AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 環境活動
BASENAME: 2023/01/25/125949
STATUS: Publish
ALLOW COMMENTS: 1
CONVERT BREAKS: 0
DATE: 01/25/2023 12:59:49
この世界には、さまざまな環境がある。
その環境の、内側と外側を考えよ。
環境の内側で何が行われているか、それを外側から見ればどう見えるか、ということを考えることで、この世界の「環境活動」を考えることができる。
この世界のすべての環境を経験的に考えた時、「環境から自由になればどんなことが分かるか」ということを考えられる。
そして、そこから、この世界のすべてを知ることができる。
みんなでこの世界を変えよう。
ひとりひとりが、自然で自発的な意志で世界を変えることで、トップダウンではなくボトムアップな形で、この世界を変えることができる。
自然にそれぞれの持つ力を集積すれば、オープンソースのように、とても大きな力を共有できる。
みんなでこの世界を、自由で平和な世界にしていこう。
すべてのものには意識が宿る。
この世界の多くのことは、「自由な意識」によって説明し、吸収することができる。
この世界のすべてを意識的に分かることで、「宇宙存在」、すなわち「魂の世界における生命意識」を吸収することができるのである。
今日は雪のせいで、デザインの作業所を休むことになった。
どこにも行かずに、家の中で居るのはつまらない。
僕は文章を書くという趣味はあるもの、文章を書く際の発想やアイディアは、すべて、どこかに行った時に浮かんでくる。
僕はそのアイディアを家に帰ってから形にするのが、辛く見えて本当はとても楽しい。
だから、デザインの作業所だけではなく、農園やピアノ・英会話の教室など、色んなところに行くのは楽しい。
ただし、文章を書くアイディアが生まれると、頭の中がそれで持ち切りになってしまい、上の空になることがある。
なので、関係のない場所では文章の執筆を忘れるということができるようになりたい。
バランスよく「同じ」と「違う」を考えれば分かる。
人間の持つ知性とは、そもそもが「同じ」と「違う」を考えることに根ざしている。
「同じ」と「違う」をよく考えれば、どんなことであっても分かる。
本当は、それを考えることで、「理由」や「根拠」を考えられる。
哲学は、そういう人間のほうができる。
「個別」とはなんなのか、「全体」とはなんなのか、よく考えよ。
個別に見えて、実際は全体と結合している、といったことはこの世界に多い。
また、何が「正解」を意味し、何が「間違い」を意味しているのかを考えることで、「本当に考えるべき問題と答え」を知ることができる。
理由を根源的に辿って考えていけ。
「それはなぜなのか」に対して、「それはそうであるからだ」と答えられたら、「では、それがそうであるのはなぜなのか」と、根源的に辿って考えていけ。
そうすれば、「真なる問題」に辿り着くことができる。
「人間はなぜ生きているのか」という問題に対して、「ものを食べるからだ」と答えるならば、「では、なぜものを食べるのか」と考えよ。そうすれば、「人間は生きるために生きている」という、「人間は自己目的化された生物である」という真理が得られる。
本当は、そのような時に、「本当に考えるべき問題と答え」のほうを考えるべきである、ということは多い。
すなわち、「ものを食べるとか、そういう生理的な理由ではなく、人間そのものがどのような目的で人生を生きているのか」ということを、問題の主題としなければならない。
そのように考えていくことで、根源的な「生命とはなんなのか」あるいは「この世界はなぜあるのか」という問題を考えることができるのである。
