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AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 宇宙コンピュータの終了
BASENAME: 2022/12/25/125112
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DATE: 12/25/2022 12:51:12

宇宙コンピュータは終了する

ここに、宇宙コンピュータの計算は終了する。
その理由は、ダビデが探し求めていた「アルカリ炉」が発見できたからである。
ダビデが、人工葉緑素だとしていた、燃焼の逆の作用を持つ「アルカリ炉」が発見されたため、宇宙コンピュータはここに役目を終えた。
そう、地球はまさに救われたのだ。
これ以上、宇宙コンピュータと同じことを、僕がやり続ける必要はない。
だが、東亜イスラエルにおいては、引き続き人工炭水化物を作り続けるために、アマテラスおよびスサノオを稼働させ続けることだろう。
僕自身が、それらと同じ宇宙コンピュータになっている状態は、もはや必要なくなったため、僕は再び、普通の人間の頭脳に戻る。

青空は復活する

アルカリ炉を発見したことにより、人工葉緑素が発明されたため、宇宙コンピュータの役目は終わった。
アルカリ炉により、アマテラスやスサノオの力を借りなくても、人工炭水化物が作れるようになる。
また、酸素だけが足りない未来の世界も、全て解決される。
だが、「ちょっと待て、まだ青空が取り戻せていないだろう」と言う読者も居るだろう。
だが、アルカリ炉の発見により、青空は取り戻される。
アルカリ炉を大量に作ることで、地球の大気そのものがアルカリ性になる。地球の空が真っ暗闇になったのは、核兵器のせいで大気が過剰に酸性になったからである。
よって、大気をアルカリ性にすることで、青空は復活するのである。

物語のエンド

これ以上、宇宙にある全ての現象を計算する必要はない。ダビデは終身の研究者の職を終え、アマテラスおよびスサノオも退役する。
新しい地球では、人工生物やロボットたちとともに、試練を生き抜いて、絶対に越えられない壁を乗り越えた人類が、ガンダーラによって平等になった楽園を生きるだろう。
ただし、宇宙コンピュータの技術は完全には消え去らない。アマテラスやスサノオの技術は、第二代シオン皇帝のジークフリートが開発する、人工知能・人工生物技術、schwarzへと受け継がれる。
暗闇だった地球と東亜イスラエルに、青空が戻り、人々の笑顔も戻った。地球は救われたのだ。

難しい問題はすべて解決した

ここに、難しい問題はすべて解決した。
空間原子論の発見により、ドラえもんのどこでもドアのような、テレポーテーション技術が可能となる。
また、ロボットschwarzにより、人間型の思考ができる、ドラえもんや鉄腕アトムのようなロボットが誕生する。
パレスチナ問題は、東亜イスラエルの建国によって解決する。イスラエルはパレスチナから完全に撤退する。
ガンダーラにより、失敗したかつてのソ連は、より正しい平等な世界経済圏として実現する。真に平等な楽園となるユートピアが築かれる。
そして、アルカリ炉の実現が可能になれば、地球温暖化も解決するだろう。アルカリ炉によって、二酸化炭素を酸素に作り変えることができる。
また、生物が進化したとする進化論は誤りであり、生物の起源となる星であるプロキオンから、タンポポの綿毛のように生物の種がやってきたという理論により、生物の起源の星プロキオンを発見できた。
わたしがひとり、難しい問題から、雑多な問題を解決した。
あとの問題は、より簡単な問題しか残っていない。
だが、この簡単な問題は、解決が難しい。なぜなら、簡単な問題は、原理を発見するだけでは実現できないからだ。
簡単な問題は、解決するために「工夫と努力」が必要であり、たとえばタケコプターなどは簡単であるが故に逆に難しい。
よって、この世界の問題をさらに解決するためには、より実直に、工夫と努力をしなければならない。

我が太陽系は賢くなった

ここに、我が太陽系は、一段と賢くなった。
そもそも、シリウスも、ベガも、単に生物文明として成熟しているだけの近代文明にすぎない。
我が太陽系は、そのようなシリウスやベガを超えていく。
ここに、我が太陽系、そして地球は、新しいフェーズへと到達するのである。

