AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 自由を信じよ
BASENAME: 2023/01/24/223940
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DATE: 01/24/2023 22:39:40
自由を信じよ。
自由という言葉から考えることで、人生における自由な学習が分かる。
自由な変化から、社会の自由な創造を知れ。
自由な分析から、さまざまな経験を反省的に学習せよ。
自由な知性を培うということが、人生における目的である。
自らが自らであるということを証明することこそが、自由における生きる意味である。
自由に愛することから、この世界は変えられる。
すべての人間に、自らと同じ力を与えるということこそ、真に自由な平等であり、自由な理想である。
自由な社会とは、それぞれがそれぞれの限界値まで、自由な行動を許した社会のことである。
自由を与えることで、この世界のすべての問題は、自由に解決することが許され、解決そのものが可能となる。
自由な人生とは、自らの決断する選択肢を選択できる人生のことである。
この世界に存在するすべての価値を作り出すことのできる「メタ的な価値」こそが、自由な社会における自由な集積であり、社会という名の価値観の共有である。
すべての人間を愛するためには、まず自由な変化そのものを受け入れ、全員の心が躍動することを受け入れなければならない。
全員のための世界こそ、自由な世界である。
すべての人間が人間として認められる世界でなければ、自由には意味がない。
すべての人間が自由であるということは、すなわち、すべての人間が世界を変えることができるということであり、それはつまり、全員に自由が許されているということである。
この世界は、それ自体が、潜在的な可能性を持つ。
自由さえ許されてしまえば、どのようにでも世界は変えられる。
すべての人間のための世界を作るためには、全員に自由を許すべきであり、同時に、全員に「体験的な知性」を与えるべきである。
体験的な知性とは、その人間が何をするかを自由にするだけではなく、何をすればどうなるかということを体験的に理解させることで、「どのようなことをすれば正しいのか」ということまで、すべての情報を与えた上で、「自分なりに考え、その自分の考えた通りに行動した結果どうなるか、ということを自ら学ぶようにさせる」ということである。
全員が、自らの自由な反省と自由な知性から理解するようになれば、この世界は自由のままでも成熟した世界になり得る。そして、そこからでしか、救済された楽園は創造できない。
救済された楽園とは、すなわち、人間的に成熟した楽園であり、そのために必要なのは「実験できる場所」であり、そのような実験できる場所を与えることこそ、この世界を救う「救世主」を生み出すために必要である。
心を考えよ。
心について、「自由な心の変化」から考えることで、この世界を「躍動的」に考えることができる。
自らの心の自由な変化から、相手の心を変化させる術について考えよ。それは「相手の受動感情に働きかける」ということであり、それは「自らの客体的な行動を想定」することから、「環境そのものの意識」を変えていくということである。
すなわち、自らがその場その場で何をできるかということは、客体的な自由を考えるということであり、それがすなわち、環境そのものの意識へと変換されて、最終的な「影響力の結果」を考えることに繋がる。
人々が、世界においてどのように生きているかということを考えるためには、「環境に対する反応」ということを考える必要がある。
そして、その環境における反応は、それ自体が「人生の経過を決定」することであり、人生とは環境であり、そこから生まれる反応であり、そこから生まれる意識である。
ものや場所に対する「反応的な意識」こそが、世界それ自体に対する「世界観」となり、「価値」となって「自由に培われる信念」となる。
そして、その信念が人格を作り出し、この世界に対する「本当の望み」を作り出し、その共有がこの世界を変えていく。
そのような心理学的な環境の人格形成論をよく考え、導き、支配することで、自らは「この世界を変えるに至る真のアイデンティティ」を得ることができる。
そのようなアイデンティティの在り方を築くことから、この世界を救い、「真に救済された楽園」を創造することができるのである。
