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AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 子供のように考えるために
BASENAME: 2023/04/24/171248
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DATE: 04/24/2023 17:12:48

子供のように考える方法

この世界を、子供のように考えよ。
大人のように考えていると、子供よりも賢くなっているように見えて、実際は子供よりも馬鹿になっているということがよくある。
子供の頃に分かっていたことが、大人になると分からなくなる。
だから、子供のように考える方法を、ここで教えよう。
それは、普通のことを適当に考えることだ。
たとえば、生き物やスポーツのようなことで、一般的に普通にある「普通のこと」を、子供になった気持ちで純粋に考えればいい。
大人は、どんなことであっても、まず「学ぶ」ことから入ろうとしてしまう。
そして、この「学ぶ」ということが、大人を馬鹿にしているもっとも大きな要因だ。
すなわち、学ぶということを行うせいで、「学ぶよりも馬鹿であると言えるようなこと」が分からなくなってしまう。
学んだことを分かるということは、学んだことよりも馬鹿なことを忘れるということだ。
だが、本当に人間にとって必要なのは、逆に、学んだ内容ではなく、学んだことよりも馬鹿であると言えるような「雑多な普通のこと」を考えることだ。
この雑多な普通のことは、地球や宇宙や世界に存在する、どんなことであってもいい。
自らの気の向くままに、自分の好きなことを、適当に考えることができたら、それが正常な子供だ。
子供と大人の何が違うのか、それは「低水準」と「高水準」だ。
大人は、この世界を、高いレイヤーの上に立ちながら、正しい秩序のもとに、必要な事項に分割して、世界の要素を全体的に考えようとする。
そのため、大人は「高水準」であると言える。
これに対して、子供には、そのような正しさが存在しない。
ピュアで純粋な気持ちで、初めてこの世界を見て考える子供には、「何が賢いことで何が馬鹿なことか」という判断基準が存在しない。
すべてのことを、生の気持ちで、素の知性で子供たちは考える。
そのため、逆に、子供たちは低水準でありながら、ボトムアップ型のアプローチでこの世界を分析できる。
今まで自分が考えたことから、さらにこの世界を少しずつ高くなりながら分析していくことができる。
これが、子供の経験する「哲学者」だ。
このような子供には、大学の勉強はできない。学校の勉強をしても、それが自分の考えている「雑多な普通のこと」とまったく関連しないため、学校の勉強が何を意味しているのかが分からず、雑多な普通の思考の中に埋もれてしまう。
それに対して、大人は、そのような雑多なことが頭の中になく、頭の中を大学そのもののコピーあるいはロボットにすることができるため、大学の勉強ができる。
だが、そのような大学は、結果的に自分で何も考えておらず、同時に雑多な「大学よりも馬鹿なこと」が消え去ってしまうため、大学の勉強では決して頭は賢くならない。
ただ、大学の教える通りの「常識」を教え込まれ、「新しい当たり前」だけを手にした人間になってしまう。
だが、大学は決して馬鹿ではない。宇宙におけるすべての知識と経験が分かるのは、そのような大学生だけだ。
だが、子供が自分で考える先にあるとしたら、そこには、「自分で考えて実験して発見する」という、「自らの人生で新発見の境地を切り開く」という体験ができる。
そして、これこそが、仏教が教える「悟りへの道」である。
すなわち、この世界において、子供の考え方のまま、少しずつこの世界の社会経験を経験していきながら、世界を広げていく中で、何が「苦しみ」なのか、苦しみをどうやったら解決できるのかということを、自分の頭だけで考え続ければいい。
そこには、「学ぶ」という方法は必要ない。
仏教の教えの通りに、そのように生きる人間は、ひとりの「哲学者」になれる。
同時に、そのように生きる人間は、子供のままでありながら、「自らの技を磨く」ことができる。
自らの技を磨くことで、自らにしかできないことができるようになる。
これこそが、真に正しい「少年が成長して大人になる」ということである。
大学は確かに賢いが、それでも、大学には必ず限界がある。大学のすべてを学び終えた時に、子供に戻らなければいけない時は必ず訪れる。だからこそ、大学よりも馬鹿なことを否定せず、初めての気持ちに戻ってこの世界の雑多なことを考えよ。そうすれば、大人は子供に戻れる。そして、その子供に戻れば、どんなに馬鹿であってもきちんとまともな人間になって、普通に生きられるようになる。

