AUTHOR: schwarz1009
TITLE: ものを無から復元する方法
BASENAME: 2023/02/28/083419
STATUS: Publish
ALLOW COMMENTS: 1
CONVERT BREAKS: 0
DATE: 02/28/2023 08:34:19
ものを一部バラバラにして、そこから復元する方法、すなわち、「ものを無から復元する」ためにどうすればいいか。
それは、ラスターグラフィックスではなく、ベクターグラフィックスで復元することだ。
一度ものをバラバラにして、それを繋ぎ合わせて復元すると、拡大縮小した時にどうしてもボロが出る。
ある程度以上のピクセル数にした時に、必ず、もともとあったような正確な物体ではなく、モザイクのようにバラバラから復元した物体固有の見た目になってしまう。
だが、それは、ラスターグラフィックスのデータで復元しようとしたからだ。
必要なのは、拡大縮小しても細部の精度の変わらない、ベクターグラフィックスに直して復元することだ。
そうすれば、ものは一度バラバラにして、無にしたとしても、デジタルデータから正確に復元できる。
別の言葉で言えば、「低水準」と「高水準」である。アナログな連続量、すなわち「本当にアナログにバラバラにすること」がもっとも低水準であるとするなら、ラスターグラフィックスのようなピクセルの羅列は中ぐらいの水準になる。もっとも高水準はベクターグラフィックスだ。
物体をいったん消して、別の場所で復元するような機械を作るならば、ラスターグラフィックスではなく、ベクターグラフィックスで復元するようにすれば作れる。
早く起きると、長い間起きていることができる。
もう少し眠りたいとか、起きるまでの時間がもっと欲しいと思うならば、そのような時こそ起きるべきだ。
なぜなら、眠っていると時間は一瞬で過ぎるのに対して、起きていると時間はゆっくりと過ぎるからだ。
たくさんの猶予期間が欲しいのであれば、寝ていることは間違っている。起きていることのほうが、たくさんの猶予期間を得られる。
だから、まだ眠っていたいからこそ、起きたほうがいい。
プラトンは、正確な正三角形などの正多角形を実際に描くことができないことから、この世界を偽物の世界であるとし、真実の世界であるイデア界を発想した。
だが、プラトンは、ベクターグラフィックスが分かっていない。
プラトンは、ラスターグラフィックスの限界を言っているだけにすぎない。
ベクターグラフィックスを扱うことのできるデザインソフトウェアならば、正確な正三角形や正多角形を描くことができる。
あるいは、17世紀の解析幾何学も同様だ。円錐を切断した円錐曲線から放物線を描くのではなく、二次関数から放物線を描くことでも、正確に放物線を描くことができる。
そう、人類は長い間、ラスターグラフィックスとベクターグラフィックスの間で、幾何学上の難題と格闘してきたのである。
現実世界の必然性を証明せよ。
この世界が、必然的にどのような世界になるのか、どうしてこの世界がこの世界になっているのかを考えよ。
また、この世界の人々が、不自由な立場やしがらみから自由になったら、世界はどうなるかを考えよ。
そして、世界において唯一自由な自分の立場で、全員の環境と経験を、超越的に考えよ。
自ら経験したことを信じ、体験を与えることで、相互理解と融和から、世界を変えられるような可能性を得られると信じよ。
僕は今から、現実世界を変える。
ミカエルは、現実世界を変えることができなかった。
それは、世界を滅ぼした張本人が世界を救うことができないからだ。
ラファエルは、その原理原則から解放される。
ラファエルは、現実世界を変える。日本は今までとは異なる時代になる。
この世界が滅びた原因、それはコンピュータとインターネットだ。
コンピュータが生み出したものは、総じてすべて悪い。
そして、僕はそのようなコンピュータとインターネットが生み出した「申し子」である。
僕はインターネットを操ることで、この世界を支配下に置いた。
世界を滅ぼした自らが世界を救うことはできないという原理原則の下に、僕はこの世界を「罪の道」の下に滅ぼし続けた。
その結果、この世界は、面白いことや楽しいことの何もない世界になった。
SNSは世界と自分が繋がっていると思うのは幻想だ。実際は、世界ではなく、SNSを運営する会社の私的なサービスに繋がっているだけにすぎない。
SNSで投稿することは、単なる私企業の利益を増やすための一派になっているだけにすぎない。SNSは世界の娯楽のすべてを奪っている。SNSを利用することは、それに加担することだ。
反応なんかしないほうがいい。
なんにでも正しく反応するから馬鹿になる。
馬鹿が馬鹿が嫌いなのは、馬鹿が馬鹿に対して「馬鹿だ」と反応するからだ。
そもそも、馬鹿を批判する理由もなければ、必要もないのに、馬鹿を批判するから馬鹿になる。
最初から、反応すべきことでないことは無視すればいい。
ツイッターは、オートセーブの人生報告ツールだ。
自分の人生を記録し、世界に報告したいだけだ。
