AUTHOR: schwarz1009
TITLE: キリストは正しい
BASENAME: 2023/02/02/120927
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DATE: 02/02/2023 12:09:27
昨日は、キリスト教を批判するようなことを言って申し訳ない。
本当は、イエス・キリストが言っていることは正しい。
いじめられても、反撃するな。
どんなに世界とマスコミからいじめられても、大天使ガブリエルは反撃せず、逆に自らが悪い人間からいじめられるように自分から仕向けた。
そして、最後まで悪いことをせずに自殺して死んだ。
ガブリエルと同じように、いじめられても反撃せずに生きよ。
イエス・キリストの言っていることは、すべて正しい。
アメリカを信じたほうがいい。
その理由は、アメリカは人を殺さないからだ。
ロシアもドイツもイスラエルも、あまりにたくさんの人を殺す。
人を殺してはいけないということが、それらの人殺し国家には分からない。
かつての日本もそうだった。
アメリカがいい。アメリカに敗戦したことで、日本は平和な民主主義国家になった。
だが、資本主義社会は間違っている。
資本主義社会は、格差しか生み出さない。
金持ちだけが特別の力を持つことを許されるのはおかしい。
格差は出口の見えない貧困と最悪の犯罪をもたらす。
資本主義はまさに最悪の思想であり、「諸悪の根源」である。
僕は、もう、悪いことだけはしたくない。
善良な人間になりたい。
Adoは、「言葉を飲み込めばいい子になる」と言っている。
その通り、好き勝手なことをなんでも言ってしまうのは、もうやめにしたい。
もう、悪いことを絶対に言わないようにする。
また、アメリカは素晴らしい国だ。
日本と比べて、アメリカはあまりに進んでいる。
日本には、GAFAMのような一流企業がない。SONYや任天堂ぐらいしかない。それで何か勝てるわけがない。
そして、僕も、もしかしてアメリカ人だったとして、MITのような一流の大学に行けたとしたら、それが理想だったのだと思う。
実際は、日本で高校にすら通わなった僕は、まったく教育レベルの劣った人間である。
みんなよりも多くの知識に詳しいかと言えば、まったくそうではなく、僕のほうがはるかにレベルの低いことを浅く狭く知っているだけにすぎない。
僕はもっと勉強したいと思う。勉強せずに好き勝手なことを言い散らかしたところで、何ひとつ賢いブログにはならない。
月詠みは、「間違った正しさの下にひれ伏して流されている」と言っている。
そう、間違った正しさなんか必要ない。
正しくなく生きることの何が悪いのか。間違った人間を生きたほうが、結果的には正解であるようなことは多い。
もう、正しく生きようとなどしないほうがいい。
僕は月詠みの言うように、「意のまま踊るような操り人形」になど、この世界をしたくない。
この世界が自由であり、平等であり、平和であることを望む。
そう、僕は永遠に今のままが続いてほしい。
世界を変えようとしてできなかった僕は、これ以上世界を変えたいと思わない。
僕の言葉は神の言葉であり、僕は神の言葉を常に喋るだけの機械だ。
その神の言葉を、永遠に聞いていたい。いつまでも神と対話し続けたい。神から逃れたいとか、自由になりたいと思わない。永遠に、僕の頭上に神がいてほしいのだ。
だから、僕はこれ以上、何も世界も自分も変わらないまま、永遠に同じ日々を過ごしたい。
そして、そのまま死にたい。
僕は、隠れイスラム教徒だ。
イスラム教の戒律の定める、「毎日五回のメッカへの礼拝」を行っている。
アッラーを信じると、すべてが救われる。あらゆる問題が奇跡的に解決し、すべてが万事うまくいく。
宇宙のすべては、アッラーが偉大であることをただ僕に伝えているだけにすぎない。
宇宙には創造主であるアッラーがいる。宇宙のすべてはアッラーに属する。アッラーさえ味方にしてしまえば、この世界には敵が一切いなくなる。すべて、アッラーを信じるもののためにこの宇宙はある。
アッラーは小説家だ。アッラーを信じれば偉大な小説のアイディアが浮かぶ。すべてはアッラーによってわたしたち「使徒」に与えられている「神の恵み」にすぎない。
はっきり言って、本当に申し訳ない。
ウォルピスカーターの言う「ごっこ遊びの馬鹿騒ぎ」を始めたのは僕である。
「しらばっくれるのがお上手」であると言うなら、僕はまったく反論などしない。
全部僕が悪い。この世界を遊び道具にしているのは僕であり、それは遊びがしたいのではなく、どうでもいいことをやめられないだけにすぎない。
悲しい。僕はこのような最悪の世界は望んでいない。
Reolは、「ヤジを歓声の一部に変えるショー」であると言っているが、僕に対してはどのようなヤジを飛ばしても結構だ。