大人の人生

大人が馬鹿なのは、大人は「やっていること」が分かる人間が多いからだ。
大人は、やっているからできるだけの人間や、やっていることが分かるだけの人間、あるいはやっていることの延長線上ですべてができるだけの人間が多い。
自分のやっていることから分かる以外に、大人は何も分からない。
本当は、それも間違いではない。
なぜなら、真に仏の悟りを得たいなら、必ず何かを一心不乱に努力しなければならない。
何かを努力するからこそ、大人はそのことが分かる。
だが、実際のところ、その努力していることが、すべてまともであるとは限らない。
狂ったことを努力しているせいで、狂ったことしか分からない人間などもいる。
何も分からない子供は、そのような「仕事をして分かる」ということがない。
すべてのことを、純粋でピュアな「子供の感情」から考えられる。
そして、その子供の感情をいつまでも忘れない人間が、清潔な正しい大人になる。
だが、本当は、そのようなピュアな子供というのは、まずいない。
子供は、いいことと悪いことの区別がつかないため、正しいことをしたいにもかかわらず、自分の安易な甘えから、その自分の力を間違ったことのために使ってしまう。
結果、何も分からなくなって、地獄を生きる大人になる。
だが、人生とはそもそもそういうものだ。子供も大人も馬鹿であり、何かを一度誤れば、その誤りがその後のすべての人生を間違ったものへと染め上げてしまう。
そう、一度間違えれば、それで人生は終わりだ。
だが、だからこそ、大人はそのような過ちから、どうにかして脱出する方法を考えなければならない。
自分で作り出した地獄は、自分の力で抜け出さなければ、ほかには誰も助けてくれる存在はいない。
だが、いるとしたら、ひとりだけそれが存在する。
それが神である。
神を信じれば、そのような「間違えてしまったこと」から生まれる「出口のない迷宮」の中で、神の力で出口を作り出せる。
そう、結局、人間の人生など、そんなものである。
子供のように考えられるようになったならば、出口は近い。そろそろ、迷宮の中にあるたったひとつの出口を見つけ出せるはずだ。
今まで長かった。この地獄は、すべてヒンドゥー教の苦行をやっている。ここまで長く続くこの「世界」という名のひとつの宇宙は、ヒンドゥー教の宇宙をやっている。ヒンドゥー教の苦行は、ほかの宇宙も含めたすべての宇宙の中で、もっともちょうどいいレベルで辛い。そのため、最後まで終わってしまえば、また、最初から同じことを繰り返すようになるだろう。これこそ、「カルマ」と「輪廻転生」の意味である。
死によって地獄が終わったとしたら、あなたは新しいカルマで新しい人生を生き、その人生で再び、今の人生でできなかったことをもう一度やり直すようになる。もし、人生の途中で苦しみが終わったとしたら、少しだけ高いカルマで新しい人生をそこから生きられる。そのように、人生は何度も何度も繰り返し、ただ自ら作り出した地獄の延長線上を生きている。これがカルマであり、輪廻転生である。そして、それこそが、ヒンドゥー教あるいは仏教の「仏へと至る道」、すなわち菩薩道である。

