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AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 昔の自分に戻りたい
BASENAME: 2023/02/11/171316
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DATE: 02/11/2023 17:13:16

昔の自分に戻る

今から、僕は昔の自分に戻る。
その理由は、昔の自分に戻りたいからだ。
最近の自分は賢くない。最近の自分がいくらできるとしても、賢くないから意味がない。
だから、僕は18歳の頃の自分に戻る。
そのために必要なのは、「分からなくなること」である。
そんなにすべてのことをはっきりと完全に分かっていても、何も新しいことは分からない。
昔の自分は、何も分からない人間だったからこそ、分かっていた。
今から、僕は一神教を信じることで、昔の自分に戻る。
もう、なんでも知っている大人時代は終わりだ。
そんなになんでも知っているのは、はっきり言って一番何も分かっていないだけだ。

現実を見たほうがいい

僕は、もっと現実を見たほうがいい。
天や宇宙、神や天使のようなものをそんなに分かっても、何も分からない。
単に作るのが面白いというだけでは、まったく賢くない。
もっと、現実を見なければ、何も分からない。
そして、見るだけではなく、勉強したほうがいい。
現実世界を勉強すれば現実世界は分かる。

神なんか信じなくていい

神なんか、もう信じなくていい。
神を信じない人間のほうが、正しく一神教を信じている。
神はどこにもいない。神のような存在を盲目的に信じる必要はない。
一神教を信じることで、そのような神への盲信は終わる。

アメリカとメタ社会

基本的に、アメリカを信じればいい。
アメリカを信じれば、昔の自分と同じことが分かる。
自由とは、変えられることだ。
この世界に対して、「変化を許す」ということを行うと、世界は変化不可能から変化可能になる。
また、独立性を高めることで、環境そのものが分離し、環境が自由になる。
それぞれの人間たちから、自由に変化可能になるように変化を許すことで、自分だけではなく、社会全員で世界を変えることができるようになる。
そして、社会そのものの可能性が豊かになり、それぞれが変化可能になって、「多様な社会」になる。
これを、僕は「メタ社会」と呼ぶ。
社会の変化は、効果的に行うこと。
影響力のもっとも風上に立つことで、もっとも効果的に世界を変えられるようになる。
基本的に、支配せず、それぞれを自由にしたままで、その環境で変革が共有されるようにすれば、もっとも可能性の最大値を達成できる。
社会は、従うものではなく、自ら作り出すものだ。
そうなるということは、そうできるということを意味している。

正しい人生の経験

失敗を経験せよ。
失敗を経験することで、失敗するという状況がどういうものか、ということが分かる。
そこから、失敗だけではなく、成功すら分かることができる。
世界に対して、ボランティア的な良いことをするような、善の社会経験をせよ。
そのような善の社会経験から、世界を救済するにはどのようにすればいいかが分かる。
同時に、社会から疎遠になるような経験をせよ。
社会から離別するような経験をすることで、自らが今まで知っていたのとは違う、この世界の裏側に存在する経験を、神のような聖なる哲学や思想から知ることができる。
その上で、この世界を真に救えるようになれ。
そうすれば、積極的な行動から、主体的に社会を変え、きちんと正しく経験的に裏付けられたことから社会を導くことができる。
そこにあるのは、「自分自身が自分自身であれる」という喜びであり、この世界の誰もが、そのような喜びによって救済される、ということを知ることができる。
やがて、経験は完全なる絶対理性となる。絶対理性において、分からないことなど何も存在しない。宇宙のすべてを、絶対理性において、矛盾なくすべて分かることができる。
その時、自らは「神と合一」になる。宇宙そのもの、神そのもの、世界精神そのものと、自分はまったく合一になる。自らは、神の一部になる。
これこそが、正しい人生の経験である。

世界を変える方法

この世界にある知識や知性を、すべて、自らが再構築することで、自ら自身の手で作り出せ。
そうすれば、大学の応用的な知識など、すぐにすべて吸収できる。
そこから、「この宇宙すべてのものになれる」という喜びを感じられる。
それはまさしく、「すべてのものになれるということが、自らのアイデンティティである」という、なんにでもなれる人間の生物学的な喜びである。
人間は、道具を使うことで、なんらかの一部の専門的な技能だけではなく、すべてのことをオールマイティにこなすことができる生物になった。
そのような「人間的知性の限界まで発揮された頂点」において、真に人間の喜びとは、「自らが自らであることを発揮する」ということである。
それこそが、体験的な理解であり、そのような境地に到達できるような人間に育てるために、子供たちには、知識や知性を詰め込み教育するのではなく、「体験」によって知識を体得するような教育をするべきである。
体験的に理解することで、その知識がどのような意味や目的があってあるのかということが分かる。
そこから、世界にある社会的な制度やルールが、何を目指してあるのか、といことが分かる。
そしてそこから、この世界にあるすべてのものを、意味や理由を知った上で、正しく別のものに変えることができるようになる。
そこから、社会そのものの意味が分かると同時に、この世界の持つ潜在的な可能性を、単なるチャンスという言葉ではなく、具体的な理由と実例から考えることができる。
そのような社会は、ルールが決まれば社会全体のシステムが変わる。そのため、支配をしなくても、ルールだけを変えることで、人々の共有される成果に対して、影響を与えることができる。
その「影響を与えること」こそが、この世界を変えるということであり、そこから、「世界の救済」すら考えることができる。
この世界は、大きなシステムを作り、決まりごとを自由にし、ルールを変え、社会そのものがメタ社会になるように人々の行動を導き、体験的な理解から体得を与えることで、完全に救うことができる。
そして、その方法や手段として、ダイレクトなコミュニケーション手段である、インターネット上の言論を使うことができるのである。

