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AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 愛は間違っている
BASENAME: 2023/03/17/162654
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DATE: 03/17/2023 16:26:54

愛は間違っている

僕は、キリスト教の言うような「愛」を信じない。
愛を信じることは、間違っている。
「愛」と呼ばれる感情を至高の感情であると考えるのはおかしい。
愛よりも大切なものはたくさんある。
そして、そのひとつが、僕は「自由」だと思う。
愛だけが大切だとするのは間違っている。愛よりも、個人個人の自由意志を尊重する、「自由」のほうが大切である。
僕は愛を信じない。僕は自由を信じている。

WBC

昨日は日記を書かなかったが、WBCの日本とイタリアの戦いを見ていた。
まったく、イタリアは、今までの相手よりも強かった。
それでも、結果は日本の大量得点による圧勝。
このまま行けば、アメリカに行ってからも、快勝を続けると思う。
試合の内容は、大谷のうめき声を上げながらのピッチングに、意表を突くセーフティバント、そして村上のやっと出た待望の長打(2安打)。
本当に、5番に打順の下がった村上が、やっと復活してくれて、本当によかった。次の試合でも、村上の打撃を期待する。

やっていることが最後まで終わった

そろそろ、僕は、この文章を書くのをやめるかもしれない。
それは、やっていることが最後まで終わったからだ。
実際のところ、僕自身、何をやっているのか、最後までそれが何なのか分からなかった。
だが、それでも、最後まで僕はそれをやり通して、それがもう最後まで完全に終わった。
これで、僕のやりたかったことは、終わりだ。
最後まで、僕はきちんとやっていることをやり通した。
その結果、すべてのことを知り、すべてのことを経験し、すべてのことができるようになった。
僕はここに、作家としての「完了」を宣言する。
僕は今からデザイナーになる。デザイナーになるために必要なのは「工夫」の力だ。さまざまな部分に「工夫」を施せば、僕であっても綺麗なデザインをすることはできる。
ここに、大天使ミカエルは死んだ。新しいラファエルこそ、最高の芸術家になる。

子供が間違っている

そして、間違っているものは何かというと、それは「子供」だ。
子供に戻ろうとするから、おかしくきちんと正しいことが分からなくなる。
子供とは、「正しいことが分からない人間」のことを言う。
正しいことがなんなのか分からないから、子供は勘違いと思い込みを繰り返す。
だが、大人には、正しいことがなんであるか分かる。
だから、子供を脱却するだけで、勘違いや思い込みに基づく精神病は治る。

世代が違うようにほかと世界が違う

僕は、いろいろと分かってきた。
まず、世代が違うように、僕はたったひとりだけ「独自の特別な世界」を持っている。
そもそも、1980年代以降に生まれた子供が、1950年代に生まれた大人のように、きちんとこの世界が分かるはずがない。
それは逆のことも言える。1950年代に生まれた大人が、今の世界を1980年代に生まれた子供のように分かるはずがない。
だが、僕の場合、そのような「世代」という概念を超越して、「ひとりだけが別の世界」になっている。
僕という存在は、ほかの人間の世界は分からない。だが、僕の知っている世界は、ほかの人間には分からない。
このように、ひとりだけ特別の世界を持っているのが僕であり、それは世代間の違いとまったく同様のことを意味している。

剣道部とピアノと学校

僕の人生を決めたのは、剣道部とピアノだ。
そもそも、僕が引きこもりになった理由は、学校の勉強がどうでもよくなったからだが、その根源となる理由は、剣道部を幽霊部員になったことにある。
初段の昇進の試験に落ちて、剣道部に行かなくなった時点で、僕は剣道部という部に所属していることがどうでもよくなって、空いた時間で家でゲームをしていた。
そのような結果、僕は剣道部だけではなく、学校の勉強もどうでもよくなった。
僕は、「学校よりもパソコンの勉強がしたい」と思うようになった。
そのために、僕は不登校になった。
確かにいじめは辛かったが、実際はそんなに酷いいじめではなく、笑われてからかわれるぐらいの「いじられキャラ」だっただけで、その「誰かにいじられる」という行為が大嫌いだっただけにすぎない。
よって、僕は剣道部に行かなくなったせいで、学校に意義を見いだせなくなった。
だが、剣道部自体が嫌いだったわけじゃない。剣道部自体はとても楽しい思い出だった。だが、僕には剣道の才能ははっきり言ってなかった。小学生時代に駅伝の大会に出ていたため、持久力が得意で息が続くという以外に、剣道で目立った長所はなかった。
それから、僕が世界と戦っても平気でいられるのは、ピアノをやっていたからだ。
ピアノは小学生時代に一番辛かった。ピアノが弾けなくて、何度か泣いた記憶すらある。それでも、僕は子供たちだけの発表会と呼ばれるコンサートで、たくさんの聴衆の前でピアノを弾くという経験をした。
そのような経験から、僕はメンタルが強くなり、どんなに世界を敵に回しても、失敗せずに戦い続けられるようになった。
そういうわけで、不登校の原因は剣道部にあり、戦いをする原因はピアノにある。
それ以外には、学校の勉強など簡単にできた。僕は成績表がオールAの優等生だった。親が教師だったというよりも、僕は遊ぶのが好きで、遊び方が得意だった。パズルのようなゲームをよくクリアしていたというのもあるが、そうしたゲームの攻略法を姉と一緒に見つけ出すような経験が多くあったため、僕は遊びの延長線上として学校の勉強はとても得意で簡単にできていた。
言ってしまえば、学校の勉強など遊びにすぎない。算数の計算は明らかに、人生においてそんなに取り組むべき課題ではない。だが、遊びだと考えれば、計算の速度と正確さを競うのも遊びであると言える。国語についても同様で、漢字練習、音読、作文など、すべて遊びにすぎない。
そのような遊びばかりの学校で、あまりに高得点を叩き出し、そのためにあらゆる準備と努力を行うのが、僕は馬鹿馬鹿しいと感じてしまった。
学校の勉強が誰よりもできるからこそ、僕はみんなと同じように学校で遊ぶということを好まなくなった。
そのような僕は、「遊ぶ」ということを否定し、遊ぶのではなく「できる」ということを目指した。あらゆるすべてのことができるようになりたかったため、僕は「すべてのことができるためには何から経験し積み重ねていくか」ということを考え、その結果、哲学者あるいは大学博士のようなことを、「自分で理性を作る」ということのみからできるようになったのである。

