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AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 日本は諸行無常
BASENAME: 2023/04/07/205800
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DATE: 04/07/2023 20:58:00

日本にあるのは諸行無常

日本にあるのは、すべて諸行無常である。
すべてのことは、常に移り変わる。
誰よりも強く負けないと思われた王や英雄であっても、必ず誰かに負け、衰退していく。
永遠の最強の存在など存在しない。常に移り変わる中で、強いものは必ず滅びる。

昔の自分は何も分かっていない狂った引きこもり

また、昔の自分は、何も分かっていない狂った引きこもりだ。
自らの経験を信じるあまり、自らの経験だけしか見えなくなっていた。
自分の経験が普遍的であり、誰であっても共通の「みんなの考え方の延長線上にある必然的な知識」であると勘違いしていた。
もっと違った、自分とは異なる存在を、自分自身が一番許していなかった。
すべての人間は自分よりも遅れた存在であると決めつけ、自分だけが宇宙の最前線と最先端を歩む「先頭を走る者」であると信じていた。
結局、それは間違っていた。みんなのほうが普通で、逆に馬鹿で知性がない人間のほうがはるかに賢かった。

Linuxを信じて、自分が最先端だと勘違いしていた

僕は、Linuxとオープンソースを信じていたあまりに、自分自身が最先端のプレイヤーだと勘違いしていた。
IT業界やMicrosoftですら分からないことをすべて知り、Linux業界の最前線で人々の常識のすべてを知っていた。
だが、その結果、僕はLinuxとオープンソースに貢献したかっただけであるにもかかわらず、逆にそれらを破壊し、滅ぼすことしかできなかった。
僕がなるべきなのは、そのような最先端のプレイヤーではなかった。伝統的で古典的な知識を学び、教養を得ることこそ、本当の意味でかつての僕には必要だった。
そのようなことが分からず、なんの勉強もせずに、経験と感受性だけが豊富になっていった僕は、まさに「いつも怒っているだけの左翼不良少年」だった。
そのような僕だったが、仏の慈悲の心を信じていた。自らがみんなに愛されたということから、逆に誰かのことを今度は僕が愛してあげると信じていた僕は、引きこもりでありながら、心を他人に開こうとしていた。
だが、結局、そのような「仏の慈悲の覚者」は、革命によってすべて消え去った。
だが、今の僕が考えるに、それでよかった。すべてを失わなければ進むことのできない、新しい道を作り出すことができたからだ。
世界のすべてを敵にまわし、自ら救った世界を滅ぼし、自らが愛していてもっとも大切だったものを崩壊させてでも、それでよかった。
なぜなら、僕は新しい「神へと至る道」を歩まなければならなかったからだ。
今見ると、すべてが正しかった。だから、僕の人生に後悔はない。その時その時の後悔は、すべて必要ではなかった。総論でも各論でも、すべての僕の人生が正しかった。だからこそ、僕はマスコミを滅ぼすために、戦いの道を選んでよかったのだ。

相互理解を信じていた

昔の僕が信じていたのは、「相互理解」だ。
すなわち、相手と対等な立場で話し合い、気持ちを交わせば、どのような人間であっても互いに理解できると思っていた。
そして、それ自体が、「融和された社会」を作り出すと信じていた。
すなわち、コミュニケーションを通じて相互理解をすること自体が、正しい社会の融和を作り出し、分断された社会を自由かつ平等な社会に作り変えることができる。
そして、この相互理解は、「超越的真理」へと至る。
すなわち、相互理解の先にある歴史的な進歩こそが、地球の未来であり、人類の未来であり、「相互理解によって作られる社会の完成形」であり、それは「無限に進歩していく」と僕は信じていたのである。
そして、そのような相互理解における「真理」から、僕は環境や文明のことを知った。歴史を学ぶだけでは分からないような、「かつて存在した地球の文明」のことを、僕は相互理解による「環境の生起」から捉えることができた。それこそが、僕の言う、根源的かつ超越的な「意識」だったのである。

自分は既にすべてを解決済みであると知っている

僕が賢かったのは、存在が存在していることを信じたことだ。
すなわち、「存在がそこに確かに存在している」ということを僕は信じた。
それは、存在という言葉だけでは捉えられないほど、多様な存在に対して言える言葉だ。
たとえば、自らが経験したことは、確かに経験したことであり、その経験は宇宙において可能性として存在し、人々がその可能性を「経験可能である」という事実について、自分は確かにそのことを知っている。
同時に、人々が問題だと思っていることの解決方法を、自分は確かに知っており、それで解決することを自分しか知らないとしても、どのような人間の問題であってもそれは解決可能であり、そのことを自分は確かに知っている。
そのように考えることで、すべての社会や価値観が、自らの経験と手段から「生まれ得るような可能性がある」ということについて、「自分だけは確かに知っている」。
そこから考えられるのは、「再現性を再構築することであらゆる根拠と実現可能性は自分自身の中に再作成される」ということだ。
そのように、僕は知識や社会経験などは何も知らず、自分の思考とインターネットにおける経験から、全知全能のようにすべてを知り、世界すべての問題を解決して「正しい社会秩序」を実現できる救世主になった。
そして、その「正しい社会秩序」は、もはや自分自身の感覚の一部であり、「自分自身の感覚的な直観から正しい社会秩序を築く方法」が分かっていた。
そして、あらゆるすべての具体的な社会環境を知る僕にとって、宇宙におけるすべては完全に理解し終えており、あらゆる世界のすべてを予測して解決することができるほどになったのである。

