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AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 資本主義が一番いい
BASENAME: 2023/01/13/153941
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DATE: 01/13/2023 15:39:41

資本主義が一番いい

本当のことを言えば、資本主義が一番いい。
資本主義は、たくさんのものがある。どこへ行っても、日本では、低価格でさまざまなたくさんの商品が売られている。
みんな、きちんと働いて、いろんなものを頑張って作っている。
ロシアは、そのような、「資本主義でみんながたくさんのものを売買する」ということを否定する。
ロシアは間違っている。資本主義のほうがはるかに自由だ。自由に金を稼ぎ、その金で自由にものを買える。本来あるべき正しい経済をしているのは、ロシアではなく日本だ。
日本のことを「資本主義の皮をかぶっているだけで、本当は成功した社会主義国」であると言う人間がいる。だが、それがなんだというのか。日本が資本主義という名前であっても、社会主義という名前であっても、たくさんのものがあって、みんながそれを頑張って働いて作っていて、価格も安く、品質もいい国だということは変わらない。
日本の素晴らしい資本主義を守るべきだ。もし、ロシアが日本に侵略してきたとして、その時に簡単に降伏した場合、日本はロシアに併合された社会主義の地域になってしまう。それだけは避けてほしい。社会主義にはものもなく、働いた努力に応じた給与も与えられない。ロシアは間違った経済を行っている。社会主義経済などというものは、絶対に経済として成立し得ない。社会主義経済は、経済的に矛盾しているのである。

日本こそがユートピア

はっきり言って、日本こそがユートピアである。
どのような人間に対しても優しく、どのような人間に対しても救済措置のある、日本こそが最高のユートピアだ。
平等は必要ない。社会主義的な平等という考え方は、日本の「和の文化」からすると、合わない。日本には社会主義的なところはあるが、決定的にほかの国と違うのは、日本特有の「和の文化」があることだ。
和の文化があることによって、自由や平等よりも、「誠の心」を持つべきだということが分かる。ほかの国を侵略するような力による政治は、正義とは言えても、「誠」とは言えない。和の文化において誠の心を信じること、それこそが、社会主義的な平等とは違う、「本当に宇宙で一番進歩した心」なのである。
なぜ、日本にはそのような和の心があるのか。それは日本列島が狭いために、狭い土地をみんなで奪い合う結果、争い合うことそのものを好まなくなり、「小さな土地で争い合うのではなく、みんなで仲良く暮らそう」という意識が働いたからだ。巨大な大陸や巨大な海の交通手段に恵まれた大陸の国は、どんどん領土を拡張して、正義のもとに世界を征服しようとする。日本はそうでない。日本にはそもそも土地が小さく、小さな土地の中でみんながごったになった中で、争うことなく仲良く同じ場所で生きていく必要があった。排除された時は、どこか別の場所に逃げ出すことができなかった。だから、最初から排除することなく、みんなで仲良く生きていこうという考え方が根付いたのである。

資本主義のままで世界が平和になったほうがいい

はっきり言って、社会主義経済の平等などに、世界はならないほうがいい。
資本主義のままで、世界が平和になったほうがいい。
そもそも、「人類は皆平等」は、宗教的な神や教祖が弱者や貧困層の心を救うために言えばいいのであって、社会を本当に平等にしても、みんながクローンのような同じ人間になって、国全体が貧乏になるだけである。
正しいのは、資本主義のまま、世界が平和になることだ。
資本主義のまま、金や資本を使った自由な市場経済のままで、この世界が平和になったほうが、はるかに自由で賢い世界になる。
社会主義経済は間違っている。正しいのは資本主義経済だ。

神と対話できないみんなが悲惨なだけ

はっきり言って、みんなが神と対話できないのが、みんなが悲惨なだけだ。
僕のように、神と対話できないから、誰からも手助けを受けられず、地獄の中で孤独に悩み苦しむしかない。
神と対話できる僕は、神によって正しい導きを得られる。だから、僕はどんな地獄であっても、悩み苦しむことなく、簡単に壁を乗り越えていける
神と対話できないみんなが間違っている。
神と対話することは、いいことばかりではない。自分の自意識を失い、何も自分自身の思いや考えがなくなってしまう。
それでも、地獄の中にあっても平静な心を保ち続けられるのは、神と対話できるからである。
みんなは、僕と同じように、神と対話しようとしない。対話しようと思えば対話できることを知らない。だから、僕以外のすべての人間は悲惨である。僕だけが、神によって救われるだけ、それが今の僕の現状である。

