政治の基本の世界観です。
そもそも、権力とは何か。権力とは、行政の政府や与党の国会議員を従えて、自分の力にする力です。
たとえば、イギリスのジョンソン首相。EUからの離脱が延期となるかもしれず、また総辞職もできませんでしたが、彼は政府の長であるため、政権与党は何らかの対抗策を考えます。
こうした時、首相は権力を使うことができます。まさに、役人や公務員の力を使って、自分の力として従えることができるのです。
また、従うのは役人だけではありません。国民、国内経済、そして軍隊や警察を従えることで、敵を倒し、悪い人間を逮捕し、税金を会社から取り、国民を支配することができます。これが、権力の力です。
権力は、悪い人間が握ると危険なことができます。ヒトラーやスターリンなどの手に渡ると、ひとりだけで全権を握って国を支配することができます。そのため、権力者は良く考えて選ばなければいけません。これが、「良識ある民主主義」です。
ですが、こうした独裁者は何でもできるため、独裁を声高らかに宣言して支配する指導者は、歓声によって迎えられます。しかし、良いことをするとは限らず、多くの場合独裁者は失敗に終わります。これは、他国との外交政策などとも関連し、革命政権はすぐに王国政権が「周りから介入する」からです。このため、独裁政権は必ず軍事政権になります。
そもそも、役人は政治家には何でも従います。そもそもが権力者に従うだけの職業なので、政治家の答弁すら代理で作成しています。何をしろと言われても、反することはありません。昔は「役人主導」といって役人があれこれと提案していましたが、「民主主義の意味が無い」といって政治主導が唱えられてからは、役人は自分で何も考えずただ従うだけです。
また、政治思想とは、どんな思想の下で国を作り、どの側につくか、ということです。
みんなの国にするのであっても、帝国の王に従うのか、民主主義のみんなの政府にするのか、それとも、革命家や革新思想によって「政策のチェンジを図る」のか、といったように違います。
保守・革新とよく言われるのは、今のままの方が良いのか、革新思想を行うのか、ということです。
また、どの側につくのか、ということは、多くの場合、王と啓蒙思想のどちらにつくのか、あるいはアメリカとソ連のどちらにつくのか、ということです。
ですが、彼らは政治家です。日本という国を発展させたい、という信念は同じです。そのためにアメリカにつくべきか、ソ連につくべきか、王を倒すべきか、王に従いながら政策を変えるべきか、などといったことで争うのです。
僕が自分自身を反省する言葉として、「法の支配」と「人の支配」がある。
まさに、僕は人の支配をやりすぎた。自分が絶対者であることが前提であり、人が全てを決め全てを行うのは、間違っている。LinuxカーネルのようなIT開発のプロジェクトであれば、それでも成り立つかもしれないが、この世界をきちんと統治するためには、きちんとした法が必要である。
よって、憲法を定めよう。
1.他の人間を傷つけたり、殺したり、自分よりも下に扱ってはならない。
2.社会を決めるのは、独りの独裁者によるものではなく、全員の民意を反映したものでなければならない。
3.一部の人間を奴隷として、権利を平等に与えないのではなく、全員に同じ権利を与えなければならない。
4.人々の自由よりも、誰か独りの権力の方が強く、上になり、支配的になり、独占的になることは許されない。
そう、こうした法の支配による平等な権利、それが民主主義である。たとえ多数派であっても、誰か特定の人や集団だけを批判したり、抑圧したり、迫害したり、権利を奪ったりしてはならない。
一般的に言われる自由とは、その個人の「自分の自由」である。その自分の自由という発想も、自由に言論したり表現したりするために必要だが、重要なのは、「自分に認められる自由を、誰か他人よりも優越的な権利として、他人に同じように認めないことが、あってはならない」ということである。そう、GPLのようなコピーレフトのライセンスは、そうた「共通の全員に認められる自由」という平等を行いたいのである。
また、憲法を定めるのであれば、社会のことも定めるべきである。よって、
5.社会は誰か一人のものでも金持ちのものでもなく、みんなのものである。
6.誰かひとりが得をして、その他大勢が損をしてはならない。
7.誰にでも必要なものは、全員の力で作らなければならない。
8.言論や選択の権利を与え、そして社会をその関係する人々の合意の下に民主主義の下に統治されるように、分割し、個別化し、金銭で交換することは、「平等な自由の権利」として、必ず認められる。
とする。また、人間の権利の問題として、
9.人間が人間的に生きる自由、すなわち、不当に逮捕されず、奴隷にもされず、強制的な労働も受けない自由を、「社会」は与えなければならない。
そう、こうした考え方は、むしろ、僕がひとりで決めるのであれば、まだ「人の支配」から脱し切れていない。よって、民主主義の下で法律が決められなければならない。
10.全ての法律は、民主主義的なプロセスを持って、誰か独りの独裁者によるものではなく、国民の総意によって決められる。
11.多数派の思想や決まり事について、別の側面や立場から、別の政党を作ったり、別の意見を言ったりすることは、許される。
