自由な共産党のページです。
僕が思うに、真に必要な理想とは、自由と平等をどちらも達成すること、すなわち「自由な共産党」を作ることです。
わたしたちは、現実の政党の争いを見ていて、「自由か平等か」ということを対立要素として考えているのにあまりに慣れきっています。
そのせいで、「自由を実現すれば平等は成り立たない」「平等を実現すれば自由は成り立たない」と思い込んでいます。
ですが、そうではありません。なぜなら、きちんと正しく考えれば、自由と平等はどちらも実現でき、成り立つはずだからです。
民主主義と社会主義は、矛盾する思想ではありません。
まず、共同体、という考え方において、共同体は自由かつ平等な共同体であるべきです。それは共産主義の「国家や政府に支配されない」という理想であり、この点において自由と平等は同じです。
次に、民主主義、という考え方において、議会制民主主義はソ連のような評議会連邦となるべきです。民主主義の国会と、ソ連の評議会は同じです。
唯一、矛盾するのは、資本主義経済と社会主義経済ですが、これはバランスの問題です。資本主義経済においても、社会保障政策のように、社会主義的な政策は存在します。ケインズも、雇用を作り出すために財政が赤字になってもいいと言っています。
それから、社会所有は資本主義においても実現できます。なぜなら、「共有」とは本来「自由な共有」であるべきだからです。これについては、Linuxやオープンソースの世界を見れば分かります。彼らは自由ということを極限まで追究した結果、Linuxカーネルのようなオープンソースソフトウェアをネット上で、それぞれの自由意志によって自由に共有しているのです。
そして、社会主義の計画経済は破綻するとよく言いますが、資本主義において計画経済要素がまったくないわけではありません。すなわち、トヨタ自動車の豊田社長などは、トヨタという会社の範囲内で、計画経済と同じことをやっています。会社という単位においてできるのであれば、それをもっと大きな集合体にした国家という単位ならば、さらに大きくて高度なことができるはずです。それをすぐに「計画経済は破綻する」と言ってはいけません。
かつての社会主義国家ソ連は、自由を奪い、不自由にすることで平等を達成しようとしました。それは「資本主義と社会主義の戦い」がベースにあったからです。ですが、そのような革命的な戦いに基づく社会主義は成功しません。真に成功する社会主義は、資本主義も社会主義もどちらもバランスよく成立するような、革命的戦いではなく、融和的平和に基づく、自由な共産主義なのです。
なので、単純に「自由かそれとも平等か」と考えてはいけません。自由と平等はどちらも必要であり、自由と平等をどちらも成り立たせるような、「自由な共産党」こそが、今の日本社会を救済するのです。
2024.09.11
自由を尊重せよ。
この世界を救済するのは、「自由を尊重する」という考え方です。
自由を尊重するとは、自由意志に基づいてその人の意志を尊重するということであり、国家や政府が国民の生活に関与・干渉してはならないということです。
自由を尊重することで、なぜ日本社会が救われるのか、それは当事者に力を与えるべきだからです。
真に子供たちを救うのは、子供たちを管理して締め付けることではなく、当事者である子供たちに、解決の手段と方法を与え、子供たち自身が情報や手段を使ってその問題を自由に解決できるように、子供たちに力と権限を与えることです。
すなわち、子供たちは自らの状況を解決するための自由がなければ、間違った犯行や非行を行いますが、自らの状況を解決するための自由が許されるのであれば、その自由を使って自らの力で自助努力するようになるのです。
そのような「自助努力の自由を許す」ということ、そしてそのために、エンパワーメント的な力と権限を与えるということが、子供たちを救います。
エンパワーメント的な力や権限とは、すなわち、自らが体験した内容に基づいて、問題に対する代替可能性があり、それはいつでも常に実現可能なのだということに自ら気付くことです。それでしか、子供たちは、自らの学校環境の問題を解決することは絶対にできません。だからこそ、そのよう体験ができるように、「土壌」となる環境を与えるべきなのです。
そして、自由におけるひとつの到達地点、それは自らのアイデンティティに基づいて考えるということです。すなわち、アイデンティティが確立することで、自らの確固たる「信念」が芽生えます。そのような信念が一度形成されると、子供たちはいじめられても何をされても平気になります。いじめられて不安になるのは、自らのアイデンティティが形成されていないからであり、アイデンティティが形成された時点で、いじめられてもへっちゃらになります。