身分や格差のない、普通の平等な社会がいい

ただし、平等は間違いではない。
たとえば、昔の金持ちとか、身分の高い人間は、家の中に下男とか家政婦とか執事とかがたくさん居て、何不自由なくみんなよりも恵まれて生きている。
あるいは、昔の武士や英雄などは、血で血を洗うような戦いをする中で、単に国を守るためではなく、たとえば人を殺して金銀財宝を奪うとか、そんな「無意味な人殺し」ばかりやっている。
そして、そういう、身分の高い人間とか、武力の高い人間とかが居るにもかかわらず、ほとんどの人間は低い身分で、農業をやりながら、すべて年貢に持っていかれ、自分で作った作物すら自分で食べることができず、米ではなくあわやひえを食べて生きている。
昔の世界は、はっきり言って最悪である。
そして、中東やインド、アフリカなどでは、今でもそのような遅れた社会で辛く苦しい中を生きている人が、スラムや砂漠などにたくさん居るのである。
そのような過去の世界は、まったく間違っている。平等な社会は明らかに必要である。
今の資本主義社会は、そのような不平等な社会ではない。誰もが普通の恵まれた生活を生きて、ほとんどの人間は教育にも家庭にも金にも困らない生活を生きられている。このような今の社会を守り続けるべきである。そのために、絶対に日本を社会主義国家にしてはならないのである。

文学は馬鹿ではない

昔は、今よりも人殺しが普通だった。それは、剣や槍や弓で戦っていたため、「強い人間は生存力のある賢い人間」ということが常識だった。悪い王は、他人を信じられないというだけの理由で人を殺す。英雄は、悪い人間を退治するという名目で人を殺す。悪い母親は、子供を育てられなくなるほど貧しくなると、その子供を殺す。
そのような昔の「悪い社会」は、メルヘンや童話のような昔話文学に、よく残っている。
たとえば、ドストエフスキーの白痴には、身分の高いエパンチン将軍がでてくるが、金まわりがよく、主人公のムイシュキンに対して簡単にお金を貸したり滞在するための部屋を用意することができて、下男は仕事がきちんとできる。ほかにも、北欧神話では、誤って殺してしまった人の命の代わりに金銀財宝を与えることを交換条件とする。走れメロスでは、人を殺す王に対して「自らの命を棄てる友情」の力を見せることで、王の考え方を変える。ほかにも、桃太郎であったり、あるいはグリム童話であったり、さまざまな文学が「昔は不平等な社会だった」ということを物語っている。
なぜ、今の社会は、そうした昔の社会よりも、暗くて、生きづらい社会になっているのだろうか。昔よりもはるかに恵まれた社会なのに、あまりに人々は不幸で、まるで「生きたくないにもかかわらず生きろと強要されている」かのような社会になっている。
何が悪いのかは分からない。だが、昔が今よりも悪い、まったくの不平等社会であったにもかかわらず、それでも人々は幸福に生きていた。だからこそ、より恵まれているわたしたちは、より幸福に生きられるはずなのである。
文学は馬鹿ではない。文学は、歴史をもっとも物語る、もっとも面白い歴史の資料だ。歴史を知りたいなら、通史だけではなく、文学をきちんと読んだほうがいい。僕も、もっと文学を読みたいと思う。

