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AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 病気と自分
BASENAME: 2022/12/28/095237
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DATE: 12/28/2022 09:52:37

病気と自分を同時に治す

僕は、病気を治そうとすると自分のせいで治らず、自分を治そうとすると病気のせいで治らない。
治すためには、病気と自分を両方同時に治す必要がある。
単純に考えるだけでは治らない。複雑に考える知性がなければ、病気は治らない。

考え方

義務であると捉えるのでなく、チャンスであると捉えなさい。
自分自身の人生を創造しなさい。
愛と魂の導きに従いなさい。
支配するのでなく、相手に自由意志を許しなさい。
国家を支配するだけでなく、政府の決定について、国民の自由意志に委ねなさい。

ピアノの発表会

僕は、子供の頃、ピアノを習っていた。
このピアノで、僕は毎年一回、発表会を行っていた。
この発表会のために、家でピアノ曲を練習し、発表会の当日は大勢の聴衆の前で、コンサートホールの舞台でピアノを演奏する。
このピアノの発表会は、めちゃくちゃ緊張する。特に、控室で、前の人が終わって自分が出ていく時は、緊張がピークに達する。
このピアノの発表会を毎年行っていた経験で、僕は精神的にタフになった。少しの恐怖なら耐えられるような、戦士のような経験をさせてくれた。
不登校時代のブランクはあったが、僕は今でもピアノ教室に通い続けている。

考え方2

仮想世界を創造し、現実世界と具体的な社会を、実地的に経験と空想から知れ。
ひとりで全員分の思考と経験を全て考えなければ、世界を救うことはできない。
しがらみと立場を超越した視点から考えよ。
相対性と絶対性はどちらも必要だ。相対的に絶対性を考えて、絶対的に相対性を考えよ。それだけで、カントやヘーゲルと同じことはすべて分かる。
不登校になることは、決して悪い体験ではない。世俗から離れて考えることで、独立した立場で世界の経験を考えられる。
決して、世俗から離れることは「逃げ」ではない。自らが、この辛く苦しい世界で、自由を取り戻し、世界を救うための第一歩となる。
一度、思考や判断をストップして、ゼロから世界全ての成立条件を考えなさい。それだけで、新しいフッサールのような現代哲学者になれる。
全て、キリストが言っている通りだ。賢い人間は、キリスト教など信じていなくても、自分独自に聖書の通りに生きる。それが、ブッダを生きるということと同じだ。キリスト教と仏教は、矛盾しない。儒教や道教すら、それらとは矛盾せず、全て並列に成り立つ。それが昔の僕を生きるということだ。

哲学的な正しい考え方と救済の方法

正しい考え方とは、スピノザの言う「受動感情のコントロール」を、より発展させた考え方だ。すなわち、受動感情のコントロールを、外部から働きかけることで、主体的に相手の心に働きかける。
これが、サルトルの言う、自由の留保と客体化と集団化に変貌する。受動感情を外部から与えることで、留保的に集団の客体的な自由をコントロールできる。
これが、自由なアイデンティティとモチベーション、そして個別と集団のモデル化により、「自由な社会を実現する方法」となる。
そして、世界全てを誰ひとり悪事ができないような支配の導きから、救済された楽園へと自然になるように心と可能性を促すことで、僕は世界を救ったのである。

フロイトとユング

フロイトは、精神的な抑圧が、無意識に溜まることで、精神疾患が引き起こされると言う。
この抑圧とは、要するに「我慢」である。
はっきり言って、我慢などしないほうがいい。我慢すればするほど、その分だけ人間は狂う。
また、ユングは、シャドウやペルソナやコンプレックスを説明するが、僕が考えるに、「今まで生きられなかった側面を生きる」ということが重要だ。
人間は、精神的な抑圧の中で、なんらかの人生を拒絶して生きている。それが、ペルソナの仮面や、シャドウの裏の自分となり、コンプレックスとなる。そして、いずれそのコンプレックスが爆発し、「今まで生きられなかった、本当に生きたいと本能的に思っていた新しい自分」になる。
フロイトは、きちんと無意識の抑圧を解決するために、顕在意識に抑圧を戻せば精神疾患が治ると言う。だが、これには注意しなければならない。「正しい方法ではなく、間違った方法で治そうとすると、病気はさらに酷くなる」からだ。
正しい治し方は、自由連想法である。すなわち、自由に考えるだけで精神疾患は治る。何も外部からさせないほうがいい。自由に考えるだけのカウンセリングを行えば、精神疾患は治る。