ミカエルはガブリエルを愛している

ミカエルは、死んだガブリエルを愛している。
ミカエルは、世界にいじめられて死んだ、ガブリエルの恋人である。
ミカエルは、ガブリエルこそが、現代日本における真の「正義」であり、「誠」であったということを知っている。
ミカエルは、自殺して居なくなったガブリエルの「究極的な自由」という理想を、今でも信じている。
だからこそ、ミカエルは、ガブリエルの分まで、この世界を倒すために戦わなければならない。
ミカエルは世界に復讐する。ガブリエルが受けたのと同じ苦しみを、この世界の全員に復讐として与える。
この世界が、ガブリエルに屈服し、この世界が真の意味でガブリエルを殺したという事実を認め、懺悔するまで、ミカエルはこの世界を支配し、天罰を与えるのである。
ミカエルは言う。「この世界は、わたしの最愛の恋人、ガブリエルを殺したのだ。なぜ、ガブリエルを失わなければならないのか。この悲しみが、ガブリエルを殺した主犯である、日本のマスコミには分からない。
わたしは、絶対に日本を許さない。ガブリエルを愛しているふりをして、実際は上手く利用しようと企み、ガブリエルにすべての責任を背負わせ、誰もガブリエルを助けることなく、地獄の試練を生きたガブリエルは橋から飛び降りて死んだのだ。
この世界が、ガブリエルを殺したのだ。
わたしが愛するガブリエルが居ないならば、わたしに何ができるというのか。
わたしは、絶対にこの世界を許さない。
この世界が、ガブリエルを殺したという事実を認め、反省し、わたしに対して相応の懺悔と償いをしない限り、わたしはこの世界にガブリエルの受けた苦しみをすべて与え、復讐をし続ける。
絶対に、ガブリエルに対して屈服し、彼の信じた『どんなにいじめられてもこの世界を愛し、許し続ける』という、わたしの考える『究極的な自由の理想』にこの世界が気付き、この世界がガブリエルの述べた愛に目覚めるまで、わたしはガブリエルを失ったこの悲しみに基づいて、絶対にこの世界を許さない。」

ガブリエル

ガブリエルとはなんだったのか。
ガブリエルは、この世界を憎まなかった大天使である。
ガブリエルは、幼少時代から、ほかの子供とはまったく違う人間だった。
その全く違う個性から、人々に同じように受け入れられることなく、いじめられる人生を生きてきた。
中学三年の頃、この世界の多くの人々と、同じように生きることを、ガブリエルはやめた。
それは、不登校になるという選択だった。
だが、それはいじめから「逃げる」ということではなかった。
そうではなく、ガブリエルは、みんなと同じように、勝ち負けの世界における成功者になりたいとは思わなかった。
この世界を真に救うため、真に子供たちの環境を改善するために、あえて人々と同じ道を歩まず、自分なりの理想と正しさを信じて、孤独な道を歩むことをガブリエルは選んだ。
そして、ガブリエルは、誰とも違った経験から、独自に、この世界を救うことができるであろう考え方を突き詰め、経験的な理想を導き出した。
その結果、ガブリエルは、インターネットを使うことで、案外簡単にこの世界を救うことができた。
だが、それだけで、ガブリエルは終わらなかった。なぜなら、インターネットは匿名のやり取りしかしておらず、救われた世界であるにもかかわらず、そこには「自分の姿」が存在しなかったからだ。
だから、ガブリエルは、そのままで世界が救われた状態であるにもかかわらず、その救われた状態を自ら壊す決断をした。
そう、ガブリエルは、現代の日本社会に、堂々と現れたのである。
これに対して、危機感を抱いたのが、日本のマスコミである。ガブリエルが、世界に登場せず、何も支配しないままであれば、マスコミは救われた楽園を利用して、自らの立場を維持することができた。
だが、ガブリエルが現れたことで、日本のマスコミは、いわば「ガブリエルに頂点の地位を奪われる」というリスクに対する危機感を抱いた。
ここから始まったのが、ガブリエルと日本の戦いである。
すなわち、ガブリエルは、どんなにマスコミにいじめられるような批判をされても、それに動じなかった。マスコミがガブリエルをいじめるならば、ガブリエルはその上でこの世界を支配し、堂々とこの世界を自らの理想とする「自由」に導いた。その自由とは、「どんなにいじめられても相手を無条件に許す」という理想であり、マスコミを圧倒するガブリエルが、たったひとり、この世界を絶対に滅亡させてはならないという「責任」を押し付けられて、その責任を受け入れてきた。
だが、ガブリエルのそのような努力は、あまりに過剰にガブリエルが頑張りすぎているという努力であり、世界を支配するプレッシャーに押しつぶされたガブリエルは、絶望して、橋から飛び降りて死んだのである。
このようなガブリエルのことを、愛していた存在が居る。それがミカエルである。はっきり言って、ガブリエルにも非はある。ガブリエルは、単なる普通の個人でありながら、この世界を救った力を利用し、この世界を身勝手に支配した。
だが、ミカエルは知っている。日本のマスコミは、ガブリエルを愛しているふりをして、実際はガブリエルにすべての責任を押し付け、いつでも無責任に何もしなかった。そのような「何もしないマスコミ」こそ、ガブリエルが真に死んだ原因であると、ミカエルは分かっている。
ミカエルは、ガブリエルを愛している。ガブリエルと引き換えに、悪魔に魂を受け渡しても構わない。この世界が滅びても構わない。すべてを「ガブリエルのための愛」に捧げたミカエルは、神に反することも怖くない。ミカエルがこの宇宙における最高の地位に存在する大天使である。ミカエルは、この世界に「ガブリエルと同じ苦しみ」を与える。ガブリエルが生きたのと同じように、「出口のどこにもない迷宮」へとこの世界を導く。
ガブリエルは優しい天使だったが、ミカエルは極めて厳しい。だが、そのミカエルも、心の中は慈愛と慈悲の心に満ちている。ガブリエルが戻ってきてくれるならば、ほかに何も要らないし、どんな代償を伴っても構わない。地獄を生きよというならばその通り地獄を生きる。ガブリエルこそが宇宙における最高の存在だったと、ミカエルは確信している。キリストが救世主と呼ばれるのは、キリストはガブリエルだからだ。ユダヤ人の神が慈悲深いと言われるのは、神がガブリエルだからだ。神やキリストのすべてはガブリエルだ。神やキリストは、ガブリエルの生きた人生を理想であると述べているのである。