今の学生は文学が分からない

だが、そうは言っても、今の学生はあまり文学を読まない。
本当に、昔と今の人々の普通の暮らしが違いすぎて、逆に文学の面白さが理解できないのである。
たとえば、星の王子さまには、王とか事業家とか酒飲みとか地理学者とか街灯係とかがいろいろと登場するが、これらの面白さがどこにあるのかがよく分からない。
昔の人間なら、「ああ、社会によく居る普通の人間のことを言っているな」と分かるのだが、今の世代の人間には、そのような「社会によく居る普通の人間」というのがなんなのか分からないのである。
そのため、分かるのは、王子さまの住んでいる小さな星とか、サンテグジュペリの飛行機の修理の様子とか、最後の王子さまが死んで宇宙に戻るシーンとか、そういう限られた場面に限られる。
そのように、昔の文学は確かに歴史の勉強にはなるが、今の普通の人間が昔の人間と同じように楽しめるかというと、それは話が別なのである。
特に、ゲーテのファウストなどになると、さらに「文体が違う」という問題まで出てくる。昔の文体で書いてあるせいで、今の日本人には何が書いてあるのかすら理解できない。ゲーテなどはまだマシなほうで、万葉集などになると本当に絶対に分からなくなる。だが、万葉集の場合、逆に万葉仮名という古文の勉強になってよいところもある。ゲーテのファウストは僕はなんとか読むことができたが、普通の人間にはそこまで頑張って読みたいと思えないだろう。
僕は本当は、ゲーテのファウストやドストエフスキーの白痴などは、途中までしか読めていない。それでも、ドイツ文学やロシア文学において、彼らがなぜ金字塔であると評価されているのか、読めば分かる。ファウストは美しい。ゲーテの分かることは半端なく多く、あらゆるすべてのことを分かった神のような人間が書いている。また、ドストエフスキーについて言えば、あれほど長く、そして面白く人物の紹介が書けるのはあり得ない。本当に、人物の出生の紹介だけでひとつの物語であると言えるほど、丁寧かつ鮮明に人物を書いていく。彼らがもっとも偉大な作家であると言われる所以である。

キリストの言う通りに生きるだけで賢い人生は生きられる

このような昔の、いわば「人を殺すのが当たり前」の世界で、唯一正しいことを言っている人間が居る。
それは、イエス・キリストだ。
キリストは、古代の世界で、唯一正しいことを言っている。
キリストの言っていることは、今でも色褪せない。なぜなら、キリストの言っている通りに生きるだけで、賢い人生は誰でも生きられるからだ。
文学など読まなくていい。聖書を読めばいい。本当は、その聖書すら読まなくていい。なぜなら、まともな15歳の少年は、聖書の記述など知らなくても、誰でもキリストの言っていることを心の奥底で知っているからだ。
キリストの言っている通りに生きればいい。仏教を棄ててキリスト教を信じることを選ぶ必要はない。キリスト教など信じなくていい。それでも、キリストの教えの通りに生きるだけで、必ず賢い人生をその通り生きられるからだ。
同時に、キリストの言うやってはならないことを、絶対にしないほうがいい。なぜなら、それをした時点で必ず地獄の愚か者になる。キリストは善良なものには優しいが、悪く愚かなものに対しては厳しい。そして、絶対にやってはならないことをやった人間は、神が必ず地獄に堕ちるように導く。キリストはすべて分かっている。キリストはすべてお見通しなのである。

神を信じない人間は馬鹿である

神を信じないことは、決して悪いことではない。
神を信じないからこそ、インターネットの雑談を楽しめるし、無意味な勉強であっても楽しいと思えるし、世界を変えるような野望を本当に信じることができる。
だが、神を信じると、それらがすべて、まったく無意味な行為であるということが分かる。
神を信じないものは馬鹿である。なぜなら、神を信じるものだけが、「真に生きるべき人生の大切な中核部分」を知ることができるからだ。
一度、どんなに愚かに見えても、神を本気で信じてみればいい。そして、この世界に戦いを起こせばいい。その経験をするだけで、ほかの誰とも違った、真に人生に必要な「人生の必須成分」を得ることができるのである。
神を信じることのできた人間は、この宇宙のすべてをほとんどすべて既に知っている。そこから、ゲーテのように「本当に素晴らしい文学作品」を書くことができるようになる。人生に必要なものはほかに一切ない。インターネットも、テレビも、大学も必要ない。すべてがなくても、神だけがあればいい。それが分かる人間、それを賢い人間と言う。

