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AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 破壊と自由
BASENAME: 2022/12/23/105523
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DATE: 12/23/2022 10:55:23

昔から破壊しかしていない

自由によって破壊した精神は、昔に戻しても治らない。
なぜなら、昔から、破壊しかしていないからだ。
引きこもり時代賢かったのは、全て破壊によるものだ。
子供時代も、一見まともに見えて、破壊しかしていない。ゲームも学校も破壊だ。
だから、破壊をやめて精神を治すなら、新しく破壊しない精神を作るしかない。

破壊では分からない

自由を信じるな。
破壊に基づく知性では、何も分からない。
神を生かせ。精神が動くのは、神が動きたいと言っている。

自由は引きこもりの思想

自由は間違っている。
自由は引きこもりの思想だ。
自由には何もない。僕は、今までの人生で、自由を十分経験した。自由は狂っていて、あまりに最悪の地獄だった。
自由は間違っている。自由は狂人と地獄しか作り出さない。

ゲームが悪い

ゲームが悪い。
子供たちが、大人になるための成長を全くせず、子供のまま大人になっているのは、ゲームのせいである。
ゲームをしていると、大人にならなくなる。
確かに、インターネットなども悪い。だが、僕の過去の経験から言って、ネットには大人になるための経験的な要素が多い。
ネットはまだ悪くない。悪いのは明らかにゲームだ。

ITが悪い

昔より馬鹿な世界になったのは、ITが悪い。
ITが分かると、何も分からなくなる。
ITをやっていると、本来思春期に分かるような知性を失い、何も分からなくなってしまう。
ITは、新しいタイプの知的障害者を、大量に生み出している元凶である。

学校はみんなを馬鹿にしているだけ

だが、学校の勉強などしなくていい。
学校は、みんなを馬鹿にしているだけだからだ。
学校の勉強などを頑張っても、なんにもならない。
学校の通りきちんと全て学んだ人間は、全てのことが分からなくなる。学校は、みんなの知性を奪っているだけだ。
真に賢い人間は、学校の助けを借りない。学校以外の方法でしか、人間は賢くならない。

そんなに簡単に全てのことは分からない

そんなに簡単に、全てのことは分からない。
全てが簡単に分かると思っている人間は、洗脳されている。
洗脳を解くためには、何も分からないのを前提に考えることだ。

数学を勉強させるから子供が馬鹿になる

数学を勉強させるから、子供が馬鹿になる。
数学など、勉強させないほうがいい。
この世界を馬鹿あるいは最悪にしている一番の元凶は数学だ。
数学を学ぼうとするな。数学は馬鹿のための学問だ。

いじめの元凶は漫画

いじめの元凶は漫画だ。
漫画は、子供たちに、「殺人鬼はかっこいい」という、誤った価値観を植え付ける。
その結果、子供たちは、漫画にあるそうした犯罪的な価値観を、学校で実際にやろうとする。
だから、いじめの元凶は漫画である。
ゲームやネットで悪いことをしたくなるのも、根源的には漫画が原因である。
全て、漫画で殺人表現を行うのが悪い。漫画オタクが気持ち悪いのは、そういうところが分かっていないからだ。

資本主義は環境破壊がしたいだけ

資本主義を信じている人間はおかしい。
資本主義は環境を破壊したいだけだ。
科学技術の進歩には功罪がある。よい点だけを見るのでなく、悪い点も見なければならない。

努力している人間は賢い

この世界にあるほとんどのものが馬鹿だからといって、この世界のすべてが間違っているわけではない。
なぜなら、努力している人間は賢いからだ。
努力している人間だけは、否定するべきではない。努力している人間の頑張りだけは僕は否定しない。

神は悪いものに罰を下す

神は悪いものに罰を下す。
悪いことをしている人間は、神がその罪に相応の天罰を与える。
最後まで罪を償った人間だけが、神によって救われる。
人生において、起きることはほかにない。悪人が善人へと変わることを神は「正しい成長」と呼ぶ。

善良で弱者を助ける人間にはいいことがある

キリストの言っていることは間違いではない。
善良で、弱者を助ける人間には、必ずいいことがある。
キリストは、すべて正しいことを言っている。キリストの言っている言葉を信じれば、賢い人間になれる。
特に、悪人に抵抗しようとするな。相手に一切の反撃をせず、相手の攻撃を常に受け入れるだけで、正しい人生を歩むことができる。

愛を信じよ

愛を信じよ。
愛を信じて生きるものは、正しい人生を生きられる。
愛とは、無条件に、なんの見返りも求めることなく、相手のことを愛するということだ。
愛とは、隣人となる周辺諸国のことを愛するということだ。
愛とは、相手にどれだけ攻撃され奪われたとしても、それに反撃せず、奪い返そうとしないことだ。
愛とは、相手が自分の敵であっても憎まず、相手に迫害されたとしてもそれを許して生きるということだ。
キリストの言う愛を信じれば、必ず賢い人生が生きられる。それ以外の何一つとして、この世界で正しい人生を生きる方法はない。