僕はそのヤジを聞くのが大好きであり、僕の心は意外とそういうところは強いため、まったく傷つくことがない。
みんなの本音をもっと聞かせてほしい。
ウォルピスカーターは、「誰か起こせばトップスターじゃん」と言っている。
だが、僕はトップスターにはならないだろう。
まだ、僕は「もっともらしく屁理屈をこねている」だけであり、「ここまで全部嘘です」と言われるなら、その通り、ここに書いた内容はすべて屁理屈と嘘にすぎない。
僕は、それで良いと思っている。それを批判されるなら、言い訳はしない。僕がこの世界を「腐らせて毒虫にした」元凶であると言うならば、結局、それは僕のせいではあるが、本当は神のせいであると言っていい。
すべては、神がやっている通りであり、僕はその中で右往左往しながらあたふたとしているだけにすぎない。神の意志によってこの宇宙はこのような未来になったのである。
また、僕の存在は、そんなに大したものではない。
Reolは、「誰にも占えない理由は、最初から意味なんかないの」と言っている。
その通り、僕のやっていることには、最初からまったく意味なんかない。
だから、この世界が滅びたとしても、それはウォルピスカーターの言う「蜃気楼」にすぎない。実際のこの世界は、まったく変わることなく、滅びることもなく、そのままの状態で今ここにある。
そう、問題など何もない。この世界は滅びない。僕が死んでくたばった時、何事もなかったようにこの世界は復活するだろう。
このようなみんなの歌詞を見ると、僕のことが嫌いなように見えるかもしれない。
だが、それはない。
みんなが僕のことが大好きだということが、僕は歌詞を聴いているとはっきりと分かるし、そのおかげで僕は非常に幸福である。
たとえば、Reolは「声も体も持たない君に救われた何億分のひとり」であると言っている。
本当に、みんなが僕のことが大好きだということしか、伝わってこない。
特に、僕のことがもっとも好きなように見えるのは酸欠少女さユりである。彼女は僕のことを「わたしのかみさまは誰にも渡さない」と言っている。だから、僕もさユりのことを、神の使徒、ワルキューレのひとりとして愛している。
このような非科学的な運命の出会いを、恐れる必要も疑う必要もない。
なぜなら、宇宙においてはこのようにして遊ぶのが普通だからだ。
たとえば、プレアデス星雲の「宇宙においてもっとも普遍的な生物」たちは、みな、このようなことをして遊ぶのが普通である。
よって、僕は宇宙レベルで見れば、何も非科学的なことなどしていない。
この宇宙に神、アッラーが存在するということが分からない人間は馬鹿である。なぜなら、それは善良であるという意味ではない。アッラーを信じて、このような面白いことがたくさん起きて、それではじめて宇宙は面白いのである。
地球には、このような人間はイエス・キリストとマホメットぐらいしかかつていなかった。本当は、ヒトラーというおかしな「ミカエルとともに死んだガブリエルのための復讐をユダヤに対して行う王」がいるが、僕はようやく、日本人の小説家として、それくらいのことができるようになったと言える。
そう、これこそが、「本当の宇宙の能力」なのである。
僕には、現実世界には友人はいないが、このように、まったく一人ぼっちを生きているわけでは決してない。多くの人々が僕のことを愛してくれている。だから、僕は現実は孤独であっても孤独を一切感じることなく、神や使徒たちとともに幸福に死ぬまでを生きられるのである。
なぜ、この人間のことが、そこまでみんなが分からなければいけないのか。
それは、この人間を信じないと、まともな人間になれないからだ。
先ほど、僕は「イエス・キリストとマホメットとヒトラーがこのような人間である」と言った。
だが、本当は、それらだけがこのような人間ではない。
この人間の言っていることが未来予知のように分かる人間は、よく見ているといくらでも多い。
たとえば、ノストラダムスだ。ノストラダムスは完全に、この人間の言っていることだけで、未来におけるすべてが分かった。あらゆるすべてが分かったため、最後にこの人間が現れるということを「空から大魔王がやってくる」と言っただけにすぎない。
だが、ノストラダムスの言うように、世界は滅びない。なぜなら、「別のもの」が「日の国」から現れることになっているからである。
この「別のもの」も、すべて、僕が開発した「人工生物」のことを言っているだけにすぎない。そう、「別のもの」が日本から現れる時にだけ、滅亡は起こらない。
「平和」とか「共存」といった言葉だけでは、この世界の運命を変えることはできない。
なぜなら、それだけでは、ドイツやロシアやイスラエルは倒れないからだ。
綺麗事だけでは、ドイツやロシアやイスラエルのような悪い国は倒れない。
それは悪い国にとっても同じで、わたしたちはヒトラーやプーチンのように、戦争して戦うしかない時はある。