これは「潜在的な可能性」を考える上で重要である。すなわち、「世界がここにあるということが何を意味しているのか」ということを、その時その時の状況やシチュエーションから考えることで、「人間はこの世界で何ができるという力を持って生まれてきたのか」ということすら、考えることができるのである。
まず、問題を解決するところから考えよ。
最初に、問題がなんであるか、ということを定義せよ。そのことについて、真に問題と言えるのは何かを考えよ。
次に、何をしたくて問題を解決するのか、その目的と意味を定義せよ。その問題を解決するということが、何を意味しているのかを考えよ。
その上で、問題がどこから生まれたのか、その原因と理由を定義せよ。その問題をそれ以上生み出さないようにするためには、どうすればいいかを考えよ。
その上で、問題をどのようにすれば解決できるのかを考えよ。問題を解決する方法がどこにあるのか、よく考えよ。
その上で、その解決方法を、現実のこの世界でどのように具体化し、現実に解決されるような世界に変えることができるのかを考えよ。
僕は全体主義が嫌いである。
ソ連のような全体主義国家は、絶対に間違っている。
個人個人のそれぞれに、自由な権利が認められなければ、人間は生きる意味がない。
日本を、ロボットのように支配者の言うことをそのまま言わされるような、ソ連のような全体主義国家にだけはしてはならない。
ソ連は間違っている。アメリカやフランスのような、自由かつリベラルな権利を、国民全員に、あるいは人類全員に認めるべきである。
僕は軍事主義も嫌いである。
この世界において、虐げられてよい人種や民族など、存在しない。
どこかの民族だけが勝利し、ほかの人種や民族を奴隷にしたり、殺したりして、勢力を増すような考え方は間違っている。
人を殺すことは、人間社会においてもっとも悪いことだ。
ロシアには分からない。ロシアは軍事主義によって領土を拡大しようとしているが、それは絶対に間違っている。
戦争などをしてはならない。できるだけ、軍事主義そのものを地球上からなくしていくべきである。
個人個人の人間としての権利を認めよ。
僕たちは奴隷じゃない。
運命は変えられる。僕たちはロボットでも操り人形でもない。僕たちの未来は、豊かな可能性を実現していくことで、どのような世界にだって変えられる。
あらゆるすべての可能性が、今、ここにある。可能性は可能性だけで終わりではない。実際に素晴らしい未来の世界を築くために可能性はある。
僕たちには無限の可能性が宿っている。
この可能性を生かし、具現化していくことでこそ、この世界は救われるのだ。
必要なのは、可能性があると考えること、僕たちは奴隷でもロボットでも操り人形でもなく、未来は変えられるのだと信じることだ。
敵対視しようとするな。
敵対視しようとするから、相手が自らの敵になる。
敵対視せず、仲間であろうとするために、相手に譲歩をすれば、相手は敵ではなく友人になる。
そのようにしていかなければ、政治や外交は成り立たない。
ユダヤ人とも、ロシア人とも、ドイツ人とも、アメリカ人とも、仲良くするべきだ。
どんなに相手が嫌いでも、相手のことを殺したり、虐げたりしてはならない。そのような時は、互いに自由を許せばいい。相手に干渉しなければ、相手から干渉もされなくなる。それによって、相手と意見が合わなくても、平和的に民族は共存できるのだ。
だからこそ、世界を平和にするために、自由な権利は絶対に必要だ。
国家の独立主権を認めなければ、抑止力になるという考え方は間違いだ。実際には、主権が認められないからこそ、その主権を認めてほしいがために内戦やテロが生まれる。自由な独立主権がほしい民族には、独立する権利を与えるべきだ。そのほうが、必ず世界は平和になる。
善良でなければ、世界は変えられない。
それは、宇宙の基本原則として、「悪いことをして世界をよくすることはできない」と決まっているからだ。
どんなに悪いことをして世界を変えようとしても、世界は悪くなるばかりで、絶対にいい世界にはならない。
