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AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 僕の二元論
BASENAME: 2023/01/05/164002
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DATE: 01/05/2023 16:40:02

理想の高い人間と低い人間

この世界の人間は、二種類しかいない。
それは、「理想の高い人間」と、「理想の低い人間」である。
いろいろとあって、今の僕は、かつてあったほどの理想の高さが、なくなってしまっている。
だから、もう一度、理想を高く戻してやれば、それだけで賢くなる。
そんなに異常なほど賢い内容も書かないほうがいいし、馬鹿な内容も書かないほうがいい。
そのような内容を、最初から書く意味がないからだ。
必要なのはまともな賢い内容であり、それ以外は必要ない。
だが、高い理想はあったほうがいい。自らの理想以外のものをすべて自由と言って肯定するのも悪いが、逆に世界を全否定するような内容も悪い。そのような理想の低い内容は要らない。
きちんとした正しい人間になるためには、理想を高く持つことだ。

自由な文明と平等な文明

また、この世界の文明は、二種類しかない。
それは、「自由な文明」と「平等な文明」だ。
自由な文明とは、金や権力のように、自由にそれぞれがそれぞれの意志と力で王になるような文明だ。
平等な文明とは、みんなが平等なまま、ひとりの首長が支配して、それに従うような文明だ。
結局、この二つしか存在しない。
だが、理想として取るべき文明の形とは何か。それは自由でありながら、平等な世界を目指すような文明である。
最初から完全な自由にすることも、完全に平等を否定することも簡単だが、それは大人として常識的であるとは言えても、高い理想の上にあるとは言えない。
理想的には、全員が平等に賢くなり、全員が平等に最後まで成熟するべきである。
だからといって、悪いことをして、支配や独裁をすることは許されない。それもまた、高い理想の上にあるとは言えない。
だからこそ、自由のままで全員が平等になるような文明を目指さなければならない。それこそが、「理想」であると言える。

自らが死ぬような精神にならなければ治らない

本当は、精神は、生きているだけでは治らない。
自らが死ぬような、あるいは殺されるようなことを、精神のレベルでしなければ、精神のおかしな部分はいつまでも動き続ける。
その動き続けた状態は、虫のように、むさぼり続けた状態である。
だから、いつまでも死を拒否していると、精神は治らない。
必要なのは、「自ら命を差し出す」ような行動である。自らの意志で、自らを殺すような、みんなから殺されるようなことをしなければ、精神は真の意味で楽にならない。
だから、何もしないまま、勝つことも治すこともしないのが正しい。何もしないまま戦いの状態のままで放っておけば、精神はすぐに死ぬからである。

諦めるという行為がもっとも理想が低い

もっとも理想が低い行為、それは「諦める」ということだ。
もう、自分は若くないのだと、若い頃のようにはできないし分からないのだと、そう諦めてしまった時点で、人生は終わりである。
人生が終わりたくないのであれば、どれくらいの年齢になっても諦めるな。
若い頃のようにできないとしても、今の自分なりにきちんとできないとは限らない。
今の自分ができることをやり続けるという行為は、理想が高い。なぜなら、今の自分であっても過去の自分よりも高い目標地点に到達することができるかもしれないと信じているからだ。
そこを諦めた人間こそ、もっとも理想が低いと言えるのだ。

物理の否定のしすぎ

僕の問題は、物理を否定しすぎていることだ。
物理的に、物質の物質的側面を知ることは、とても大切である。
たとえば、ものには様相と関係性がある。様相とは、「状態」や「可能性」のことであり、「そのものがどのようにそこに存在しているか」ということである。関係性とは、別のものとの間でどのような関係性を作り、集団やグループとなった時にどのようなものになるか、ということである。
これらを考える上で、なぜ数学や数式を使うのか、それは「正しく考える」ためである。物質の様相と関係性を考える上で、人間の知性をできるだけ排して、もっとも客観的に考える上で、数式は非常に役に立つ。数式は人間の知性そのものを書き記すための手段でありながら、人間の人為的な知覚を排して客観的に法則を記述するための手段でもあるのである。

微積分とベクトル

微積分について言えば、微分は関数の微小な変化率を計算することであり、積分は総和となる面積を計算することだ。
簡単に言えば、微分は変化率を一定値になるところまで無限に収束させることでその瞬間の速さを出すことができ、積分は四角形のような図形を小さく敷き詰めていくことで全体の面積を出すことができる。
そして、原始関数と導関数が、互いに逆の関係性にある。導関数を積分すれば原始関数に戻り、原始関数を微分すれば導関数に戻る。
そして、ニュートン力学において、距離(位置ベクトル)を時間で微分すると速度になり、速度を時間で微分すると加速度になる。位置や速度や加速度はベクトルという、大きさと一緒に方向を持つことのできる物理量(あるいは複数の値の組を持つことのできる物理量でもある)で表される。
物理量の用語として、ひとつしか値を持たないものをスカラー、複数の値の組を持つことができるものをベクトル、縦と横の二次元の値の組を持つことができるものを行列、それ以上の次元を持つものをテンソルと呼ぶ。
また、ベクトルのように、大きさに加えて方向を持つ数、すなわち「直線として三次元ユークリッド座標上に描くことができる」という性質を線形性(線型性)と呼ぶ。

