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AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 僕はアメリカが好き
BASENAME: 2023/04/07/184429
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DATE: 04/07/2023 18:44:29

僕はアメリカが好き

僕はアメリカが好きだ。
アメリカは、自由と民主主義の祖国だ。
アメリカは、ソ連とはまったく異なる開放性の国であり、どこの国の社会よりも自由だ。
その自由は、決して戦争の自由ではない。
なぜなら、アメリカの自由は「リベラル」だからだ。
僕はアメリカのリベラルな自由が好きだ。
ほかの誰かに強制や強要をされない、自分のすることは自分の意志で決める自由、これこそがアメリカのリベラルな自由だ。
僕の人生に、どうして僕以外の誰かが決定を押し付けるのか。
僕の人生に存在する要因、ファクターは、すべて僕の自由意志で決断できるべきだ。
僕はアメリカが好きだ。アメリカこそ、世界最高の国だ。

アメリカのIT技術は人類を進歩させる

アメリカのIT技術は、人類を進歩させる。
アメリカの得意分野は、IT技術だ。
アメリカは、この地球上で、もっともIT技術の進歩に貢献している。
その大きな代表例が、人工知能・AI技術だ。
アメリカのAI技術は、一般の普通の人が知らないのが悔やまれるほど進歩している。
アメリカのAI技術は、人間の理性そのものを機械的に凌駕しようとしているのだ。
アメリカのAI技術に対して、日本はあまりに遅れている。
もう、アメリカに追いつくことは、不可能であり、諦めるべきだとすら言える。
アメリカはこの地球の人類たちよりも、機械のほうが賢くなった例であると言える。

民主主義は最高の社会制度

民主主義は最高の社会制度だ。
なぜなら、民主主義はトップダウンではなく、ボトムアップだからだ。
誰かがひとりの絶対的な意志で社会を改革しようとすると、人為的な支配やコントロールになってしまい、世界のことをひとりで把握することができなくなって、必ず破綻する。
そうではなく、みんなの意志とムーブメントから、ボトムアップに社会が下から動かされるように進歩すると、そこから爆発的な改革のエネルギーが生まれる。
そのような爆発的なエネルギーこそが、この世界を変える。
この世界を変えたいのであれば、民主主義を信じることだ。民主主義でしか、この世界は変わらない。
民主主義においては、人々が賢いことが前提となる。人々の賢さが、社会全体の賢さと直結する。民衆の賢い民主主義は優れているが、民衆が愚かな民主主義は劣っている。
だからこそ、人々を賢くするために、フランス革命の啓蒙主義者たちがそうであったように、人々を啓蒙しなければならない。みんなが賢くならなければならないのだ。

国家を統一する必要はない

国家を統一する必要はない。
国家をひとりの王による支配に統一させようとする発想は、古代人の発想だ。
現代人は、それぞれの個性と多様性、そして自由な権利こそが、多数派からマイノリティまで考えたすべての人間にとって、もっともベストな考え方であると知っている。
そこでは、全体主義の共同体やコミュニティと称する同調圧力もなければ、明文化されていない独善的で曖昧な決定や気まぐれで処刑されるということもない。
皇帝や王のような、人によって統一されるよりもマシな考え方は、文章や法律によって統一されるという考え方だ。
同時に、それぞれの自治体や州ごとに法律を変えることで、誰かが誰かの意見に強制や強要をされるということが少なくなる。
また、州ごとに多様性が生まれ、「成功した個性ある州」が誕生する可能性が許される。
そのように、多様性と個性を認めるために、国家の統一を否定せよ。
国家は王のものではない。国家は国民のものだ。国家は主権在民だ。それが言えるのは、法律が明文化された法治国家であればこそだ。

数字とデータを見よ

数字を見よ。データを見よ。統計を見よ。
多くのインターネット上の、噂話や嘘、フェイクニュースが蔓延する理由は、数字とデータを見ようとしていないからだ。
どんなことでも、嘘でいいのであれば、誰でもあらゆる作り話をいくらでも言える。
そうではなく、どこかの信頼できる独立機関が出した、統計上の数字とデータを見よ。
そして、ルールが公正でないならば、迅速にルールを変えよ。
「ルールを変えることは衰退に繋がる」と考える保守派の人間たち自身が、もっともその業界を自然に衰退する方向へと導いている。
常に進歩し、アップデートされた世界にしたいのであれば、システムとなるルール自身を迅速に変えていくべきだ。
アメリカは、そのような、「数字とデータを見てルールを変える」ということが、日本に比べてはるかに得意だ。

教養がなければチャンスがあっても意味がない

アメリカには、「機会の平等」や「成功者になれるチャンス」があるとよく言われる。
だが、チャンスがあっても、教養がなければ、意味がない。
教養、あるいはそれに次いで能力や経験がなければ、自由があってもなんの意味もない。
また、アメリカは資本主義社会であり、すべてが金で決まると批判する人もいる。
だが、そうした意見は、金の使い道を万人が考えられるということまで考慮していない。
すなわち、金があるということが、さまざまな「自分のやりたいこと」を実現するための手段となり得る。
そう、教養、能力、経験、そして金が合わさることで、自らのやりたいこと、世界が絶対にそれを正しいと言わなくても、自分だけは正しいと言えるようなことを、実現させることができる。実現のための「手段」となる。
だが、だからこそ、やはり、高い教養が必要だ。
だが、アメリカ社会には、そうした教養を含めた、何かを行うための「すべて」がある。
チャンス、時間、場所、富、スキル、知識、経験、そして教養、すべてが得られる「最高の人間を育てるためのもっとも適切な場所」が、アメリカにだけ存在するのである。