全部偶然だと思えば楽になる

はっきり言って、この世界を治すのは簡単だ。
なぜなら、「全部偶然」だと思ってしまえばいいからだ。
すべてのことが「偶然」であり、「その時その時違う」という世界になってしまえば、全部同じ地獄しか起きないのが終わり、普通に楽に生きたりしながらたまに辛いのだけを我慢すればいい世界になる。
常に逆になっている人間は、放っておくとすべてが正しい人間になる。だが、それが間違っている。すべてが正しい人間は、常に辛いことを克服し、常に正しく判断するようになり、それがもっとも生きる上で辛い。常に失敗することができない人間になる。
たまに成功し、たまに失敗し、すべてがランダムに起きる人間になれば、どんな精神病であっても本質的に治る。
だから、僕は今からこの世界をすべて偶然にする。

愛が気持ち悪い

はっきり言って、愛が気持ち悪い。
みんなから愛されて、みんなを愛して、それがなんだというのか。
僕はそもそも、キリスト教の教えである「愛を信じよ」が嫌いだ。
そもそも、いじめられても反撃するなどという教えは、素晴らしい存在を信じているように見えて、実際は一番残酷なことを言っている。
攻撃されても反撃しないなら、それは永久に攻撃され続けるだけだ。
正しいのは、愛ではなく自由だ。
ほかの人間がどうなったところで、はっきり言って関係ないし、相手から攻撃されるなら、自分はそれに対して反撃できるような自由を行使するべきだ。
愛は間違っている。正しいのは愛ではなく自由だ。

平等は何もしないだけ

また、はっきり言って、平等は何もしないだけだ。
自由を許さず、経済格差をできるだけなくそうとして、みんなのものを平等に分配するという考え方は、「不自由な平等」ということ、すなわち「自由な行動を許さない」という考え方に基づいている。
だが、自由な行動を許さないということは、結局「何もするな」と言いたいだけである。
自分のために金を稼ぐことを許さず、経済格差が絶対に生まれないようにするということが意味するのは、「何もできない国家のロボットとして生きよ」ということだ。
それはまったく、「人間が生きるということの否定」であると言わざるを得ない。
必要なのは、格差が生まれるにしても自由な行動を極力許すことだ。そうでなければ、馬鹿なことだけではなく賢いことができなくなる。自由を許さなければ、間違ったことだけではなく、正しいこともできなくなる。
自由を許すことでできることは、悪いことだけではない。人間は成熟した理性と経験があれば、正しいことを行うことができる。だからこそ、ある程度の間違ったことが起きる可能性をすべて排除せず、間違ったことが起きるとしても、正しいことができるということの「可能性」を優先しなければならない。
ソ連には、そのような「可能性」が存在しない。正しいのは自由な民主主義国家であるということが、不自由なロボット人間の管理社会のソビエト政府には分からないのだ。

信じるべきなのは人間ではなく意見

信じるべきなのは人間ではない。
その人間が賢いからとか、その人間が偉いからという理由で、その人間を信じて、それは上手くいかない。
正しいのは、人間を信じるのではなく、正しい意見を信じることだ。
その人間だから素晴らしいとか、そういう発想をするのでなく、どんな人間であっても意見が正しければその意見を信じるべきだ。
確かに、社会制度を成り立たせるために、支配者を信じてみんなを支配するという行為も正当性を持つことがある。
だが、ひとりが支配することで世界を変えるということは、もっとも単純かつ未熟な世界を変える手段だ。
力で支配しなくても、もっとほかに、世界を変える手段はある。力で強制的に押し付けて支配しなくても、言葉でコミュニケーションすることはできる。ひとりが力を持たなくても、みんなに平等な力を与えることはできる。
そのように考えなければ、いつまで経っても戦争と腐敗はなくならない。ひとりの人間を信じるのではなく、意見あるいは明文化された法律を信じるべきだ。

アイデンティティを別のものに変えよ

自らの立脚するアイデンティティを、別のものに変えよ。
自らのアイデンティティが間違っているから、何もできなくなっている。
そもそも、人生の最初に選ぶアイデンティティなど、多くの場合間違っている。
僕は、それがLinuxであり、オープンソースだっただけにすぎない。
だが、今考えてみると、Linuxを夢見て生きた少年の人生は、すべてが堕落した間違った人生だった。
本当の夢を、もう一度最初から作ればいい。
いつもの自分のアイデンティティはもう不要だ。もう一度、自らのアイデンティティを、別のものに変えよ。