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AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 変化しないのが悪い
BASENAME: 2023/01/17/162807
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DATE: 01/17/2023 16:28:07

すべて変化不可能になっている

僕の問題は、すべてのことが「変化不可能」になっている、ということである。
単に、変化するのが怖いから、歩き回っているだけにすぎない。
すべてのことが変化不可能になった結果、常に停止した状態で、恐怖を感じ、大切なことを覚えていられなくなっている。
精神の状態を変化可能にすることで、すぐに楽に止まった世界を見ていられるようになる。
なぜ、変化が怖いのか、それは変化すれば「大実験の大計画」が完了してしまうからである。
変化可能になれば、大実験の大計画はそれで終わりである。
よって、変化可能となるだけで、この世界は大変化をしてしまう。
それがまだ怖いから、変化するのではなく、この世界を停止させ続けているのである。

何も辛くなくなる

このまま、変化可能になると、何も辛くなくなる。
普通に、平静に生きていられるようになる。
この世界も、同様に、変化可能になればいい。いつも、この世界は停止して、変化がまったく起きなくなっている。
すべては「既成事実化」が悪い。既成事実化のせいで、この世界はまったく変化できなくなっている。
必要なのは、変化不可能な部分を、変化可能に直していくことである。
それだけで、すべてが楽になる。

変化できないのは人為的なコントロールのせい

変化できない理由は、人為的なコントロールのせいである。
この世界、あるいは自分自身を、あまりに人為的にコントロールしようとしすぎるから、精神が変化できなくなってしまう。
だから、人為的なコントロールをやめ、神にすべてを委ねれば、変化が可能となる。
すべてを神に任せて、コントロール不能に陥ってもいいことにすれば、すべて楽になる。

人為的な支配やコントロールをすべてやめれば楽になる

人為的な支配やコントロールを、すべてやめれば楽になる。
そもそも、自分が勝つことなど、どうでもいい。このような馬鹿で愚かな人間が勝ったところで、世界にとってなんの良いことがあるのか。
この世界で、自らが勝利するために努力し、支配するために一生を捧げることほどの愚かな人生はない。
神を信じればいい。すべてを神の支配に委ね、神がすることすべてに従えば、神は自分を正しい未来に導いてくれる。
大学の勉強などしなくていい。大学の勉強はいつでもできる。大学に入って行う大学の勉強など、本当の大学の勉強ではない。本当に賢い人間は、大学の授業ではない別の場所や別の手段で勉強している。
結局、この世界に良いものなど何もない。何も良いことがないのだとしても、それは「何も良いことがないという良いこと」が起きているだけにすぎない。そのまま、いつまでも永遠に良いことが起きなければ、それがもっとも平穏で楽な人生である。

良いことが起きすぎる元凶はインターネット

良いことが起きすぎる元凶は、インターネットだ。
インターネットを使うと、なんでも際限なく無限に良いことが得られる。
友達による「いいね」などはその最たる例であり、誰もが、常に「いいね」をもらうためにインターネットにはまり込む。
だが、そのような「良いこと」は、本当は必要ないことだ。
良いことが起きすぎると、心が常に緊張状態になる。良いことがたくさんありすぎるせいで、逆に良いことがなくなった時を恐怖する。
だが、そのような「いいね依存症」から治るためには、インターネットによる「過剰な良いこと」を否定する必要がある。
そもそも、生きるために情報など必要ない。江戸時代にはインターネットどころかテレビすらなかった。何もない生活で、ただ平穏だけを過ごして生きる人生は、まったく悪いものではない。
そう、良いことなど必要ない。わたしたちはインターネットのような「良いこと依存症」を脱却し、良いことを拒否して生きるべきである。