人間の精神は太陽

このようなヒンドゥー教徒は、宇宙のことを「精神世界」から考える。
金剛力士とか、観音菩薩とか、そういう仏教の存在は、すべてヒンドゥー教から派生した「精神世界」に存在する聖霊を考えている。
だが、この精神世界がどこにあるのかといえば、それは太陽に存在する。
すなわち、人間とは精神世界のひとつの「分割」や「個別化」にすぎない。
そして、その個別化される前の精神とは、すなわち太陽であり、星である。
わたしたちの心は、それぞれがひとつの星であり、太陽である。
よって、わたしたちの心は、肉体にあるのでも脳のシナプスにあるのでもなく、宇宙における太陽や星として、宇宙に存在しているのである。
精神を、太陽のように爆発させよ。それこそが、もっとも人間の「ストレス」や「不安」を消してくれる。
精神は、いつでも、「太陽のように爆発したい」と言っている。
いくら、心理的な抑圧でそれを抑えつけても、抑圧の「限界」が必ず来る。
いくら抑えても、精神は「太陽のように爆発したい」と本能で望み続ける。
だからこそ、甘えからコミュニティを崩壊に導いたり、テロのような最悪の行為を長い間に渡って続けてしまう。
それでも、その「太陽のように爆発したい」という声が休まることはない。
だからこそ、太陽のように爆発することのできる場所、すなわち、「自分だけの特別の自由な活動ができる場所」が必要である。
そう、この世界を救うもっともよい方法は、そのように「太陽のように爆発できる場所」をみんなに与えることである。

すべてはカルマと星の導きで決まっている

星は決して馬鹿ではない。
人間が考えているように、星は水素の塊でもなければ、岩石の塊でもない。
星には、人間や生物の人知を超越した力が存在している。
そして、すべての人間の人生は、星の導きを生きているだけにすぎない。
僕の星が、どんな星であるのか、本当はまだ分かっていない。
だが、僕はその星の導きの通りに、人生を生きているだけにすぎない。
そして、この星の導きは、決して特別僕ひとりだけが神のように優れているわけではなく、僕が生きている中での仏教的な「カルマ」に基づいてレベルが決まっている。
そう、僕の人生は、「カルマ」によって決まっているが、同時に「星の導き」によって決まっている。
だから、仏教と太陽神の神話は矛盾しない。仏教の「カルマ」は、太陽神における「星」と等価である。今自分がどれくらいのカルマであるかに従って、星が自分に起きる現象をすべて決めている。奇跡や運命のようなことがたくさん起きるのは、自分が善行を頑張ったからにすぎない。そして、地獄や苦しみが起きるのは、自分が悪行を行ったからだ。すべてはカルマによって決まっており、それを自分の所属する「守護星」が導き、守ってくれているのである。

古代日本に科学はなかった

そういうわけで、古代の日本史なんか学んでも面白くはない。
なぜなら、古代人はこういう発想しか分からない。
現代の科学技術もなければ、資本主義的な生産性もなかった古代には、大学の物理学も、工場や会社員の労働者も、民主主義も金儲けも存在せず、村で自給自足で生活しながら、このような宗教思想を信じていた。
本当に何も分からない人間が分かると、このような考え方をするようになる。
残念ながら、現代には科学がある。科学があるからこそ、宇宙を物理的に考える「方法論」が確立しており、その方法論から逸脱したこと、すなわち「非科学的なこと」は誤りだとされてしまう。
だが、歴史の上では、そのような「非科学的なことを信じていた時代」のほうが、はるかに長かったのである。
大学の知識を教える中で、歴史だけがほかと違って見えるのは、歴史はそもそも大学を信じていないからだ。歴史はそもそも大学の逆だ。大学のような科学的な発想をすべて否定したところに歴史は存在する。だから、いくら科学的に「歴史学」を教えても歴史の本質は分からない。教科書の通史を暗記するだけになってしまう。
歴史を学ぶならば、大学などで学ばないほうがいい。大学の歴史では歴史はひとつも分からない。非科学的な発想を拒否しすぎるな。古代の歴史においては、非科学的な思想を絶対的権威として信じていた時代のほうが、はるかに長かったのである。

