現代フランスの哲学者。
僕は、ベルクソンが「時間と自由」の中で言う、時間とは時間意識であり、質であり、純粋持続であるという考え方に同意する。
この世界で、時間は、単なる宇宙に対する知覚的感覚ではなく、個人の中に存在する「意識」の中にあるものである。
そして、ベルクソンが言うように、純粋持続において、全部が個人の意識の中であれば、人間は自由になれる。そして、自由に行動するということが、まさに自由を取り戻すことに繋がる。
僕が自由であるのは、純粋持続における意識の中で生きているからだ。そして、僕が自由を取り戻すために必要なのは、自由な行動だ。まさしく、今こそ、自由に行動するべきである。
自由は、純粋持続の中で、自分の主体的な行動から生まれる。純粋持続とは、人間の意識の中にある、流れ続ける時間である。そう、人間とは、自由とは、そして生命とは、純粋持続なのである。
後日注記:逆に言えば、時間を単なる数値として単位化してしまったことで、純粋持続が失われ、自由が失われてしまう。そうでなく、個人の意識の中に存在し、常にそうであろうとするような純粋持続の中にいることで、人間は自由を取り戻す。それこそが個人の内面にある時間と意識の中における真の自由である。
後日注記:純粋持続において、時間を均一化された量ではなく、さまざまに強度の幅を変える質であると見做すことで、その幅を自由に生きることができる。だから、純粋持続は自由なのである。
後日注記:ここに、時間は量的でなく質的であり、純粋持続は自由であると述べた。だが、実際は、純粋持続としての時間を生きている人は少ない。多くの人々が、量として均一化された時間を生きている。だが、そのような量的な時間を生きるのではなく、純粋持続としての質的な時間を生きることで、人間は自由になれる。ベルクソンはそれを言いたいのである。
後日注記:つまり、勤務時間や作業時間に単位化されながら、やらされて辛いなと心的に思うような、均一化された量的な時間を生きるのではなく、好きな時に映画を見たり小説を読んだり、あるいは芸術作品を自ら作ったり、何かしら本を読んで自分なりに考えて理解したりといったような、強度の幅のある質的な時間を生きることこそが、純粋持続であり、それによって人間は真に自由になれる。そして、それは個人の意識の上では可能だ、とベルクソンは言いたいのかもしれない。
(詳しくは「読まずに死ねない哲学名著50冊」を参照のこと。)
2025.06.09
2025.12.06編集
ベルクソンは、数や空間を「量的なもの」とし、心や時間を「質的なもの」とする。
量的なもの、たとえば空間は、その場に存在しているだけで、それをすなわち現わしている。空間の比較においては「より大きい」とか「より小さい」ということが問題とされ、空間に存在しているか存在していないか、あるいは、存在していればそれは目に見えるが、存在していなければそれは目に見えない、と捉えられる。
だが、心的なものについては、より大きいとかより小さいといった大きさではなく、より強いとかより弱いといった強度が問題となる。大きな悲しみが、小さな悲しみよりも大きな感情をもたらすことは、サイズとしての大きさではなく強度が問題となる。だから、心的なものは量的でなく、質的である。
そして、「時間」とされるものは、量的ではなく質的である。過去、現在、未来が、川の流れのように流れていく中で、ただ存在しているのではなく、次々に古いものが新しいものへと変わっていき、なくなったものは消え去っていく。
そして、ベルクソンにより、量は空間に、質は持続(純粋持続)に対応付けられる。
ベルクソンは、記憶について、二つの記憶があるとする。ひとつは、反復される中での学習的な習慣である。ひとつのことを繰り返し行った時に、何度も昔のことを思い出さなくても、同じことを再度同じようにすることは可能である。言葉を話す際に、過去に話した言葉のことをいちいち思い出す人はいない。だから、習慣においては、過去のことを思い出す必要はない。
もうひとつは、ひとつひとつの行いを思い出す想起の記憶、すなわち「純粋記憶」である。たとえば、市街地へと行った時に、その目的地まで辿り着くためにはルートを覚える必要があるが、それが習慣である。それに対して、かつて同じ市街地に行った時とは景色が変わっていたり、前の時とは別の店に入ったりし、その出来事を後になって思い出す。それが純粋記憶である。
そして、習慣は身体的なものであり、純粋記憶は心的なものである。芸術作品を作る芸術家についても、レアリテとイマージュの融和により、心的な「感動」を伴う個性的な作品が生まれる。
では、実際に「見る」とされることはなんなのか。人間の眼という器官を見ると、あまりに複雑な器官として構築されておきながら、実際はただ「見る」というだけの単純な機能しか持っていない。人間だけではなく、ほかの生物においても、同様の複雑な器官が見られる。これについて、進化という考え方から見ると、なぜ、このような複雑な器官が多くの生物に共通して見られるのか、非常に謎である。
この謎について、ベルクソンは、「見ること」が先にあったのではないかと考える。すなわち、生物の体としての眼があったのではなく、宇宙における概念として、「見ること」ということが先にあった。その見るということを作り出すために、いわば事後的な器官として眼が生まれた。そのように考えることで、見るということが眼よりも先にあり、見ることが可能となるために、眼という生物の神秘が生まれたとベルクソンは考えるのである。
(この記述は「西洋哲学史: 近代から現代へ」を参考にして執筆しました。)
2025.12.06
実際のところ、ベルクソンの考え方は、昔の僕の考えたことと同じです。
僕も、ベルクソンと同様に、個人の意識の中にある、ベルクソンの言う「純粋持続」と同じものを考えていました。
そもそも、僕がかつての自分の執筆活動の中で、「意識の中の自由」として書いていたものは、すべてベルクソンです。ベルクソンの考え方のことを、僕は「意識」や「自由」という言葉で書いていました。
かつての僕の少年時代の人生で、僕は自ら世界を見て、経験して、理性批判の下に理性の前提となるものをすべて考えて、その上で、ベルクソンの考え方と同じ到達地点に到達しました。
そこにあったのは「意識の到達地点としての純粋自由」です。僕は過去に考えたそれを書くために、文章の執筆を始めたのです。
なので、過去の僕のことを理解したいのであれば、ベルクソンの考え方を理解することが、大きな助けになるでしょう。僕とベルクソンはまったく同じ思想家です。
2025.12.06
「時間と自由」、など。