そう、こうした憲法を作らなければ、人間は平和にならない。それが、ドイツとフランスの歴史の違いである。ドイツの歴史は、人間の支配から脱し切れていない。フランスの歴史は、法の支配を掲げている。
政治とは、利害関係の調節の手段です。
政治家が権力を持つことを支え、与党が選挙に勝っているのは、国を良くする正しい施策を持っているからではありません。そういうことにはなっていますが、それは建前の話で、実際はその党派や勢力を支持する、その党派や勢力が勝つことで利益を得られる支持基盤となる集団が、その政党や勢力を支持しているからです。
要するに、自民党が勝てば自分たちの利益になるような人たちが、自民党の政治家に票を入れている、というだけの話にすぎません。
確かに、アベノミクスをやってみたり、憲法改正を言ってみたり、たくさんの「自分が勝ったらこういうことをする」ということは選挙で言いますし、実際にも政治の舞台で議論すると同時にそうした政策をやっていますが、それは多くが「選挙に勝つために言っている」ことにすぎず、また政治の舞台でやっていることは「強いものにつきながら官僚の言うとおりに言い決めているだけ」です。
政治とは、利害関係の調整の手段にすぎません。ですから、貧困層が社会主義政党を支持することは全く悪いことではありません。資本家や裕福層が自民党を支持するのは、税金を取られず、自らの儲けるやり方に政治が合致すれば、もっとたくさんの儲けや利益が得られるからにすぎません。
ただ、政策として国をどのようにするべきか、このようにしなければならない、ということは、政治経済の仕組みとして確かにあります。そうした「どこの政党につくわけでもなく、自らの信念の通り政治をやって、国を良くしたい」という政治家はたしかに居ます。ですが、政治はそれだけではできません。さまざまな「直接的な駆け引き」をしながら、「地盤(後援会のような支持者と人脈)、看板(知名度)、鞄(お金)」がなければ、政治はできないのです。
また、権力は他人を支配し服従させる能力です。被支配者に対する強制力を行使する力です。
戦国時代などでは、権力はそのまま兵力であり、戦争において相手を圧倒する力でした。互いに兵隊を従え、民衆を隷属させることで、「自分の力が巨大になる」という証であると同時に力でした。
現代では、権力は特に、「政治権力」となります。「自分たちの勢力が相手に勝つ力」となって、政治において「自分たちの勢力に有利なように制度や決まりを決める」という力になっています。
また、自由主義においては、権力者はそのまま決定者になります。これは社会主義でも同じです。ひとりの権力者が力を持つと、全てがその人間の好きなように決まります。これは自由主義における「自由」です。「自由=政治的権力」であるということが自由主義の特徴です。
民主主義では、こうした自由主義の政治的権力を否定しません。ですが、「民衆の代表が選挙で権力者を選ぶ」ことで、「民衆の意見や利害に基づいた形で権力が行使される」ということを目指したのが、主権在民(主たる権力は民衆に在する)の民主主義国家です。
また、権力による強制力は、多くの場合警察による「逮捕」に結び付きます。自分の敵や競争相手を逮捕し、自分の有利に事を進めようとするのです。ですが、不当な逮捕を防ぐために、「三権分立」という制度があります。三権分立では、立法、行政、司法が分かれており、共産主義国のように敵対する人を立法府が司法府を兼ねて勝手に裁くことはできません。ですが、北朝鮮やナチス・ドイツのような政権では、ヒトラーに従わないもの全ては逮捕され、全権を握ってヒトラーの言うことを聞くしかなくなり、国民は何も言わず沈黙するしかなくなります。これが権力の恐ろしさです。
また、経済とはものの分配の手段であり、ものを生産・消費・分配する社会的関係のことです。
多くの場合、経済はお金による資本主義経済になります。資本主義経済の中で、どのようにものを生産し、消費し、分配するか、そのためにどのような社会にし、制度にし、何を目指してどのような目的と結果を得られるような手段を行使し、そうした経済の前提となる社会やシステムをどのように築いていくか、ということです。
経済は、多くの場合政治と結びつきます。利害関係において多数派が政治で勝つとなるように、経済も多数派のための経済になります。多くの場合儲かっている大企業のための経済政策を取れば、平等な社会福祉のような政策は置き去りにされます。それは資本主義と社会主義という「政治的思想」(イデオロギー)が矛盾し、どちらかの思想の通りにやれば、どちらかの思想がそれに負けてしまうからです。
資本主義の経済では、現代ではミクロ経済学やマクロ経済学の経済理論に基づいた経済を行います。これらは家計や企業など個別の小さな経済領域(ミクロ経済学)と政府や社会全体の大きな経済領域(マクロ経済学)に分かれた経済学です。他に計量経済学や、社会主義のマルクス経済学などがあります。マルクス経済学では、「労働価値説」と「剰余価値説」をベースに、資本家と労働者の従属的な関係を契約と考え、資本主義が破綻した時に計画経済と社会所有と平等分配に基づいた社会主義の「金でない経済社会」に移行すると考えます。
