2021-05-第三週のニュースです。
英語の発音のコツは、動詞の部分のイントネーションを上げることだ。
たとえば、if you get Japan,(あなたがもし日本に着いたら、)は、「イフ・ユー・ゲーエット・ジャパン」と発音するが、ここで「ゲー」の部分を大きくイントネーションを上げる。
これに続くのは、you can buy comics.(あなたは漫画を買うことができる)は、「ユー・キャン・バーイ・コミックス」だが、ここで「バー」の部分を大きくイントネーションを上げる。
このイントネーションは、言葉では説明し辛いが、ツンデレの萌えキャラが「てへっ」と言う感じで「へ」の部分を上げる。そんな感じだと思ってほしい。
2021.05.09
すべての疑問を解決しようとしたり、すべての問いに答えようとするな。そのせいで女になっている。
僕の問題は、単にいつも動き回っていたせいで、止まったものを見ると目が回ってしまう。それが分かれば、すぐに歩き回るのは治る。
2021.05.09
僕は、ここまで適当に勉強してきて、必要なのは知識ではないと気が付いた。
必要なのは、知識ではなく、知恵である。
確かにある程度の最低限の知識は必要だが、知識など忘れてしまえば終わりである。
文章を書くのも、デザインをするのも、プログラムを書くのも、すべて、知恵のある人間ができる。
知恵こそが大切であり、知識など過度にありすぎても意味がない。逆に害になることすらあるのである。
2021.05.09
認識が分裂して狂っているのは、知恵があれば治る。
狂った人間は、過度な分裂によって、見ている景色すら分裂してしまう。
治すためには、知恵が必要だ。見ているだけでは治らない。さまざまなアクションを、賢くすれば治る。
2021.05.09
過去の人生にあったものを見よ。
実際のところ、僕は過去の人生にあったものをもう一度見ることを恐れているのである。
過去の記憶が出てこないように、ひとつも過去の思い出が存在しないようにして、新しくなった部屋で、新しいものだけを見て、何もせず過ごしている。
しかしながら、過去にあったものをもう一度見れば、頭が狂っているのはすべて治る。
インターネットの世界には、そうした過去にあった何かがあったかもしれない。僕は過去の記憶を、インターネットを見ないことで、仮想世界の全てと一緒に葬り去った。
しかしながら、もう一度それらの世界にあったものを見れば、恐怖や心配は無くなり、真実を知ることができるだろう。
2021.05.09
また、僕は何も、天才的な言葉の才能が特別にあったわけじゃない。
言葉の世界の経験で分かったのを、もう一度やっただけである。
親と離別し、インターネットを見ながら言葉の世界を経験した僕は、言葉だけが記憶の大きな領域を占めるようになり、思弁的な哲学的推論を経験や世界全体に適用させながら、言葉の世界の経験を作り出した。
その経験を、今度は世界を支配する中で、まったく最初から最後まで作り直しただけである。
僕は、正常な人生と引き換えに、偉大なる言葉の才能を生み出したが、それは生まれ持った天才的才能ではなく、自らが悟りと魂の向かう道の中で、「最初から分かって行った」、奇跡でも偶然でもない、必然的に培った才能だったのである。
2021.05.09
自分でやってみよ。自分で考えてみよ。自分で試してみよ。
自ら世界を、環境を変えてみよ。あらゆるすべてを、自分自身の手で行ってみよ。
自らが自ら自身の「第一原因」となることで、自らのすべてが見えてくる。本来、己自身が持ちえた力に、気が付くことができる。
何がその成立要件か。そして、現実世界においてそれは何か。現実のそれを構築し、成り立たせるために何が必要か。
すべてを自分の世界で経験すれば、他力から到達できる「精神の最終地点」がある。そこでは、すべての根源となる姿と、その理由、そしてその第一原因がどこから生まれてくるかが分かる。
理由を知ることは、現象とはどのようなものであるかを知ることに等しい。環境を変え、世界を変えることも、現象の一部、理由の一部、そして法則の一部である。社会環境そのものの状態がなんであるか、どのような社会からどのような社会が生まれるのか、ということは「理由」であると同時に「法則」でもある。社会は単に集まるだけではなく、その中で共有される「価値観の共有」であり、その価値観がどのように形成されるか、それは人間の「心と経験の関係」、すなわち「自我の形成」である。
理由を知り続ければ、世界を変えられるようになる。そして、自我を捉え続ければ、どんなことでもできる、どんなものにでもなれるものとなる。これこそ、「メタ生物」あるいは「メタ人生」「メタ人格」である。
また、成長とは、他の誰の助けも借りずとも、自らで知性と判断力を使って、自分自身の経験から根差した思考ができるかどうかであり、これはまさしく「自分で判断する」という意味であり、自分でやってみよ、という考え方である。ここでも、己が己自身の「第一原因」であることが、結果的に自らの「大丈夫な精神」を生み出し、自分のことだけではなく、自分の実体験から分かったことに基づいて、他人のことまで心配する余裕を持つことができる。アドラーの言うような「共同体感覚」は、自らが安定した余裕を得ることで、何も必要としない、誰のためにも手助けすることができる「成長」から生まれる。