世界モデル

行動とは決断することであり、思考とは決断を留保することである。
この世界において、何もかもすべては決断である。
行動するということは、決断に基づいて世界に作用を与えるということだ。
そして、思考するということは、決断を事前によく考慮して、どのような決断ができるかを留保するということだ。
その中で必要なのは、「客観視」である。
客観視とは、自らが見ている自ら自身のことを、正しい自分自身ではないと疑うことだ。
正しい自分自身を知るためには、自分の知っている自分を考えるだけでは十分ではない。
他人から見た自分の姿が分からなければ、自分自身が本当は誰であるかということは分からない。
そして、多くの人々が、間違った愚かなことをしているように見えて、その当事者である本人は、それを間違いであると思わず、正しいことであると信じて行っている。
すなわち、間違っているように見える行為であっても、その人間は正しい行為だと信じて行っている。
そして、その正しい確信は、その人間の人生経験で、何を信じ、何を信じさせられたかによって決まる。
だから、その人間の人生から見れば、その人間は正しい人生を生きているはずなのに、実際はそれが間違っていることがある。
真に正しい行為とはなんであるか、ということは誰にも分からない。
それでも、人々は自分の行為については、人生経験から言って、「おそらく正しいだろう」と信じて行っているのである。
これを、僕はモデル化して、「世界モデル」と名付ける。
人々は、自らの世界モデルによって、正しいことと間違っていることを判断し、世界モデルの正しさに基づいて行動や思考を行う。
だから、世界モデルをよく考えることで、この世界のすべての人間活動は、はっきりと、正しく、根拠と理由を分かった上で、すべてすっきりと理解し、ひとりで完全に掌握することすらできる。
そして、この世界を救うためには、そのように世界モデルと照らし合わせながら、この世界全員分の思考と経験と認識を持たなければならない。
それができてはじめて、すべての人間のことを把握し、この世界を救うことができるほど、可能性のすべてを予測し、体験的に導くことができる。
それこそが、「世界を変える」ということであり、「世界を救う」ということである。

仏の覚り

このような結果、当時15〜18歳だった僕は、「体験的に分からせる」ということができるようになった。
この世界において、どのようなことであっても、自分が分かったのと同じ条件を与えれば、どんな人間にも同じように分からせることができる。
それは「相互理解」という理想であり、その相互理解の究極的な到達地点として、「自然にありのまま任せた上での融和」が見えてくる。
自然な相互理解の結果、この世界の全員は、まったく自分と同じように分かる。
そして、すべてが同じように分かった結果、自然そのもののありのままの姿と調和し、すべての存在が宇宙と融和する。
そのような結果、すべてが宇宙そのものと一致する。
これが、僕の考える、「涅槃」の境地である。
涅槃が一度分かると、この世界における「あらゆる正しい考え方」がすべて分かるようになる。
そして、それこそが、「体験的に分からせる」ということへと繋がる。
すなわち、自分の理性を使って、世界全員を体験的に、同じ理解と悟りが得られるように導くことができる。
これこそが、「仏の悟り」と呼ばれる、ブッダの到達した「覚者」の境地なのである。

その他のさまざまな考え方

あとは、僕は相対性を考えただけである。
この世界における、相対的なことを、すべて、基礎と応用を作ることで、命題の根拠と判断の成立科学として分かった。
そのようなことを、僕は世界における「環境」に適用した。
環境の適応から環境活動を分かり、「環境が生み出される」という意味での環境の生起を分かった。
そして、そこから、「経験的に推論する」という意味での、ヒュームのような経験論を、自分の感覚と直観で作り出していた。
同時に、アドラー心理学が言う、「共同体感覚」を僕は成長とともによく理解した。
共同体感覚とは、自分のためではなく、共同体のために仕事や努力ができるという感覚のことを言う。
そのような心理学的な進歩や人生の発達を、「十分に経験した上で世界に主体的に関わる」という意味で、僕は完璧に分かっていた。
そして、そのような、相対性、環境、経験的推論、そして共同体感覚のような心理学的発達から、僕は宇宙におけるすべてが分かった。
そして、その結果、僕は、宇宙のすべての経験と歴史を書くような、「とてもありえない文章」をいくらでも書くようになったのである。