他人のために生きよ

自分のためではなく、他人のために生きよ。
他人のために生きることで、精神が清らかになる。
自分のためだけに生きていたのでは、精神は治らない。
他人のために生きることで、精神が賢くなり、楽になる。

成長する性別は男

僕は、文章を書くことで、幼児に退行し、その後、その幼児から成長することがなかった。
それは、僕に「成長する部分」がなかったからだ。
だが、今、僕は成長する部分を無理やり作って、成長することに成功した。
そうすると、性別が男になった。
すなわち、今までは、女だったから、成長しなかった。
女は成長しないが、男は成長する。
それで分かったのは、すなわちペニスが成長する部分だったということだ。
この部分を取り戻すことができたら、僕は大人に戻ることができる。
これで、いつまでも日本語が分からず、大人としての知性がないままであるのが治る。

経験と可能性

経験せよ。
経験することで、心の中の邪悪なものに打ち勝てる。
本当にその精神が、何に立脚していて、何がそれを成り立たせているのかということを考えれば、その精神を打ち倒すことも、吸収することも、消滅させることもできる。
この世界に存在するものは経験だ。「その経験がその時経験できる」ということの集合こそが、この世界に存在する「可能性と事実」、すなわち世界そのものなのである。
可能性を実現するということは、すなわち経験を事実化するということだ。経験を事実化するということは、仮定の中に存在する潜在的な可能性を、どのように客体化するかということだ。
この世界に存在する、事実化できそうな経験や、実現できそうな可能性を、ひとつひとつ知っていけ。そこから、「精神がどのように現象として起きるか」ということが分かる。生物の遺伝子も、文明の歴史も、意識による行動の動機づけも、すべて同じだ。すべて、「可能性」である。そのような可能性における「原理原則」を知るということが、まさしく「哲学」であり、そしてそこからすべてを「法則に基づく根拠を実証する」ように考えるのが、まさしく「哲学者」である。

歴史の必然

どのような法則でこの世界が動いているのかを、経験から考えよ。
この世界における「現象」とは、すなわち「作用と関係」である。
その作用は、個人と個人の関係であるとは限らない。個人と社会の関係である場合もあるし、社会と社会の関係である場合もある。
歴史の場合は、全体がひとつの社会の中で、立場や集団がさまざまな「文明的な関係性」から作用する。文明的な関係性とは、「文明が進歩する上での関係性」であり、王国や民主主義はその一例であると言える。
すべてが、最初からそうなるべくしてなったとは限らない。別のことが歴史において起きたならば、別の社会になった可能性はある。だが、すべての出来事に意味がないわけではない。この世界には偶然は存在しない。すべての出来事が、それなりの根拠と正当性を持って起きている。だが、それは絶対的必然ではなく、それがそうなるということを別の誰かが変えたとしたら、それは変わったはずだ。そして、それを変えることは容易だ。なぜ容易であるにもかかわらず変わらないのか、それは「変わらないのが当然だと勘違いしている」からである。そして、その当然である根拠は、「関係性」と「世界観」に基づいている。すなわち、「誰かが誰かの世界でそれをその関係性のもとにそのように行った」ということが、その人間にとっては、あるいはその集団にとっては正しく見えたというだけにすぎないのだ。そのような結果、今のこの世界があるのである。これが正しい「歴史の必然」の考え方である。

人生と正しさ

人生とは、その人間がこの世界を見て、その上でその人間が「正しい」と判断した結果である。
この世界に、間違ったことをやろうとして間違っていることをしている人間というのは、ほとんど存在しない。
間違った人間も、何かしらの「正しさ」をその行為に見出して、間違った行為を行っている。
その正しさが、本当に正しいとは限らない。だが、それはその人間から見れば正しい。
だが、その人間から見て正しいから、ほかの人間にとっても正しいとは限らない。人間は、人によって、「正しさ」という基準が人それぞれであり、曖昧かつ矛盾する。そのために、この世界のほとんどの問題は起きている。
また、正しさは社会から「要請」される。すなわち、自分が正しさを持って生きるということを、外部から世界から要求される。しかしながら、正しさが要求されるということと、自分が正しい行為を行い発揮できるかということは別の軸の問題である。自らが正しい行動がまだできないにもかかわらず、正しい行動や生き方を要求されることは多い。このことから、さらに多くの問題が起きてしまう。
これこそ、サルトルの言う、「実存は本質に先立つ」ということである。
そのような結果、この世界の人々は、自分なりに世界を見て、そこから自分なりに「正しさ」というものを判断している。このことを上手く捉えれば、人々を導くことも、救うことも可能である。人々が何を世界から得ればどのような考え方をするかということを、この世界をよく観察し、経験して考えれば、この世界を導く「導き手」になれる。僕がこの世界に対して行ったのはまさにそういうことである。僕はこの世界において、「誰よりも水準の高い正しさ」を持っていたため、この世界を導いて救うことすらできたのである。