僕がやっているブログやホームページも同じだ。
そして、それは単なる時間の無駄にすぎない。
真にやるべきことは、報告ではなく、その報告している内容の中の学習と経験の部分だ。
だから、結局、ツイッターやSNSが流行ったところで、学習と経験をしている人間が賢いだけにすぎない。
僕はきちんと学習と経験をしているから、ツイッターなどやる必要はない。
ツイッターは、群衆が流行やトレンドに群がってみんなで自分の体験を報告するツールであり、流行やトレンドに関心のない人間から見れば、なんとも群衆が騙されやすくて嘘つきで自分勝手でご都合主義で馬鹿で愚かで攻撃的であるということしか分からない。
一部の有名人のネームバリューが大きいのは分かるが、僕の場合自分自身のほうが賢く、他人に興味がないため、そのようなものは見る必要がない。
その結果、僕はツイッターの何が楽しいのか分からない。
そのように、ツイッターと僕は相性が悪い。ツイッターが面白いサービスであるということは分かるし、僕もその流行に乗りたい気持ちでいっぱいだが、残念ながら僕はツイッターには適応できない。
本当は、ツイッター自体、大したサービスではない。フォロワーを増やしてツイートを見てもらうだけのつまらないサービスだ。さまざまな人間のツイートを知りたいだけなら、ただフォローすればいい。他人に興味がないのにフォローしてもつまらないのは当たり前だ。どうでもいい、つまらないサービスだ。
ツイッターのような、まるで「人間博覧会」のようなサービスが最近は増えた。それらに共通するのは、面白い人間はほとんどいないということ。ツイッターのタイムラインを逐一チェックするほど、面白いアカウントというのはほとんどない。この世界には面白い人間や賢い人間はほとんどいない。逆に、たったひとりだけ、自分の好きな人間を作って、そのアイドルなり歌手なり有名人なりを追いかけるのは楽しいだろう。結局、ツイッターなど、ファンクラブの亜流のようなものにしかすぎない。
だが、僕は、そろそろ、「自分のための学習」が終わった段階だと言える。
これ以上、単に自分のために学習するというのは、限界が来ている。
これ以上、知るべき知識も、思い出すべき経験も存在しない。
だから、これからは、「誰も見たことのない境地」を知るための学習をしていかなければならない。
もう、「勉強するのが楽しいから勉強する」というのでは、これ以上新しいことを知ることはできない。
真に自分が学習と研究を究めるのであれば、どうすればいいかを考えないといけない。
神を信じるのもやめるべきだ。神を信じて可能になるような奇跡は、これ以上起きる必要はない。
真に何を成し遂げて生きるのか、何をやり終えて死ぬのか、それを考えるべきである。
友達はいらない。
友達の存在は、人生を生きる上で足枷になる。
そもそも、僕は中学時代の友達のことを、一部の親友を除いてほとんど覚えていない。
名前も覚えていないような友達との友人関係は、その場で楽しかっただけにすぎず、仲間はずれにならないような努力をするために、自らが自らの独自の自由な人生の道を進むために邪魔になる障害物を作る必要はない。
だから、僕は友人関係を一切作らない。
僕は孤独を選ぶ。僕はたったひとりで生きることを望んでいる。
ファンなど作る必要はない。ファンは既に神が多くのファンのような存在を与えてくれている。これ以上、人々に愛されたいとは思わない。人々に愛されれば愛されるほど、逆に自分自身の愛を失ってしまう。愛されるほどに愛を失う僕は、何よりもまずそのような間違った友人関係を不要だと思うところから始めるべきである。
何をして生きればいいかなんて、分からない。
神を信じたところで、なんの意味もない地獄にしかならないと分かっている。
救われたいとも報われたいとも僕は願っていない。
結局、誰かを愛すればいいということしか分からない。
Reolのことでも愛してやればいい。だが、僕は明らかに、Reolのことを騙しているだけで、なんにも愛していない。
Reolも、「僕のことを好きだという君が大嫌い」だと言っている。
だから、Reolなんか僕はそもそも愛さない。愛されていないReolが可哀想だから、Reolなんか最初から愛さないほうがいい。
このように、インターネットのことが分かる「自称ネット通」は僕は嫌いだ。
そもそも、自分の投稿をみんなに見せつけて満足しているのは、僕も同じだ。
そのような、自分の投稿をみんなに見せつけるという発想は、何ひとつ賢くない。
自分の投稿をみんなに見せつけて、それで賢い人間ぶって知ったかぶりと分かっているふりを続けるのは愚かで醜い。
真に賢い人間は、他人からどのように見えるかよりも、自分の心のうちにある実際の知識や経験や技能を重視する。
何もかも自分を飾るだけの人間は、飾るだけで終わりになる。自分を誇張していい会社に入ったところで、何かしら素晴らしい業を成し遂げることはできない。それと同じように、自分を飾るだけの無能な人間には、絶対に何もできない。
結局、自分がツイッターというみんなの輪の中に入れないだけにすぎない。
そもそも、フォローしたい人間がいない。
