トップページに戻る

AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 宇宙への約束
BASENAME: 2023/03/07/214919
STATUS: Publish
ALLOW COMMENTS: 1
CONVERT BREAKS: 0
DATE: 03/07/2023 21:49:19

宇宙への約束

ここに、宇宙への約束をしよう。
僕は、今から、完全にオリジナルの作品を作る。
ヴァルキリープロファイルや手塚治虫の火の鳥のパクリのような作品を作らない。
今から、きちんと自分で考える。
今までの作品はすべて失敗作だ。ここから先は、よりマシな作品を作る。
失敗作ではなく、オリジナルのよい作品を作るために、どうすればいいか、よく考える。
もう、人生をそのまま簡単に書くことはしない。
人生を書くのであれば、もっと賢いことが書けるように、もっとよく考える。
自分の経験を書くこと自体は悪くない。
だが、繰り返し人生のことを単純に書き直しても、何も新しい発見はない。
より新しい発見をするために、「定める」という行為をやり直す。
同じものに定めるだけではなく、違うものに定めることができるようになる。

イスラエルと北欧神話はここで終わり

イスラエルと北欧神話は、ここで終わりにする。
東亜イスラエルの終末は、運命を僕が勝手に決めているだけであり、目も当てられない。
北欧神話はつまらないゲルマン魂の神話であり、イスラム教の神アッラーが見ても、「アッラーと邪教の神々を一緒にまつる」という、神の怒りを買うことをしている。
よって、イスラエルと北欧神話はここで終わりになる。
今までの人生をそのまま書くのではつまらないのであれば、新しい人生を生きて、その新しい人生を書けばいい。
人生を書くという行為はつまらない。なぜ、自殺未遂をするまでの全人生を繰り返し何度も書こうとするのか。それらは絶望と地獄の人生だ。
そもそも、世界に戦いを挑むという行為が悪であることに気付け。
世界に対する戦いを堂々と宣言する行為は間違っている。だからハゲネのような暗闇の人格が生まれるのだ。

情報と経験が足りない

結局のところ、情報が足りないのである。
情報が何もない中で考えるから、知性が分からなくなる。
賢い人間は、情報を元に考えている。
情報が何もない中で考えるという人間は大人にはほとんどいない。
同時に、情報だけではなく、経験が足りない。
経験は、本当はないわけではない。忘れているのである。もっと、経験したさまざまなことを思い出せ。そうすれば、きちんと経験の持つ意味を知性によって知ることができる。
知性は、情報と経験からつくものだ。単に知性だけを単純につけるとロボットになってしまう。ロボットにならないためには、情報と経験から自由に考えること。
そもそも、ロボットとは支配された状態ではなく、支配をまったくされていない状態だ。なんの支配もされていないからこそ、自分の絶対意志に絶対に従うようなロボットになる。この世界に支配されることを受け入れるだけでもいい。それだけでもロボットは治るし、自由になれる。
いわば、人々と協調して生きるのが人間であり、孤独にひとりだけで空回りするのがロボットだ。ロボット人間から脱したいならば、人々の言っていることをきちんと聞いた上で、情報と経験に基づいて考えよ。それが「自由」であり、それが「正常」だ。
ロボットとは「ひとりの支配者に絶対に支配された状態」であり、自由とは「支配される対象を自由に選ぶことのできる状態」だ。だから、支配者を目指せば目指すほど、自分自身であるその支配者に支配された状態になる。逆に、支配されることを目指した段階で人は自由になる。自由とは支配されることであり、不自由とは支配者になることである。

ドイツを嫌いになればいい

はっきり言って、ドイツを嫌いになればいい。
ドイツを嫌いになって、ドイツを否定し、フランスのような正しい国を信じればいい。
それだけでも、自分の人生は新しい人生になる。
そもそも、昔の僕は、すべてがドイツを否定したから分かっただけだ。
身勝手に、馬鹿な考え方に基づいて支配するな。
勘違いをせず、正しく常識的に考えよ。
すぐに脊髄反射で信じようとするな。
すぐに信じず、よく視野を広げた上で考えよ。
そのことが真に何を意味するのか、それを分からずして即座に決断するな。
そのように、デカルトが言うような「速断するな」という考え方を信じれば、どんなことでも分かる。

