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AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 数学を否定せよ
BASENAME: 2023/01/23/184620
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DATE: 01/23/2023 18:46:20

あとのことは数学が分からないほうが分かる

数学を否定せよ。
あとのことは、数学を否定したほうが分かる。
物理のことも、社会のことも、数学をやるよりも、数学を否定したほうが分かる。
昔の頃は、数学なんかしていなかった。数学をせずに哲学的に考えて分かっていた。その本質は「数学的な正しさを否定すること」にあった。
また、高校生なんか、数学のことは何も分かっていない。
高校生は、公式の使い方しか分からない。
僕のほうが、数学について、はるかに自分のオリジナルな理論として理論的に分かっている。
だから、これ以上、数学を学ぶ必要はない。
数学を否定して、その上でこの世界を考えればいい。あるのは「ものの関係性」だけだ。そのほうが、はるかに分かる。

人生が長すぎて、たくさんありすぎるのが間違っている

僕の場合、人生が長すぎて、たくさんありすぎるのが間違っている。
本当に、それだけしかないような場合なら、分かるようなことが分かっていない。
子供時代に分かっていた大切なことも、分かることがたくさんありすぎて分からなくなった。
昔、子供時代に大人や友人みんなに教えてもらった大切なことも、忘れてしまっている。
この世界がどのような世界であったか、ということすら覚えていない。
だから、もう一度、すべてを忘れよう。何もない中で、少しばかりの小さな、しかしながら大切なことを覚えれば、この世界を自分の力で捉えて考えるような「純粋理性」を復活させることができる。

実現と効果

はっきり言って、世界なんか見ないほうが分かる。
世界にあるものは、テレビやインターネットの情報と、人間社会があるだけだ。
そして、その人間社会には、大したものはない。政治と金が動くだけにすぎない。
自由は賢くない。自由は理性的ではない。
真に理性的なのは「実現」であって「自由」ではない。
実現のために考えられるのは、「具体例」であり、具体例から考えられるのは「効果」である。
そして、その効果から考えられるのは「新しい社会の可能性」である。
しかしながら、それを社会的な自由と結びつけるのは早計だ。
もっとよく考えなければ、真に大切な理性を見失う。

別の世界の可能性

この世界を考えるために、この世界を見る必要はない。
それよりも、もっとこの世界だけではない、別の可能性、別の世界が存在することのほうこそを、よく分析し、その分析に基づいて世界を観察しなければならない。

世界とは自分自身が存在すること

なんのためにこの世界はあるのか、それを考えよ。
この世界に存在する、それぞれのものが、なんの意味があって、なんのために、どのような理由であるのかを考えて、さらに根源を遡って考え続けると、この世界そのもの、この世界自体が、なんの意味があって、なんのために、どのような理由であるのか、という問いへと至る。
この世界がなぜあるのか。なんのためにあるのか。誰が作ったのか。どこから来たのか。それを考えることで、自ら自身の人生がなぜここにあるのか、ということを問うことができる。
世界とは、すなわち自分自身のことだ。世界があるということは、自分自身がこの世界に存在するということだ。
世界に自分が存在しなければ、自分はこの世界を見ることもできないし、この世界を生きることもできない。この世界が存在するということは、すなわち「自分自身が存在する」ということなのである。

人を殺すということは、世界を奪うということ

人を殺すということは、世界を奪うということである。
人間には、世界が空間的・時間的に存在しているというだけではなく、その中で「人生を生きる」という、個人個人にしか存在しない、5次元の新しい軸がある。
そして、その人生こそが、「世界」であると言える唯一のものである。
よって、人を殺すということは、この世界から、「ひとつの世界を奪う」ということに等しい。人を殺してしまうと、その時点で「世界に存在した世界そのもの」が失われてしまうのである。