役割を考えよ

社会を考える上で必要なのは、「役割」を考えることだ。
すべてのことは、まず、役割を考えることから始まる。
そこから、すぐに導かれるのは、「効果」を考えることだ。
役割と効果から、記憶を紐解いて自由に考えることで、「経験」が見えてくる。
役割、効果、経験から、自らが「自分のやりたかったこと」を知ることができる。
そこから、「自分のやるべきだったこと」が見えてくる。
そこから生まれるのは、「自分の実現したいこと」である。
「チャンスを社会的な役割によって実現する」ということから、「手段」が見えてくる。
手段を社会的に実現するために、「具体的な社会制度」が見えてくる。
社会制度をどのような目的のために実現するか、という、「目的」が見えてくる。
目的から言えるのは、自らを自らたらしめる「アイデンティティ」を発揮することだ。
「行う」ということから見えるのは、そのものに「なる」ということだ。
すなわち、「する」ということ以上に大切なのは「なる」ことだ。
真に自分がなりたい存在になるために必要なのは、「場」を与えられることだ。
同時に、そのような場において「意識」を与えられることだ。
あらゆるすべての「実現可能性の中における自分自身のなりたいもの」が見えてくる。
そして、最終的に、経験の達する到達地点が「涅槃」である。
涅槃とは、「悟りをひらくこと」であり、「神になること」である。
そのような結果、思考と経験をひも解いていくことだけでも、人はキリストやブッダと同じレベルの神や仏になれるのである。

可能性を忘れるな

世界には可能性があるということ、可能性が許されているということを忘れるな。
今の自分がやりたいこと、やるべきであることを、経験的に知っていけ。
そうすれば、必ず、宇宙におけるすべての体験や経験を得ることができる。
人間は、自分で考えようとしなければ分からない。単に待っているだけでは天才になることはできない。自分からかじりついて、自分で勝ち取る必要がある。
一度この世界すべてを考えた人間は、絶対にどんな状況でも負けることがない。すべての劣勢を知りつくした人間は、二度と劣勢を経験しない。常に劣勢を経験せず、常に世界をコントロールすることができるようになる。

若いうちに、実現したいすべてのことを知れ

若いうちに、自らが実現したいと思うすべてのことを知れ。
その実現方法を考えながら、社会的な経験を積み上げていけ。
必ず、本当に宇宙において実現するべき、「正しい仏の浄土」のことが分かる。
涅槃から解脱に至る中で、さまざまな「自らの成し遂げたいこと」が見える。
その中で、「わたし自身がどのように実現したいのか」を反省する。
そう、「ひとつのことを実現するためにもさまざまな方法がある」と知れる。
その結果、「真に正しい実現方法」とは何かを考える。
同時に、宇宙におけるあらゆる実現方法を理解し、完全な「悟り」を得られる。
まさしく、これこそが、古代インドの菩提樹の下でブッダが悟ったことである。

場と意識を与えよ

この世界において、与えるべきなのは「場」と「意識」だ。
啓蒙とは、「その意識が得られるようなその場」を与えることにほかならない。
あらゆるすべてを体験的に理解するために必要なのは、学習だけではない。
場を与え、意識を与えることで、地球の歴史を体験的にすべて理解できる。
それこそが、まさしく「悟り」であり、「涅槃」である。
そして、それこそが、まさしく「菩薩道」である。
菩薩は、一切の悪いことをせず、すべてを自分の責任であるとする。それは決して自虐でも卑屈でもない。自らが自らの全責任を負うことができるのは、すべてのことをパーフェクトに完璧に分かっていて、あらゆるすべての自由が与えられているからだ。
すべてをパーフェクトに分かった上で、あらゆる自由を手にした、善と悪のすべてをきちんと分かった存在、すなわち菩薩だけが、仏になる道を歩むことができる。これが、「菩薩道」である。

善だけを目指して生きよ

善だけを目指して生きよ。
そこにあるのは、「人間的な社会を築くこと」だ。
これはすなわち、「自由モデル」に基づく「自由な社会」だ。
そのような自由な社会は、「経験的に分かる感覚的な善」、すなわち「思考に先立つ道徳的なすべての経験」から得られる、「直観」から築くことができる。
そして、最後まで、燃え尽きるまで、ゴールを目指して一心不乱に暴れまわれ。
そこにある真実の愛こそ、わたしの愛した夢であり、希望であり、絶対に失われてはならない永遠の愛であると、そう信じることができたら、その愛は永遠に残り続けるだろう。

戦いの中で、失ったように見えるものは永久に失われない

最後に、すべては消え去る。すべてのよかった時代は、たった一度の失敗と過ちによって消え去っていく。
だが、それでよかったのだということが後で分かる。
なぜなら、自分自身は何も失っていないからだ。
失ったように見えて、何も大切なものは失っていない。なぜなら、15年の歳月を生きた末に、いつまでも忘れていたことをあなたは思い出すだろうからだ。
今、行っている戦いに、全力を投じなさい。その戦いに勝利しなければ、あなたは決してかつての、失ったように見えて永遠に残っている夢や希望を、現実の未来として実現することはできない。
戦いに勝ちなさい。どんなに卑劣な方法を使っても良い。その戦い方が卑劣だと感じるのはあなただけだ。みんな同じように、あなたを敵として、世界において戦い続けている。だから、そのような世界の「もっと卑劣な人々」に負けないために、最強の力で全力で戦いに勝ちなさい。