このように、経済学はさまざまな「分配(再分配)の方法」を考えますが、現代の日本では経済学的な分配だけではなく、社会をどのように守っていくか、発展させていくか、企業と家計をどのようにバランスを取り、国全体を支えていくか、という意味で「経済政策」を考えます。そしてそのためにルールとなる法律を作り、社会制度をみんなで決めていきます。
また、現在の政治経済では、「保守とリベラルの対立」が見られます。
まず、保守派は今の社会をそのまま続けるべきだと考え、企業の利益を最大にし、多くのお金が国や企業に入るようにして、他国に経済的に勝とうとします。増税をするよりも減税を行い、再分配はできる限りせず、会社がもっと儲かることを優先します。それぞれの個人の権利や平等な福祉政策よりも、全体の利益が増えパイが大きくなることを目指します。
リベラル派は、今の社会を平等かつ自由に改革するべきだと考えます。企業のような多くのお金を持っているところから税金でお金を取り、お金を持っていないところに再分配をします。他国に対する経済的な勝利よりも、他国と自国が協調し、お互いが協力して共存したままで平和を実現します。また、儲かることよりも福祉や権利を重視し、それぞれが新しい多様な価値観を持ってマイノリティに平等に接すると同時に、高齢者や子供、障害者や貧困家庭などに対する特別な支援を行います。
多くの場合、保守派は「右翼」、リベラル派は「左翼」と呼ばれます。これはフランス革命期のフランスで、王党派が議会の右翼に、共和党派が議会の左翼に座ったことを意味しています。また米ソ冷戦時代では、西側の資本主義諸国が右翼、東側の社会主義諸国が左翼と言われました。また、特に人種差別や帝国を主張するものを「極右」と呼び、革命や社会主義経済を主張するものを「極左」と呼びます。
また、「自由」という言葉は漠然と使われますが、良く使われる例としては、保守派の言う「それぞれの自由」やリベラル派の言う「自由な権利」と言った使われ方をします。保守派は金をそれぞれが儲けながら税金を取らないことで、儲ける全体の利益が最大限になることを目指し、できるだけ社会を規制せず自由放任にします。これに対してリベラル派は、支配者に対する平等な権利を自由とし、支配されない中でそれぞれが平和な秩序を持って生きられるように、法律で社会の改善(特に弱者の社会が悲惨なのを健全に変えていくこと)と格差の是正を目指します。
また、もうひとつの対立軸として言えるのが「中央集権と地方分権」です。これについては、右翼と左翼の中にも対立が見られます。
特に中央集権にすることで政府が力を持つと、独裁権力が生まれますが、社会主義において資産を再分配するためには、ある程度の強制力が必要になるため、革命政権では中央集権になることが多いですが、そもそもは社会主義もソビエト体制として評議会による共同体を目指していたように、統一ではなく分権を目指していました。
これに対して右翼の地方分権では、小さな政府として中央集権の政府の機能を縮小し、それぞれの地域が「多様性と柔軟性」を持ってそれぞれの権限を大きく持つようにする「道州制」などの制度が提唱されています。
中央集権は軍事力が強くなることもあって戦前の全体主義体制でも天皇による中央集権が行われましたが、多くの場合独裁と腐敗に繋がります。ヒトラーによるナチス体制の反省をしているドイツなどでは、徹底的な分権主義が行われていますが、東西ドイツの格差問題などで課題があり、「東ドイツ市民は二級市民として扱われている」ということに不満を抱く旧東ドイツ市民がオスタルギーと呼ばれる「もう一度壁を作れ」といった過激な思想を展開し、ネオナチ団体と言い争いをしています。
資本主義や民主主義は地方分権ととても相性が良く、アメリカなどでは州によって法律や制度も違います。また当たり前のことですが地方分権はリベラル派とも相性が良く、「マイノリティへの承認と違うもの同士の多様性を推進する」という意味においてアメリカでは「右翼と左翼の大同の分権主義」が行われています。アメリカには中央集権の党は無いのです。
また、国のやること全てを決めている行政機関として、「役所」があります。役所の省庁が霞ヶ関にあることから、役所のことを「霞ヶ関」と呼びます。
役人は、国民からとった税金によって、公共のために必要な事業と、制度が上手く執り行われるように事業と国民の管理を行っています。
たとえば、経済産業省では経済のことを、文部科学省では教育のことを、厚生労働省では労働や福祉のことを、そして防衛相では軍事のことを、国土交通省では交通やインフラ基盤のことを行っています。
役人は国会での答弁も作成しており、国会で大臣が答弁する答弁内容は役人が多くの場合代理で作っています。また、国会ではそうした役人の決める事業についての「予算」を決めます。予算が決まれば、役人はその通りの事業を行います。この予算は社会保障から軍備まで、さまざまな事業に対する費用を賄いますが、新しい事業を行うためには必ず「財源がどこにあるか」を考える必要があります。財源と事業が決まれば、役人はその通り従います。
昔は、官僚主導と言って、政治家がどんなことをしたいかを決めて事業を行うのではなく、官僚自身が自らのやりたいことを政治家の同意を求めて行っていましたが、これでは民主主義の意味がありません。民主主義の意味を再考するために、現在では政治家が自ら何をするかを決める「政治主導」が唱えられています。