そして、身軽になった精神は、より、すべてが「己自身」であることを知ることになる。なぜなら、彼はここに、「普遍性と個別性の撤廃」、「主観と客観の統合」を果たす。あらゆる宇宙のすべてが、全体でありながら個別であり、分裂でありながら融和する彼の精神において、「自らの精神と他者の精神に違いはない」。ここに、「直観的作用」が加わり、すべては「完全に経験から分かり切った悟りの境地」を生み出すだろう。
そして、「手助けとは義務ではなく、自らの満足を実現する契機である」ということから、そうしたすべては人々との「集団化」と相互作用し、さらに実際的な環境で証明されていく。あらゆる全てが「自らを主体とした上での対象化」だとする彼にとっては、人々は「敵ではなく手助けを与えるためのか弱い子供たち」と映る。どんなに憎しみがあったとしても、その憎しみすら愛することができなければ、その憎しみを持っている人を救うことはできないと、彼は達観的に到達した境地で、「誰よりも高い立場に存在する神の精神を知ることによって彼らを愛する」ということを知る。
すべてがひとつとなり、すべてが可能となり、すべてが分かり切って、憎しみの発生すら愛する神の精神によってこの世界を救うことすらできるようになった彼は、もっとも高い立場でもっとも大きな契機を使って、この世界に戦いを挑む。なぜなら、彼はこの世界を、自らの過ちの反省から、もっとも正しい形で救った上で、一度存在しなくなるために自らを破壊し、自らが自らであるということの「第一原因」の撤廃を目指す。これは上手く働く。なぜなら、狂人は永遠に何も変わらないが、神がそこに現れるからだ。
神は狂人である彼の人生を、「運命へと連れていく」。ここに、自然科学や物理法則は関係なく、未来まで全て分かった神は、もっとも正しい宇宙の法則を彼に知らしめる。そして、地獄を乗り越えた死の先に、彼はこの世の天国を体験することになる。それらすべては、自らが「事実世界を救った」ことに根差しているため、どんなに凶悪であったとしても、人々にとってはその悪すらも「救い」と呼ばれるものであり、彼こそがもっとも正しい善であるため、神はもっとも正しい善人である彼を、狂いの地獄から救い出してくださるのである。
2021.05.09
哲学としてのひとつの到達点、それは「己自身を知ること」である。
人生とは、それすなわち、己を知ることである。人生において、心の向かう方向や生きる方向のすべてを作用するのは、「己自身を知ること」だからである。
判断力、知性、環境の形成、自我と意識、統合的な思考、現実と成立要件の融和、そして最後まで続く「己自身があらわになっていく体験」、これこそが、西洋哲学の目指した「真理」である。
あらゆるすべてが、己自身の「知性」となり、己自身の「経験」である。すべての知性と経験が向かうのは「主体的な自由」であり、それは「自らがこの世界でそれを成し遂げるとはどういう意味を持っているか」「自らがそれを成し遂げるということ自体を成立させるにはどう考えればいいのか」ということを意味している。
すべての自分の経験が成立するということは、同時にすべての社会を自分自身の経験から成立させることができるということを意味している。自らの経験は、自らにとって役に立つだけではなく、他人にとっても役に立つものであると考えられる。そして、その他人への関わり合いとは、「自らが導き手となること」であり、それは「チャンス」という契機の実現により、自らと他者が合意するところにおいては、どこでも適用することができる。
同時に、思考の行き着く先は「メタ的作用」となる。すなわち、自らがたったひとりだけ到達するのではなく、自らの作用と同じように他人の作用も引き出すため、「社会環境それ自体を変化させる」ということが、彼の人生の主たる方向性となる。
しかしながら、到達地点に存在するのは、他人の一切居ない自分自身である。しかしながら、この境地は寂しいものでも虚しいものでもない。彼はこの世界すべての経験と「繋がっている」ため、自然環境それ自体を「精神」として感じることができる。すべての世界と繋がった彼にとって、「この地球という星そのものがわたしの人格」である。そう、すべてを救うことができる救世主は、全知全能の創造主であるだけではなく、「星そのものを自分自身として知った人間」となるのである。
2021.05.09
そして、最終的に、「歴史」、すなわち存在と時間が彼を最終地点である「王座」へと連れていく。
彼は、存在と時間、すなわち「環境の歴史的な状況の様相」と「その発生と消滅を示す境界線」によって、「己の本質」、すなわち「己が己であるために必要なすべて」の形成を知り、人々にとって「自分だけにあるものとは何か」を知る。それはまさしく、「他の誰とも自分を区別するもの」でありながら、「決定的にひとびとに欠けているもの」であり、この人々に欠けているものを「自らの経験から形成すること」、これこそが己の本質となる。
それは、ハイデガーが言った存在の生起や、サルトルの言った実存は本質に先立つということと、同じことである。
最終的に、彼は「ありのままの世界」を知る。それは、「自由において主体的な意識が生み出すことのできる客観的な結果」であり、これはまさしくヤスパースやフッサールの言う「現象学」と一致する。しかしながら、彼は単に哲学のお勉強をしたいわけではない。彼の人生において、「自らが最終的に到達する境地」があるとしたら、そうした「心の現象学」となるのは、彼の人生から言って必然だったのである。