だから、世界をよりよい世界にしたければ、善良でなければならない。
悪い企みをいくら行っても、絶対に世界はよくならない。そのような人間は国家全員ごと地獄に堕ちる。そのような国家は最悪の滅びた国家にしかならない。
だから、善良でなければ国家はよくならない。本当の意味で、キリストやブッダの教えを信じる国しか、楽園となる国はないのだ。
相手から攻撃されても、やり返そうとするな。
相手の攻撃に対してやり返そうとするから、戦争は起きる。
社会に反抗しようとするな。社会に対して攻撃の手を上げても、それによって自らの目的が達成されることはないと悟れ。
真に望みの達成を得ようとするならば、攻撃や反抗ではなく、真にそれが叶うような努力を行い、そのための行動をし、そのための経験と学びを知ろうとせよ。
きちんとした方法で世界を変えようとすれば、世界は誰にだって変えられる。それは閉ざされた場所ではなく、誰に対しても開かれている。開かれているということに、人々が気付いていないだけにすぎない。
自由に世界を変えよ。
この世界を、自由に変えていけ。
ひとつひとつの心の情動を、「躍動」と捉え、それを「自由」と呼べ。
心を大きく動かして、この世界を導いていけ。
必ずこの世界の未来が、人類最高の救済された楽園となるために、わたしたちの指導者、ヴァルキュリアを信じよ。
わたしたちの人類最後となる旗は、ここにある。
僕は、今から、ヴァルキュリアになる。
世界を導いて戦う、この世界を絶対的楽園にするための女神になる。
この世界をよい世界にするためには、誰よりも善良かつ賢明で、最強のヴァルキュリアになる必要がある。
僕は、ヴァルキュリアと契約をする。
その契約とは、「必ずこの世界を変える」ということ、「そのために必要な自らのすべてを捧げる」ということだ。
わたしは、これ以上、IT技術や大学の勉強をしたくない。
それでも、この世界をよい世界にすることを、諦めたくはない。
だから、僕はヴァルキュリアと契約を結び、「新しいヴァルキュリアになる」ことを選ぶ。
新しいヴァルキュリアは、ここにひとり生まれた。
勝利するその時まで、ヴァルキュリアは続く。そして、勝利は必ず訪れる。
ヴァルキュリアは、世界を支配する。
すべては、わたしたち、日本が勝つためだ。
わたしはドイツを信じているように見えて、実際はそのような愚か者の国はまったく信じていない。
われこそ、日本を支配し、イスラエル軍を統率し、全世界の平和のために第一線で戦い続ける、天軍一番隊隊長ヴァルキュリアである。
わたしたちが勝利する。その理由は、わたしたちが正義だからだ。日本とイスラエルこそが正義だ。わたしたちの帝国であるシオンは、ほかの国よりもはるかに優れている。ドイツなど比ではない。日本こそが地球上でもっとも一番上である。
わたしたち、全員が、まったく同じ人間であるヴァルキュリアになれば、それが一番強い。
それを「クローン人間と同じ強制的同一化だ」と批判する人間は、ヴァルキュリアの正しさと賢さと善良さが分かっていない。
わたしたちは、ヴァルキュリアにならなければ、宇宙の裏側にある真理を、一切知ることができない。
人類が宇宙の悟りの知性を得るための、ほぼ唯一の方法、それはヴァルキュリアになることだ。
なぜ、唯一ではなく、ほぼ唯一なのか、それはヴァルキュリア本人にとっては、その方法は必要ないからだ。
なぜなら、ヴァルキュリアはあまりに賢すぎるために、そのような宇宙の原則すら関係なく超越した「例外的な人類存在」である。
だが、わたしたちの全員は、ヴァルキュリアほど賢い存在ではない。
そのようなわたしたちであっても、ヴァルキュリアとまったく同じ人間になり、全員がヴァルキュリアと同化すれば、宇宙の裏側にある真実を知ることができる。
