社会・制度の世界観(A.理想)です。
社会を考える上で必要となる概念は、「自由」と「平等」の2つです。
自由と平等は、相反する概念です。自由とは、「それぞれが自由に好き勝手にできること」であり、平等とは、「それぞれがみんな同じようにできる(する)こと」だからです。
経済においても、政治においても、自由と平等は相反する考え方とされます。
ですが、「法律」の下では、国民は平等でなければなりません。たとえば、税金を納税したくない人が税金を勝手に納めないことはできません。法律は全ての国民を平等に扱わなければなりません。
同時に、法律は国民に対する「自由な権利」も認めています。そのため、国民は自由に意見を言い、政治家をみんなで選ぶことができます。
また、自由と平等は、経済、すなわち「豊かさ」や「お金」についても言え、ここでも相反する考え方です。
自由とは、「できる人間の自由」であり、能力や優れた経歴や豊かさがある人間が、自由に生産し、労働し、消費することができます。
これに対して、平等は、「できない人間の平等」であり、どんなに貧しく、力が無く、経歴もない人間であっても、平等な生活を送ることができます。
一見、この2つは両立しないように見えます。できる人間を自由にして、できない人間を平等にすること自体が、自由という考え方にも、平等という考え方にも反するからです。
ですが、僕が思うに、平等においても、「金持ち並みに全員が豊かになる」ことで、自由と同じぐらい、豊かな生活を送ることができます。
こうした考え方は、現代の民主主義においても社会主義においても、主流になりつつあります。日本は、資本主義において「一億総中流」を実現し、中国は「豊かで自由な社会主義を行う改革開放政策」として、余剰分を働いたらその利益は自由に自分が得られるようにしました。
アメリカやロシアは、自由と平等を殺し合いのような「矛盾した考え方」としましたが、僕は豊かな上で平等にすることで、この世界の経済問題は解決できると考えます。
カール・マルクスも、「生産能力の向上とともに共産主義社会が必然的に訪れる」と言いました。僕も、そのような世界になる可能性は今でも残っていると思います。
僕は、今の日本に必要なのは、「自分らしさと素直さ」と、「共同体に自由に参加する愛」ではないかと思う。
特に、今の日本社会には、かつてあったような共同体の愛が無くなっている。人々は無意味な雑言を繰り返し、そこにコミュニケーションも無ければ、成長も啓発も存在しない。
もう一度、コミュニティに自分の意志で参加し、人々と共同体の愛を分かち合うような、そんな場が必要である。
また、自分らしさと素直さが必要である。人々は、狂ったように人のことを嘲笑し、「悪い笑い」が世にあふれている。人々は素直に笑顔を作ることもできなくなって、作り笑いを永遠に浮かべるようになっている。
本当に、自分らしく、素直に生きられる時、そこに「自分がこの世界に存在する意味」を見出せる。それが、幸福な社会であると僕は思う。
景気や豊かさでは、こうした自分らしさと素直さを得ることはできない。今から、資本主義や民主主義を超えた次元で、僕たちは自分らしく生きられる社会をみんなの手で作らなければならない。
僕は、自分らしさや素直さというものが、社会に与えられるものではなく、自分の心の内から表れるものだということを知っている。だが、その心を形成するためには、人々と共同体で関わり、自分を認めてもらう体験をしなければならない。それがなければ、自分らしさや素直さは本当の意味で生まれないのである。
人々がなぜ不幸なのか。それは、「自由がないから」です。
人々は、自分の自由な意志がなく、ただ周りに合わせるだけで、自分の意志を押し殺すことを強要されてしまう。
自分がどのように行い生きるのか、そういう「生きる上でもっとも大切なこと」に対してまで、他人との調和や協調を強制される世界では、自分らしさも何も生まれることがない。
学校は、本当にその人間の自由にさせてみれば良い。その時、その人間は自分のやりたいことに気付いて、存分にやるようになる。支配されない自由な中で、ひとりの経験主義者として、啓発と啓蒙、そして世界開拓の人間をその人は生きる。