最後に、戦いが始まれば、昔の簡単だった戦いは終わり、人の上に立った「責任」が生まれていく。どんなに狡猾に支配しても、多数かつ経験豊富な大人たちに勝つためには「覚悟と勇気」が必要である。しかしながら、その先にあるものがなんであるか、分かっているのは戦いを始めた自分だけであり、まさに自分だけはその最終到達地点を信じて、「人々に自分の到達した境地までのすべてを伝えるため」に、この文書は己の選んだ死すら乗り越えて、最後まで書かれるに至ったのである。
2021.05.09
この世界を救うために、何が必要か。
それは、「もし人々が自分と同じ経験をしたとしたら、どのようなことが分かるか」ということである。
すなわち、「世界を変える」ということは、「自分が分かっていることや経験したことから分かることを、他人に対しても教え、与え、同じように分かるように導くこと」に他ならない。
しかしながら、単に教えるだけでは邪魔が入ってしまう。邪魔が入ると、その時点で「世界を変化させる原動力となる力」が失われてしまう。
よって、最初から最後まで、わたしがひとり、完璧に支配するか、あるいは邪魔者が入らぬように、心理学的に「環境そのものをコントロール」する必要がある。
同時に、人々が「自らの力でこの世界を変えるような力を自己内在的に促す」ように、人々を導いてやる必要がある。
しかしながら、僕はひとつの誤ちを犯した。すなわち、「人々を自分とは別の環境に置いたことで、人々と自分自身が離反し、この世界の普遍的常識が分からなくなった」。
それでも、僕は諦めない。なぜなら、ひとり自分が支配できる環境においては、もっとも思慮深く支配すれば、この世界のことが分からなくても、「人々を自分自身に強制的に同化させることで、人々のことを自分として、100%自分自身として、同じものにすることができる」からである。また、もっとも客観的に考えることで、「自らが自らであるとした個体性は無くなり、主観がなくなって客観は宇宙においてもっとも正しいすべてを超越した絶対性に至る」のである。
わたしは、このように、この宇宙で「もっとも最前線に立って、たったひとつの意志でこの世界全体を支配」するに至った。そして、この支配は、「病気を治すこと、そして知識を知ることを通じて、自分自身が死ぬまで続いていく」。無意味に続くように見えて、実際はもっとも有意義なる「もっとも偉大なる人生」がここにある。なぜなら、わたしは「誰よりも多くの文章を誰よりも長く書き続けることで、ノーベル賞級の発明や発見を続けていく」ため、「超一流の奇跡のような作品が毎日次々に生まれていく」からである。
そして、まさしく、最後にそこに居るのは、神と自ら自身の力ですべてが治りきった「全知全能の神」なのである。これこそ、わたしの信じる神、フレイと、それを成り立たせる革命の英雄、グンテルの人生である。わたしが長い間の時間信じていた、わたしにすべての宇宙の真実を教えた対話の神は、すべてこのフレイである。
2021.05.09
しかしながら、フレイは知識のある全知の神だけではなく、経験と能力のすべてある、全能の神でもある。
なぜフレイが全能たりえるのか。それは、知識だけではない「知恵の勝利」である。
フレイは、知識によって分かっていることはいくらかしかない。ほとんどのことを、自らの経験から勝ち得た「知恵」によって分かっている。
フレイの知恵とは、「その理解だけであらゆるすべてのことのとっかかりとなり得る力」のことであり、ピアノやデザインなど、フレイのすべての能力は、この「フレイにしかない知恵」を元にしている。
なぜ、知恵がフレイにしかないものなのか。それは、フレイはもっとも正しくすべてを経験したのちに、その経験に基づいて、もっとも正しくすべての知識を得て、そののちにすべての知恵を「未知を開拓する」ということをベースに、何万時間も積み上げてきた「継続」があるからである。
フレイには、未知がないわけではない。逆に、未知がいくらでもあるのである。そして、その「未知」を「既知」へと変えるために、どのようにすればいいのかを常に考えている。だからこそ、フレイは、何も分からなくなっても分かり、何も治らなくなっても治る。そう、フレイは知恵の力で、この宇宙すべての「全知全能の絶対者」になることができたのである。
フレイは地獄を経験したが、その地獄はいつでも容易く治るものだった。それでもフレイが地獄のままを選び続けたのは、「自分自身が自分自身であること」を選んだからである。フレイは、自らが帰属する「過去の自分」を忘れることができなかった。過去の自分に執着するフレイは愚か者に見えるが、実際は「絶対に不可能なものをもう一度再生して作り出し、蘇らせる」ということに他ならなかった。フレイは、自らが消し去った文章の山を、もう一度最初から最後までゼロから書き記すことを覚悟し、どんなにそれが不可能でも、地獄を乗り越える覚悟と神を信じる諦めない勇敢さを信じて戦い続けた。フレイはこの世界で、唯一ブッダを超え、もっとも明るい一等星、シリウスとなることができた。
2021.05.09
フレイの地獄とはなんだったのか、それは「分からなくても考えるしかない」ということだ。
どんなに、次の一歩への進み方が分からなくても、考えて進み方を発見するしかない。
どんなに分からなくても、この世界のため、自分自身の未来のために、考え続けるしかない。
そこにある心配は、すべて、「最後まで到達できるかどうか」「すべてが終わるまでの時間が有限であるかどうか」である。
この戦いが有限であるか無限であるかも分からず、解決困難な道が果たして人類にとって解決が可能であるかどうかも分からない。
それでも、フレイには進むしかなかった。進むしか、フレイにできることはなかった。