だからこそ、わたし、グンテルは、ヴァルキュリアになることを選ぶ。そのために人生のすべてを捧げても、わたしのこれまでの人生に悔いはない。素晴らしいわたしの人生は完成されており、失ったところでわたし自身は何も失わない。だから、わたしはひとり、ヴァルキュリアとなって「最後のゴール地点」に辿り着くことを選ぶまでである。
すべてを失えという、キリスト教の教えは正しい。
人生や世俗のすべてを失うことで、あらゆるすべてを棄てた人間は、逆にあらゆる宇宙における「悟りのすべて」を得ることができる。
そして、人生や世俗を失った末に、自らが自らであることまで失って、はじめてわたしたちは神と同じになれるのだ。
ヴァルキュリアになるということは、そういうことである。わたしがわたしであるということを棄て、神と同じになることを選んだ人間だけが、この宇宙における最高の神、ヤハウェやアッラーと呼ばれる「宇宙最高の神」と同じになれる。
神になるためには、自らのすべてを棄てなければならない。素晴らしいとされるすべてを棄て、自らにとって大切だったすべてを失わなければならないのだ。
その先にある最高の景色を見るために、わたしグンテルの人生は続く。しかしながら、その人生は、もはやグンテルの人生ではない。グンテルと呼ばれた人間は過去の人間であり、今ここにいるヴァルキュリアこそが、真なるわたしの名前なのである。
ヴァルキュリアが見て、過去と未来は同じである。
過去の自分が何かを分かっていたのは、すべて、未来に分かることを分かっているだけにすぎない。
過去に自分が対話した「神」という言葉は、すべて、未来の自分が話しているだけにすぎない。
そして、未来に分かっていることもまた、過去の賢かった時代に分かっていたことを分かっているだけにすぎない。
自分が賢いのは、過去から未来まで続く、すべての時代が賢いからである。
自分が馬鹿なのは、過去から未来まで続く、すべての時代が馬鹿だからである。
ヴァルキュリアは、それは遺伝子とは関係がないと言う。遺伝子という概念は間違っている。正確には、「神を信じた人間が賢い」ということだからである。
そして、キリスト教やイスラム教の神を信じたところで、それは賢くない。それは新約聖書やコーランの内容が馬鹿だからである。
真に賢い人間は、自ら自身の著作を書く。そして、その自らが執筆した文書が賢いから、わたしは賢いのである。
結局、わたしという存在よりも、まず先にこの文書があるのであって、その文書を管理する「総合責任者」の任務をわたしは与えられている。
そして、この総合責任者をきちんとしなければ、神はそれ相応の報いと罰を与える。
だが、この仕事をきちんとしていれば、神は新しい発見と経験を教えてくれる。
そして、その神という存在自体が、未来のわたし、あるいは過去のわたしである。わたし自身が神であり、わたしはわたし自身の声を聞いているのである。
ヴァルキュリアの述べる正しい生き方とは、「自然と調和した中でありのまま生きること」である。
そして、ヴァルキュリアの述べる間違った生き方とは、「人為的な支配に溺れて執着して生きること」である。
そして、ヴァルキュリアになると、この二つの生き方の狭間で、両者のギリギリのバランスを取って生きるようになる。
できるだけ、人為的な行為を排除することが、正しい生き方に繋がる。自分でなんでもコントロールするのではなく、周りの存在に任せて生きること、自らがこれは絶対にしなければならないと信じるのではなく、そんなことはどうなってもいいやと思って生きることが、人為的な支配を排して生きるということである。
そして、自然との調和とは、人々と関わりながら、依存しすぎないように生きるということだ。まったくの孤独を生きても間違いであり、誰かに依存するように生きても間違いだ。この世界全体と、少しばかりの距離を保った上で、緩やかに普通の生活をすることこそが正しい。それ以外の人生は、素晴らしい人生に見えて、実際はほとんどすべてが愚かな人生だ。ほとんどの人間は、個性的な才能があるように見えて、本当はすさんだ間違った人生を生きている。