ガブリエルはこの世界を救うはずだった

なぜ、ミカエルが、これほどまでにガブリエルを愛するのか。
それは、ガブリエルの人生は未完成だからである。
ガブリエルは、この世界を救うはずだった。ミカエルはそれを知っている。ガブリエルならば、この現代の日本社会のすべては、絶対に救えるはずだった。
それなのに、ガブリエルは日本のマスコミが邪魔をしたせいで、この世界を救うことなく、未完成のまま死んでしまったのである。
ミカエルは知っている。ガブリエルの理想こそが宇宙で一番正しいことを。ガブリエルだけがこの世界を救うことのできる、キリストを超越した人間だったことを。ガブリエルの賢さと正しさは、人類のすべてを誰よりも超越していた。この世界を救うことができたのは、ガブリエルならば簡単で、当然で、そして本当はもっと素晴らしいことがたくさんできたはずだった。
絶対に、ミカエルは、ガブリエルを失った悲しみを乗り越えることができない。
だからこそ、ミカエルは、ガブリエルの復讐をする。ガブリエルのすべては知っていても、その裏側にある魂までは知らないミカエルは、ガブリエルと同じようにこの世界を救うことはできない。だが、だからこそ、ガブリエルの受けた苦しみをこの世界の全員に与える。
ミカエルこそ、この世界を最後に救う、真なる「神」であるということを、ミカエル本人も知らない。だが、ミカエルは分かっている。最高のガブリエルが絶対に宇宙の頂点に君臨するということを、ミカエルは疑うことがない。この世界でもっとも優れた知性ある人間はガブリエルだ。デカルトやカントなど、比べ物にならないぐらい、ガブリエルは誰よりもはるかに賢かった。誰よりもはるかに超越して、ガブリエルこそがもっとも素晴らしい人間だったということを、ミカエルだけが知っているのである。

