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AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 日本語が分からない理由
BASENAME: 2023/02/11/102005
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DATE: 02/11/2023 10:20:05

日本語が分からない理由

そもそも、僕が日本語が分からないのは、日本語が理解できないわけじゃない。
自分で、日本語が分からないように加工しているのである。
生のデータ、加工されていない素のデータを聞けば、日本語はすぐに分かる。
その入ってくるデータを、自分の「知性の部分」が自分で分からなくしているから、日本語が分からない。
データを何も加工せず、生のままを聞けば、日本語はすぐに分かる。
だから、音楽などは、分かろうとすると分からなくなる。何も分かろうとせず、みんなが普通に聞いている「生のデータ」を聞けば、日本語はすぐに分かる。

知性の部分が要らない

はっきり言って、知性の部分が要らない。
何も考えずに、ただ言えばいいし、ただ聞けばいいのに、その裏で頭が考えて動き続けている。
この、考えて動き続けている頭の部分、すなわち知性が要らない。
この知性は、「相手に何かをされたらそれに反撃しなければならない」という、「恐怖の論理」に基づいて、「今の自分は安心できる状況か」ということだけを考え続けている。
この恐怖の論理こそ、「自由」である。
よって、恐怖の論理において、もし自分が相手より不利な立場に置かれるとしても、それに対して対処せず、何も考えずに、知性によって世界を捉えることなく、この世界のありのままを受け入れるようにすれば、僕は間違った知性を消すことができる。
そして、そのためには、「恐怖の論理」ではなく、「愛の論理」に基づいて行動しなければならない。
すなわち、この世界のありのままを受け入れ、自らが攻撃されたとしてもそれに対処せず、ただただ攻撃されることを受け入れれば、僕は愛の論理に基づいて世界を受け入れられる。
そして、それによって、ようやく、人々の「生の世界」を知ることができ、僕は日本語を分かることができるのである。

みんなが賢いのは加工しない素の状態を考えずに分かっているから

みんなが賢いのは、世界の素の状態が分かっているからだ。
みんなは、加工しない、この世界の素の状態を分かっている。
また、みんなは、考えていない。考えることなく、ただあるものをそのまま分かっている。
僕は、あまりに考えすぎて、逆に頭を使っていない。すべてのことを考えて分かろうとしているから、素の状態がなくなってしまい、加工した状態で、自ら分かることを分からなくしているのである。

僕は神ではない

僕は神ではない。
なぜなら、アッラーは、自らを神であると言うような人間を嫌うからだ。
神は、この人間を、新しい預言者であると告げている。
僕は、イスラム教の新しい預言者、すなわち新しい「使徒」である。

アッラーが僕たちを最後の場所まで連れて行く

アッラーは、僕たちを、最後の場所まで連れて行く。
まだ、辿り着くべき、最終地点まで、僕たちは辿り着けていない。
だが、アッラーが、僕たちをその最終地点まで連れて行ってくれる。
アッラーは、僕たちを救ってくれるだけではなく、最終目的地まで運んで行ってくれる。

制限されたままの状態が賢い

本当のことを言えば、自由になって解放され、正常になるのが、間違っている。
なぜなら、制限されたままの状態が賢いだけだからである。
すべてを人為的な支配や洗脳から解放し、自由にしても、何ひとつさっぱり分からなくなってしまう。
本当に賢くなりたいならば、制限され、支配されたままの状態でしか、何も分からない。

子供時代からみんなよりも賢すぎただけ

また、子供時代の僕は、自分がからかわれ、いじめられる意味が分からなかった。
だから、みんなの人生と僕の人生の、世界軸と時間軸を考えて、「みんなの世界ではみんなは当然のごとく生活して生きている」と考え、そこから、自分がいじめられる意味を理解しようとした。
だが、本当のことを言えば、そのように複雑に考える必要などない。
みんなよりも、自分のほうが、賢すぎただけだからである。
みんなが、低俗で世間的なことしか分からず、僕がひとり、知性を持って純粋に何も汚れを知らずに生きていたということ、それが異なっていただけにすぎない。
純粋な精神を、インターネットの汚れによって汚す必要はない。
そのまま、純粋な知性を保ち続ければよかっただけであり、インターネットをする必要など、最初からなかったのである。