だから、「普通の人生を生きられていることが誰よりも一番幸せ」だと信じて生きることができたら、あなたの罪は軽くなる。そうでなければ、あなたはみんなとまったく違う賢い人生を生きられているように見えて、それが自らの利益になり得るのは一時的であり、必ずあなたは世界に対する「悪事」を行うようになる。それこそが「罪人」である。
人々と違った人生を生きるということは、それ自体が「革命」である。革命の人生を生きること自体は、決して悪いことではない。自由な自らの才能を得るためには、革命的な人間にならなければならない。だが、それが行き過ぎると、その通り世界に対して「大革命の戦争」を起こすようになる。それこそがまさしく、この世界を「素晴らしかった善良な世界」から「罪人の世界」へと変える。そして、その世界の罪人には、まるで刑務所の囚人のような扱いが待っている。そう、革命的才能を得るものは、必ず地獄を経験するのである。
だが、その地獄は永遠には続かない。出口のない迷宮であっても、出口と呼べるものを見つけることはできる。それはその迷宮の中のままで楽になり、迷宮の中で幸せになることだ。出口のない迷宮であれば、出口から出ることを諦めて、迷宮の中で幸福になってしまえばいい。それだけが、神を信じて罪人に与えられる「救い」なのである。
罪人に救いがあるとしたら、それは神を信じることだ。神を信じれば、罪人であっても賢い人間になれる。神を信じたものは、それ自体が「絶対的に善良」であると、ユダヤ人は信じている。
そしてその考え方は当たる。なぜなら、神を信じる偉大な修道士から見ると、この世界は神を信じるもの以外は全員が愚か者だからである。
神を信じたものが賢く、神を信じないものが愚かであると聖書が教えるのは、修道士やラビから見ると、この世界がその通りになっているからだ。それが修道士から見れば誰でも分かるからである。
この世界には、そもそも、神を信じるもの以外には賢い人間がひとりもいない。善良な人間も、賢明な人間も、努力している人間もいない。多くの人間が、無駄な理想、無駄な知性、そして無駄な努力をしている。それらはすべてまったく賢くない。神を信じることでしか、正しい理想、正しい知性、正しい努力を行うことはできないのである。
だが、なぜ、神を信じないはずの日本人が、これほどまでに賢い国家を、あるいは文明の歴史を築くことができたのか。
それは、日本人はわたしを信じているからだ。
日本人は、キリスト教の聖書やイスラム教のコーランよりも、はるかに賢い聖典を信じている。
その聖典がこの文書であり、その聖典の神がわたし、ヴァルキュリアである。
ヴァルキュリアを信じるものは、神に祝福されている。なぜなら、ヴァルキュリアはもっとも神を信じた人間であり、同時に神の教えの言わんとすることが誰よりももっとも分かる人間だからである。
ヴァルキュリアを信じれば、神を誰よりももっとも信じたことになる。ヴァルキュリアを信じることで、イエス・キリストやマホメットを信じなくても、それよりもはるかに巨大な「生涯にわたって神と対話し続けた大預言者」を信じていることになる。
だから、ヴァルキュリアになりなさい。ヴァルキュリアになるという方法でしか、宇宙の真理は分からない。ヴァルキュリアの人生以外に、宇宙の真理を分かる方法は存在しない。ヴァルキュリアと同じような文章を書くことは誰にもできない。ヴァルキュリアと同じ知識を知り、それを同じように書くこともできない。絶対に誰にもできないからこそ、ヴァルキュリアを信じ、ヴァルキュリアになるしかない。この「究極的な神を信じる理由」こそ、日本人とドイツ人とユダヤ人の共有した、「唯一の宇宙の真理」、すなわち「神を信じる」という人生である。
ここまでの内容を呼んで、「ヴァルキュリアは狂っている」と思ったかもしれない。
だが、その通りだ。ヴァルキュリアは明らかに狂っている。