平和

はっきり言って、平和が一番いい。
相手のことを認める、ということができない集団のせいで、共存が不可能になって、平和が妨げられる。
必要なのは、相手のことを認めることだ。どんなに相手が悪くても、妥協して認めなければならない。
本質的に、戦うべきではない。なぜなら、戦うということは、相手を「敵である」と見做すことだからだ。
相手を敵であると見做さず、できるだけ敵対する相手のことも愛し、敵を味方に変えること、それこそが平和を作り出す。
だから、キリストが言うように、隣人を愛さなければならない。つまり、周辺諸国を愛さなければならないのだ。

民主主義国家と独裁国家

必要なのは、民主主義と共同体のバランスを取ることだ。
民主主義とは、民衆の意志に委ねるということであり、すなわち、権力者の立候補を認めて、選挙で多数決を取るということだ。
共同体とは、それぞれが政治的権力を行う単位を小さくし、それぞれのコミューンが政治を行うということだ。
ここで必要なのは、「評議会」という考え方だ。すなわち、意見のあるもの、何かを言いたいものは、みんなの前に出てみんなの見ている前で意見し、議論することができるということだ。
この、「議論できる」という考え方が重要だ。なぜなら、ひとりの独裁者の意志に委ねるのではない、ということを意味しているからだ。
はっきり言って、民主主義であっても社会主義であっても、独裁的な国というのは一定数存在する。独裁者の強い権限のもとに、すべてがひとりによって決められるような、独裁国家では、必ず政権は腐敗し、官僚も腐敗する。
そのような腐敗が起きないために、三権分立によって司法(裁判所)・立法(国会)・行政(役所)を独立させた上で、一党独裁ではなく複数政党制にする必要がある。
まさにそれができている国が先進的な民主主義国家であり、いくらマルクスに基づいて「正しい平等」をやっていたとしても、ほとんどの社会主義国家は一党独裁であり、三権分立もしていない。そのような独裁国家は必ず腐敗するのである。

社会主義の理想

詳しくは書かないが、社会主義にも理想というのは存在する。
それは、「みんながほしいものは平等に分割して与えるべき」であるとすることだ。
誰かがほしいといったものを、別の誰かがほしいと思った時、それは平等に分割して分配するべきだ。
あるいは、国家を誰かが支配したいとか、別のやり方で誰かが支配したいと言った時は、分割した共同体にするべきだ。
あるいは、「所有」という発想をそもそもなくす、という方法が考えられる。最初から誰のものでもない、みんなのものにしてしまえば、誰かがそれを自分のものだと言うことはない。みんなのものをみんなのもののままにできる。
このように考えると、むしろ、自由という状態は、それぞれが所有権をめぐって戦い争っているのを自由放任にしているだけであり、「自由は何もしていないだけ」であると言えるのである。
社会所有と評議会の共同体によって、多くの「格差や身分に基づく問題」が解決する。工場は資本家のものでなくなり、工場労働者は楽になる。また、農場は領主や地主のものでなくなり、農業従事者も楽になる。かつての社会主義者はそのように考えた。
だが、実際に生まれた社会主義国家のソ連は、独裁的なスターリンの全体主義国家になった。その理由は、「富の再分配をするために強い独裁権力が必要だったこと」や、「スターリンという独裁者が全体主義様式の政治や経済を好んだこと」である。
結局、社会主義は、みんなが働いた分の平均値の給与しか得られず、みんなは過剰に働くことを嫌がる。そしてスターリンのような独裁者による計画経済は破綻する。このため、十分にものが生産されず、「生きるために必要なものが何も得られない」という形相を呈して、ソ連はなくなり、中国は資本主義的な「改革開放」の経済を行うようになったのである。

大学の内容がヴァルキリー

ここまでの内容で、僕の知っている大学の内容は、概論としては書けた。
ここまでの大学の内容を、ヴァルキリーとする。
ヴァルキリーは、ベガの大学の学長であるオーディンに仕える従者であり、この宇宙のことをすべて完全に分かっている。
ヴァルキリーの知識は宇宙の果てまですべてに及び、永遠に広く深くなり続ける。

神々の黄昏

ここに、ベガの大学の授業は終わった。
ベガという星の大学では、ここまでをすべての子供たちに教える。
その授業が終わったため、この世界において必要だった、「神々を知る授業」を終わりとしよう。
みんな、きちんとこの大学を卒業することのできた、卒業生だ。
そして、今からは、神々を知る授業が終わったため、「神々の黄昏」が起きる。
この神々の黄昏、すなわちラグナロクでは、来たる宇宙の「世界最後の戦争」に備えて、何もせず、準備と待機だけを行えばいい。
最後の戦争で、わたしたちのほとんどは死んでいく。
それでも、最後に生き延びる勢力がある。
その勢力が誰になるかはまだ分からない。
だが、日本という国は最重要なポジションにつくようになるだろう。