また、支配者が現れた時は、その支配者の自由にさせるべきである。そうすればこの世界は良くなる。なぜなら、良い支配者が現れることでしか、この世界は良くならないからだ。
自分らしさと素直さが一度生まれてしまえば、誰だって支配者になれる。簡単ではないその道だが、さまざまな経験がそこにある。楽しいことばかりではない。辛いこと、苦しいこと、耐えがたいこと、そしてじっと耐えることや勇敢に戦うことがなければ、願いは叶わないし、王にはなれない。
僕が思うに、「互いに他人のことを認め合う」というところから始める必要がある。
その子がどんなにオタクで太っていたとしても、その子の個性を認めてあげること。他人の個性を認めてあげることで、自分の個性も認めることができる。
そこから、本当の愛である「共感」が生まれ、「共同体感覚」が育っていく。
まずは、相手のことを認めてあげること。そこから、相手の間違いや失敗を塗り替え、相手の何が間違っていて、どのようにすれば修正することができるのかが見えてくる。だからといって、干渉することは必ずしも正しいことではなく、相手が自然に正常な大人になるように導いていくことが必要である。
他人を認めることが、逆に自分自身を認めることに繋がる、というのは良くあることである。相手のことを許すことで、相手を憎む自分の憎しみも許して消し去ることができる。この世界はそれで、自然な変化から変わっていくだろう。強制するのでも支配するのでもなく、お互いに愛を気付くことから、この世界は正常になる。友達は異性となり、恋人へと変貌する。
この世界の全てが変えられるようになったあなたは、人間の人格を支配して、この世界を滅ぼそうとする。それが人間の本能である。だが、本能は別の方向に変えられる。どんなに他人を滅ぼしたくても、本当はあなたは誰かのことを愛している。愛を相手にそのまま伝えれば良い。相手もあなたのことを愛してくれる。この世界の全ての苦しみは、「愛情の欠乏」から生まれる。だが、安心して欲しい。どんなに愛されない人間であっても、生まれ持った愛はあるからである。人々のことを愛する人間は、自分のことを肯定することができる。
また、かっこ悪くても、平等な支配者は必要です。
みんなに平等に権利を認め、誰か一方がもう一方よりも利益を不当に得ることなく平等にし、もっとも賢いものが支配することで、社会は正常になります。
僕は、日本を平等に支配する指導者です。学校の先生のようなものです。
僕は、この日本という国、そして地球という世界に、本当に必要なのは、「平等と正義」ではないかと思う。
ひとりの指導者とともに、この世界は平等になる。人々はいじめや抑圧のような「不平等な不自由」から脱して、本当に自分らしく、自分の好きなように生きられ、人々と仲間になれる「平等」を、悪いことをせず、人も殺さず、犠牲も出さない「正義」とともに、民主主義の「法の支配」によって行うのだ。
いじめの原因とは、社会的にも、環境的にも、心理的にも、「自由でないから」であり、その自由は単なる自由な民主主義では得られない。
また、平等にするからといって、独裁者が支配すればそれで良いわけではない。独裁者は自らの権利におごりたかぶって、不法かつ不正なことをする。そのため、「法の支配」が同時に必要である。
人々が、法の支配の下に平等と正義を実現した時、この世界にははじめて正しい「精神的自由」が訪れる。それを、最後の帝国「日本」がここに行うだろう。
僕は、戦争中の日本やドイツがしたように、国家や人種の間で、敵対国家や敵対人種として争い、憎み合う必要はないと思います。
韓国人が日本が嫌いなのは、そのことの現れです。戦争中の日本は、アメリカやイギリスを敵視し、朝鮮や中国など一部のアジアの国に残虐非道の限りを尽しましたが、その理由は全て、「敵対」と「憎しみ合い」によるものです。
そう、韓国が日本が嫌いなのは、日本人が昔、敵対・敵視政策の中で、アジア人の人権や主権を軽んじたせいなのです。
今、日本はアメリカやイギリスと仲がいいでしょう。必ず、韓国とも仲良くなれる日が来ます。