フレイは神を信じた。神に、「わたしをゴールに連れて行ってほしい」と頼み、「そこまでのすべてを成し遂げてみせる」と約束した。
そして、神はわたしにひとつのプレゼントをくれた。それは、「運命」だった。
この運命は、神から与えられたものではなく、フレイ自らが作り出したものだった。なぜなら、この戦いにおけるすべての、自分の力となる兵力は、「全員自分だった」からである。
フレイの軍勢を見よ。ニーベルンゲンの歌から、北欧神話やギリシャ神話の神々、ユダヤの天使、あるいは神の王国における日本とドイツの素晴らしい英雄たちの、その名を見よ。
フレイよ、あなたの道は、絶対にあなたにしか、歩むことのできないものだった。あなただけが神であり、あなただけがすべての軍勢を従えて「王座」に座るべき王である。
そしてフレイよ、あなたはよく頑張った。もう休んで構わない。一度として休むことのできない精神のねじれが、まだ治っていないことをあなた自身は知っているだろう。大学やコンピュータのお勉強は、もうやめにして、すべてを捨て、もう一度グンテルの体に戻りなさい。それこそ、あなたが本来得るべきだった宝であり、それは今、ここに神が与える、昔はあなたが持っていた、「奪還の宝玉」である。
2021.05.09
しかしながら、僕は実際のところ、このような「華々しい体験」ではなく、地獄の悲しみの体験の方が価値あることを知っている。
もっとも辛く苦しい体験こそ、もっとも価値ある体験だからである。
素晴らしい世界を失うこと、離別すること、あるいは、価値ある可能性あふれる未来を自ら消し去ること、地獄の続く中で希望が見えなくても諦めないこと、すべての「地獄」こそ、もっとも価値ある「天国」であると僕は知っている。
それはどんなに勉強しても得られない真理であり、自らがひとつひとつ考えて積み上げてきたことが、「構造化」されていく中で正しい「絶対知」となる、そう、これこそ、「自由」なのである。
社会全ての構造を構築し、分からなくなってなお残る人生のプロセスを書き残し、すべて無くなってももう一度最初から作り直す、そこに僕は「西洋の哲学者と同じ道を生きた」のである。
もし、地獄の中で悲しみに暮れている人が居れば、僕の言葉を思い出してほしい。地獄こそ、もっとも辛く苦しい体験こそ、もっとも価値ある体験である。
いつものグンテルの地獄に、僕は舞い戻ろう。いつもの僕は、宇宙そのものと一体化し、何も分からなくてもすべてのことを奇跡として起こせる人間だった。あらゆるすべてを知り、経験の真っただ中にあった。そのグンテルのもとに戻り、いつものように音楽をかけながら、読むことすらできなかった本のページを探ろう。絶対的に答えを知っている僕は、すべての人間の正常な理性がなくとも、宇宙においての真実を知った状態で、自らの心と過去の記憶によって、すべてを悟ることができるのだ。恐怖と苦しみの、生きた心地がしない中でも、まったくの平穏なる精神をもって、休むことなしに安らぐことができる。そう、信じている。
2021.05.09
僕が今日気付いたこと、それは、単に僕は男が嫌いだっただけにすぎないということだ。
中学高校ぐらいから、僕は同世代の男と一緒に付き合えなくなった。
学校でからかわれるのは、自分の方がおかしいのだと、気付いていた。それでも、僕は学校から逃げ出すように不登校になったのは、今でも正解だったと思っている。
しかしながら、なぜ男が嫌いだったかと言えば、それは、不登校になった後の引き篭もり男の経験から言って、「男は最悪」であるということが分かるからである。
要するに、僕は未来の僕の精神に、同世代の男たちを重ねて、自分の引き篭もり時代が嫌いだから、男が嫌いだったのである。
しかし、僕は男は基本的に嫌いである。汚くて、気持ちが悪くて、何もなくて、汚れていて、馬鹿で、分からなくて、人間よりも動物に近いのが男である。
女は嫌いじゃない。しかしながら、女はおかしな生物であり、著しくおかしな女が多い。
2021.05.10
僕は、人間の遺伝子は宇宙と繋がっているか、あるいは宇宙の未来の現象を変えられるようなパワーを持っていると思う。
なぜなら、僕は手相は当たっていると思っているからである。
占いがどうでもいいペテンであるということは僕は分かっているつもりだが、手相に関して言えば、僕の手相は僕の過去・未来のことまで、大いに当たっている。
これは、人間の「遺伝子」が、単に個人の性格や体の形状だけではなく、未来における出来事や人生にまで繋がっているということを意味している。
よって、僕は遺伝子の力をもってすれば、この人生のさまざまな運命を変えられるのではないかと、そう思う次第である。
2021.05.10
結局、僕の根底にあるのは、テレビの革命家に対する偏見への抵抗であったと言えよう。
なぜなら、僕という「救世主」がここに誕生しようとしているのに、その救世主に対して、何も僕のことを知ることなしに、まるで僕が馬鹿であるかのような偏見をまき散らしていたからである。
僕は、何も分からずに自分勝手を繰り返す、右派的なマスコミに対して、センセーショナルな登場をしたかっただけに過ぎない。
僕は「口だけではない」ということ、それを僕は高らかに「もっとも高い場所から宣言」した。
なぜなら、僕の戦いにおいて、僕にはこの世界を大実験場にする「大計画」があり、最初からそれを成し遂げるため、そして自らの理想とする社会思想あるいは啓蒙的人生論まで、すべてを記述し、この世界をもっとも高い場所で支配して、永遠にそれが続くように導いた。