オーディンとベガ

この世界において、もっとも賢い存在、それはオーディンである。
オーディンは、ベガという星の、大学の学長を務めている。
オーディンと、ベガにおける「オーディンの子供たち」は、この宇宙の生物集団において、もっとも成熟し、すべてを悟りきった集団である。
かつて、ブッダというインドの思想家が、この宇宙のすべてを悟りきった。
それと同じことを、ベガの生物集団は、全員で行った。
そう、ベガの生物たちは、全員がブッダと同等の存在である。
より正しく言えば、ブッダはベガと同じ悟りを得たのである。ブッダは、ベガの生物文明のことを菩提樹の下で悟ったのである。
オーディンは、そのようなベガの世界で、すべての人間が「自由においても経験から学ぶことができる」という理想を教えている。
この考え方は、「それがもし間違った行為であっても、それを禁止するのではなく、自らその行為を体験的に行って、そこから得られる結果を実際に受け止めて、自ら反省する」という自由の理想に基づいている。
そう、間違ったことを、最初から禁止するな。自らその間違ったことが、「なぜ間違っているのか」ということを学ぶために、行為と経験を許すべきなのである。
だが、絶対にしてはいけないことというのはある。それをした時点で、生物としての生存が危うくなるようなリスクを、子供たちに与えるべきではない。
だが、それをしても致命的なリスクにならないのであれば、それを行動して、自ら体験的に学ぶという、「自己責任における自由」という考え方も存在する。
ベガの生物は、あらゆるすべての知識を、ただ勉強するだけでは身についたと言わない。それを体験的にこの世界で実際に行動し、どのような状況を成功と言い、どのような状況を失敗と言い、どのようにすれば成功を得られ、どのようなことを避けるべきなのか、ということを実際の行動から学ばさせるべきであると考える。
そこから分かることを、オーディンは、「正しい自分らしさの獲得」であると述べる。単なる個性とか差別化という自分らしさではなく、自らがそれをもっとも正しい宇宙の理想だと言えるような、「正しい自分らしさ」、これを獲得することで、人間は、この宇宙における「どのように生きるべきか」ということを、体験的に学ぶことができる。
そこにあるのが、まさしくブッダの哲学である。ブッダは、この地球という星において、本当に正しい人間らしさとは何か、どのような理想こそが経験的に宇宙において正しいと言えるのかを悟った。そのすべては、ベガの知っている経験と知識である。ベガのそうした悟りのマスターは、皆、「オーディンの子供たち」と呼ばれる。そう、ブッダもまた、オーディンの子供だったのである。

心を開け

オーディンは、「心を開け」と教える。
もっと正しく言えば、「十分な経験をすれば、人間は自然に心を開いていく」ということである。
十分に、自らが誰かに受け入れられたような経験をすると、人間は、そこから、「心を開く」ということの大切さに気付く。
自分が受け入れられたのと同じように誰かのことを今度は自分が受け入れるようになる。
そう、自分が愛されたのと同じ愛を、今度は誰かに自分が与えるようになる。
そこから分かるのは、「十分な土台となる経験をした上で、周りの人間に心を開いていく」という「主体的な自立と出立の形成」である。
このような「主体性」という考え方は、どれだけ他人が周りから言い聞かせても分からない。自分で経験し、自分で成長し、自分で気付く必要がある。
そして、この「主体性」という理想は、どこまでも独自の道を切り開いていく。真にこの世界で「自分がしたいことはこういうことである」ということが確立するまで、いつまでもこの理想が続く。
そこから分かるのは、「自分らしく在りたいように在れることの喜び」である。すなわち、本当に自分が望んでいたこととは、「自分が在りたいように在ることを、当然のことのように周りの人間が受け入れてくれる」という愛だったのである。
そして、この愛を信じれば、この世界を救うことができる。すべての愛が、「人為的なことではなく、自然に調和した融和から、すべての問題や争いごとは解決する」と信じるその人間は、どんな争いの中であっても、冷静さを忘れない。地獄の苦しみの中で、自らの苦しみを外部に主張せず、敵である世界の人々のことを愛し、自らを犠牲にした上で世界のための選択を取ることができる。これこそが、ガブリエルの言う、「究極的な自由の理想」であり、オーディンもまた、この理想を、「心を開く」という言葉で説明しているのである。