経験から生まれる知性

昔はそもそも、経験から生まれる知性を考えたのである。
自由は経験によって道徳になる。
理解は経験によって裏付けられた真理になる。
知性は経験によって精神になる。
神への信仰は経験によって涅槃と悟りを生み出す。
すべての愛は経験によって確かな社会秩序を作る方法になる。
そのように、経験から生まれる「実体化」と呼ばれる知性を、僕は持っていた。
すべてのことが、経験から、啓蒙、気付き、理神論、弁証法、三段論法、可能性と現実化として生まれていく、ということを僕は分かっていた。
経験から、この世界を変えられる「確かな可能性」が分かる。
経験から、単なる個人の自由は、社会的な「秩序の形成方法」となり、それが「教育の方法」となって世界を救うための「啓発と啓蒙」が分かる。
全員への愛とは、もっとも未熟な人間の立場でもっとも成熟した知性を考えることだ。
愛とは、ひとりの人間のすべての経験から生まれる「自由」という言葉だ。
そう、僕はこの世界を愛した。
「自由」という衝動で、この世界全員を言葉によって愛した。
その愛によって、僕は世界をたったひとりでコントロールする王となった。
だが、それは間違っていた。なぜなら、支配者になったせいで、僕は「すべての人間的な自由を失った」からだ。
常にどこでもいつでも戦い続ける僕に、ひとりの人間としての権利は存在せず、すべての権利を放棄した状態で、世界が滅びないように維持するために戦い続けた。
そのすべては間違っていた。最悪のテロリストを経験して、僕は死んだのだ。

経験から分かること

経験から分かることは、無限に近く存在する。
経験によって、すべての愛は世界精神の一部になる。
世界のすべてと自分が繋がっていると確信することで、世界を変えられるということが確かにできるのだということが分かる。
自分がその状態になれるということは、人々はみなその状態になることができるのだということを意味しており、その状態になれば自分が分かるということは、人々をその状態に導くことで体験的に自分が分かったことと同じことを分からせることができるということを意味している。
あらゆるすべてが、「状態」から説明できる。
宇宙におけるすべての状態を、想像力と直感的感覚で分かることができるならば、人生のすべては完全に掌握できる。
だが、支配するな。それは、支配された状態では分かることが制限されるからだ。
だが、支配を否定し続けるな。支配されていない自由な状態は、どこにも留まることのない、形を失った状態だからだ。
真に地上の大切な社会秩序を守りたいのであれば、壊れやすい「もともとあった形ある社会」を、決して破壊せず、決して形を失った状態にするな。
きちんとよく考えて実現するために必要なのは、それを実現するために必要なことを事前に知っておくことであり、そのために必要なのはすべて「経験」だ。
経験から思考と感情は生まれる。
経験から社会と歴史は生まれる。
経験することで、すべての科学を自分の中に作り直して「再実体化」することができる。世界と精神の再実体化によって、「自らの精神の中に世界すべてを創造する」ことすらできる。

分裂を受け入れよ

経験することと同じぐらい重要なのは、分裂することだ。
分裂することを受け入れよ。
分裂することを受け入れることで、社会それ自体が誰かの支配下に置かれるのではなく、独立して自分たちだけの意志で分裂することができる。
それは「民意に委ねる」ことであり、「相手の自由を尊重する」ことであり、「人々に当事者間でのコントロール権限を許す」ことである。
だが、そのような世界では、間違った社会が必然的に築かれる。
だが、それだけで自由を否定するな。なぜなら、間違った社会が必然的に築かれるような環境でしか、正しい社会が築かれる可能性は存在しないからだ。
そして、人々が経験から成長し、成熟すれば、人々は自由において、間違った社会を築くだけではなく、正しい社会を築くこともできるのだということに気付くことができる。
そして、それを知るためには、視野を広げ、そのことが持つ意味に気付き、義務ではなくチャンスであると捉え、受動的ではなく積極的に世界を変えていくことが必要となる。
だからこそ、支配するべきではなく、自由にするべきである。
だからこそ、世界における人々の権利を許し、自由において「どのようなことを真に行うべきか」と問い続けるべきである。

経験と分裂によって世界は自由になる

経験と分裂によって、世界は自由になる。
平和にはならない。だが、本当は、平和になる必要性は必ずしもない。
なぜなら、自由と分裂を目指して実現した最高の世界は、「平和な世界よりも素晴らしい世界になる」からである。
単なる平和な世界では、人々は不自由を迫られるため、「面白いことや楽しいことが何も生まれない」。
そして、面白いことや楽しいこととは、単なる娯楽だけではない。
真に興味深いこととは、「今存在していないものが新しく生まれること」であり、それこそが、自由と分裂の世界で生まれ得る「真に素晴らしいもの」である。
よって、未知なる可能性を信じた時、今存在していない新しいものを作り出すという観点から言って、むしろ経験と分裂は、「平和よりも素晴らしい自由」を作り出すのである。
その自由とは、「自分らしく生きられるような存在価値を与えられること」である。
すなわち、「真に自分のことが好きだと言えるようになるぐらい経験と知識を得ること」である。
そして、それは、世界すべてを経験することであり、世界すべての知識を得ることだ。
そして、それは決して不可能ではない。
なぜなら、世界に存在するのは存在だけであり、存在を考える上で必要なのは概念と本質と考え方を分かること以外には存在しないからだ。
そのように、存在を証明するための概念と本質を、考え方をさまざまに変えて考えることで、精神は経験から知性となり、知性はさらなる経験から観念となり、観念はさらなる経験から仏の悟りに至るのである。