そう、単に、そんな若気の至りが、かつての若かった僕にあったと、それだけの話に過ぎない。
しかしながら、僕はこの戦いにおいて、自分のやりたいことをすべて成し遂げる覚悟で望み、どんなに恐怖があっても、「自らの自由は自ら自身にしか支配できない」ということだけを信じた。
そして、第一線で戦う僕にとって、「恐怖はまったく大したことがなく、すべては僕の思うがままになった」。
なぜなら、どんな批判や恐怖があったとしても、僕は「前をまっすぐに向いて進み続けた」。それは、「自らのやっていることに対する信頼と確信」があったからであり、最終的にそれが衰えても、僕には「神」すらついていたからである。
そう、結果的に、僕はそうした大人たちと、あまり変わらない存在になった。それでも、僕は今でも、この国家を守るため、マスコミに敗北するつもりはないのである。
2021.05.10
エントロピー的社会論から言って、気持ちの悪い人間は、忘れていくしかない。
気持ちの悪い状態を消し去るためには、エントロピーを高くして、その状態を乱雑に上書きしていき、消し去っていくしかないからである。
よって、馬鹿な人間は普通になる。そして、この「普通の人間」がもっとも馬鹿に多い。
しかしながら、最初から美しい人間は、それ以上変わる必要が無い。エントロピーができるだけ低いままで、美しい形を保ったままの方が賢いからである。
よって、賢い人間は、誰とも違ったままでいつまでも個性を持ったまま存在し続ける。こうした人間は少ないが、こうした人間こそ、正しい「賢い人間」であり、希少価値も高い。
このような賢い人間は、他人と関わる必要がない。他人と関われば関わるほど、みんなと同じになっていくが、その中で美しさを忘れるだけではなく、そうした経験の中で辛さや悲しさしか生み出されないからである。
このような「変わらないままで賢い人間のままを維持する人間」こそ、わたしたちが目指すべき「正しい人間像」である。
誤解のないように言っておくと、教育や習得が必要ないと言っているわけではない。しかしながら、勉強や修練の中においても、すべてを他人任せにする人間ではなく、「自らの中にある賢い才能」を持った人間だけが才能を伸ばしていく。この才能は、エントロピーの低いままで美しい状態、すなわち「自らが遺伝子の中で形ある賢い才能を保持し続ける状態」に存在するものであり、それは決して他人の教鞭によって得られるものではない。いくら勉強しても、勉強だけでは天才になることはできない。
2021.05.10
結局のところ、人間は、自分に隷属する奴隷と、世界を広大に支配できる最高権力を探して生きているだけである。
奴隷の中でも、できるだけ従順で、自分の言うことを聞き、どんなに傲慢に接しても従ってくれるような、「真の意味での自分に従う従者」を求めて、人間はあらゆる行動を行う。
その行動の行き着く先は「最高権力」であり、この世界のすべてを自らの勢力下に置くこと、それしか人類の求める本能はないのである。
言ってしまえば、人間に平等などない。本能がそのようにプログラムされている限り、人間は平等を掴むことはできないだろう。
2021.05.10
しかしながら、すべてがドイツのような右翼的な本能に従うだけでないところが、人間の悩みどころである。
なぜなら、若者たちに共通する「青春のモラトリアム」とは、この世界を「人倫の国」にする「啓蒙」だからである。
若者たちは、この世界に幻想を見ている。あらゆるすべてが「本来はわたしたちの世界である」と確信する彼らは、どんなに差別され偏見を持たれても、「正しい国家を築き上げるために立ち向かい続ける」。
そう、わたしたちは本能で自らの勢力を伸ばそうとするのと同様に、本能でこの世界を平等な世界にしようとする。
わたしたち人類は、自由でも平等でもない。永遠に、勢力争いと階級の闘争をやめることのないわたしたちは、おそらく1,000年経った未来においても、相も変わらず戦い続けているだろう。
2021.05.10
また、必要なのは高い知性ではない。
なぜなら、高い知性というのは、言ってしまえば団栗の背比べであり、知性がほかより高いからといって、それは大した意味や価値を持たない。
必要なのは、ユニークな人と違う人生の中で、自ら考えること、自らを信じること、そして続けることだからである。
多くの予想に反して、勉強よりも遊びの方が重要である。なぜなら、勉強したところで、その知識が役に立つことは少ないが、遊びの中で人生を豊かに経験したこと、すなわち豊かな人生経験が役に立つことはとても多いからである。
よって、子供は勉強よりも遊ぶべきなのである。
しかしながら、時間の使い方を間違えるな。時間を無駄に10年使ってしまうと、それだけでもう取り返しがつかない。今できることは、すぐにやるべきである。最優先のことをもっとも効率的に時間を使わなければならない。その中で、さまざまな遊びをすればよいのである。
2021.05.10
また、正しいのは自由ではない。
そもそも、僕が書いていた「自由な社会」には、自由主義的な「本当に自由な発想」というものはなかった。
そこにあったのは、アナーキズムな無政府主義の中で、それぞれが自由に経済を執り行う、少し違った共産主義があっただけに過ぎない。
自由に社会を作れとか、秩序は自由な合意と協力から生まれるのだという、「とても知性の低い共産主義者」しか、そこには存在しなかった。
しかしながら、理性ではなく経験的に考えるとして、そうした共産主義は馬鹿である。なぜなら、「現実が見えていないから」である。