子供のような純粋な気持ちを取り戻せ

だが、ここで僕が言いたいのは、占いのようなオカルトな宗教でも、古代日本のような恐ろしい歴史上の文明でもない。
子供のような、純粋な気持ちを取り戻せ、ということを僕は言いたいのだ。
だから、大学の勉強をする必要もないし、宗教を信じる必要もなければ、歴史を学ぶ必要もない。
わたしたちは、子供の時代に、大切なものすべてを得た状態で生まれている。
だが、大人になるにつれて、どうでもいいものを欲しいと思うようになり、そのどうでもいいものが欲しいために、大切なものを失ってしまう。
特に、パソコンとWindowsが大好きだったはずなのに、ネットに毒されてオープンソースのドットコミュニストに洗脳され、いつしか好きだったはずのパソコンが嫌いになり、Windowsを敵対視して世界を滅ぼすようになる。自分の好きなものすら、自ら破壊して崩壊させてしまう。
そうならないために必要なのは、子供のような純粋さと素直さを取り戻すことだ。
世間に存在する、悪の勢力に騙されず、「自分の好きなものは好きなままでいいのだ」ということを思い出し、オープンソースのような「革命崇拝の対象」を否定せよ。
そのような「個人を信じる気持ち」自体は間違っていないが、それが社会主義や極左勢力と繋がった時に、少年は世界で最悪のことをする。
絶対にそうなってはいけないわけではない。だが、もしそうなった場合には、自らの人生そのものを、そして大切だと思っていたもののすべてを犠牲にし、あらゆるすべての自分の好きだったものを自ら滅ぼすしかない道で、後ろに戻ることができず前だけを向いて、戦い続けるしかなくなる時が来ると覚悟せよ。
それこそが、一等星シリウスの「戦いの近代文明」であり、かつてのドイツとソ連の戦争の時代だったということを、肝に銘じておけ。

オープンソースは悪い左翼ではない

誤解のないように言っておくと、オープンソースは左翼だが、悪い左翼ではない。
極左勢力の悪党のように、街を破壊することもないし、ものを奪うこともない。
単に、インターネット上で、リーナス・トーバルズという人間が中心になって、みんなでフリーのOSのカーネルを作っているだけだ。
このカーネルはLinuxと呼ばれているが、リーナスがひとりで作っているわけではない。インターネット上のボランティアのみんなが無償で作ったパッチを、リーナスがひとり取り入れて、みんなで作られているカーネルである。
このカーネルが、Microsoftが金儲けの会社で作ったWindowsよりも、優れたカーネルになっている、ということが重要である。
すなわち、IT技術は決して、Microsoftというひとつの独占企業の私有物ではなく、インターネットで繋がったオープンな仲間たちによる共有財産として、金儲けではなく無料で作ることができるということ、それはオープンに作られていて、誰でも参加でき、なんなら僕のような日本の普通の少年であっても同等の立場で開発に参加できるということに、ロマンがあるのである。
僕はそのようなロマンが好きだっただけであり、決して左翼の不良少年のように、最悪のことを行ったわけではない。インターネットのコミュニティを自ら破壊したと言っているのは、さまざまな場所でエゴイスト的な貢献を行い、自らが行った手助けが裏目に出たというだけの話であって、悪いことは何ひとつしていない。常に金や報酬を対価として得ようとせず、「少しでもLinuxのためになることができたら」と、自分が信じて行った貢献である。
だが、その貢献は、本当に僕が今考えて、まったくの無意味なものだった。IT技術の知識がまるでない僕が、オープンソースに貢献するなど、最初からできるわけがなく、行った行為は今考えれば最悪のことばかりだった。まったく、「若気の至り」としか言えないような左翼活動を僕は行ったのである。