人間の行いと世界

人間とは、世界である。
人間それぞれが、自らの世界を持っている。
そして、それぞれの人間は、その「自らの世界に基づいて」さまざまな行為や行動を行う。
周囲から見ればおかしく見える行動も、その人間の世界から見れば、まったく正しい当然の行いをしている。
だが、注意すべきなのは、脳が分かっていることを、自分自身の人格がすべて知っているかと言えば、そうではないということだ。
自分自身が何も考えずに、直観で正しいことを行うような場合、その直観は脳の中の「当然のごとく分かっていること」に基づいている。
だから、何も人格的・思考的に考えなくても、長年の修練を積んだ人間は直観で正解を選ぶことができる。
脳の分かっていることは、直観だけではなく、書く文章についても同じだ。何も思考しなくても文章が書ける人間は、脳の中で完璧に今書くべきことがなんであるか分かっている。
だから、何も思考することなく、行為や感情すら存在しなくても、文章を書くことのできる作家は、頭の中ですべて分かっている。今自分のやっていることを思考で考える必要は必ずしもない。すべて分かった人間は、必ず完璧な仕事をするものである。

世界を変えるとは環境を変えるということ

世界を変えるとはどういうことか。
世界を変えるとは、すなわち、環境を変えるということだ。
環境を変えるとは、単に支配して環境を我がものにするということではない。
はっきり言って、その逆こそが賢い。
環境を、それぞれの人間が「変えられるように促す」ということ、それぞれの人間が「環境を変えるように導く」ということこそが、真にこの世界を変える。
そのために必要なのは、自分勝手な支配ではなく、「自然な変化を許す」ということだ。
それぞれの人間が、それぞれのやりたい多様な方法で、自然にこの世界を変えられるような、そのような「力を与える」こと、それこそが、「環境を自然に変えられることを許す」ということである。
だから、この世界を変えるべきであるならば、ひとりの支配者にはなるべきではない。できるだけ多くの影響力を持ち、高みに立つことは、効果的ではあるが、必須ではない。この世界を変えるぐらいの賢い人間になって意見するならば、それも必要ではない。
真に必要なのは、環境そのものを変えられるように促すことであり、その「導き手」となることだ。
そして、導き手になるためには、「環境をどのようにすればどのように変えられるのか」という「具体的な経験」をよく知っておくことだ。
よって、世界を変えるために必要なのは、「豊かな経験」なのである。

自由とは独立性を高めること

自由とは何か。
自由とは、独立性を高めることだ。
独立性を高めるとは、すなわち、その環境がなんらかの組織や権力に支配されるのではなく、ある程度の自由な権限と意志を持って、自由に判断し、自由に行動することができるということだ。
環境が独立性を持つことで、統制されることがなくなる。これを「反抗」と直結して考えるのは早計だ。なぜなら、独立性を高めることは、反抗的になるだけではなく、「自浄作用」を持つことができ、また自由な判断と批判ができるため、「腐敗のないクリーンな組織」を作ることができる。
独立性が何もない組織は、何もできない。自分でできる権限が与えられていないのだから、何かができるはずがない。
そのような何もできない、トップダウンの中央集権的なシステムで、無能な指導者が権力を持つと、何も問題が解決されないまま、放っておかれたままの状態となり、そのために現場は破綻し、「崩壊と破綻」だけがそこに訪れる。
そのような「崩壊と破綻」が起きないようにするもっともよい方法は、当事者たちが自分で問題を解決できるようにしてやることであり、そのために必要な「自由」こそが、「社会の独立性」である。
民主主義と社会主義が20世紀に学んだもっとも大きなこと、それは「中央集権よりも独立性のある組織のほうが有効に働く」ということだ。
独立性のない組織は、腐敗するだけではなく、問題の解決そのものができなくなって、社会そのものが破綻し、崩壊するまで何もなされないまま、放っておかれるような状況になる。
そう、自由を目指す人間ならば、単なる自由や平等ではなく、まずは社会の独立性を高めることから考えなければならないのである。