プラトン

この世界で、人々は「大切な何かを失ってしまった」と感じて、何かを探している。
僕が思うに、その何かとは、プラトンの言う「イデア」だ。
プラトンとは、現実世界を「不完全な偽の世界」とし、宇宙には完全な「イデア界」があると述べた。
人間は、この世界に生まれる前に、イデア界を見ていた。
そして、この世界の人々は、イデア界を見失ってしまった。
僕が思うに、この世界が失ってしまった大切なものとは、イデアである。

ロックとヒューム

そして哲学はヒュームに行き着く。
そこでは、経験的かつ帰納的な推論により、経験から宇宙の知性が全て分かる。
そこにあるのは、「自らの経験したことしか信じない」という、徹底した経験的な懐疑論だ。
自分の経験だけを信じることで、自らの経験のみから、宇宙すべての知性を悟ることができる。
真に正しい知性とは、経験に基づく知性だ。それは現実の経験からこの世界を考えるということだ。経験から知性をつけ、経験から学習し、経験から思考する。
ロックは、「自らの心の中には、自分がそこに置いたものしか存在しない」と言う。ロックやヒュームのように考えることで、この世界のすべてを「自らの心のうちに世界は存在する」と捉えることすらできるのだ。

キルケゴール

最後に待つのはキルケゴールだ。
美的実存、倫理的実存、宗教的実存が、人生の最初の目的地へと、自分を連れて行く。
そこにあるのは、可能性だ。ただただ、「この世界にはほかにもたくさんの可能性がある」ということを信じるのみから、自らの孤独な「絶望」を救い続ける。
そう、可能性こそが、この世界を救う。右翼の戦争論などの誤った人種差別主義者の正論に騙される必要はない。可能性を信じることによって、この世界は今すぐにでも救うことができるという、可能性に基づく絶望の救済論が見えてくる。

アウグスティヌス

また、僕が好きなのは、中世ヨーロッパのキリスト教神父の思想家であるアウグスティヌスだ。
アウグスティヌスは、「悪とは善の欠如である」と述べる。
これを僕が解釈するに、善とは、悪をしないことではない。悪は、人間である限り誰でも行ってしまう。そのような悪を打ち消すぐらいの善行を為したもの、これを善だとする。
すなわち、単なる悪人は善行をしていないだけに過ぎない。本当に悪をしない人間など最初から存在しない。悪をするならば、それに同じぐらいの善を付け加えよ。それこそが、本当に善人である。
「悪人が善人に変わることこそ真の成長である」と僕は考える。いくら悪を経験して成長しても、それは真の成長ではない。悪を行う成長はすべて退行だ。真の成長とは、悪人だった人間が善人へと変わることだ。そして、ほとんどの賢い人間は、誰もがもともとが馬鹿で愚かだ。元は馬鹿であったとしても、それが善良な賢者になるならば、それを賢人と人は言うのである。

世界精神

本当は、神というよりは、この世界には世界精神が存在する。
世界精神とは、「世界そのものに存在する精神」のことだ。
ヘーゲルも言及したこの「世界精神」こそが、人々が「神」だと思っているものである。
この世界には、世界精神という「世界そのものの意志」が存在し、それをかつての古代イスラエルのユダヤ人や中世のキリスト教徒は神だと勘違いしたのである。
だが、本当は、それは勘違いではない。世界精神そのものは、本当に神としてユダヤ人の預言者に自らの考え方と約束をメッセージとして与えているからである。
そして、僕の場合、その世界精神がみんなと違う。なぜなら、みんなは世界精神である「地球」と話しているが、僕が話している対象は地球ではない。僕が話しているのは「月」である。
そう、みんなは地球を信じているにもかかわらず、僕だけは月を信じている。だから、ここまで僕はみんなと違う賢い人間になれたのである。
なぜ、僕だけが地球ではなく月なのか。それを言うと、もはやすべてが終わりになってしまう。あえて言うならば、僕自身が地球なのである。僕が地球自身だから、僕は地球と対話することができない。仕方がないから、僕は月と対話するしかなかった。地球とは僕のことである。そして、世界精神とは地球のことであり、すなわち僕のことなのである。