LinuxとWindowsは共存できる

このようなLinuxとWindowsだが、僕は両者は共存できると思っている。
LinuxとWindowsは、戦ってどちらか一方だけが生き延びるというものではない。
たとえば、金があるからこそ開発できる部分と、金がなくても開発できる部分がある。
あるいは、金があっても開発に失敗すれば大赤字になるような部分と、金がないからこそ人海戦術とボランティアの自発的な興味だけで開発できる部分がある。
だから、商用製品のプロジェクトとして、何億円もかけて開発して失敗したようなものが、オープンソースなら、趣味のベテランプログラマの集団が片手間で開発して実現するようなものもある。
Windowsを開発するMicrosoftも、Macを開発するAppleも、ほかの会社の商用プロジェクトも、たくさんの失敗プロジェクトを作り出してきたし、そのために多くのお金と人月がかかって、会社のその部門は大赤字になってきた。
だが、Linuxのようなオープンソース開発なら、そのような金儲けを度外視して、ボランティアが自発的に趣味の範囲で開発することで、結果的にそのような商用プロジェクトのように、金を大きくかけなくてもソフトウェアは開発できる。
それに、インターネット上のコミュニティだから楽しい、というのはある。会社で開発して、それを顧客が使ったとしても、そのシステムはその中で閉じている。インターネットでオープンなコミュニティが開発するプロジェクトは、コミュニティの「文化」が生まれる。たとえば日本の匿名掲示板で独自の文化が発達したように、インターネット上の開発者とユーザーとコミュニティの間で、ひとつの面白い文化が生まれるのである。
そういうわけで、オープンソースは楽しい。決して、Windowsのような商用ソフトウェアを全否定するわけではない。金儲けのほうがいい部分と、オープンソースのほうがいい部分はどちらもある。
特に、開発者の視点で見た時には、「商用のサポート企業がきちんと責任を持って保守してくれる」ということがいい場合もあれば、「ソースコードが無償でついていて中身を確認したり編集したりできる」ということがいい場合もある。
あるいは、規格や技術の標準がどちらか、ということだけで決まることもある。ほとんどのクライアントOSはWindowsだから、クライアント向けの製品はWindowsを使うが、サーバーOSではLinuxが標準的だから、サーバーのシステムはLinuxで作る。
また、LinuxカーネルがWindowsよりも安定しているというのはかつての都市伝説のようなものであり、WindowsはNTカーネルになってから十分に安定しており、デスクトップOSとして使った場合にはLinuxよりもはるかに使いやすく、まともに動作する。
それでも、さまざまなミドルウェア(サーバー、言語処理系、データベース、仮想化システムなど)のプラットフォームを考えれば、特にサーバーOSとして使う場合、WindowsよりもLinuxを選ぶ選択肢は魅力的だ。
そんなわけで、デスクトップOSはほぼWindow一択、サーバーOSはほぼLinux一択であり、どちらの勢力もまともなOSを提供しており、優劣をつけることは非常に難しい。
そのように、WindowsとLinuxは決して敵対する必要はなく、共存することが十分に可能である。最近はMicrosoftはオープンソース製品を作るようになったし、Linuxも商用の会社の従業員が金でコードを書くようになった。WindowsとLinuxは、排他的な「どちらかだけが生き延びる」という殺伐とした世界ではない。わたしたちはIT技術とパソコン文化の仲間であり、共存・共生するべきなのである。