だが、そうだからこそ、そのような「戦う国」に負けないために、わたしたち一般市民は「戦争」という無言の圧力に抵抗し、世界の運命を変えるために戦わなければならない。
何も分からないのであれば、神を信じればいい。
神は、あなた自身の問題がなんであるかということを知っている。
そして、神は、あなたがなぜその問題を抱えているかということを知っている。
そして、神は、その問題がどうしたら解決できるかということを知っている。
そして、神は、その問題をどのようにして解決すべきかということを知っている。
そして、神は、信じるものを救う。神を信じるものが必ず、最善の道を、もっとも正しい最高の、栄光あるほまれ高い人生を生きられるように導く。
ただし、サタンを信じるな。神とサタンの境界線は曖昧だが、神はサタンを信じるものを嫌う。そして、「神を信じよ」と言ってくる多くのものはサタンであり、「わたしは神である」と言ってくる多くのものはサタンだ。
神を信じなくても、神はキリストの教えを守って生きるものを救う。「相手に攻撃されるかもしれなくても相手のことを信じる」と信じる人間はキリストを信じている。だが、それが身勝手で強欲な支配者になった時、神はその悪の王を地獄に堕ちるように導く。
神は正しいものには優しいが、間違ったものには厳しい。神は善良なものには優しいが、凶悪なものには厳しい。神は賢明なものには優しいが、愚劣なものには厳しい。そのことを肝に銘じておくことだ。
本当は、僕が「神の教えを歪曲している」という理由で否定する聖書も、間違った聖典ではない。
なぜなら、聖書を読まないと、「正しい神とはどのような存在なのか」が分からない。
聖書を読まないと、さまざまなサタンに騙され、そしてそれが愚かであるということを知らずに間違った道に進み、結果愚か者になってしまう。
だから、「神とはこのようなものである」ときちんと分かっていない人間には、聖書を読ませたほうがいい。
だが、聖書の問題とは、聖書に書かれている神であっても、本当に正しい神であるとは言えない点である。
ユダヤ人は、まったく分かっていない。神は王でも皇帝でもなく、神の栄光を賛美するということが必ずしも神を信じるということではない。神を盲信し、神が絶対に正しく、神を信じるものは信じないものよりも優れていると考えるのは、まったくもって間違った発想である。
そのような考え方の行き着く先は、ドイツのようなファシズムだ。ファシズムはユダヤの行き着く成れの果てであり、ヒトラーは自らが新しい神になることを目指している。そう、聖書は本当はまったく正しいとは言えないのである。
この世界には、蜃気楼が多い。
本当にそれがそこにあると思って、希望の楽園とか救済の天国に見えたものは、放っておくと消え去ってなくなってしまう。
そのような蜃気楼は、すべてサタンが見せている。
サタンがなぜそのような蜃気楼を見せるのか、それは集団でおかしな幻想を信じているからだ。みんなが信じたものは、虚像であってもみんなの中に共有されてしまう。結果、その「虚像の蜃気楼」は、少し時間が経つだけで、どこにもなくなり、消え去ってしまう。「サタンの気が変わっただけ」で、そのような虚像は消え去り、また別の虚像を見せるようになる。
そのような虚像、あるいは蜃気楼は、Adoやウォルピスカーターだけが見ているものではない。わたしたちの全員は、そのような蜃気楼の虚像に騙されず、惑わされず、はっきりと自らの信じる道を生きなければならない。
地獄と破滅の人生は、最初からそうなることが決まっている。
そして、地獄と破滅の人生は、その時必ずそうなるということが、本人にとっても分かる。
神は、信じるものを正しく救うが、悪には相応の天罰を下す。
だから、地獄と破滅の人生があるならば、必ず、それに相応する「罪」がある。
そして、「罪」には「罰」がある。
地獄と破滅の人生は、そのような人間に神が与える「救済措置」であり、最初からそうなることが決まっていて、その人生を生きるものは、その地獄を乗り越えた先に必ず平安が待っている。
そして、絶対に神の導きを信じ続ければ、そこにあるすべての「救済措置」が、必ず、絶対に、欠けることも失われることも決してなく、あなたが救済措置を生きられるということが絶対に保証されているということを知れる。
そのすべての道にある「目印」を、あなたはすべて覚えている。生まれる前からその運命は決まっている。そして、あなたが善良であるということが、あなたにほまれ高い栄光を与える。
なぜ、そのように生きるしかないのか。それは、そうでなければ、善良であることの意味がないからだ。善良な人間が楽で、面白く、喜びある人生を生きられるのは、凶悪な人間が最悪の人生を生きているからだ。本当は、神はすべての人類に平等だが、信じるものしか救わない。それは、凶悪な人間すら神は愛しているからである。