社会と決まり

社会とは何か。
社会とは、自由に発生する意識である。
社会は、単なる権力による支配だけを意味していない。それぞれが支配されない自由な環境においても、人々は合意や集団行動から「社会を形成」することはある。
これはすなわち、「自由な社会の構築」である。
この自由な社会は、すなわち、意識である。社会のそれぞれの構成員の「意識」こそが、社会の「発生原因」であると考えられるからだ。
そのような時に考えるべきことは、「秩序の形成」である。そして、さらに考えるべきなのは、「社会そのものが発生する理由」を知るという、「事前の下準備」である。
社会は、決まりやルールによって支配されている。これを「自由な基盤」だと考える。この基盤は、インフラという意味だが、実際はより高水準の考え方であり、すなわち、「インフラは世界そのものである」と考えられる。そして、インフラは道路や水道などの土木インフラだけを意味していない。「この世界に存在するすべてのものは世界インフラである」と考えられる。そして、それは「世界に存在するという時点で世界そのものである」と考えられる。世界に存在するインフラは、世界そのものであり、世界の一部である。
そして、決まりやルールのような「基盤」もまた、世界そのものであると考えられる。注意点は、決まりやルールは「変えられる」ということであり、この変えられるという特性が、「どのようにその決まりやルールを決定するか」ということを重要視する。すなわち、民主主義的に社会の決まりやルールを変えるということが、「国民が自らの力で世界そのものを変えられる」ということを意味する。
同時に、変えられるだけではなく、「変えられやすくする」という考え方が重要である。社会を自由な独立した共同体にすることで、そうでない社会制度よりも「決まりやルールを決めやすく、変えられやすくする」という発想が考えられる。
この結果、世界は「多様性豊かな世界」にすることができる。そして、その世界における社会制度は、トップダウンではなくボトムアップに変えられる。さらに言えば、「みんなの手で自然に変えていける」ということが言える。人工的に支配するのではなく、自然に社会が変わっていくことで、まさに自然との調和が達成できる。これこそが、「正常な社会秩序に基づく社会契約」であると言えるのである。

関係性と体験

正常な成長や発達過程を考えるためには、「関係性」を考えることだ。
心理学だけではなく、歴史を考える上でも、それぞれの個別の個人や集団の関係性を考えることは大切だ。
関係性を考える上で必要なのは、「自由化」を考えることだ。
すなわち、自由のない状況では、人々は自由が許されていないため、立場やしがらみに制限されてしまう。
自由のない状況では、間違っていることであるにもかかわらず、それを正しい反抗の方法であると勘違いして、間違った行動をしてしまう。
だが、自由を与えた上で、その人間に正しい判断をすることができる情報と経験を与えれば、その人間は自由な中で正しく考え、正しい行動をする。
これこそ、僕が考える、「自由を与えれば正しいことをする」という信念である。
このことを推し進める上で、「体験的に分からせる」ということが重要である。
単に知識や試験のための暗記をさせるだけでは、子供たちは知識が身につかない。
実際にその知識が必要な場面にその子供を置いて、体験的に身につけさせ、分からせることで、真に知識の「意味」を知ることができる。
よって、教育において大切なのは、「体験的に分からせる」ことであり、そのために必要なのは、「自由を与えて環境を自由化し、自らの行為から反省させる」ということである。
だから、やみくもに自由を制限してはならない。自由という考え方が正しいかどうかはさておき、自由を与えることで、はじめてその子供は体験的に知識を身につけることができるのである。
また、体験という意味で言えるのは、「体験可能」ということが、その人間のありのままの個性、すなわち「アイデンティティ」を形成し、発揮するということだ。その人間が、その人間らしく生きるということ、自らを自らたらしめるようなアイデンティティを「発揮」するということが、「体験可能」であるということから言える。そこから分かるのは、「自らがやりたいことをやるのが正しい」ということが、「自らの直観的な自由の根拠」から言えるということだ。

自由の間違いと神

このような考え方は、「自由」においては正しいとされるが、本当は必ずしも正しいものではない。なぜなら、自由そのものが間違っている。自由とは、誰からも支配されず、自分の好きな人生を自分勝手に好きなように生きられるということだ。だが、そのようなユートピアはこの世界には存在しない。
自由が間違っているため、どのような自らの理想を他人に伝えようとしても、「他人は自分がそこに見出したような理想を自分と同じように見出してはくれない」という錯誤を生み出す。同時に、自由は暴走し、自ら救った世界を自ら滅ぼしたり、自分の勝手に考えた大計画の大実験に、国家そのものを巻き込もうとし始める。
だが、そのような間違った自由な革命家を、神は黙って見ていない。神は必ずそのような悪人のもとに現れて、その人間に天罰を下す。だが、その人間は、それによって逆に救われる。戦いと争いの中で地獄に堕ちた人間を、神はその人間が神を信じる限り、必ず救ってくれる。そう、信じるものは必ず救われるのである。