オープンソース(パーミッシブ・ライセンス)に関する世界観です。GNU・FSFやオープンソースも参照のこと。
まず、パブリックドメインにしたコンテンツでは、特許をフリーにする場合と同じように、著作権者の権利を一切行使しない。どんな形態にも自由に利用でき、それを商用にしたり利用したプログラムの二次的著作者が「勝手に」著作権を主張しても構わない。
パブリックドメインに近いライセンスとして、BSDライセンス、MITライセンス、あるいはApacheライセンスなどの「緩い」ライセンスが挙げられる。これらのライセンスはコピーレフトではなく、自由にコードを使って自分のプログラムにソースコードを「組み込む」ことができる。また、macOSやPlayStationがBSD系のOSを使っているように、改良したプログラムを公開する義務もない。商用利用にはこうした緩い自由のライセンスが好まれている。
だが、これらの緩いライセンスであっても、著作者情報の表示やライセンス文書の表示・明確化は必要であることがある。Apacheライセンスなどでは、著作者を特許侵害で起訴した場合にはユーザーではなくなることとみなす、といった条項がつけられている。
BSDライセンスの良さというのは、僕は「作った自分が決めるのではなく、使う相手が決める」というところにあると思う。
Windowsのような商用のOSでも、GPLのようなコピーレフトなソフトウェアでも、アメリカ人やその他の外国人は、作った自分が決め、みんなを自分の意見に従えようとする。
だが、本当に自由にコードを再利用できるのであれば、その利用形態は再利用させる側が決めるのではなく、再利用する側が決められるべきである。
コピーレフトは、確かにコードはいつまでも自由なままで、誰でも利用できるようにはなるかもしれない。だが、その考え方それ自体を、相手に押し付けているのである。
それをフリーなコードにするか、それともしないかは、使う相手が決めるようにする。それが、BSDライセンスの良さではないかと思う。
ストールマンの考え方に反して、特にBSDライセンスだからオープンソースのプロジェクトが破綻するかというと、そうでもない。BSD系のOSはBSDライセンスで上手くプロジェクトをまとめている。だから、BSDライセンスの方がはるかに使いやすいところがある。特に、商用のOSでは、GPLを採用することはとても馬鹿馬鹿しいことである。
BSDライセンスはGPLと異なり、コードを同じライセンスで再許諾する必要がなく自分で独自のライセンスにできる。
自分で書いた部分を公開する必要がないため、商用の組み込みシステムなどでは使いやすい。
その代わりもともとはBSDライセンスで記述されたコードがどんな場合でもソースコードが公開されているとは限らず、GNUなどでは「X11はもともとは自由なソフトウェアだったが、多くの商用UNIXではプロプライエタリだった」と主張している。
BSDライセンスはFreeBSDなどの*BSDで使われているほか、GPLの厳しいライセンスを嫌う多くのオープンソースプロジェクトで採用されている。