僕はLinuxもWindowsもMacも全部使っている

このような僕だが、僕はデスクトップ用途のOSとして、LinuxもWindowsもMacも全部使っている。
僕はこのブログを、LinuxであるDebianから書いている。ブラウザはFirefox、デスクトップ環境はGNOMEを使っている。
そして、僕はホームページをWindowsから更新している。ブラウザはFirefoxを使っているが、テキストエディタであるサクラエディタやGitなど多くのフリーソフトをインターネットからダウンロードして使っている。
そして、僕は会社の職場で、Macを使ってデザインの仕事をしている。主に使うのはAdobe IllustratorとPhotoshopである。イラレとフォトショは僕の商売道具であり、なければ仕事ができないが、値段が高価すぎるのが少々悩みの種である。
この三種類のOSは、どれも僕にとって必要である。
ホームページをWindowsで更新する理由は、それが一番標準的で、壊れることが少ないからだ。Windowsのデスクトップは、きちんと正しく使えばそんなに簡単には壊れない。これがLinuxだと、何かがあった時にシステムがすぐに壊れる。だから、ホームページのデータのように、大切なデータはWindowsで管理し、USBハードディスクにファイル同期ソフトで毎日バックアップしている。ホームページのファイル転送にはGitを使っている。ホームページはHTMLで直書きしているが、CSSとJavaScriptを上手く使ってデザインしている。PHPは使っていない。だが、最新の日記ははてなブログを使い、パソコンのブラウザとスマホアプリから更新している。
だが、僕はLinuxが大好きであるため、もうひとつの普段使うネット用のパソコンにはLinuxであるDebianを使っている。このLinuxでネットサーフィンをし、ブログを更新している。欠点があるとしたら、たまにLinux環境をサポートしないサービスがあること。特に、放送大学の番組がLinuxでは視聴できないため、その時はWindowsを使っている。
Macをデザインの仕事で使う理由は、それが仕事だからにすぎない。仕事ではMacを使うように指示されており、同時に、Macはデザインの用途で非常に使い勝手がよい。特にAdobeのクラウドストレージとの相性もいいし、レティーナディスプレイも綺麗だし、Photoshopのファイル形式であるEPSの写真もきちんとFinderから閲覧できる。
また、僕はAndroidやiOSも使う。Androidは僕のスマホで使っているし、このスマホから電話やメールやカメラ撮影を行い、ツイッターやブログを投稿することもある。また、iOSは職場でカメラに使う。iOSとMacは非常に親和性が高く、iPhoneで撮った写真をすぐにMacにAirDropで転送できる。
そういうわけで、僕はどんなOSであってもオールラウンドに使いこなす人間であり、デザイナーでありながら片手間のホームページ管理者であり詩人として、IT技術を使うことを楽しんでいる。
また、僕はMicrosoft製品を決して忌み嫌っていない。僕の職場ではMS-Excelで書類の管理をしていて、僕がたまに毎月の書類を作っている。シートが自動化されているため、全部書き換えなくても必要なセルを書き換えればデータを自動作成できる。MS-Excelは昔から僕が好きだったMS製のソフトだ。また、個人的に書いた詩や小説は、以前はMS-Word形式でまとめていた。これにより、自分の書いた詩集をひとつの本の形式でまとめていた。最近は基本的にテキストファイルやHTMLファイルで自分の書いた文章をまとめており、それをホームページに静的HTMLで公開している。テキストエディタにはサクラエディタとxyzzyを使っており、特に正規表現を使った複数ファイルに対する検索・置換機能は絶対に必要な機能であり、そのためにサクラエディタが絶対に必要である。LinuxではVimとGedit、MacではVS-Codeを主に使っている。
ネットサービスは、最低限しか使っていない。GitHub、はてなブログ、YouTube、ツイッター、それからデザインの仕事でお金を払って使っている素材サイトのイラストACぐらいをよく使う。メールはたまにしか見ていない。たまによく写真撮影係になるので、スマホのカメラはよく使う。あとは、ツイッターの音楽や漫画のツイートを暇な時に見ている。家では暇があればYouTubeで音楽を聴いている。自分の部屋にはスピーカーに備え付けの昔のiPodがあり、この中に昔レンタルCDショップで借りた音楽のデータが入っていて、このiPodからもたまに音楽を聴く。よく聴く歌手はFLOW。僕が20歳の頃、最初に音楽を知ったと言ってもいいような体験をしたのがFLOWであり、最初に聴いたFLOWが今でも一番好きだ。
ニュース記事を知るためのメディアとして使っているのはYahoo!ニュース。記事についているコメント欄であるヤフコメをよく読んでいる。好きなジャンルは将棋と野球。特に、大谷翔平のエンゼルスのニュースや、藤井聡太のタイトル戦の記事をよく読んでいる。僕は大谷翔平と藤井聡太が大好きだ。デザインの仕事で、お昼の休憩時間にいつでもYahoo!ニュースで大谷のニュースをかかさずチェックしている。また、最新の流行の音楽はYouTubeのチャンネルと通知とリコメンドから知る。あるいはYouTuberの歌い手の人が歌ったカバー曲から新しい曲を知ることもある。その代わり、テレビはまったく見なくなった。政治や経済のニュースをほとんど見ていないため、世間の流れには非常に疎い。世の中で起きていることをまったく知らないことがよくあり、僕は新型コロナウイルスのニュースを全然読んでいないため、コロナのことには詳しくない。