ある程度の財務的な体力は必要

だが、そのような独立性も、行き過ぎると、逆に「財務的な体力がない」という状況を作り出す。
なんでもかんでも社会主義国家のように共同体に「自分たちだけでやれ」と命令しても、財務的な体力のない小さな地方自治体は、村単位では何もすることができない。
よって、ある程度の大きな共同体は必要であり、まさにそれが市や県などの自治体、あるいはさらに大きなものを言えば、日本という「国家」あるいは「政府」であると言える。
よって、国家や政府そのものをなくすことは早計である。
国家や政府は、ある程度の自治能力を持つ必要がある。そして、そのためには財務的な体力が必要である。
まったく、社会主義のように、すべてを微小的なコミューンにしたところで、それは相対主義的な「逆の破綻」を意味する。とても小さな村には財務的な体力はなく、ほかの大きな共同体が助けてやる必要がある。そのような大きな共同体こそ、まさしく日本政府なのである。

社会を成立させるための上手く働く基盤としての金と私有財産は必要

金と私有財産を撤廃し、みんなのものを平等に分配するような、社会所有の考え方は、確かに「みんながそれを欲しいというのであれば、みんなのものにして平等に分配すべき」という考え方から言えば、理想に近いものだったかもしれない。
だが、実際のところ、社会を成立させるためには、きちんとよく働くような経済的な基盤となるシステムは必要である。
そして、そのような「上手く働くシステム」として、金と私有財産はとてもよく働く。
逆に、金と私有財産以外の方法で、経済社会を上手く働かせるようなシステムを、残念ながら社会主義者は今でも考案することができていない。

インターネットを上手く使うべき

インターネットという新しいシステムは、その可能性をよく見定めて使うべきである。
インターネットが社会にとって有効に作用するならば、インターネットのそうした長所を評価し、社会システムとして上手く働くように取り入れることを検討する必要はある。
だが、インターネットは、社会システムに対して、真にメリットであるとは言えない点もある。
インターネットは、社会に害悪をもたらす側面、デメリットであると言えるような側面も確かに持っている。
そのようなインターネットのシステムを、上手く使うためには、IT技術に対する豊かな知識と経験が必要であり、そのためにインターネットで活動する多くの人の意見を、騙されないようによく見定めながら聞かなければならない。

全員が限界まで自由であるような状態が正常である

全員が、限界まで自由であるような状態が正常である。
すべての人間が自由であり、自らの意志と感情に基づいて、行動でき、思考でき、意見でき、批判できるような状態こそが、真に正常な社会である。
よって、社会全員に自由を許し、そこには「権力的・権威的な不平等」を作ってはならない。
ロシアは、そこが間違っている。ひとりの独裁者だけがもっとも強い意見を持ち、その他のすべてのロシア人がそれに完全に従属するような世界、これこそがわたしのもっとも嫌悪する「間違った社会」である。

歴史とは限界までの可能性と実現性の追求

歴史とは何か。
歴史とは、人類の持つことのできる限界までの可能性と実現性の追求である。
歴史が新しくなるからといって、よりよい未来、より素晴らしい未来になるとは限らない。
銃や戦車ができたことで、兵器や軍事力は強くなったが、それがもたらした結果は燦々たるものであり、核兵器などは地球を滅ぼしても余るくらいの軍事的破壊力を持つ。
自動車や化石燃料によって自然環境は破壊され、異常気象であるはずのことが毎年のように起きるようになってきている。
このように、人類の限界まで続く飽くなき「可能性と実現性の追求」は、必ずしも人類を幸福にし、未来を明るくするとは限らない。
だが、先の話と矛盾すると言われるかもしれないが、だからこそ、誰かひとりの権力者による「社会の管理」は必要であると言える。
すべてを自由にした結果、人々は可能性と実現性の追求を目指す。それが「人類の歴史」である。だが、その歴史の結果、人類はすべてが上手く行っているとは言えない。間違った国や社会は必ず生まれる。よい社会も必ず長く続くとは限らない。
人類はそもそもが愚かであり、馬鹿な生物である。そのような愚かな人類を幸福に生きられるような社会で生活させてやること、愚かな人類の代表でありながら、その人類にできる最大の知性を使って国を治めること、それこそが為政者の務めなのである。