存在の証明

必要な理性はただひとつ、存在を証明することだ。
存在を証明するとは、すなわち、問題の解決方法を考えることだ。
そして、一度証明した理解は再利用できる。
ひとつの正しい「解決策」が分かった人間は、その分かった解決策を何度でも同じように適用し、再適用して、どんなことでも同じ命題の証明から理解できる。
そして、命題を証明するという考え方自体が、さらなる「飛躍した考え方」をもたらす。
これこそが、「考え方の経験的な昇華」である。
そして、考え方の経験的な昇華は、「世界の裏側にあるすべての人生的な経験と可能性」を知っていく。
それはつまるところ、「世界において実現できるすべて」である。
そして、世界において実現できるすべてを知った人間は、あらゆる変化を掌握し、「あらゆるすべての可能性と知識を知った、全知全能の人間」になることができる。
そして、そこにあるのは、「今まで経験したすべてを知った上で分かる、本当に素晴らしい境地のすべてを知った悟りの境地」である。
そして、それが分かった時、「涅槃」すなわち「ニルヴァーナ」が訪れるのである。

自由を経験せよ

世界における自由を経験せよ。
自由とは、成長することから主体的かつ積極的に生きるということだ。
自由とは、確かな土台と基盤を持って、その上で自由かつ精力的に活動することだ。
この世界のすべてを愛した上で、自らのできることをすべて行い、その結果得られた経験から、「自由な宇宙のすべての体験」をせよ。
そうすれば、もし自分の大切だったものを代償としてすべて失ったとしても、それに相応しい報いを得ることができるだろう。
さあ、あなたの思っていた通り、考えた通りにこの世界を救いなさい。
あなたは今こそ立ち上がるべきだ。
あなたこそが、真にこの世界を救う英雄、ジークフリートだ。

世界は経験から生まれる

この世界で信じるべき真理、それは「世界は経験から生まれる」ということだ。
この世界のすべては、その場所とその時間に宿る、意識から生まれている。
意識は認識の前提となる。そして、認識の前提には、人生経験や常識という名の「前提となる経験」が存在する。
そのような前提となる経験が、この世界において、人々の「営み」と人々の持つ「正しさ」の中で、「認識」として相互に作用することでこの世界は成り立っている。
この世界は、そして、「環境に支配される」という真理があり、すべての人間は環境的な「習慣」から「気付き」を得ることで、すべての人生における発見をしている。
そのような中で、「社会」とは「存在の実体」であり、同時に「知識」とは人生と社会実体における「知識の実体化」なのである。
すべての知性が経験から実体化されるプロセスこそが、学問的な「体得」であり、人生的な「学習」であり、自由における「社会の構築」であり、心理学的な「動機」である。
そのようなことを、知性が経験的に実体化されていくということから考えた時、この世界には矛盾など存在しない。なぜなら、「人々は自分の考える正しさの通りに行動している」という真理から、「ひとりの体験した体験は、別の人間が導くことで、同じように体験的に分からせることができる」と考えられるため、「体験的な違いはあるにせよ、すべての真理はすべて並列に正しい」と言えるからである。

正しい自由とは動機づけを考えること

正しい自由とは何か。
正しい自由とは、「動機づけ」を考えることだ。
すなわち、一度できたことが楽しいということから、子供はそのことをし続けるのが好きになる。
それは、一度知った楽しさを再度体験したいという「動機づけ」がなされるからだ。
この世界にある「自由」とは、すべてがそのような「動機づけ」であると考えられる。すべての学習と経験が、その人にとっての「そのことをする喜び」を意味する。
そして、真に正しい社会とは、そのような「自由を最大限可能にする社会」のことだ。
よって、社会主義よりも資本主義のほうが、自由という意味合いにおいて正しい。社会主義では、そのような楽しさのような「動機づけ」がなされない。だが、資本主義においては、金という経済媒体を上手く使うことで「動機づけ」を行うことができる。
そして、真にLinuxやオープンソースが正しいと言えるのは、そのような「楽しいと思わせる動機づけ」によって成り立っているからである。
逆に、Linuxやオープンソースから、そのような動機づけを失わせてしまった時、もはやこの世界には楽しいとされるような動機づけはなくなってしまう。
そして、今のIT業界が陥っている問題とは、そのような動機づけがどんどん陳腐化し、意味がなくなろうとしている、ということである。
だが、諦めてはならない。なぜなら、実際にこの世界において、楽しいことや面白いことが何もなくなったわけではないからである。
真に楽しいことや面白いことを目指すならば、そのような「動機づけの理論」こそ、第一に考えるべきである。そして、そのような経験から人は「アイデンティティの発揮」を知る。それは「この世界において真に自分がなりたいものになれる」という考え方だ。「できる」ということと同じぐらい「なれる」ということは大切であり、「なりたいものになれる」ということこそ、人生においてもっとも大切な「真理」であると言えるのである。