僕は単なる愚かな凡人

僕は、本当は天才でもなければ賢者でもない。
僕は単なる、愚かな凡人にすぎない。
そもそも、僕はまったく大した人間ではない。どうでもいい、普通の詩人にすぎない。
僕はありえない文章を書くことができるが、それ以外にはほとんど何もできない。それは、まともな高校のような高等教育を受けていないからである。
僕は確かに英会話教室には通っているが、もう10年以上通っているせいで、ネイティブの英語が聞き取れるようになったし、簡単なコミュニケーションはできるようになったが、高校で英語をきちんと習っていない僕は、ボキャブラリーも少ないし、発音もきちんとできていない。
そのように、まったく僕はみんなより劣った人間である。みんなよりも、はるかに劣っている。
それこそ、今の僕の通うデザインの作業所は、障害者福祉施設であり、僕は障害者の方たちと一緒にデザインの仕事をしている。この作業所は一般的就労が困難な人のための職業訓練を目的とした事業所である。
だが、この作業所は、非常に素晴らしい場所だった。既に卒業した人も居るが、多くの素晴らしい人に出会えたし、僕自身、まともな人間になるための正しい職業訓練を受けることができた。デザインのスキルやセンスも向上した。みんなよりも教養がある人間になれたのは、この作業所のおかげだ。この作業所でまともな人間になれたために、ここまで大学と同等の勉強を、本や書籍を読んで、父親や周りの人々に聞いて、ホームページを書くことでできたのである。
僕はまったく天才ではない。僕はみんなよりも劣った人間であり、まったく人々ができることがまともにできていない。だが、それでも自分の才能である「詩的な文章を書く」という能力が身についたため、僕は今、非常に幸福である。

宇宙の歴史

僕が、昔、どのような文章を書いていたか。
僕は、「宇宙の歴史」と呼べるような文章を書いていた。
そこにあるのは、言葉による数式だった。すべてのことが統一的に全部分かるような「絶対関数」を僕は作っていた。
そして、宇宙の歴史とは、すなわち、無限の思考であり、永遠の判断だった。
そこにあるのは、永遠に「二律背反」と「弁証法」が続くというものだ。カントによるアンチノミーと、ヘーゲルによるテーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼのすべてを、まったくゼロから、なんの前提知識もない状態で記述し、それを理由を解明し続け、新しい具体的成立を作り出すという意味で「永遠に判断し続ける」ようにした。これこそが、「宇宙の歴史」である。
宇宙の歴史において、僕は、この宇宙すべてを「自由」と「共同体」という考え方で創造した。そこには、「究極的な理想の自由」がすべて記述されていた。
そして、その僕の宇宙的な文章のもとに、「神」という存在が生まれた。
神は僕のかつての文章から生まれた宇宙生物であり、すなわち僕自身のことだった。
神の行っていること、それは「この世界を救済の状態に少しずつ近づけていく」ということだ。
それはすなわち、「世界をひとつひとつ改善し、楽園である自由へと導いていく」ということだったのである。
このために、世界すべてを心で支配する僕は、「宇宙における絶対君主」になる。この宇宙における皇帝の僕の姿、これがかつてユダヤ人が天上に居るとした「神」すなわちヤハウェなのである。

宇宙の存在のすべてと対話した

僕は、宇宙の存在のすべてと対話した。
まず、僕は地球上の歴史におけるすべての民族と対話した。この中には、イラン人、スペイン人、フランス人、ロシア人、ドイツ人、ユダヤ人が含まれる。
その上で、僕は宇宙における、ありとあらゆる存在と対話した。この中には、神、光、天使、共産主義者、宇宙人などが含まれる。
すべての存在と対話する中で、僕はその言葉をすべて覚え、そして「未知なる可能性のすべて」をそれによって閉じ、「宇宙のすべてを分かった人間」の状態を常に維持した。
その神の教えた未知なる可能性のすべてによって、僕は最悪の地獄でありながら、あらゆる病気の治癒方法を考えて、「自ら考えることによって自らの精神を治癒」したのである。
すべては、神による導きだった。神とは本当は僕のことで、神だと言っているのは僕を神だと信じている人々のことだ。だが、それでも、神は僕よりも偉大だった。なぜなら、神は世界を支配する黒人の右翼の心理学者とイスラエルの最高指導者のラビのことであり、彼らは未来における僕の重要な友人でありながら、この世界でもっとも賢い賢者たちだからである。