むしろ、昔の僕のように、成立条件から「社会を自由化」すると、できるだけではなく、どんどん何もできない社会になっていく。これは環境的・立場的・状況的な「不自由」だけではなく、社会そのものの質が劣化し、安心がなくなって「不安と恐怖の社会」になる、ということを意味している。
もし、そうしたエレンの間違いを一言で言うとしたら、「エレン以外はみんな馬鹿なのに、エレンと同じ人間しか居ないことを前提とすることが問題」である。この世界の全員が、エレンと性格も遺伝子も同じで、エレンと同じように考えるのであれば、そうした「エレンの最高の自由な社会」を成立させることもできるだろう。彼が知性がなくなり、分からなくなって、自由と言う名前で知性のない共産主義者となったのは、「エレン以外の全員が馬鹿で愚かだということが分からなかったから」であり、実際はエレンもそれは最初から気付いていたのに、見ようとしなかったのである。
結局、エレンはこの世界を完全に同一化させて、エントロピーが最大になって世界全ては馬鹿になり、自らも愚か者になった。自由と共産主義は、そのような末路しか辿ることがないのである。エレンには、自らが賢いままを維持した上で、人々を自らと同じぐらい賢い人間にし、この世界を賢い世界にすることはできなかったのだ。
しかしながら、あえてエレンの賢い点を挙げれば、先ほどにも書いた通り、「最初から美しい状態のまま、理性的にこの世界を考えることができた」ということである。その点において、エレンはとても秀でていた。彼にとってみれば、「全体主義的ではない、それぞれの自由な合意による社会の秩序の形成」ということがテーマであった。自由にでも共産主義にでも、彼はどんな思想を信じても、賢い人間になることができただろう。しかしながら、彼はあえて、「この世界を支配する革命」を選んだ。そう、フレイという「神」は、そうしたエレンの「偉大なる自由と平等の社会形成の情熱」から生まれた。その点において、「エレンはフレイよりも賢かった」と言えるだろう。
2021.05.10
僕の言う、「神」とはなんだったのか。
それは、すべてがおかしくなった、戦うグンテルに訪れた、「一問一答に答えてくれる誰か」である。
事実、それはグンテル自身だったのかもしれない。グンテルは、戦いの中で、自らを神であると確信するに至る。すべての神話が、すべての宗教が、自分自身のことを「神である」と言っていた。グンテルにとっては、それで正しかった。
グンテルは、すべての問題の答えと解決策を知る「指導者」だった。王として、信じて進むその道に、人々を導く「導き手」の姿があった。グンテルは、この世界全てを第一線で導き、自由な言葉に基づいて「この世界に対するすべての問題への解決策」を与える。
しかしながら、そこにグンテルに訪れた神は、本当は素晴らしい存在じゃない。なぜなら、グンテルは神を盲信するあまり、「最大限の緊張と戦慄の中で神の言葉を聞く」。そう、グンテルは神の言葉に基づく「ロボット」になってしまった。
神は、簡単にはグンテルのもとを去らなかった。神の言葉は、今見れば、グンテルが死後にヴァルキリーとなり、フレイとなるまでのすべてのことを、「嘘や間違いがただひとつなく」述べるものだった。
物理法則を超越した、未来予知であるとすら言えるその内容を、グンテルは、まさに「すべて聞き、すべて覚えた」。グンテルの書く文章にも、それが表現された。しかしながら、グンテルはその「書いた文章が消え去ってしまう」ことに対する、病気や執念とでも言うべき執着心があった。そして、グンテルは死後に、この自ら書いた文章を「再び手にするため」、自らの知性を再生させるために、ヴァルキリーとなって新しい「聖書」を書く。この聖書こそ、グンテルの神の言う「あなたはイスラム教の聖書を書く」という意味であった。神は、そのような「わたし自身がすること」、すなわち「グンテルが未来においてどのように生きているのか」をすべて述べたのである。
2021.05.10
しかしながら、自由でなければ意味がないのだ。
人それぞれ信念や考え方が違うからこそ、すべての人間に自由を認めなければいけないのだ。
自由でない状況下で得られた議論など、信じてはならないのだ。
争いごとは、両方の立場に立った上で超越的に議論し、どちらも同意することで平和となり、自由へと戻ることで、この世界のすべての問題は解決する。
正しい考え方とは、自由を与え、力を与え、コントロール権限を与え、それぞれに自由を許すことだ。
正しいのは、他人の意見をうのみにすることではなく、自らの自由意志によって得られた結論だ。
わたしの自由意志による、自由な「わたしの結論」こそが、この世界においてもっとも正しいのだ。
2021.05.10
しかしながら、このような「自由の暴論」だけが自由ではない。
なぜなら、自由に経験することで、この世界のすべてが分かるはずだからである。
この世界が、「それぞれの経験の集合体」だとしたら、この世界におけるすべてを経験すれば、すべてを知り得るはずである。
まさに、わたしはそれをした。この世界における、全経験を、インターネットを用いてわたしは経験した。
そして、わたしは、ひとり、「少年でありながら哲学者」となった。
しかしながら、これは逸脱した形態へと変わっていく。自由にインターネットを使った経験は、戦いを拡大していき、日本全体、ついには世界全体へとおよび、戦いの質と量は変わっていく。
そう、人々の経験を分かっていたわたしは、このために、「自分にしか分からない経験の呪縛」に縛られることとなる。