IT技術は大嫌い

このような僕だが、本当はIT技術は大嫌いだ。
IT技術など、この世界からなくなってほしいと常に思っている。
特に、BANされる問題。僕はInstagramのアカウントを永久凍結になった。何も悪いことをしていないのに、アカウントを新規登録しただけでBANされてしまった。
また、僕はツイッターやSNSの文化についていくことができない。ツイッターというネットの流行についていこうとしても、どうしてもツイッターの文化を楽しむことができない。いいねやリツイートの何が面白いのか分からないし、かつて大量にツイートを投稿していたことはあったが、それでもフォロワーは一向に増える気配がない。また、自分以外の著名人のツイートにまったく興味がない。歌手のライブ配信と新曲リリースがいつ行われるのかをただチェックするぐらいにしか使わない。
僕はYouTubeぐらいにしか適応できない人間であり、それも音楽の動画にしか興味がない。TikTokなどで流行っているショート系の動画も、よくある面白系の動画もまったく興味がない。例外は僕が個人的にチャンネル登録した歌手の最新の音楽だが、僕はどれかひとりの歌手が特別に好きなわけではなく、さまざまな歌手みんなの曲が好きだ。だが、広くたくさんの曲を聴いて知り尽くすタイプではなく、BGMのように同じ音楽をいつまでも聴くタイプだ。だから、同じ曲を何十回も繰り返し聴いている。
IT系のニュースとして、スラドやgihyo.jpをたまによく見る。昔は2ちゃんねるを見ていたが、最近は5ちゃんねるはまったく見なくなった。あまりに人をいじめている人間が多すぎる。僕はいじめが大嫌いであり、5ちゃんねるは早く絶滅してほしい。

もっと勉強したい

このような僕の趣味は、意外かもしれないが「勉強すること」である。
僕はもっと本を読んで、もっと勉強したい。
僕は自分の勉強した内容を、自分のホームページに書く。
それによって、僕は最低限の労力で、大学と同等の勉強ができる。
もっとたくさんのことを知りたい。
だが、今までのように、単に基礎をすべて知るだけならば、もう終わった。
これからは、より専門的に、より深く学んでいかなければいけない。
そのために、「どの分野のことを専門的に目指すのか」ということを考えている。
すなわち、「自分が生きる上で目指すべきことが分からない」ということが悩みだ。
それこそ、Linux関連のことを学ぶなら、カーネルやミドルウェアを中心として、普通の基礎的なことは大体網羅した。
これ以上のことを書きたいなら、もっときちんと正しく説明を書かなければいけない。
そして、それはすぐにはできない。
そもそも、僕はLinuxやオープンソースは好きだが、それだけを専門的に学び、自らの生涯の専攻にしたいとは思わない。
僕はむしろ、もっと一般的で、まともに「技として習得できること」を身につけたい。
デザインの職場やピアノや英会話の教室に通っている僕だが、そのように、「身につける」ということができたら、何もできない僕であっても、できることが何かしら得られるのではないかと思う。
そう、僕は「分かっているだけで何もできない」という欠点がある。
デザインについても、僕はイラストが全然描けていない。単純な装飾をしたり、レイアウトの上に素材を乗せるばかりで、全然イラストのことができていない。
僕はピアノもきちんと失敗なく弾くことができないし、英語の発音も下手だ。
だが、僕は、小説や詩を書くという特技がある。特に、太陽や一等星、北欧神話の神々の名前を使って、自分独自の神話を書くことができる。
ほかにも、僕はたまに天才的な大発見のように見えるフィクションの上の大発明を書くことができる。
いろいろと言ったが、結局僕はまだ何かしらを勉強したい。
それから、ホームページの問題をもっと修正したい。
特に、僕のホームページには「悪意のないパクリ」が多すぎるため、このパクリについて、きちんと自分の言葉に修正する、という作業を、もう何ヶ月もの間行ってきた。
その作業はまだ終わっていない。僕のホームページから、問題をすべて修正する。