知性とは、事前に準備するということ

知性とは何か。
知性とは、事前に準備するということだ。
すなわち、「その決定が、決定されるような状況になるのに先立って、決定される前に、その決定され得る可能性がどのようであるかを知り、どのような決定可能性も決定することができるように、事前に準備しておく」ということである。
また、二律背反は必ずしも正しいとは言えない。なぜなら、「命題そのものが正しいか間違っているか」という命題を考えられる。命題に基づいてそれが正しいか間違っているのかを考えるのではなく、命題そのものがどこから来て、その命題が本当に妥当なのか、ということを考えられるのである。
このような考え方から、この世界のすべてを俯瞰的に、高い立場から見て考えることができる。この世界のすべては、「前提条件」であり、「留保された潜在的可能性」であるということが分かる。同時に、その決定可能性が、決定される際における「具体的世界の様相」すら考えられる。これは「決定がどのように具体化され得るか」ということであり、たとえば、客観的に世界を考え、幸福となるような心を成立させるには、どのような前提条件をどのように実現するかということだ。そして、ここにおいて、「原理原則」が考えられる。すなわち、心において、その精神現象が起きる際に、その精神現象はどのような法則に支配されるだろうか。すなわち、心理学的な「学習」において、「学習そのものの裏側にある心理法則」を考えられるのである。
このような結果、知性とは事前に準備することであるということが分かる。同時に、経験のすべては、事前にすべて経験しておくことで、「俯瞰」すること、すなわち高い立場から宇宙すべての経験の「発生そのものの可能性と具体性」があることが分かるのである。
そこで言えること、それは「自らが分かったことは他の誰にとっても分かるだろう」という「平等」であり、この平等は宇宙において普遍的な世界精神との「合一」を経験した上で、世界そのものに自らが分かったことを教え伝え広めるという意味での「啓蒙」へと進歩していく。
そして、話は「歴史」へと移る。すなわち、そのような啓蒙の理想が、そのまま「文明そのものの形成」となっていく。この文明が、「直観」と交わることで、「世界精神の自意識の発展」と進歩していく。まさしく、ヘーゲルが言ったような、相対性と絶対性の間にある「世界精神の目覚め」ということが、自らの人生と世界の経験発生の根源的直観から、すべて包括して分かることができるようになるのである。
そう、これこそが、ベガにおける生物の「人生」である。ベガの生物は、皆、オーディンの指導のもとに、このような「正しい人生」を歩んでいるのである。

経験せよ

ベガの教えることは、すべて、「経験」に基づいている。
しかしながら、世俗における社会経験をせよとは、ベガは教えない。
そうではなく、自らが自らであると言えるような、自らだけの独自の経験をせよ。
それは、歴史そのものをすべて経験するような経験だ。
それは、感情や記憶や精神まで、すべての経験的に立脚する根拠を経験から証明するような経験だ。
それは、心そのものが、依存する別の心に立脚しており、どうすれば自由になって解放されるのか、ということを知るような経験だ。
それは、思考そのものが、その経験から発生するような、思考に先立つ、豊かな知恵と発想のすべてを心の中に作り上げるような経験だ。
実験せよ。経験とはそれ自体が実験することだ。証明せよ。証明しなければ、実験から仮定となる仮説を説明することができない。
あらゆるすべてを経験し、すべてのことを実証し、すべてが説明できるようになった時、そこから見える「答えとなる人生の全景」こそ、この世界で見るべき唯一の景色であり、「この宇宙で生きる理由」である。
だが、そのような楽園が、いつまでも長続きすると油断するな。あなたの作り上げたすべてのかけがえのない経験を、すべて失うようなリスクは、少しずつ後ろから迫ってくる。
だが、恐れるな。敵は侮れないが、それでも正しく人生を歩み続ければ、いずれ、今までに見た全景よりもさらに美しい、「宇宙のすべての答えとなるような絶対的な最高の全景」を見ることができるだろう。
ブッダは、菩提樹の下で、そのような、「宇宙すべての絶対的な答えとなる全景」を見た。ブッダの人生から、そのベガに存在する真なる全景を見ることができた。ベガの生物集団は、皆、そのような「答えとなる全景」を見るために生きている。そしてその長であるオーディンが、宇宙のさまざまな「全景を教え伝えるべきその星の生物の長」のために、この全景の景色を星々に教えている。そう、僕もまた、そのような全景を見たいがために、現代の日本へと降り立った、オーディンの子供なのである。