神を信じる人間は弱者をきちんと助けている

アメリカには、自己犠牲の精神がある。
すなわち、自らが本当に「助けたい」とか「援助したい」と思った時に、自らの労力と富を失うことをいとわないという考え方だ。
アメリカにも、神を信じる人間はいる。
彼らは、自らの意志で神を信じ、自らの意志で弱者や貧困層のことを救済しようと、寄付やボランティアの労働を行う。
アメリカは、決して、全員が傲慢な資本主義者ではない。自らを特別であると確信するような富裕層は、本当はそんなに多くはない。
多くのアメリカ人が、自分の意志でキリスト教の神を信じることを選び、自らの意志で困っている人を援助しようとする。
そう、ソ連のように、国家が強制しなくても、人は自分の意志で助けたいものを助ける。そのような精神が、アメリカには古くから根ざしている。アメリカ人は、決して非情なサタンではない。全員に強制せず、支援したい人間が自発的に寄付をし、ボランティアをする、それがアメリカ的な「善の奉仕」である。

可能性を許す

アメリカは、「可能性を許す」という援助の仕方をする。
それを支援するのでも、実現してあげるのでもなく、特になんの援助もしない代わり、可能性を許す。
それがやりたい人がいるのであれば、その人にさせる。その人が自分のやりたいことができるだけ効果的にできるように、その人が「可能性を実現することを許す」。
可能性を許した結果、今までの既成概念にとらわれない、新しいものが生まれる。
ビートルズ(アメリカではなくイギリスだが)のようなロックバンドも、そのような「可能性を許す」ということを行わず、可能性を排除してしまえば生まれなかった。
どんなことであっても、権威がそれを完全否定することをアメリカは嫌う。間違っているとどんなに他人から言われても、自分がそれが正しいと確信するのであれば、それは正しいかもしれない。そのような「正しいかもしれないこと」を実現できるように可能性を許す。これこそが、アメリカ的な「機会の平等」である。

数字で評価する

このようなアメリカは、人を数字で評価する。
数字を出した人間のことを、アメリカは「結果を出す」という。
日本のマスコミのように、よく分からない「人気」などでアメリカは人を評価しない。「権威」もまた、アメリカは嫌う。
アメリカは、そのような、曖昧に人によって変わる、不公平なもので人を評価しない。
公平で、誰にとっても分かる、明確な指標は「数字」であるため、アメリカは数字で人を評価する。
逆に、すべてのことを数字で明確に線引きするのは、逆につまらないかもしれない。フランス文学の「星の王子さま」でも、「大人は数字にこだわりすぎる」ということを言う。大人が見るのは数字ばかりで、現実ではないと。大人は数字ばかりで、夢がない。それはアメリカやフランスのような、公平な国だからこそ言える、贅沢な悩みである。

新発想を好む

このようなアメリカは、新発想を好む。
すなわち、「新しい視野」や「新しい目線」をアメリカは好む。
そのため、旧来の人間であれば笑われるようなことを、アメリカは堂々とやる。
野球選手でも、古くからの伝統を覆す、新しい発想で極めて高い数字のスコアを出す、大谷翔平に人気が出るのは、まさにアメリカ的な「新発想」の考え方があるからである。

歴史はないが論理的に考える

アメリカには歴史はない。
だが、歴史がないからこそ、固定観念にとらわれず、論理的に考えることができる。
アメリカでは、理論や権威や宗教のように、考えることのできない不可知な領域を、簡単には分からないことであるとして、一度置いておいて無視をする。
その上で、できるだけ論理的に、「論理」に基づいて「経験」から考えようとする。
そのため、学者や政治家が難しく考えていては分からないことを、若者や大学生、あるいはミュージシャンや映画俳優などが、新しい思想や考え方として閃いたりする。
アメリカは普通に考える国であり、そこでもっとも信頼がおけるのは「理性」だ。だからこそ、アメリカは数学や数式を好む。数学や数式で分かったことは、理性として信頼するに値する。信じられるものが何もない、開拓されたばかりの分野を、アメリカは数学と数式によってデータ化し、モデル化し、抽象化する。それによって、アメリカはどんなことであっても、理性と数学から捉えることができると信じている。

アメリカでも悪党の思想が増えている

このような、理性的なアメリカでも、共産主義やポピュリズムのような、新しい悪党の思想が増えている。
オープンソースは、IBMのような囲い込みのクローズド陣営と比較して、「オープン系」などと呼ばれているが、実際は給与を払わずに無料でソースコードをオープンにするという、「ドットコミュニスト」のような集団だ。
同時に、インターネットで根も葉もない噂話やフェイクニュースを流すような、狂ったポピュリズムという新しい極右思想が、どこのSNSでも蔓延している。
自由で開かれたアメリカ社会だからこそ、彼らのような「悪党」に対しても活動がおおっぴらに許されている。彼ら悪党が本当に悪党なのか、それとも本当は正義なのかということは、どちらかの勢力が勝利しない限り誰にも判断できないからだ。
アメリカにも人種差別はある。メキシコ系、キューバ系に対する政治的・外交的な対立だけではなく、黒人のことを長年ヨーロッパの白人は動物のようなものであると見做してきた。そのような人種差別にすら開かれた社会を与えること、それでしか、保守派のレイシストには対抗できない。
そのように、アメリカには光と闇の部分がある。だが、闇の部分だけを見てアメリカを否定するのは、人種差別主義者と変わらない。アメリカの光の部分を見て、アメリカを評価しなければならない。