そのようなアイデンティティは、「自由な実体験」に基づいて、自らこの世界そのものを分析し、世界を高みから新しい見え方に従って見方を変えていく、ということから生まれます。
注意点として、今の学校教育は、すべてが正しいものではありません。すなわち、勉強を全員に強要するのは間違いです。実際は、教育を受けたくないのであれば、教育を拒否する権利も認めるべきです。子供たちを賢くしているだけではなく、同時に馬鹿にもしているのが学校教育です。
それから、学校の無償化は子供をたくさん作りたい家庭にとってはよい政策ですが、もっと言うと、教育そのものを受けないということも経済的選択肢として家庭に与えるべきです。すなわち、学校の教育費がたくさんかかるならば、学校の教育そのものを受けなくても構わないようにすべきです。
実際、それを本当に実行すると、すぐには問題ばかりが生まれるでしょう。算数の計算もできず、文字も読めない子供が生まれます。ですが、本当は、学校教育だけしか選択肢がないほうが、よほど悪いのです。学校以外の経験ができる、本当に自由な人生を生きられる世界のほうが、子供たちは最終的には賢くなります。家庭の教育費も節約できるようになり、ひとつの家庭が10人ぐらい子供を持てるようになっていきます。少子化も解決し、多様性も生まれることでしょう。
2024.09.11
ここまで、自由意志を尊重すべきだとする内容を書きました。
ですが、自由にも間違いがあります。
それは、「きちんと分かった人間は自由を必要としなくなる」という事実があるからです。
すなわち、子供たちがきちんと分かるためには自由を与える必要があります。なぜなら、子供たちは「自由な実体験」からでしか、人生のことが分からないからです。
ですが、そのような人生のことを一度きちんとすべて分かってしまうと、そこからは、自由は必要でなくなります。
すなわち、既に自由で分かるべきことを完璧に分かりつくしているために、自らの「過去の記憶」に、自由で得られるすべてが残っているため、それ以上、自由である必要がなくなるのです。
そして、それこそが、現在の学校教育以前の日本にあった、「きちんと成長して分かった成熟した大人」です。
一度、そのような大人になると、もはや自由は必要ありません。大学に進学するのであっても、仕事をするのであっても、一切の自由が要らなくなります。
だからこそ、そのような段階まで子供が賢くなった上で、その上で大学に進学するべきなのです。
だから、子供には自由を与えるべきですが、大人にも自由を与えるべきかというと、そうではありません。奴隷にならないための離脱や代替の選択肢は必要ですが、常に自由意志が尊重される必要は大人にはないのです。
なので、案外、大人だけを対象にきちんとやれば、共産主義を自由においても実現することは可能だと思います。
この政治思想のことを、僕は「自由な共産党」と名付けます。自由な共産党こそが、この世界におけるもっとも正しい真理であり、真実なのです。
2024.09.11
昔から、僕は「どうにかしてオープンソースのような社会を実現できないか」ということをよく考えます。
そのひとつが、生産手段のオープンな公開です。
僕は生産手段を独占すべきであるとも信じていませんし、かといってソ連のように政府で公有化・国営化すべきであるとも考えません。
僕はオープンソースのように、生産手段を自由かつオープンにパブリックドメインで公開してほしいのです。
僕はこれが、民主主義や資本主義に矛盾するとは必ずしも考えません。なぜなら、IT業界ひいては日本社会全体の経済のためになるからです。
確かに、ひとつの企業が技術を独占すれば、そのひとつの企業が金儲けはできます。
ですが、オープンにパブリックドメインで公開すれば、IT業界全体が、その技術から恩恵を受けられます。
すなわち、基盤技術をあえてオープンに公開することで、IT業界全体の技術の底上げにつながり、結果的に世界全体が進歩することができるのです。
ですが、そのようなオープンな技術の公開を行うのは、デジタル以外の世界では難しいです。それは、デジタルの世界だけ、例外的に、コンピュータとインターネット回線さえあれば、後のものは無料でコピーしてどこかに簡単に再配布できるからです。ソースコードのコピーにかかるコストはほとんどゼロです。開発者のコードを書くことに対する給与が無給(開発者はボランティア)であれば、必要なのはコンパイラやOSのような開発ツールのみであり、GNU/Linuxの世界では開発ツールは大抵の場合、無料で手に入ります。
僕はそのような、Linuxの周辺では成功したオープンソースという考え方を、どうにかして現実のビジネスでも実現したいと思っています。それが僕にとっての「自由な共産党」なのです。
2024.09.11