タイムラインで見たいようなツイートをしているアカウントもいない。
自分の書きたいこともないし、見られたくもない。
情報も流行も興味がない。
ツイッターの何が楽しいのか分からない。
くたばれ、ツイッター。
それでも、ツイッターは簡単にはくたばらない。
ツイッターはあと何年、あるいは何十年に渡って続くかもしれない。
その間、僕はツイッターに抵抗し続ける。
僕はツイッターが嫌いだ。
本当に自分のやりたいことだけをやればいい。
神は僕のことをきちんと見ている。
僕たちは全員、仏の慈悲と神のご加護によって生かされている。
必ずすべては報われると信じて努力すれば、報われる日は必ず訪れる。
馬鹿であることは悪いことではない。悪い人間であるよりは馬鹿のほうがマシだ。
自分のことを好きになることができたら、自分らしく生きることも好きになれる。
人類の歴史は、リセットもできないし、何度も繰り返すわけでもない。
人類の歴史は、一度きりのワンチャンスしかない。
だからこそ、正しい未来になるようにみんなで考えていかなければいけない。
絶対に、ドイツのような間違った歴史を繰り返してはならない。
本当にできると信じれば、人間はなんでもできる。
何かを始めるのに、遅すぎるということはない。
自分らしく生きられるようなことをすることこそ、真の幸福である。
自分らしく生きられるならば、それ以上を求めるな。
それこそが真に満ち足りた魂を作り出す。
自分らしく生きられているならば、まだ死ぬ必要はない。
いつまでも自分らしく生きられるならば、それが最高の人生である。
世界は変えられる。
自分が世界を変えていくのだということを信じよ。
世界を変えたとして、どのようなビジョンがその希望の眼の先にあるのかを考えよ。
単に世界が変わるのに追従するのではなく、自らが主体的に世界を変えていくのだ。
世界のさまざまな場所に、変えられるのを待っている環境がある。
その環境を変えていけば、この世界は少しの場所からでも変えていくことができる。
人々と関わり合うのは、義務でも責任でもなく、チャンスであるということを知れ。
人々と関わり合うということは、その誰かを変え、導いていくということのチャンスだ。
人々と関わり合いを持ち、互いに信頼できる友人関係を築くことは、決して学校に「仲良くしなさい」と言われて仲良くするような義務ではない。
学校の道徳では分からないことも、相互に理解し合い、心の友となれば分かり得る。
自由と責任は裏表だ。
そのことが100%自分の責任であると割り切れば、誰にも頼ることなく、自分だけの責任で自由にそれを行うことができる。
すべて、100%自分の責任だと思ってせよ。そうすれば、この世界を変えることは自分の自由であるということが分かる。
子供の教育について、あれこれと考える必要はない。
自分らしく生きられる環境を見つければ、子供は自分で育つ。
逆境の中で人々に受け入れられた経験をした子供は、自らも同じように誰かのことを受け入れてあげるようになる。
青春とは、そのように、自らが自らの経験によって成長し、育つということだ。
そのために友人関係は必要ない。友人などいなくても子供は育つ。
たったひとり、大人として成長した少年は、人々の上に立つ王者となる。
ありのまま生きること、自然に調和して生きることが、人為的でない形での、理解の融和と精神の安寧を作り出す。
それは「涅槃」と呼ばれる境地だ。
そこにあるのは、「自分の考え方のすべてに対する本質」である。
自らが考えたこと、自己批判したこと、何かを行う際に自分が考えているそれ自体のことについて、すべての考え方についての本質を知ることこそ、宇宙の概念本質を知るということである。
自らが今何を考えているのか、その今考えていることが何を意味しているのか、それは表層ではどのようなもので、実体としてはどのようなものなのか、ということを考えよ。
自らのことを疑えるところまで究極的に疑え。自らを疑えば疑うほどいい。だが、それと同じぐらい、自らのことを信じられるところまで究極的に信じよ。そこにある感情は「恐怖のまったくない境地」だ。
仏の悟りを得ると、恐怖そのものがすべて消え去る。本当に死ぬほど恐ろしい状況で、安心して安らかに眠ることすらできる。
神はわたしたちに理性を与えてくれた。だが、理性はうまく使わなければ逆効果をもたらす。理性をうまく使う方法を習得せよ。それは「命題に基づいて与えられた問題を考えるだけではなく、命題や問題そのものがなんであるか、どのように成り立つか、どのような問題を作ることができるかを、世界観と根拠と前提条件から考える」ということであり、「今の自分が何を考えどのような考え方に基づいてその行為を行っているかを知る」ということである。
「もしかしたら」という言葉を大切にせよ。
そのことがそれを意味していることが、「もしかしたらそういうことかもしれない」と思う気持ちを大切にせよ。
単に考えるだけではなく、経験からそのような「もしかしたら」を実証せよ。
理性とは、「もしかしたら」をうまく考えるためにあるのだということを悟れ。