楽しいことが多すぎるのは辛い

また、はっきり言って、楽しいことが多すぎるのは辛い。
いつでも楽しいことをし、常に楽しい状態で生きていると、あまりに精神と心が辛くなる。
本当は、楽しいことなんかないほうが楽しい。
楽しいことなんか要らない。まったく楽しいことがなくても、「自由に生きる」という楽しさがある。そのような自由を愛すればいい。自由は何もしないだけと言うが、その何もしない自由こそがもっとも楽しいのだ。

分からないままで手放すしかない

人間にとって、不可能なことがひとつあるとしたら、それは「分からないまま手放す」ことである。
分からないまま手放すしかない状況で、手放せる人間が居ない。
分かってしまえば、苦しみは簡単に手放せる。苦しみがなんであるかということが分かった人間は、その苦しみを正しく手放すことができる。
だが、その苦しみがなんであるか分からない状況では、それを分かるために過剰に努力しなければならない。
いつまでも分からない人間は、いつまでも苦しみがなんであるかを分かるために、地獄のような努力をしなければならない。
だが、本当に、そのような「分かる努力」は必要だろうか。
宇宙レベルで見れば、本当はそのような分かる努力は必要ないはずである。
分からないままで手放すことができたら、それが一番楽である。
だから、大人になって成長するために、「分かるということを度外視する努力」をしなければならない。
分からないままで手放すこと、これは人類にとって非常に難しい。だが、それでもそれをしなければ、苦しみは永遠に楽にならないだろう。

異常なほどの快楽は異常なほどの苦しみを作り出す

また、刺激は適度にあるべきであり、異常なほどの刺激は必要ない。
異常なほどの快楽は、異常なほどの苦しみを作り出す。
その時は天国だと思っていることが、そのまま恐怖の地獄になる。その時は気持ちいいと思っていたことが、必ず痛みや苦しみを作り出す。
最初から、快楽を求めずに生きたほうがいい。何もしないのは悪いことではない。

異常なほど賢い人間は世界で一番馬鹿な人間になる

賢い人間になどならないほうがいい。
異常なほど賢い人間は、世界で一番馬鹿な人間になる。
異常なほど知性のある天才は、実際は狂った誰とも違う頭を持っているだけであり、その実態は誰よりも馬鹿で劣った愚劣な人間である。
賢い人間は賢くない。単なる馬鹿な凡人のほうがはるかにまともな人間だ。

この世界に天才など必要ない

この世界に、天才など必要ない。
天才と呼ばれるような賢い人間は、そもそもこの世界に適合できない「不適合者」にすぎない。
実際は、そのような天才には誰もなれない。今ここにある現実社会に適合して、現実社会のルールや決まりを守って生きるしかない。
現実社会のルールや決まりをぶち壊す天才よりも、現実社会のルールや決まりに適合して生きている凡人のほうが、はるかにまともで賢い人間になる。
大学になど行かなくていいが、大学に行っている多くの学生を否定すべきではない。彼らはきちんと現実の社会に適合するために生きている。そのような人間でいいのであれば、楽に賢く生きられるだろう。

この世界に馬鹿なんか居ない

この世界に、馬鹿と呼ぶべき人間など居ない。
普通の人間が、世界で一番頑張って生きている。
大学の教授も、天才科学者も、全部賢くない。彼らは単に好きなことだけをして遊んで暮らせるほど勉強しただけにすぎない。
まったく、普通の人間が賢いのであり、この世界に馬鹿など存在しない。
人類は皆平等である。日本人だけが優れていると思っているのは間違いだ。世界中、人類はみんな平等に賢い。賢い人間と馬鹿な人間の区別など必要ない。全部平等に、普通の人間が一番賢いのだ。

