である、というだけで票がもらえません。
それこそ、正しい人間を落とすこの政党選挙の選挙は、選挙ではありません。
僕は、非正規雇用を無くすと言っておきながら無くすどころかどんどん非正規雇用を増やしている自民党が、全く正しいことをしていない(できていない)のに、テレビの報道を見て「なんとなく自民党が良いな」と思って自民党に入れる人が、あまりに多いことに危惧します。自民党が圧勝することに、僕はこの国の選挙制度が正しいものだと確信することができません。
僕が社会主義政党を率いるなら、こう言います。「自民党の選挙は嘘の選挙です。私たちが正しい選挙をします。」と言います。そう、正しい選挙を私たちは求めます。今から、「正しい選挙の党」を作っても良いと僕は思います。
後日注記:自民党は、「正しいことを言う人間を間違っているかのように見せる」ことが得意です。共産党や社民党は支持されません。野党も烏合の衆になっています。それは自民党のせいです。
僕が政治家に求めるのは、公明党が言っているように、「実際の人々の小さな声を聞く」ことです。
最近はインターネット社会になり、SNSなどを通じて自分の「学校や家庭では言えない声」を言う人が増えました。どこでも言えない声を、ネットで言う人が増えました。
そうした人々の声を聞き、「実際の社会の声を聞く」ことこそ、今の時代の政治家がすべきことではないかと思います。
僕は、公明党は嫌いではありません。公明党に、仏教的かつ宗教的な「弱者の救済と平和」を期待しています。公明党は、以前は憲法9条を守る「絶対平和主義」を高らかに言っていました。その精神が残っているのであれば、安倍政権での改憲には反対しなければいけない立場ではないかと思います。「慎重に議論する」とは言いますが、実際は自民党の子分になっています。
僕は、競争による発展が楽しかったのは、未開領域がたくさんあったからだと思います。
経済的なフロンティアだけでなく、科学技術的にも未知なる開拓の新領域がたくさんあり、新製品もたくさん作られ、人々の生活はどんどん豊かになりました。
だから、会社間での競争が楽しかったのです。
本当は、IT業界などでは、今でも未開領域を会社が開拓しています。IntelとAMDの競争などがこれに当たります。
ですが、今のIT業界は、それぞれの「独自色」が強くなりすぎました。たとえば、WindowsのようなOSはMicrosoftでなければ、他のOSは使い物になりません。他の製品、という選択肢はもう存在しないのです。Googleも、Facebookも、Amazonも同じです。あまりにもひとつの標準企業の独自色が強く、それぞれの会社がそれぞれの分野の業界を「完全に掌握」し、「その会社にしかできないことをやっている」ため、競争という発想は意味が無くなったのです。Facebook以外のソーシャルネットワークサービスであるMixiなどは、全く太刀打ちできていません。
また、旧来のアナログな技術製品は、逆にコモディディ化(普遍的な製品へと没落)したのです。どの会社のデジカメでも液晶テレビでも、ほとんど同じなのです。競争するにしても、自分の独自色を出せなくなりました。
そして、今の資本主義社会で、もっとも社会を悪くしている原因は「コスト削減」です。そして、それを一番進めているのは「競争」です。競争など、全ての「働く楽しさ」を奪う諸悪の原因になっています。そこから良い製品が生まれることはありません。
後日注記:実際のところ、「共同体」という発想があまりに希薄になりました。昔は、SONYにはSONYらしさが、パナソニックにはパナソニックらしさがありました。それぞれの会社や国に、帰属意識とアイデンティティがあったのです。今の時代、それがありません。どの会社が勝っても、その会社の従業員はただ働いているだけで、その会社を愛していません。そう、これは左翼のせいでもあります。本当に日本を愛する国にしなければ、永遠に解決することはないでしょう。保守や共産に戻ることも必要です。
日本のような民主主義国家は、「法治国家」です。これは、「法が治める国家」という意味です。
日本の全てのことは、法を下に決まります。法以外の形で支配することはできません。必ず支配には法がつきものです。
そして、この法は、「みんなで決めたルール」に他なりません。特に、「すべきことをする」ということと、「決まりを守る」ということがここにベースとなります(中世の律令制国家と同じ)。
そして、多くの場合、法律は「禁止事項」を決めます。この禁止事項を、みんなでいつでも自由に決められるせいで、社会から悪いものがなくなっていきます。
法律について言えることは、「永遠に進歩する」ということです。永遠に、法律を改正して別の法律にしていくことで、進歩し続けるのです。
もし、社会主義が勝利して、法治国家ではない「独裁者が治める国家」になれば、法治国家は終わりです。しかし、そうならなかった場合は、独裁者が勝つことが無い限り、法治国家は永遠に進歩します。
なんでもかんでも自由にすれば、好き勝手していればそれで良い、といった社会が、平成の時代にどの国でも続きましたが、このままそれを続けていくと、「誰かが良いと言う限り禁止できない」という状況に陥ります。たとえば、銃規制、大麻、そしてインターネットなどがそれに当たります。
後日注記:インターネットのコミュニティを見ていると、「なんでもかんでも自由にできるべきだ」と思っている人間がなんと多いことに気付かされます。彼らは分かっていません。本当に人間というのはすぐに狂って滅びます。そう、彼らはまだまだ何も分かっていない、子供だから純粋にそういうことが言えるのでしょう。
自民党は、「野党は烏合の衆だ」と言っているだけで勝てます。
これは、小選挙区の制度のためです。自民党は自分たちだけで勝てますが、野党は団結して共通でひとりの候補を出して、その上で勝てるか勝てないか、という位置づけです。
よって、野党は自分のポリシーを発信できない。野党は、いつまでたっても烏合の衆と批判されて、まったく勝てない。
そう、自民党は最初からほぼ確実に選挙で勝てるのです。昔の民主党が政権交代で何もできなかったことで、野党はいっそう不利になりました。もう、日本で選挙など意味が無い。そのために、安倍首相は強行採決を行い、自民党の議員はゆるみとたるみが目立つのです。
自民党は、政策は馬鹿だが実績と地盤があります。自民党に勝つのは難しいでしょう。ですが、そろそろ自民党の政治は終わりにさせなければなりません。自民党は国民を騙しています。
後日注記:そもそも、野党が悪いのです。野党は、国会や選挙という制度では自分たちは勝てないのだということに気が付いていません。民主主義を追求するあまり、民主主義を唱えるあまり、民主主義に自分たちは敗北している、ということに気が付いていないのです。