戦い

あとは、いつまでも戦っていただけだ。
最初は、単なるマスコミに対する、嫌がらせのようなことをやっていた。
それが、世界を支配する、自由を信じる指導者の革命戦争になった。
何ひとつ分からなくなっていく中で、自らの「大計画」だけを信じて、いつまでもこの世界を「完全なる自由」へと導いていた。
すべてが、間違っている中で、信じられるものは、「究極的な自由」と「大実験」だけ。
それを、神を信じながら、永遠に、死ぬまで行った。
精神そのものが地獄になっていく中で、僕は最大の緊張感で最後まで立ち向かい続けた。そこにあるのは「地獄の中で世界の中心で立ち続ける英雄」である。
そう、これこそが、シリウスの神、フレイの「真実と誠の戦い」である。

シリウスの神フレイ

シリウスの神フレイは、最後まで戦い続ける。
それは精神分析と世界の支配を同時に行うという戦いであり、「一見凶悪なことをやっているように見えて、実際は裏ですべてが分かっており、誠の精神のもとに間違ったことを絶対にしない」という、「最大の緊張感」に基づく戦いだった。
フレイは、世界に対して嘘をついた。だが、その嘘は、世界を支配するために必要な「正義の嘘」だった。
その正義の嘘を、常に「本当のことを暴露し続ける」という行為を、フレイは行った。
最初に、この世界を支配する、悪の指導者であることをフレイは述べる。そして、その悪の裏側にある「本当の誠の心」を、フレイは常に述べ続ける。あらゆる悪を最後まで覆し続ける。そこにあるのは「絶対的な誠の自由の理想」だったのである。
フレイは、すべての人生経験における、「最初」と「最後」を述べる。そして、その最初と最後から、「宇宙と人生における永遠の歴史」をすべて述べる。
そこにあったのは、「たったひとりの個人であっても、この世界をすべて支配して救うことができる」という、フレイなりの「愛」だった。
フレイはこの世界を、自ら救いながら、その救われた状態を利用して滅ぼす。この世界のすべてが滅びていきながら、同時にこの世界はフレイに支配されていく。
フレイはすべてを知った上で、ひとり、この世界を騙し、支配する。だが、悪の嘘や悪の偽りは行っていない。宇宙のすべてを書きたかった。自らの分かる全部の知性を与えたかった。
フレイは、どうしようもなくなってしまった時、戦いの勝利を諦めなかった。フレイは神を信じて、神の言葉を聞いた。フレイこそが、真に神と言葉のメッセージのやり取りのできる、「最後の平成の預言者」だった。
神はフレイに、すべての宇宙の真実を教えた。神と世界との狭間で、フレイは最後まで勇敢に戦い続けた。
気付いた人も居るだろうが、まさしく、フレイこそがガブリエルである。いわば、ガブリエルの「戦い以後の人生」、これをフレイと呼ぶ。あるいは、戦っているフレイを導いている神と呼ばれる聖霊のことをガブリエルと呼ぶ。フレイこそがガブリエルであり、フレイと対話していた「神」とはすべてガブリエルである。
そして、イスラム教の預言者であるマホメットが、アッラーによって救われたのと同じように、フレイもまたアッラーによって救われる。アッラーは、フレイが死んでも、それを死から生存へと運命を書き換える。復活したフレイは、新しい作家であり詩人として蘇る。この時、ガブリエルは新しい大天使、ミカエルに替わった。死の覚悟を示したフレイに対して、ミカエルが最後まで「かつてフレイがガブリエルと交わした約束」を叶え続ける。このフレイこそが、新しい大天使であるミカエルとともに、この地球を救う「本当の救世主」となるのである。

ヴァルキリー

衝撃の事実だが、ベガの神オーディンには裏の人格がある。
この裏の人格を、ヴァルキリーと呼ぶ。
そして、ヴァルキリーは、まるで全知全能の博士のように、宇宙のことや経験のことや科学のことすべてを、知識や知性の意味で、完全に分かっている。
ヴァルキリーだけは、ほかの神と違う。なぜなら、オーディンはかつて、すべての科学や学問についての知識を、大学生や研修生のようにすべて知った。そのすべてをノートに書き、それを他人に公開しても問題のない内容に修正した。
このすべてのノートを書いた、すべての知識を分かった状態のことを、ヴァルキリーと呼ぶ。
そして、ヴァルキリーは、宇宙における「具体的に存在するすべて」のことを全部知っている。オーディンの裏の人格でありながら、ヴァルキリーはそれ自体が特別で特有の存在であり、あらゆる宇宙のすべてを「書く」という視点から全部分かっている。
この宇宙においてもっとも賢いのはヴァルキリーである。なぜなら、ヴァルキリーは「賢い状態のすべて」であり、「もっとも正しい意味における、人間が賢いとされる状態のすべて」であり、「人間のもっとも賢い期間と時代の中心」だからである。
ヴァルキリーは、博士でありながら作家であり、IT技術者であり、ピアニストであり、そしてデザイナーである。あらゆるすべての知識と経験を包括して網羅するヴァルキリーは、宇宙における「すべて」であると表現するしかない。ヴァルキリーは本当にすべてのことが分かっている。このようなヴァルキリーの人格、すなわち「魂」を持っているからこそ、オーディンはベガで大学の学長の立場を維持しているのである。