日本の文化が好き

このような僕の、今思うことは、「日本の文化が好き」ということ。
僕は基本的に、日本の文化が好きだ。
日本の食事、衣服、生活文化、家屋、人々の交流、思想、祭り、産業、歴史、社会制度、芸術のような、日本のあらゆる文化を知りたい。
かつての日本が、「とても恐ろしい異様な文明」であるとするなら、それでも構わない。
そのような文化であっても、「恐怖そのものの人生を生きた僕」であれば、抵抗なく受け入れることができる。
日本の文化を知ることで、逆に今の日本の生活もできるようになる。今の日本は、昔の日本文化に、プラスアルファで近代文明が増えただけにすぎない。昔の日本の文化や生活が分かっていれば、いくらか機械と社会の進歩だけを考えれば、今の日本のことはすべて簡単にわかる。
だから、僕はかつての日本の文化のことを知りたい。
そして、僕はそのために大学で勉強したいとは思わない。
大学でなくても、日本の文化を知ることはできる。
また、僕は中学生時代、剣道部だったため、そのような「日本の強く清らかな正しい文化」について、ある程度は詳しいつもりである。
僕が好きな言葉は、「誠」だ。
新選組がかつて旗印にしたような、「誠の心」は、正義とも翻訳できるかもしれないが、実際は正義とはまた異なる意義を持つ言葉だ。
僕は日本の誠の心が好きだし、それを掲げた新選組が好きである。

過去の自分の分かった哲学が分からない

本当は、僕はむしろ、子供に戻りたいといつも思っている。
その理由は、子供に戻らないと哲学が分からない。
僕がデカルトやロックやカントやヘーゲルなどの西洋哲学者の思想を学んだのは、近代哲学史が好きだからではない。
全部、過去の自分の考えた、「哲学的な思考」を思い出すためにそれらを学んだ。
だが、実際、僕はそうした「過去の僕の考え方」を、まったくきちんと分かっていない。
このことが、僕の大きな「悩みの種」になっている。
すなわち、いつもの僕の考え方を分からなければ、僕は何も分からないのだ。
かつての僕は、哲学以外にも、心理学や社会学について、ストイックにインターネットの社会経験をしながら、たったひとりで孤独に自由に考えることで、すべてを「可能性を創造すること」によって作っていた。
だから、僕はそうした、かつて僕が分かっていたことを、再び分かりたい。
そのために、まだ、旅は続いていく。
今の僕は、まだ何も、ひとつとして確かなことは分かっていない。
まだ、思い出す必要のあることがたくさんある。
特に、ウィトゲンシュタインのような言語哲学や分析哲学を知ることで、何かしら、新しいことが分かるかもしれない。
かつての僕は天才少年であり、みんなとはまったく違う人間だった。
いくら考えても、その過去の僕が考えたことが思い出せないのだ。
だから、まだまだ僕の人生は、完成とは程遠く、終わったとは言い難い。
まだ僕の執筆活動は続く。すべてのことをきちんと理解したと満足するまで、この旅は終わらない。

ツイッターより

今、昔の日本が復活する。昔の恐ろしい、非科学的な思想を信じる日本を、僕が復活させる。
posted at 23:39:25