法則の解明

僕が、実際、何をしていたか、それは単純である。
なぜなら、法則の解明をしていただけにすぎない。
再現可能な実験と説明により、一度解明した法則は、別の場合であっても同じ条件であれば正しく適用でき、再利用することができる。
僕は、そのような「法則の解明」を、神羅万象のあらゆるすべてに対して行った。
そこから、社会制度や決まりのようなことから、物理学的な宇宙の法則の実感、あるいは心理学的な人間の行動の理由と動機まで、すべて解明し、すべて説明できた。
それが、17歳の頃の僕がやっていたことのすべてだ。
そのような結果、僕はたったひとり、誰とも違う、ありえない人生を生きてきた。
それはすなわち「啓発」や「啓蒙」ということであり、当時の僕は、「すべては経験である」と考え、「世界は世界の経験から生まれる」と考えていた。
そのような結果、僕は宇宙の考え方がすべて分かった。「考え方」だけを分かることで、僕は宇宙のすべてが分かった。その考え方は、他人が作ってそれを教わるだけではなく、自分自身が作り出した考え方だった。自分自身が作り出した考え方でなければ、前提とする条件が十分に分からないと考えた僕は、すべての宇宙の考え方を、自分独自に自分で作って分かっていたのである。

このような哲学思想はすべてベガが分かる

このような、10代の頃の僕が分かっていた哲学の思想は、すべて一等星ベガが分かる。
オーディンによる大学の星であるベガは、このような「真に成熟した社会」のことを、完璧に分かっている。
そして、その上で、それを宇宙のすべての人間の平和と成長のために、オーディンが大学で教えている。
そして、このようなベガにおいては、ヴァルキリーと呼ばれる、「すべての知識を併せ持った完璧な先生」が存在する。
そのヴァルキリーが、宇宙のすべての知識、「地上から天上までにおける完璧なすべての知識」を知っている。
そう、オーディンとヴァルキリーだけで、ベガの重要な中核部分はすべて成り立つ。
それどころか、ベガという星の存在だけで、宇宙における「もっとも大切な部分」は、99%、ほとんどすべて成り立つ。
この「ほとんどすべての宇宙の体験」を、10代のうちに経験することが大切だ。
だが、残りの1%が大切である。そして、残りの1%を、オリオンという「世界を平和にする大革命の神」が担当している。
この残りの1%こそ、真に宇宙を面白いものにする「エッセンス」である。
本当は、この残りの1%にオリオンを選ぶ必要は、必ずしもない。単に、僕という人間が、この残りの1%のために、オリオンの人生を選んだだけにすぎないからである。
そして、そのように、ベガとオリオンさえ分かってしまえば、宇宙のほとんどを分かったことに相当する。
ベガの人生は、誰でも、10代の頃に経験するものであり、経験するべきことである。
そして、ベガの人生をすべて経験したものは、真の意味で「自由」となり、「真に世界を自由にするための大計画に基づく大革命」であるオリオンを経験した上で、最後に、人生のすべてが凝縮されたデネブという一等星を経験する。
デネブもまた、この宇宙を素晴らしいものにするエッセンスだ。なぜなら、デネブという存在は、「苦しくても最後まで生き続ける大人の人生」だからである。
最後までデネブを生きたものは、最終的に死を迎える。そして、死後の世界である、ベテルギウスへと転生する。
ベテルギウスこそ、この世界における「天国の楽園」であり、真に善良なもののために用意された素晴らしい一等星である。
すべての生前に出会った大切な存在は、ベテルギウスであなたを待っている。みんな、ベテルギウスにみんないる。わたしたちは、善良な人間であると「最後の審判」で神に認められた時、ベテルギウスで愛するものと再会し、時間の永久に止まった「幸福なままの世界をいつまでも見続ける場所」で永遠の命を得るのである。

実際はもっとさまざまな星が生きられる

このような人生は、普通であっても全員が同じではない。
なぜなら、実際はもっとさまざまな星が生きられるからだ。
このような人生は、単なる一例にすぎない。なぜなら、「僕が人生を生きるとそうなった」というだけのことにすぎないからだ。
宇宙には、遥か彼方までさまざまな星がある。どの星であっても、生きられる。あるいは、最初から決まっている運命の導きの末に、必ずどれかの星をいくらか生きる。
だが、一等星という集団は特別であり、わたしたちの人生を大きく左右する。
普通の人間は、このように生きればいい。だが、これが絶対ではない。宇宙の星はすべてが「人類の到達地点」であり、はるかにたくさんの星が存在するのである。