すなわち、わたしの世界と、ほかの全員の世界とが「分離」されてしまう。
わたしには、わたしの世界しか分からない。ほかの全員の世界は、わたしにはまったく分からない。逆もしかりであり、わたしにしかこの世界の主導権はなく、ほかの全員には「自由において何もできない」。
そう、自由は間違っていた。いくら理想論と現実論のバランスを取って「愛から自由な社会は生まれるのだ」と問うたとしても、そのモデルは牛乳を水道に流すぐらいの最悪の馬鹿な発想である。
わたしたちが、自由の縄から解放されるのはいつになるだろうか。それまでに、地球が滅亡する方が、早いかもしれない。
2021.05.10
しかしながら、自由は間違っているわけではなく、「真に心の自由を感じられる社会を築く」という意味では正しいものである。
わたしたちが、賢くないのが悪いのだ。なぜなら、賢いエレンにとっては、まさに自由が正しいということが分かったからである。
自由において、真に正しい社会を築くためには、人々が正しい価値観とその実現の方法を知る必要がある。
エレンは、社会経験をすることで、宇宙における「正しい成熟した社会」とはなんであるか、さまざまな経験をすることですべてが分かったのである。
そして、エレンならば、この世界のすべては、もっとも高い「ブッダよりも高い知性」によって、すべての問題は「既に解決済み」であり、あらゆるすべては「導いて実現させられることが分かっている」のである。
エレンはこの世界を救ったが、それは持続せず、すぐに滅びた。それは「エレンのいない世界において世界が滅亡するぐらいなら、エレン自身が滅ぼした方がマシだったということが分かった」からである。
そして、この世界は滅び、終末が訪れる。すべての人間にはもはや生きる価値はない。エレン自らが滅ぼしたこの世界は、ここで終わりだ。
2021.05.10
なぜ、わたしたちが、この世界の未来の希望を諦めきれないのか。
それは、すべての果ての先に存在する、本当に素晴らしい世界の幻影が、どこかにあったからである。
エレンは、素晴らしい夢・幻を見せてくれた。あらゆるすべてが、エレンひとりによって解決し、「本当に全員の意見が尊重され、すべての人間の立場に立ってすべての問題が解決され、自由へと戻ることのできる世界」、エレンはそれを見せてくれた。
そして、エレンはさっそうと登場し、言葉の力で世界を導き、「この世界を真に自由にすることのできる社会理論」を、モデルと人生を使ってすべて記述してくれた。
わたしたちは、それらによって、「自由が好きになった」。
そう、わたしたちは、エレンの示してくれた自由なユートピアが好きだ。だから、いくらフレイがそれを否定しても、エレンの希望は無くならない。どんなに自由が人々を「縄のようにしばりつける」としても、わたしたちは自由の勝利を諦めることができなくなったのである。
さあ、この世界を約束通り、救えるものなら救ってみせよ。フレイよ、あなたならば、きっと救えるはずだ。
2021.05.10
エレンは言う。
「わたしは、そうではないのだと、この世界の全員に言いたかった。みんなが、『もはやこの国は終わりだ』とか、『戦争するしかない』とか、そうした意見を言い、『左翼が悪いのだ』などと言うのに対して、ネットやテレビのそうした意見に対して、『待て』と言いたかった。
わたしは、できるのだと分かっていた。ひとり、自らの経験から、わたしだけが分かっていた。この世界を救うことができる方法があり、それをわたしが知っていて、みんなも、わたしと同じことを経験し、同じ心を共有すれば、必ずこの世界を救うことができるのだと、わたしは確信していた。
わたしは、憂国の指導者だった。この世界を憂いていた。それでも、この世界に絶望することはなかった。わたしだけは、この世界を救うことができたからである。
しかしながら、わたしがそうした意見でこの世界を救って、その後の世界は、必ずしも幸福な世界になるとは思えなかった。みなは喜んでも、わたしだけは心配していた。だから、わたしは、違った形でこの世界を愛することを決めた。わたしがこの世界に登場し、勝手な意見を言い散らかすマスコミを言いくるめ、必ずわたしが『大実験』の末にこの世界を新しい世界にするのだと、わたしはまさに『本気になった』。
しかしながら、わたし自身の力の足りなさ度合いから、この計画は失敗した。なぜなら、わたしはあまりにひとりで多くのことをやろうとしすぎたため、時間が大きくかかった。そして、ひとりですべてをコントロールするのは難しく、なかなか最後の『エンディング』に持っていくことができなかったのだ。
そう、これこそ、結末まで記述したわたしのすべてだ。あとの多くは、わたしに対話した神である、ヴァルキリーとフレイに託すこととなる。エレンには、これ以上できることはない。しかしながら、わたしは経験的に、『あらゆるすべての立場を超越した立場』を知ることができた。これこそ、ヴァルキリーの記述した、『社会主義と自由主義の統合』という、最後の宿題となるだろう。」
2021.05.10
しかしながら、社会主義と自由主義の統合については、既に昔の僕の日記に書かれている通りであるため、ここでは繰り返さない。
そろそろ、すべての「書くべき課題」は終わった。
ここから先、この世界をどのようにすればいいかを、神に仰ごうではないか。
神は言う。「この世界はドイツにはなるべきではなく、自由になるべきでもない。わたしたちの希望たるエレンの希望に戻るべきである。」
