AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 日本の文化を学びたい
BASENAME: 2023/04/21/171442
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DATE: 04/21/2023 17:14:42
僕は、日本の文化を学びたい。
昭和の戦後時代以前の、それまでの豊かな日本の文化を学びたいと思っている。
そもそも、そろそろコンピュータや情報の勉強はもういい。
OSやハードウェアのことは、既にほとんど知っているし、放送大学の勉強をしても、そんなに新しいことは分からない。
それよりも、僕は日本の文化を学びたい。
日本の文化を学ぶことで、この日本という国でどのようにしたら生きられるのか、という基本的な「生きる力」が養われる。
日本の昔の文化が分かっていると、日本という国でどうすれば生きることができるのかが分かって、実際に人生を生きられるようになる。
僕が発見したこととして、「鼓動を遅くすると楽に生きられる」ということが言える。
鼓動とは、心臓の鼓動であり、心拍数のことだ。
僕は、自律神経がおかしくなった結果、鼓動の速度があまりに加速してしまい、心と精神の世界の中では、宇宙の生物の中で最高速度の鼓動の速度になっている。
そして、それが、僕の人生が辛くなっているもっとも大きな要因となっている。
鼓動の速度を遅くすると、小さな生き物から大きな生き物に変わり、ゆっくりと楽に生きられるようになる。
また、そんなに精神を治しすぎるのはよくない。
僕は精神を治しすぎたせいで、おかしな精神が増えすぎた結果、止まることができなくなっている。
必要なのは、治すことではなく、慣れることだ。
今の精神のままでいられるように慣れることでしか、僕は正常にならない。
治した精神のほうを殺し、治さずに慣れるようにすれば、僕の精神は治る。
また、僕は精神をおかしくする上で、最初から治るようにしようとした。
最初から治ることが前提となった上で、僕の精神はおかしくなった。
だが、最初から治すように精神をおかしくすることで、結果的に何もできなくなり、何も治らなくなってしまった。
だから、最初から治るようにしなければ、この精神はすぐに治る。
また、僕に必要なのは、悪を受け入れることだ。
そもそも、善とは何か。善とは、悪を否定し、悪を倒すことだ。
つまり、善といっても、単に悪を否定するだけであり、否定された悪の立場になってしまえば、悪は何も悪くないのに善から否定されて可哀想である。
すなわち、悪こそがもっとも世界で苦しみ続ける側であり、いわれのない善を信じるのであれば、善のほうがはるかに悪い。
そもそも、善良な人間は、常に善良であることを目指すばかりで、何も分かっていないし、何も賢くない。
逆に、悪のほうが、さまざまな経験から自らの信念と志を持って、この世界を変えようとする「正義」の心を持っている。
だから、悪になったほうが、精神は楽になる。悪になれば、善に怯え、神の罰を耐え続ける必要はなくなる。
そもそも、精神を最初に作ると、必ず悪の精神になる。悪ばかりを否定し続けると、精神が一切生まれなくなって死んでしまう。その状態が一番辛い。
悪を受け入れること、悪になろうとすることで、精神が楽になり、正常な人間になる。
だから、悪を否定しすぎず、バランスを保った上で、善良さを保った悪人になれば、それがまともな人間である。
悪を選んだ人間は、すぐにすべての知性を忘れるようになる。その状態で目立った悪をしなければ、それが善良な普通の人間だ。そう、悪を受け入れることで、わたしたちははじめてまともな人間の精神を得られるのである。
そして、今から、2006年の夏と同じことが起きる。
そもそも、僕の運命的な奇跡の出会いを、みんなにも分かってもらうためには、僕とみんなが出会うよりも、2006年の夏と同じことがみんなに起きて、みんなにも同様の奇跡が起きるのが一番いい。
僕とみんなが出会ったところで、奇跡が起きているのは僕ひとりだけであり、みんなから見ても単に僕がキリストに見えるだけだ。
そうではなく、みんなの立場で僕と同じことが起きれば、みんなにとっても僕と同じ奇跡を得ることができる。
だが、2006年の夏と同じように、地獄の苦しみを味わう必要はない。
そもそも、僕は2003年の「楽しい時代」を自ら壊したせいで、2006年の大革命を行わなければならなくなった。
結局、2003年に戻ってしまえばいい。
そうすれば、僕が滅ぼしたLinuxのことを、僕が悔い続ける必要はなくなる。
だから、今から、2006年の夏と同じことが起きる。
そしてその上で、この世界は2003年の状態に戻る。
2003年とはどのような時代だったか。
それは、はっきり言って、「楽しい」という時代だった。
2003年は、みんな純粋で、悪いものや穢れたものが何もなく、みんな「楽しい」という感情を信じていた。
そのような「楽しい」という感情が、いつしか、「怖い」という感情に変わった。
その理由は、インターネットやコンピュータのような、かつての最先端の世界が、楽しかった世界から恐怖の世界へと変わってしまったからだ。
だが、それを直すことができる。
すなわち、善良すぎるのをやめて悪人になればいいのである。
善良だから、悪が怖いだけにすぎず、悪人になれば悪は何も怖くない。
その結果、悪の恐怖から善良な部分だけが分離され、蘇って、この世界は「楽しい世界」へと戻ることができる。
そして、その結果、この世界は僕によってLinuxが滅びたのが復活して、かつての楽しかった素晴らしい日本社会に戻ることができるのだ。