自由とは、「実体」との関わり合いである。
実体とは、現実における社会それ自体でありながら、それ自体が仮想的な世界であり、仮想的な社会かつ現実的な社会のような、「リアリズムとフィクションの間に存在する、しかしながら確かに精神それ自体に存在する、精神的な社会有機体」のことである。
そのような実体を、別の呼び名で「世界精神」と呼ぶ。
世界精神との関わり合いは、それ自体が成長であり、「自己意識の発達」である。
実体との関わり合い、あるいは世界精神との関わり合いを経験することで、自己意識はその対峙と争いから反省的に受容性を勝ち得る。
そのような心が、さらに進歩していくことで、世界に対する「積極性」を生み出す。
そして、積極的な行動が実体との関わり合いを経験することで、「すべては自らが分かった知性や知識や知恵に基づいてこの世界を啓蒙的に変えること」ということが分かる。
そして、それがすなわち、「環境が発生し、環境が生起する」という真理から、「環境は変えられる」という第一原理をもたらす。
そのように考えることが、ドイツ哲学的な観念だけではなく、仏教的な「すべては苦しみしか存在しない」ということもまた発見する。
なぜなら、あらゆるすべては苦しみあるいは苦しみの根源になるような快楽しか存在せず、すべてを苦しみであると捉えることから、頃の中にある「苦しみへの依存を除去」していくことができる。
そして、苦しみのすべてを除去した状況こそが涅槃であり、それが唯一、極楽浄土を形成することのできる「人生を俯瞰した上での悟性」すなわち「仏の悟り」となり得る。
そして、最終的に人間は「直観」だけで宇宙のすべてを悟る。
そこにあるのは「世界への愛」であり、「自由な人生を終えた上での完全なる達成」である。
すべての人生の試練を、たったひとりで乗り越えてきたということが、自らを褒めたたえる「最大級のプライド」となるのである。
知性は、言葉や思考と経験が合わさることによって、次第に「実体化」をしていく。
この実体化は、自分だけのオリジナルの博物学を作り出す。
同時に、知性はそれ自体が、「どのようなことであっても感覚的に理解することができる」という意味での、理性的な構造の構築である「モデル化」を果たす。
この「実体化」と「モデル化」は、相対主義におけるひとつの到達点であり、「どのようなことであっても経験を正しく分析すれば分かる」という、経験的な推論の知性を生み出す。
そして、そこから、心の内部の動きを把握することで、「受動感情を完全に掌握」することができるようになる。
そこにあるのは、まさしく「先入観のない超自我の知性への突入」であり、それがまさしく、「コペルニクス的転回」へと至る。
その結果分かるのは、「神は心の中にあり、世界は自分の中にあり、世界が存在していることと自分自身が存在していることは同じである」という、理神論的な唯心論だ。
そして、その結果、神は自らを完全に支配するとしても、その神と対等の立場で自由に議論することのできる、「神との友情」を得ることができるようになるのである。
そして、考えることで、むしろ、矛盾しているように見える命題が、本当は矛盾していないことに気付く。
矛盾しているように見えるのは、その「根拠となる意見を持つ存在」のことを深く考えていないからにすぎず、よく考えると、その矛盾は本当は矛盾ではなく、「視点や立場の違い」にすぎないことが分かる。
よって、矛盾など、この世界には存在しない。意見を持つ人間が別個に存在するだけにすぎず、矛盾のすべては並列で成り立つ。
同時に、普遍性や個別性、あるいは主観や客観といった、相反すると思えるものであっても、それを深く考えるところに、それが「合一」になる点を見出すことができる。
すなわち、主観は客観から生まれ、客観は主観から生まれるのであり、存在するのは「場と目線の違い」にすぎない。
普遍性や個別性といった考え方は、「実体のレベル」をどこに置くかという話であり、モデル化において個別と普遍が成立するところでは、個別が普遍となるべき条件を成立させ、普遍が個別となるべきモデル化を行う。
そのため、相反するように見えることは、合一になった時点でその意味を失う。
結局、そうなった時分かるのは、「実体と個人の関係性」だけであり、これはすなわち「世界精神と個別精神の関係性」であり、「魂と人間の関係性」と言ってもいい。
このような魂と人間の関係性の行き着く先、それこそが、「神の愛」なのである。