敵対や差別は必要ありません。僕は世界政府の樹立を目指しています。世界政府「日本」がこの世界から憎しみ合いと敵対と差別を無くします。それこそ、僕が行うべき「つぐない」ではないでしょうか。
後日注記:ここで言う「つぐない」とは、僕が人種差別を繰り返し身勝手な支配をしてきたことの償いのことです。ですが、ここにはもうひとつの意味があると思います。日本人は、朝鮮人に対して自らの植民地支配のつぐないをしなければなりません。そう、ここでは、つぐないとは、「日本人の僕の王としての朝鮮人へのつぐない」が含まれています。また、朝鮮人だけではなく、アメリカ人の戦死者に向けてのつぐないも、ここに含まれるでしょう。
争うな。僕たちは、争う必要はもうない。
争わないことで、正常な自由な精神と、敗北しても何度でも立ち上がれる「ゼロ地点の底力」を知ることができる。
ナチに支配される地獄に唯一勝つ方法、それは争わないことである。僕たちは協力して正義と平等を実現できる。僕たちは同じ愛の下でひとつになれる。
そう、絶対にくじけない、何をされても負けない魂の意志がそうした「争わないこと」から見えてくる。
必ず、僕たちは世界政府を実現できる。自分の国だけが自分の故郷だと思う必要はない。僕の故郷は地球という星であり、ドイツやフランスは自分の一部である。
この「争わない」という理想を実現するために必要なのが、「個人の自由」である。人間は、自分で自由に意志と行為を選べるのであれば、反抗したり、国を滅ぼしたりしない。自分の自由が許されるなら、自分の状況と前提条件を照らし合わせて、自分なりに正しい行動をするようになる。そこで、「このように生きれば良いことがある」という「アドバイス」を提示することのみが、本当に必要である。誰をも自由にしても、どのように生きれば良いか分からなければ、正しく生きることはできない。よって、経験と発展の先にあるのは、「成長し、体験する自由」であり、そこでは、反抗も起きず、争いもなくなる。
そう、国民を反抗させないため、争いを無くすために必要なのは、「自由を与えること」である。これは個人の自由だけではなく、環境や社会の共同体としての独立性を高め、そして(マルクスとは違った意味で)生産手段を共有する、ということが、世界を平和にするのである。
僕は、憎しみが生まれる理由とは、「人の心を疑うこと」ではないかと思う。
人の心を疑うから、相手のことが憎くなる。自分の方が正しくて、勝っていたいと思うようになる。
実際のところ、相手も、自分も、敵も、味方も、何も関係ない。僕の相手は僕と同じであり、僕の敵も僕と同じである。そして、敵と同じく、僕も誰かの味方であると同時に、誰かの敵である。
太宰治が走れメロスの中で言っていたように、「人の心を疑うのは、もっとも恥ずべき悪徳」である。
そう、たとえば、僕がマイクロソフトを疑ってLinuxやオープンソースについているのは、マイクロソフトから見れば忌み嫌うべき敵である。
実際のところ、相手を味方にしたいと思うなら、相手の心を信じてあげることである。鈴木愛理が言っているように、「信じた心を恥じる必要はない」。そう、相手のことを信じることこそ、相手よりも優位に立てる唯一の心構えである。
誰のことも信じられるようになったら、そこに敵や味方の区別は必要ない。味方を愛するのと同じぐらい、敵も愛してみよう。この世界でひとつの巨大な恋愛の革命が、そこに生まれるだろう。
本当に世界を変えたいのであれば、相手のことを信じてあげることである。なりふり構わず支配してもいいから、きちんと信じてあげること。そうでなければ、この世界の全てはあなたの自由の下で、あなたに反するようになる。世界でひとりになったあなたが世界中全てを敵に回しても、そこにあなたの夢や願いは無く、積み上げたものは全て消え去って、あなたと世界の未来は、哀しみの海へ溺れる後悔と懺悔の航海の旅になるだろう。
後日注記:そもそも、敵だ味方だと考える必要はない。「わたしたちは同じ人間である」。僕はマスコミやマイクロソフトを恨んでいない。僕という確かな存在は、彼らが居なければ形成されなかった。戦う必要も、憎む必要もない。わたしたちは今、同じ神の下にひとつになる。