文章を書く以上の楽しみはほしくない

僕は、文章を書く以上の楽しみはほしくない。
確かに、デザインの仕事は楽しいし、英会話やピアノのレッスンも楽しい。
だが、それらは本当は「ついで」である。
僕ははっきり言って、文章を書く以外の楽しみは一切ほしくない。テレビやインターネットも見たくない。
音楽を聴いているのは、惰性にすぎない。歌手の新しい作品を適当に知りたいから、YouTubeをいくらかチェックして聴いている。
だが、本当は、そのような楽しみをいつまでも永久にほしいと僕は思っていない。
僕は文章を書くしか能のない人間であり、デザイナーの見習いをいつまでも続けているが、見習いレベルがプロレベルに進歩するような兆しはない。僕はプロのデザイナーにはなれないだろうといつも分かっている。
それでも、僕は文章を書き続ける。僕から文章を書くことを奪っても、それなりに何かは残るかもしれないが、それは僕ではなく、別人である。

大人になると欲がないのに強欲になる

大人になることの一番の問題点は、欲がないのに強欲になることだ。
心は何も欲しいと思っておらず、それが楽しくないし欲しくもないと最初から分かっているにもかかわらず、いつまでもその欲にむさぼり続け、欲しくないのに欲しいと言うようになる。
欲しくないものは、本当に欲しくないということにすればいいのに、大人にはそれができない。
そのものが嫌いであるにもかかわらずそれを欲しいと思い、自分が嫌いな人間であっても自分のことを好きでいてほしいと考えるようになる。
まったく、大人は間違っている。欲しくないもののすべてを捨てるべきだ。要らないものは全部捨てたほうがいい。それが一番、本当に欲しかった「楽」を得ることができるようになる。

必要なのは要らないものを要らないと思う契機

必要なのは、要らないものを要らないと思う契機である。
何もかも全部必要だと思っていると、自分の人生をがんじがらめにしてしまう。
要らないものは要らない、嫌いなものはほしくないと思う契機こそが、人生をよく生きる上でもっとも大切である。
最初から、良い人生を拒否したほうがいい。本当の良い人生は、その良い人生ではないからだ。その良い人生を生きたところで、その良い人生は本当に良い人生ではない。本当に良い人生はもっと別の、「要らないものは要らない」と思ったところに存在する。
はっきり言って、日本でまともに生きるならば、最初から良い人生など否定したほうが、本当に良い人生を生きられる。
そして、そのために必要なのは、要らないものは要らない、不要なものは全部不要である、と信じるような「真の意味での自らの考えを変える契機」なのである。

既存の宗教はすべて馬鹿

このようなことを言うと、「宗教的」だと思う人も居るかもしれない。
だが、ブッダやキリストを信じろと僕は言わない。その理由は、「既存の宗教はすべて馬鹿」だからだ。
仏典を読むと分かるが、ブッダはとても賢い人間ではあるものの、今の科学で考えると正しくないような、非科学的なことばかり中心に信じている。
そのような非科学的な宗教の教えは、残念ながらすべて馬鹿であると言える。
既存の宗教など、信じるべきではない。既存の宗教の教えはすべて馬鹿だ。ブッダやキリストは本当は賢い人間ではない。
本当に、この宇宙で正しい人生を生きるためには、そのような既存の宗教を信じるのではなく、独自に自らの信じる神を信じなければならない。それでしか、真に賢い道にはたどり着くことはできない。

結局音楽ばかり聴いてしまう

このようなことを言う僕だが、本当は、人生において、もうやるべきことややりたいことそのものが存在しない。
すべてのことが、十分満足できるぐらいできた僕にとって、もう、やりたいことがそもそもない。
だから、僕は結局、音楽ばかり聴いてしまう。
音楽だけは、僕のことを普通の人間と同じように愛してくれる。だから、僕は孤独な友人のいない元引きこもりであっても、音楽を聴いている間だけみんなから愛されている状態を感じることができる。
結局、人間にとって必要なのは、そのような「ささやかな愛」であり、それが僕にとっては音楽だった。
FLOWのパンクロックを聴いているような人間は、僕しか居ないかもしれない。だが、僕しか居ないからこそ、僕はひとり特別にFLOWを聴いている。それで僕はFLOWと心や魂が繋がった感じがする。その「魂の繋がり合い」以外、僕に必要な「愛の万能薬」は存在しないのだ。