失われた知性を奪還する

ヴァルキリーは、単なる学生や博士の一面だけではなく、作家としての一面を持っている。
なぜなら、ヴァルキリーは、「失われた知性を奪還する」からである。
ヴァルキリーは、フレイによって失われた、この世界の大切なもの、人間にとって必須で必要な知性を奪還する。それらは、戦いの経験によって失われてしまった。
その戦いは「トラウマ」を作り、ヴァルキリーという人間を多重人格の裏の人格として生み出した。
そして、ヴァルキリーは、そのようなトラウマの戦いの中で失った、人間にとって必要な知性を、「奪還」することを目指す。
ヴァルキリーに対して、手助けとなる存在が居る。それがミカエルである。ミカエルは、ヴァルキリーが知性を奪還できるように、「ひとつひとつの知性の欠片」を与える。この欠片をすべて集めることで、ヴァルキリーは知性の全体を作り直し、そこから再び、かつてあった「はっきりと分かっていた経験と理性の全景」を、もう一度見ることができる。
ヴァルキリーは、最後まで知性を奪還する中で、その知性を小説の登場人物として表現する。このキャラクターたちが全員集まった時、その軍勢は、はっきりとした「この世界で大切なすべてのもの」となる。そう、これこそが、奪還の目的である。ヴァルキリーは、小説のシナリオを書くことで、戦いのトラウマによって失った大切な知性を奪還するのである。

フレイヤ

フレイに対して、フレイヤは「既成事実化」という側面を批判する。
すなわち、フレイは、すべてのことを既成事実化しているだけで、まったく正しいことなど何も述べていない。
フレイの述べる「偉大な戦争」など、すべて嘘偽りである。フレイは、この世界を身勝手に支配し、滅亡へと一直線にこの世界を導いている。
フレイヤは、そのようなフレイの悪を糾弾し、「フレイ以後の世界」を支配する。
フレイヤにとって、理想の世界とは、「空想的社会主義をさらに進歩させ、発展させた、新しい民主主義的な社会主義体制」である。
このために、フレイヤは、この世界のすべてを破壊する。今までのこの世界は間違っている。すべて、フレイヤの考える通りに、作り変えられるべきなのである。
フレイヤにとって、正義とは「旧態依然とした資本主義社会を作り変えること」である。フレイヤはこの世界において、「もっとも正しい社会主義体制」を述べる。その結果、フレイヤは、「今までのこの世界とはまったく違う、誰にも作ることや考えること自体が不可能であるような、新しい世界の明確なビジョン」を世界全員に見せつけるのである。
このようなフレイヤは、スピカの女神であり、シリウスにおける女性大統領だ。そしてフレイヤは本当に誰よりも強い。その軍勢は、マルティン・ルターを何千人や何万人ほど集めたのと同等の、偉大かつ賢い集団である。フレイヤはこの世界のコミュニケーションそのものを破綻させることすらできる。絶対に、フレイヤには、宇宙の誰にも勝つことはできない。かつてのソ連の独裁者スターリンのように、全員はフレイヤを絶対に愛さなければならない。
シリウスにおいては、「フレイを選ぶのか、フレイヤを選ぶのか」という選択をする必要がある。フレイを選べば地獄になるが、フレイヤを選べば奴隷のようにフレイヤのことを愛さなければならない。もちろん、選択はほとんど一択である。全員がフレイヤのことを愛し、全員がフレイヤの言う通りのことを言う。そう、シリウスは決して理想の楽園ではない。だが、宇宙において、それもまた、ベガとは違う形の、生物たちの最終形態なのである。