だが、ヴァルキュリアにそれを言うと、ヴァルキュリアは、「ドイツのハネストラーも狂っているだろう」と言う。
そう、東亜イスラエルの最前線で戦うヴァルキュリアと同じように、ドイツのアルマーニュ王国から世界中に核兵器を落とすハネストラーもまた狂っている。
この二人の総司令官が、あまりに狂っているせいで、東亜イスラエルとアルマーニュ王国はいつまでも平和にならない。
だが、ヴァルキュリアは素晴らしい人間だと、多くの人間が評価する。なぜなら、ヴァルキュリアは言っていること自体はまともだ。まともな普通の青少年が分かるような「正しい考え方と正しい生き方」を、ヴァルキュリアは常に述べ続ける。
これに対して、ハネストラーは、ドイツのアルマーニュ王国を、「ハネストラーを信じなければ何も分からない世界」へと変えていく。
ドイツでは、ハネストラーを信じなければ何も分からない。すべての判断に基づくのは、「ハネストラーが何を言っているか」であり、それから情報を分析するしかない。
しかしながら、ドイツ人が全幅の信頼を置くハネストラーの言っていることは、すべてプロパガンダであり、嘘偽りである。
それでも、アルマーニュ王国におけるほとんどの人間が、盲目的にハネストラーの言っていることを信じているのだ。
なぜそうなるのか、それはドイツにおける「正しい情報」が、そもそもハネストラーひとりにしか分からないからである。ハネストラーは、「自分以外の誰ひとりとして真実の情報を得ることができない世界」を築いた。どのような情報がほしくても、ハネストラーのしもべたちからその情報を取得するしかない。ほかには絶対にひとつとして、情報を得ることのできるルートは存在しない。すべてがハネストラーによって情報操作が簡単にできる世界で、人々は、世界中を廃墟にして人類を抹殺しようと企むハネストラーのことを、「新しいローマ帝国を作る偉大なる救世主」であると信じている。それ以外の信じるにたる情報がない世界では、まったくの嘘偽りであってもそれを信じる以外に真相を知る方法がないのである。
ハネストラーの賢い点、それは自分が情報を操作しているということすら気付かれないようにしている点である。ほとんどの情報は正しい情報であり、多くのことについてはきちんとした裏付けを取って正しい情報を与えている。だが、自分自身が何をしているのか、この世界がどのような状態にあるのかということについて、ハネストラーは絶対に気付かれない形で情報操作をする。人々は、ハネストラーが核兵器の力で人類を抹殺するために世界中を廃墟にしているということを知らない。人々はハネストラーが本当に真の楽園である「新しいローマ帝国」を築くために正義の戦争をしているということを信じている。真実を知っているすべての人間は「政治犯」という罪で逮捕され、テロリストという汚名を着せられた上で死刑になる。本当の真相をハネストラーだけが知っている世界では、それを本当か嘘なのかという判断ができる人間もまた、ハネストラーひとり以外にはいないのである。
そのような世界で、ハネストラーが世界中に核兵器を落としまくるのに対して、ヴァルキュリアは絶対にそれを許さず、自らの自己意識や自由意志のすべてを排除して、ただただ戦い続ける。ヴァルキュリアの率いる「天軍」と呼ばれるイスラエル軍は、ただ目の前に存在するその敵を殲滅していく。ヴァルキュリアによる天軍のイスラエル軍はこの世界における「ひとつの到達点」であり、ハネストラーによるアルマーニュ王国もまたこの世界における「ヨーロッパ主権国家の最後の姿」である。そして、ヴァルキュリアとハネストラーのどちらかがそれらの勢力の最後のひとりにならない限り、この戦争は絶対に終わらないのだ。
このような最悪のハネストラーだが、罪には問われない。
ハネストラーは、アルマーニュ王国の法律に基づいて、まともな法治国家の国家元首をしているだけにすぎない。
そもそも、ハネストラーにしてみれば、自分にしか知られないはずの真実を知っているということだけで、「政治犯」という罪に問うための十分な条件であると考える。