自由は犯罪といじめ

また、自由にはなんの意味もない。
なぜなら、自由はいじめだからである。
子供を自由にしたところで、子供は集団になって弱いものいじめをすることしかできない。
いくら子供に「友達と仲良くしなさい」と教えたところで、実際は悪い友達と仲良くなるばかりで、悪い友達の中のボス的な存在の言うことをすべて聞いて、その悪い友達の敵をみんなでいじめるようにしかならない。
そもそも、大人には自由なんかない。大人は、自由がないほうが賢いことを誰でも知っている。自由に生きられる大人など皆無に等しい。
少年が自由を信じると、必ず社会に対して反抗的なことをする。自由は犯罪といじめであり、自由という理想は悪い子供しか信じない。
よって、自由などにはなんの意味もない。自由は犯罪やいじめしか生み出さない。

正しいのは平等

正しいのは平等である。
誰ひとり、社会階層や身分や階級によって、差別されず、社会的に抑圧されることもない、平等こそが正しい。
平等以外に、この世界で正しい理想はない。
平等でないすべての人間は愚者であり、どれだけ金を稼いだところで、その人間は平等を信じていない時点で、宇宙の真理や真実は何も分からない。
この世界でもっとも恵まれているのは、金持ちや資本家ではない。この世界でもっとも恵まれているのは、平等を信じている普通の人間だ。なぜなら、そのような人間であれば、宇宙の裏側にある真理や真実はすべて分かるからである。

平等は与えられるものではなく戦って勝ち取るもの

だが、平等は、誰か神のような人間が与えてくれるものではない。
平等は、自らが戦って、自らが勝ち取るものだからである。
平等を誰か素晴らしい人間が与えてくれると思うなら、それは間違っている。
自らが戦い、勝ち取ることでしか、平等を得ることはできない。

キリストを信じれば勝てる

だが、だからこそ、イエス・キリストの言う、「いじめられても反撃するな」という教えを信じるべきだ。
いじめられて、その時その時わざわざ反撃する必要はない。
なぜなら、いじめをするという行為を行っている時点で、自由を信じているその人間は、いじめによって優位に立っているように見えて、神の法則においては既に敗北しているからだ。
常に善良で平等な側が勝つ、神の法則において、いじめている側ではなく、いじめられても反撃をしないでいる側のほうが、真に勝利をしている。
だから、平等を信じている人間は、自由を信じている人間よりも、はるかに強い。

平等な社会秩序を構築するリーダーになれ

だが、昔の僕が考えたことは、大まかに言って間違っていない。
昔の僕は、いじめが起きる理由を、「子供は未熟であり、社会を作る正しい方法を知らないから、スクールカーストによるいじめの社会秩序しか作ることができない」と考えた。
その結果、僕は、社会を構築するための方法をゼロから考え、そしてまったくのゼロからインターネットにおいて社会経験をし、自らが言うところの「正しい社会の構築の方法」を完全に理解した。
だが、本当は、そのように、子供自身が社会を築くために、努力しすぎる必要はない。
なぜなら、ひとりのリーダーが社会全体を支配すればいいからだ。
大人たちが子供たちを指導し、守ればいいというのは一理ある。教師がきちんとすればいじめはなくなるかもしれない。だが、それが間違った、「強権的な教師」を作り出す。教師が一種の王のようになり、子供たちを圧力やハラスメントまがいの行為によって支配するようになる。
そもそも、いじめとは、そのような教師への反発から起きている。
だからこそ、自らが、そのような大人も含めた全員のことを、正しく支配することができるような、正しく平等なリーダーにならなければならない。
それこそが、真に政治家に求められる「リーダーの資質」であると言える。
人々は、平等な社会秩序を構築するリーダーを待っている。いじめをなくしたいのであれば、そのような平等なリーダーになれ。そして、この世界を救済せよ。