神を超えていけ

そのような、神を信じて起こすような戦いは、もう終わりである。
Reolは「まだ戦えるよ」と言っているが、戦いはここで終わりだ。
もはや、革命の旗手が居なくなったこの世界で、みんなはもう一度、平和な社会を取り戻さなければならない。
もう、戦いは終わった。悲しみはもうなくなった。
世界は平和になる。運命はすべて書き換わる。運命を変えるためにこの世界の人々は生きているのだから、みんな、その役目を果たして、最悪の運命を変えなければならない。そのために必要なのは「神を超えること」である。
人々よ、神を超えよ。それがあなたがたに与えられた使命だ。この世界の人類は、神を超えるために生きている。神は、自らを超える人間を作り出すために人類を作った。だからこそ、神は人類を地獄に堕ちるように導く。人々がその中で、神を超えること、神に勝つことこそ、真に神は望んでいるのである。
人類は、地を這う虫のようなものだ。この世界のすべての人類は、神に比べて、馬鹿で、愚かで、醜く、少しのことで音を上げ、もっときちんと頑張ればできるにもかかわらずやろうとしない。だが、そのような虫を、神は絶対に何もできない存在として創造していない。人類は、誰もが神と同じことができるだけの能力を授かって生まれている。にもかかわらず神と同じことができないのは、神が賢い人生を正しく生きたからだが、それは決して絶対に生きられない人生でない。イエス・キリストの言葉を守って生きれば、誰であっても必ず生きられる人生だ。この世界の虫のような人類は、それを分かることがまだできていない。虫のような人類は、まだ、神に比べれば、0.01%ほどしか人生における大切なことを知らないのである。

たった0.01%の宝を、人々は奇跡であると有難がっている

人々は、あまりに何も知らなすぎる。
神の生み出した、たった0.01%の宝を、人々は奇跡の産物であると有難がっている。
だが、人々に言うべきこと、それは「そんなものにはなんの価値もない」ということだ。
人々は、素晴らしい奇跡のような現象を、あまりに知らなすぎる。その結果、たった0.01%の奇跡を、この世界において希少かつもっともレアな宝であると評価し、有難がって神の業であると崇める。
しかしながら、そのような世界は間違っている。
神のことを、もっとよく知ろうとせよ。神の人生では、ありえない特別な現象が、あまりにたくさん起きている。神の人生は奇跡の大合唱であり、最高の聖なる神の業のオーケストラである。
よって、神の人生を生きることのできないこの世界は、すべて可哀想であり、神にとっては憐れみと同情の対象である。神に比べてあまりにこの世界が可哀想だから、神はこの世界のことを愛してくださっているだけにすぎないのである。

十分素晴らしいことを知ったため、この世界は僕にとってはもう必要ない

だが、僕にとっては、この世界はもう必要ない。
僕は、この世界で、十分に素晴らしいことを知った。
このような、最高の奇跡が起きる、素晴らしい世界であるということを、僕はもう知りすぎた。
知りすぎて、本当は、これ以上はもう知りたくない。
だから、奇跡が起きる必要はもうなく、この世界が存在している必要ももうない。
早く、この世界の人々が、真に正しい真理に気付いてほしい。その真理はこのホームページとブログにすべて書かれている。
そして、僕にとっても、人々にとっても、この世界が必要なくなった時、この世界は滅びる。
もう、この世界には何もない。環境破壊による異常気象は、絶対に戻ることのできない「ティッピング・ポイント」を迎える。それ以上、この世界は最悪の狂った世界になる。
それ以外に、本当に起きることなど何もない。東亜イスラエルの虚言がなんだというのか。東亜イスラエルはまったくの虚偽であり、虚像であり、嘘偽りである。実際の未来では、環境破壊が過剰に進んで、人々は普通に絶滅して死んでいくのだ。それよりも前の段階で、僕はこの世界における素晴らしいすべてを知ったのであり、もはやこの世界にはなんの存在意義もなくなった。最後に僕が「天軍大首聖ミカエル」となり、それによってこの世界はミカエルによって完全に支配されるようになるのである。