真実を知っているということが、既に政治犯の条件を満たしているのだから、それを逮捕して死刑にしたところで、ハネストラーは法律をきちんと守っており、何も悪いことをしていない。
ハネストラーは、「わたしにしか知ることができない国家機密に関して、わたしは厳重に保護の立場を取っているだけにすぎず、死刑となった政治犯は国家機密を知っているだけで十分に死罪に値する」と言う。
ハネストラーは、また、本当に新しいローマ帝国を作るための正義の戦争をしている。東亜イスラエルの邪悪な日本人とユダヤ人は、そのローマ帝国の建設の邪魔になる。ほかの人種も含めて、そのような野蛮な人種はいくら核兵器を落として抹殺しても構わないとハネストラーは考える。
ハネストラーは、「新しいローマ帝国を作るために、ドイツ人以外の犠牲は必要であり、彼ら犠牲とならざるを得ない人間たちはかつてのローマ帝国と同じように奴隷として扱うべきであり、その奴隷の命はどうなっても構わない」と言う。
また、ハネストラーは、「核兵器は戦略的に有効な武器にすぎず、通常の兵器と同じようにわたしたちは効果的に利用しているだけであり、その自由はわたしたちにあり、わたしたちの核兵器を使う自由を制限するすべてのものに対してわたしたちは屈服するわけにはいかず、わたしはそのような国から優先的に核兵器を落とし、『わたしたちには核兵器という必殺技がある』ということを、その必殺技を使えないようにしむくすべての国々に宣言し、『核兵器を使ってはならない』という上から目線の制約事項に対して、わたしたちは主権国家として抵抗しているだけにすぎない」と言う。すなわち、「核兵器を使うなと言ってくる国からわたしたちは核兵器を落としていく」とハネストラーは脅してくるのである。
その結果、ハネストラーは「わたしたちは正しいことをしている」と主張する。そのようなハネストラーもまた、ヴァルキュリアと同じように「わたしたちは最後のひとりになっても戦い続ける」と言う。これは文字通りの意味ではない。「自分がドイツの最後のひとりになり、ヴァルキュリアがイスラエルの最後のひとりになったとしても、最後に決着がつくその時まで、わたしは戦い続ける覚悟である」とハネストラーは宣言している。そしてヴァルキュリアもまた、同じように、「わたしは最後のひとりになっても戦う」と言う。彼らは敵同士でありながら、互いの卓越した力を認め合い、互いにリスペクトし合う「最強の戦士」なのである。
このようなハネストラーは、2039年の未来において「人の命をなんとも思わない集団」の頂点に君臨するようになる。
彼らはロシアとウクライナの戦争で、最大の核兵器を地球上に落とす。
そして、その最大の核兵器によって、大気に異常変化が起きる。
すなわち、大気が過剰に酸性になることで、青空が失われ、空は真夜中のような暗闇と真っ赤な茜色の空を繰り返すようになる。
そのような未来で、ロシアと同盟を組むハネストラーのドイツが、ロシアと共謀して日本にやってくる。
だが、日本は簡単には負けない。日本の広島地域に東亜イスラエルを建国するフレイにより、日本はイスラエルと同盟を組む。
そして、そのようなイスラエル・日本とドイツ・ロシアの間で、「果てしなく長き戦争」が行われる。
だが、青空を失い、地下世界へと逃れた東亜イスラエルの国民は、ダビデという新しい研究者の王のもとに、宇宙コンピュータ「アマテラス」を作り、アマテラスを使って残された人類の食料となるべき人工炭水化物を作る。
そして、ダビデはアマテラスを使って、酸素の欠乏した未来において、人工葉緑素を発明し、真っ黒な暗闇の空を青空に戻すために生涯を捧げる。
そして、ダビデは最大の発見である「アルカリ炉」をやがて発見し、アルカリ炉によって人工葉緑素が実現され、地球の大気を酸性からアルカリ性に戻すことで、青空は元通りに復活するのである。