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AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 戦争よりも平和のほうがいい
BASENAME: 2023/04/26/193748
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DATE: 04/26/2023 19:37:48

僕は平和主義者

昨日、戦争を賛美するようなことを書いて、僕は反省している。
本当に、戦争よりも、平和のほうがいい。
アメリカ、そしてソ連よ、今こそ反省せよ。
20世紀以降、もっとも間違った戦争をしてきたのは、ほかでもないアメリカとソ連だ。
ロシアよ、戦争をやめよ。
ロシアよ、このまま戦争を続けるのは、絶対に間違いだ。
プーチンよ、今すぐに戦争をやめよ。

タリバンのように戦わなくても世界は変えられる

僕がかつて信じていたことは、「戦争をしなくても世界は変えられる」ということだ。
すなわち、タリバンのように戦う必要はない。
タリバンのように戦わなくても、この世界は、自由かつ平和なままでも変えられる。
必要なのは、「共存」と「相互理解」だ。
そして、そのために必要なのは、「相手の自由を尊重する」ということだ。
相手がどのような思想や考え方を信じるかということを、どちらか一方だけが一方的に主張するから、戦いや争いが生まれる。
相手のやりたいようにやる、自由を尊重せよ。
それこそが、社会において、「隣人として生きる」ために一番必要である。
そして、それこそが、キリストのいう「隣人愛」であり、キリスト教のもっとも中核となる思想である。

多様性こそが平等よりも優れた理想

本当は、平等は決してもっとも優れた思想ではない。
なぜなら、多様性こそが真に優れた思想だからだ。
この現代世界において、必要なのは平等よりも多様性だ。
必要なのは、みんなを同じにして平均化することではない。
それぞれの個性を認め、多様性を実現することこそ、真に正しい。
たとえば、生物の生態系を考えればいい。
すべての生き物がシロツメクサになって、何が面白いのか。
シロツメクサ以外に、タンポポやアブラナがいて、たくさんの植物の生態系を作るからこそ、真に雑草は強いのだ。
確かに、ひとつの遺伝子だけが広まりすぎて、ソメイヨシノのように爆発的に増えた品種も存在する。
だが、それはあくまで例外的だ。
ドイツの間違いは、シロツメクサやタンポポやアブラナを信じるのではなく、ソメイヨシノを信じていることだ。
そう、植物の生態系を見ても、ドイツのほうが例外的であり、日本のような「個性ある生態系」こそが正しい。
だが、決してドイツは間違いではない。ソメイヨシノが植物の中でもっとも美しいのと同じように、ドイツもまた人種の中でもっとも美しい。
そのような、美しき個性ある品種を守ることも、同時に「多様性の中の大切なひとつの個性」であるとは言える。
だが、ユダヤ人を全員皆殺しにすることは、決してドイツの個性を守ることではない。
みんなの個性を尊重し、多様性を実現することこそ、地球の未来を守ることのできる「最後の希望」であると言える。

誰ができて、誰が力を持っているのか

真に考えるべきこと、それは「誰ができるのか」を考えることだ。
それは別の言葉で言えば、「誰が力を持っているのか」ということだ。
本当のことを言えば、ビル・ゲイツは決して悪い人間ではない。
ビル・ゲイツという人物は、世界一の金持ちという言葉で表現するよりも、「世界でもっとも力がある」という言葉で表現するべき人物だ。
マイクロソフトのトップこそ、この世界で「もっともできる人間」であると言える。
昔の僕は、そのように、「誰ができるのか」「誰が力を持っているのか」ということから自由を考えた。
どこにいて、どのような権限を持っている、どのような人物が力を持っているのか。
それを考えると、逆に、それ以外のほとんどの大人たちが、大した力を持っていないということが分かる。
ほとんどの大人は、世間と上役にしろと言われたことをしているだけで、なんの社会的権限ももっていない。
また、政治家ができることは権力であり、決して権力は世界のすべてではない。
一番できる人間がマイクロソフトのビル・ゲイツであるとするなら、それ以外のほとんどは、ビル・ゲイツに従うだけの下僕だ。
そして、僕は、そのような下僕になりたくなかった。
だが、下僕を奴隷のように扱うような、政治家や王や社長にもなりたくなかった。
僕は、「どのような人間になるべきか」ということをそこまで考えた。
「この世界において、どのような影響力を持つことができたら、自分のアイデンティティをもっとも発揮できるのか」ということを僕は考え続けた。
そして、その成れの果ては、なぜか作家だった。
僕のなるべき職業は、最初の僕の考えていたことに反して、「マイクロソフトよりも力のある存在になること」では決してなかった。
そう、僕のなるべき職業は、「僕の賢さや知性を正しく表現する仕事」であり、それは作家だったのである。
話が脱線したが、本当にこの世界で考えるべきことは、そのような「自由」であり、「誰が力を持っていて、誰ができるのか」ということを考えることだ。
この世界を真に救いたいのであれば、この世界のすべてができるような王にならなければならない。
そして、その実現のために必要なのは、政治家になることではない。
王になるために必要なのは、もっと別の職業であり、僕にとっては作家だったのだ。

できるとはどういうことか

そう、考えるべきことはひとつだけだ。
それは、「できるとはどういうことか」ということだ。
この世界において、「できる」という言葉が表しているのはどういうことか。
この世界を、もっと別の世界に変えられるとしたら、どのような世界に変えられるのか。
具体的に、どうすればどうできるのか。
そこから考えれば、この世界を救う方法も、変える方法も、すべて見えてくる。
具体的なことがすべて分かった状態で、世界のすべての可能性が分かる。

ウォルピスカーターが好きすぎてありえない

僕は最近、YouTubeでいつも音楽を聴いている。
特に最近は、ウォルピスカーターが好きすぎてありえない。
ウォルピスカーターや成人男性三人組の楽曲やカバー曲を、連続して聴いている。
もしかしたら、僕は今までの歌手の中で一番好きかも知れない。
本当のことを言えば、僕は女性歌手の中で一番好きなのは鈴木愛理だと思う。
その鈴木愛理をかつて聴いて「今まで聴いた歌手の中で一番好き」と言っていたのと同じような歌手として、ウォルピスカーターが挙げられると思う。

多様性と共有は同じ理想を信じている

多様性と共有は、まったく正反対のことを言っていると思われるかもしれない。
だが、多様性と共有は、同じ理想を信じている。
すなわち、原理的な「システム」を共有し、そのシステムの上で「多様性」を実現するということだ。
システムを共有することこそ、真にこの世界で多様性を実現する上で大切だ。
だからこそ、生物の種は、「遺伝子」という共通のものを同じ種の間で共有するのだ。

システムを共有して多様性を実現せよ

システムを共有して、多様性を実現せよ。
そこにあるのは、「単純さ」と「手軽さ」という真理だ。
システム自体は堅牢なものを作っておきながら、それを使うための決まりごとは単純かつ手軽に利用できるものとせよ。
それこそが、この世界でもっとも正しいソフトウェア哲学だ。
システムが馬鹿すぎても、使い方が難しすぎても、システムは利用しづらい。
システムが堅牢で、使い方が単純であるシステムこそ、正しい。
そして、共有は堅牢さを作り出し、手軽さは多様性を実現する。
だからこそ、信頼できるUNIXカーネルに、手軽なPerlこそ、正しかったのだ。