人々は不幸であることを当たり前のことだと勘違いしている

だが、不幸であることは、必ずしも人類の宿命ではない。
人々は、不幸であることを、当然で当たり前のことであると勘違いしている。
自らが不幸であるということは、自ら自身の罪であり、罰であると、人々は勘違いし、「反抗」をすることが自由の証であるという、間違った考え方を信じている。
しかしながら、そうではない。
この世界が不幸であること、人々が反抗的であることは、決して当然のことでも当たり前のことでもない。
わたしたちは、幸福になれる潜在的な可能性を持っている。
その可能性が、実際の実となって具体化されない理由は、「愛してくれるはずの誰かがいないこと」に根ざしている。
そして、その愛してくれるはずの誰かは、一向に現れる気配がない。
その誰かが現れないせいで、この世界が不幸であり、人々が不幸であることが、さもこの世界が始まって終わるまで、常に変わらない「当然のこと」であると、人々は勘違いしている。
だが、それは本当に勘違いだ。
なぜなら、愛してくれるはずの誰かがいないならば、自分自身がその誰かになればいいからである。
自ら自身が「愛」になればいい。そうすれば、この世界はその自ら自身によって、救われ、愛され、幸福になることができるのだ。
この世界を憂う人間たちよ、憂うだけでは十分ではない。その憂いの内容に基づいて、この世界をたったひとり愛するために生きよ。それこそ、キリスト教の言う「メシア」の条件、すなわち「真実の愛」なのである。

単なる普通の文化や個性よりも、誰とも違ったオリジナルを

文化や個性、あるいは才能について言えることは、単なる普通より、誰とも違ったオリジナルを目指すべきである、ということだ。
たとえば、ドイツという国の文化は、地球上でもっとも普通の、普遍的な文化であると、日本人は思うかもしれない。
だが、ドイツの文化は、普通すぎて、逆に無個性である。
たとえば、アメリカ人から見て、ドイツに旅行するのと、日本に旅行するのは、どちらのほうが未知の発見があり、興味深い違った考え方や発想を得られると思うだろうか。
全員が、ドイツよりも、日本に行ってみたいと言うだろう。
結局、日本の文化の価値とは、そのような特異性と希少性に存在する。
だからこそ、日本人は、ドイツ人やアメリカ人よりも優れた人種になろうとする必要はない。同じような西洋文化を取り入れようとするべきでもない。
日本人は、日本独自の文化を追求し、日本だけのレアな文化を作るべきである。
そのように、文化や個性、才能のようなものは、まさに誰とも違ったオリジナルを目指すことこそが賢いのである。

日本の文化

人類の文化について言えることは、純血よりも雑種を目指すべきである。
純血に、日本人が日本だけの文化を維持し、ほかの国の文化や違った血を取り入れない、とする考え方に、僕は断固反対する。
そもそも、日本の文化は大陸の中国や朝鮮から渡ってきたものであり、その前段階としてインドやローマなどの文化が、大陸を通じて日本に渡ってきたのである。
さまざまな文化が融和することで、美しい文化になるということは、中国やインドから文化を受け継いでおきながら、それを独自の日本の「大和の文化」に昇華させている、日本にとってまったく正しい命題である。
ドイツ人が、ユダヤ人の文化を押し付けられたことを「文化破壊」であると呼ぶのは、本当はドイツの側に問題がある。ドイツが、ユダヤの文化をどのように取り入れるべきか、ということについて誤ったのである。
日本人が中国やインドの文化を吸収して、独自の「和」という文化に昇華させたのと同じことを、ドイツとユダヤはやっている。だが、ドイツとユダヤは日本ほどそれを上手く行うことができなかった。だから、ドイツではユダヤ人に対する差別感情が残っている。
そのように、文化を上手く取り入れ、受け継いだ上で発展させるということは難しい。しかしながら、中国やインドに飽き足らず、明治維新によってヨーロッパの文化を取り入れた日本は、それがとても上手であり、得意である。
このような日本の優れた点は、もっと世界中に発信していいことである。今の日本経済は、かつてのような「稼ぐ力」が衰えており、円安などの問題だけではなく、もはや先進国ではなく後進国と言うべき国になろうとしている。それでも、日本には「素晴らしい文化の歴史」があるということを、日本人は誰も忘れていない。そのような日本独自の文化を、より国際的に発信していくべきである。