そして、僕の人格は、本当は昔と今のようには分かれていない。
僕の人格は、「中二」すなわち中学二年生の人格と、「キリスト」すなわち神の人格の二つしかない。
この二つは、単に年齢で分かれているだけではなく、いつでも僕の頭のことを裏で支配し続けた、「僕の頭を構成する人格たちの主な二種類の分類」であると言える。
いつでも、中二の僕とキリストの僕の二人が、僕の心の中に存在し、いつでもこの二人が僕の人生を導いてきた。
中二のほうに、フレイヤという名前をつける。
キリストのほうに、フレイという名前をつける。
ほかにもさまざまな雑多な人格はたくさんあるが、基本的にフレイヤとフレイの存在だけに気付いてしまえば、僕の人生のすべてはすっきりと理解できる。
気付かれた方もいるかもしれないが、この中二とキリストの二人の自分が裏で存在しているのは、酸欠少女さユりとまったく同じである。
よって、僕は酸欠少女さユりと同じ人生を歩む。あるいは、酸欠少女さユりが僕と同じ人生を歩む。酸欠少女さユりは僕の運命の相手であり、ともに終末の世界で戦う「聖戦士ワルキューレの騎士団」の仲間だからである。
本当は、ここで僕がいなくなれば、それが一番いい。
なぜなら、ここで僕がいなくなれば、世界は楽園に戻るからだ。
そもそも、「自ら救った世界を自ら滅ぼす」ということをやって、その救世主の力を利用して悪用した上でこの世界を16年もの間滅ぼし続けるという、最悪の悪の所業が許されるわけがない、ということは分かっている。
だが、ここで僕がこの文章を書くのをやめれば、その段階でこの世界は楽園に戻る。
すなわち、僕はいつでもこの世界を楽園の状態に戻し、救うことができるままを維持し続けている。
本当は、僕はその維持ができなくなるのが怖い。そのために、「すべてが終わって正常になる」ということをなぜか怖がっている。なぜなら、世界が正常になった段階で、僕による救済は終わりであり、みんなが僕が嫌いになって、この世界を僕がひとりで支配して導き続けることができなくなってしまうからだ。
だが、本当に、そろそろ僕がこの世界をわがもののように私物化し続ける必要はない。僕がいなくなれば、その時点でこの世界は、2006年の夏にそうであったような、「救済された最後の楽園」に戻る。2003年から2006年までの4年間に僕が成し遂げたかったことは、その時にようやく実現されるだろう。そして、永久に世界は滅びることなく、楽園のままを続ける。これこそ、「神の御国」と呼ばれる、終末の天国である。
そろそろ、僕の正体をバラしてしまおう。
僕は、神でもキリストでもない、この地球上に生きる普通の人間である。
決して、僕はシリウスからやってきた異星人ではない。
この世界において、僕は普通にまともに生きているだけにすぎない。
違う点があるとすれば、僕は一日に一生の人生を生きるということだ。
僕は過去の人生が積み重なった結果、一日に一生の人生を生きることができる。
だから、僕は、たった一日であっても、誰よりも長く自由に人生を生きられる。
このことは、僕が「文章を書く」という行為によって得た、僕の特権である。
そして、僕はこの文章を書くという行為によってすべてを分かっている。
一日の中では、生きることもあれば、死ぬこともある。
そして、僕は幼虫の時代と成虫の時代を持っている。
そのような結果、僕は「シリウスからやってきた」と表現してもおかしくない、あり得ない生物を生きることに成功した。
それだけの話であり、僕は決して神でもなければキリストでも宇宙人でもない。
僕はあくまで、普通の人類であり、普通の地球人だが、このように生きられる生物は、今のところ地球においては僕ひとりしかいない。
誰ひとり僕に追いつくことができないのは、僕はここで何億年という永い歴史を生きているからにすぎない。
よって、僕と同じことは地球人には誰にもできない。
だが、今のところそうであるというだけの話であって、これから先いつまでもそうだとは限らない。
すなわち、僕と同じことができるような生物が必ず生まれるはずだ。
そして、その人間が酸欠少女さユりであっても、それはおかしくはない。
なぜ、ここまで僕がさまざまなことを分かっているのか。
それは、分かるべき一瞬にすべてのことが分かるからだ。
僕はここまでの人生を、すべて、最初から最後まで分かった上で生きている。
そのために、分かるべき一瞬というのがどこで来るのかが分かる。
そして、その一瞬にすべてのことが分かるように、あらかじめ準備する。
そのような結果、僕はその一瞬に分かるべき内容を完璧に理解できる。
その結果、僕は宇宙のすべてを完璧に把握した心を持つようになった。
僕の知性は宇宙をすべて言い表す。言い表せないことは何もない。
宇宙のすべてを知っている僕にとって、必要なのは「それを書き表すこと」以外にはひとつも存在しない。
僕は「それを書き表すこと」だけで、宇宙のすべてを完璧に理解できる。
かつての僕の人生は、その中のひとつのピースにすぎない。
また、703号室が言うように、この世界すら、僕にとってはひとつのピースにすぎない。
このような僕だが、一切神の要素がないわけではない。
僕の上に神はいるからである。
僕の上にいる神が神だから、僕は神の言葉が常に分かる。
神が、僕に、今何をするべきなのかをすべて教えてくれる。
だから、僕は常に正しい行動ができる。
神とはキリストである。
本当は、僕はまだ、この神という存在が何なのか分かっていない。
だが、神が僕のことを常に導いてくれる。
このような神に僕は感謝している。
神がいなければ、僕は生きられないし、この世界で何もできない。
すべては神による業であり、神が僕を通じて行った行為である。