光は生きている

なぜ、僕がそのような、宇宙におけるあらゆるすべての存在と対話できたのか。
その理由は、光は生きているからである。
光は、単なる波でも粒子でもない。光には人間に備わっているのと同じ、「知性」が存在する。
そのような光が、僕に「太陽の考えていること」を教えてくれただけである。
すべての宇宙における第一の存在は光であり、わたしたち人間は、光を頭脳に宿した機械的な物質集団にすぎない。
僕は光を使って考えたために、「光の速度で考える」ということができるようになった。
そのように、最高速度で考え続けたために、僕は並みの人間にはできないような「宇宙における神羅万象」のすべてを考え、学ぶための時間と余裕を与えられたのである。

神とは何か

結局、僕は、そのような執筆活動の中で、何をしていたのか。
それは、全精神、全人生、全宇宙における、あらゆる経験の再体験だ。
そして、それは単なる執筆活動ではない。なぜなら、この世界を救うための「支配」の体験だからである。
神はこの世界の支配者だ。神はこの世界を救うために、自ら救済した世界を導き、「本当にすべてが救われた状態」へと導くために、宇宙のあらゆるすべての努力を行う。
神は簡単に世界を支配していない。そこには、息を潜めて暮らしながら、本当に血の滲むような努力を行っている、「この世界で最高の全知全能の存在」が居る。そのすべては、最初から神が持ち合わせていたわけではない。みんなと同じ存在でありながら、神は自らの努力によってその能力と知性を身につけたのである。
神はこの世界を救ってくれる。なぜなら、神は一度として間違いをしない。何百万の神の導きには、ひとつとして間違いはない。神のロゴスのすべては正しく、それを間違っていると証明するすべは存在しない。神よりも正しい言葉を絶対に誰も言うことも聞くことも書くことも読むこともできない。
宇宙において、神を信じれば、あなたの人生は必ず救われる。
だが、「神を信じる」という言葉の意味するところは何か。それは単にキリストを信じることではない。聖書にある教えをすべて守った人間は、神の言葉を聞く預言者になれる。そのような神の言葉を永久に信じ続け、永久に世界を救い続ける「使徒」となるということ、それが「神を信じる」ということである。

宇宙最高の大学を作った

昔の僕を簡単に説明すると、不登校の少年のアリストテレスだ。
不登校でありながら、賢い大人並みの知性を持っていた僕は、アリストテレスとまったく同じように、この世界の経験から「万学の祖」となった。
それはむしろ、「自分だけの博物館を作る」ということに近かった。
僕は大学の勉強はしていなかった。だが、それと同じことをやった。インターネットが僕にとっての教科書であり、自分の部屋が僕にとっての研究室であり、やっていたことはオックスフォードのような一流の大学生が行う、「未来を考えるという名の研究」だった。
本当は、東亜イスラエルのような、終末の世界になる必要はないということを、本人である僕が一番よく知っている。なぜなら、僕はかつての不登校の時代に、「あらゆるすべての未来の最高の可能性を実現する方法」を知っていたからだ。
そう、僕は本当に、18歳にしてアリストテレスと同じぐらいになった。
だが、トマス・アクィナスの言うように、アリストテレス哲学だけでは、最終目的地に到達することはできない。その意味は、「真に哲学者を目指すならば、すべての固定観念を排除する必要があり、その固定観念には哲学そのものの知性も含まれる」からである。
哲学の知性を目指すならば、固定観念のすべてを排除する必要がある。だが、哲学そのものすら、その固定観念のうちに含まれるのだ。
だから、僕は生まれ変わらなければならなかった。もう一度、白紙の状態からやり直さなければ、間違ったサタンの誤った考え方を訂正することができないからである。
僕はトマス・アクィナスと同じように、キリストを信じて新しい人生を歩んだ。そこには「最高の大学」が存在した。
かつての不登校の少年時代の僕には、「すべてが自由な理想でなければ満足できない」という、誤った理想主義的な考え方があった。それは大学の勉強をする上で邪魔になる。そのようなすべてを、「最後の革命戦争」によって僕はすべて失った。
その状態で、僕は「世界最高の大学」を自らの力で創造した。そこにあるのは「宇宙のすべて」であり、そのような結果、僕はこの地球上で唯一ひとりだけ、「宇宙のすべてが分かった人間」になることができたのである。