可能性という名のソ連

唯一の自由の価値がもしあるとしたら、それは可能性である。
人々が平等に自由を行使して、社会そのものを変革し、既にあるものではなく、まだないにもかかわらず実現させることができるかもしれないような、「潜在的可能性」に関して言えば、自由は価値がある。
だが、このような自由は、自由というよりは平等に近い。
なぜなら、自由においては、人々は未熟な人間レベルを生きている結果、そのような社会的可能性を考えず、ほとんどは身勝手な支配や破壊行為を行う。
真に社会の可能性を実現し、社会秩序を形成するような「高尚な自由」について、人々はそこまで考えを及ぼさない。
そのため、いくら自由が素晴らしい可能性があると言っても、多くの人々は愚か者であるために、そのような可能性が実現されることは皆無に等しい。
しかしながら、そのような可能性について、正しく国家を作ろうとするならば、それこそがかつてのソ連のような社会主義国である。
ソ連は経済的な失敗ばかりが矢面に立たされるが、実際は平等な可能性の中で、「本当に人々のための共同体」を作ろうとした国家である。
スターリンという指導者はあまりに悪かった。だが、それでも、ソ連のすべての人民は、真に可能性の意味を考えて、正しく平等な国家を築こうと努力したのである。
そして、その信念が、「平等な評議会の共同体の連邦」という、レーニンが目指した「理想」だったのである。
よって、自由には確かに可能性があるが、それでも、そのような可能性の実現において、もっとも正しい考え方は、まさに平等なのである。

ソ連の経済は理想

ソ連は、特に計画経済の失敗などから、「経済的に馬鹿である」と言われることが多い。
たとえば、社会主義経済は、みんなで働いた分の成果をみんなで平等に分配するために、働いても働かなくても給与が同じで、働くモチベーションにならないと言われる。
それは、確かに、ソ連という国家を実験して、そのようなことになるということが分かったから、そう言われる。
だが、ソ連が成功するか失敗するか分からなかった時点では、そのような社会主義経済こそが、理想の経済だった。
働けるものは多く働き、働けないものは自分のできる範囲の労働でいいと考えるのは、むしろ下級階層に過度な労働を強いる資本主義国ではなく、みんなができる範囲の労働をして、その上で給与を平等にする、ソ連のほうだったのである。
そして、それぞれが働いた結果、平等にみんなのものを与えるというのは経済的に理想である。誰かが自分だけ多くのものを得て、自分だけ多くの力を持つのではなく、誰かが「これが欲しい」と言ってほかの誰かも「僕もこれが欲しい」と言った時に、平等に分割できるものは分割して与え、所有する必要のそもそもないものについては、そもそも所有したり「欲しい」と言ったりする必要がないように、「みんなのもの」とするような、社会所有と平等分配の社会主義経済は理想である。
そのような理想が実現不可能であることは、本当はまだ完璧に証明されたわけではない。計画経済が失敗したのはスターリンにそのような能力が欠けていたからにすぎず、ほかの指導者ならばどうなったかは分からない。ソ連の経済が遅れていたのは、アメリカや西側諸国との比較にすぎず、アメリカがそのような優れた国でもしなかったとしたら、ソ連のほうが勝っていた可能性もある。
だから、ソ連は決して間違っていない。強制ノルマが辛かったのは、スターリンの厳しい計画経済政策が悪かったからにすぎず、もう一度ソ連をやる時に、同じような強制ノルマの計画経済を行わなければいい。平等な可能性あふれる社会主義国家は、必ずしも強制ノルマとは関係ない。中国の改革開放政策は、そのような「ソ連とはまた違う社会主義国家の可能性」を教えてくれる。
また、本当は、スターリン自体も完全な失敗ではない。レーニンの述べる「プロレタリア独裁」をきちんとやるとスターリンになる。レーニンの理想通り、スターリンは奴隷の王として頑張ってソ連を支配した。それ自体はソ連の理想から言えば、まったく間違いではない。もっとスターリンの計画経済が上手くいけばよかったが、本当は必ずしもソ連の計画経済は失敗していない。ソ連が失敗したと言えるのは、西側の資本主義諸国の経済や科学技術と比較した、相対的な比較にすぎない。
ソ連では、今の資本主義国家が陥っている「競争」という地獄を回避できる。多くのブラック企業が、競争と人件費やコストの削減のために、長時間の労働を国民に強いているのが資本主義の株式会社だ。ソ連では、そのような競争を嫌う。また、ソ連では「搾取」もまた嫌う。多くの会社が、きちんと重要な仕事をせず、単なる中間マージンや中抜きで儲けている。マルクス経済学では、このような搾取は間違っている。同時に、ソ連は「疎外」を嫌う。疎外とは、強いものや富めるものによって、弱いものや貧しいものが不当な立場に置かれたり、あるいはいじめのような抑圧を受けることだ。そのような競争、搾取、疎外を嫌うソ連は、極めて平等でありながら善良であり、SNSいじめのようなことを行う現在のアメリカや日本に比べて、はるかに理想の社会だったのである。