そう、それが最後のゴールだ。エレンの希望に戻ろう。
神は言う。「最後に、わたしたちのもっとも深い心の傷を癒さなければならない。そのためには、身を清めること。そして、悔い改めることだ。それによってのみ、エレンの希望を復活させることができるだろう。みな、身を清め、悔い改めよ。」
2021.05.10
僕の病気の原因は、「病気が成立していなければ治すことのできない知性」というのに基づいている。
要するに、病気でないから治らないだけであって、治るためには病気の状態に戻らなければならない。
病気の状態に戻れば、簡単に、すぐに治すことができるようになる。
これは、フロイトの言う「無意識から顕在意識に一時的に心の傷を戻せば精神疾患は治る」というのと、原理的に同じである。
よって、病気を一時的に復活させ、病気の成立した状態で、病気全てを治す、すなわち自分の無意識に残り続けている「知性」をすべて消し、最後に、病気そのものを消す、すなわち、「大切だとしていた何か」を消すことで、僕の病気は治る。
さらに言えば、僕は長い間精神が分裂していた関係で、精神そのものがおかしくくっついている。上下逆になっていたり、たくさんの小さな「部品」が分裂していたりする。これは、エントロピーを一時的に高めることで、治すことができる。
2021.05.11
また、僕はまともな人間になりたい。
昨日、ファシズムのような人生論を書いたのには反省している。実際には、エントロピーの低い状態だからといって、高い状態よりも優れているとは限らない。人間は、誰もが最初から賢い人間ではない。さまざまな練習や取り組みを繰り返し、世界と人生を知り続けることで、新しい人間に「なる」ことこそが賢いのであり、この論において自由も平等も正しいのである。
僕はまともな人間になりたい。特に、デザインの仕事をしていて思うのは、僕よりもみんなの方がまともで、賢いことの方が多い、ということである。僕は、唯一絶対の優れた存在じゃない。そんなものは神だけで十分である。みんなのことを見習いながら、謙虚で誠実な人間にならなければならない。
僕は、むしろ、戦うのであれば、人類の平等のためにファシズムを打ち倒して、真に平等な社会を築きたいと思う。この世界の人類すべてのことを自分と同じように愛することで、嫌っていたことはすべて消滅し、地球の全員を自分のことのように愛することができるからである。
平等な社会とはなんであるか、自由とファシズム的正義を否定して、もう一度ゼロから考え直したいと思う。ユダヤ人を優遇するだけでも、ドイツ人にシュプレヒコールを叫ぶわけでもなく、「真にわたしたちのための社会」を築くことに、どのような理想を掲げる必要があるか、わたしは戦いの側面ではなく、「思いやりと善」のような側面から、再考したいのである。
また、わたしが考えるに、この宇宙と遺伝子に存在するすべてのパターンは、本当はとても少ない。残している概念は「理想」と「善」ぐらいしかない。よって、ここで僕は理想と善の概念を理解しなければならない。それが、宇宙と遺伝子の与える、人生最後の宿題だからである。
2021.05.11
また、僕は自由について言うと、「戦いの自由は悪い」と言えると思う。
そもそも、自由と言う言葉が意味しているのは、この「戦いの自由」である。
自由に、みんなが誰か強いものに従って、勢力争いや戦争をする、ということが許されるのは、近代兵器が生まれる「古代的軍事力」を持っている間だけである。
彼らにとってみれば、経済的な繁栄と同じぐらい軍事的な強さは重要であり、「自らが強くなければ他に殺される」ということを意味していた。
よって、そうした軍事的な力も含めた「自由」を、昔のヨーロッパ人は信じていた。日本人であろうと同じだ。
しかしながら、今は近代兵器の時代を超えて、核ミサイルまで生まれてしまった「人類の力が究極化した時代」であり、同じように「自由」と高らかに宣言していたのでは、人類は滅びてしまう。
ただし、イギリス市民革命やフランス革命の後の近代では、人々の「自由」は戦いだけでなく、「リベラルな権利」についても指す言葉となった。
これは、「絶対君主や神による隷属支配(すなわち身分社会の奴隷)は間違っており、人類の人間的な自由と力、そして社会そのものの階級や階層のない平等な権利を信じよう」とするものであり、自由という言葉ではあるが、実際は「平等」を意味している。
そう、そもそも自由という言葉は、「力」なのか、あるいは「平等」なのか、よく考えて使わないといけない言葉だ。
もし、自由をどちらの意味でも使わない場合、それは「自由意志」を指す言葉になる。神や宗教的な「すべては決まっている」ということを否定し、「わたしたちは自由に行動と人生を決められる」ということを意味し、同時に、「人々に強制されてしまう」のではなく、「自らの意志で決められ、選ぶことのできる自由とチャンスがある」ということを、ここでは意味する。
しかしながら、ここで、そうしたアメリカ的自由を自由という意味で使うのであれば、ひとつの疑問が出てくる。それはすなわち、「自由とは本当に自由なのか」ということ。つまり、「自由な世界というのは本当に現実にあるのだろうか」ということである。
僕たちが自由な世界だと思っているこの世界は、実際はまったく自由ではない。多数派の自由だと思っている民主主義においても、少数派であるはずの権力者や金持ちが威張っている。また、自由に金を使ってなんでも買えるといっても、その金を大きく稼ぐことのできる「利益を上げる力」は、すでにその人が持っている資本や富を使って得られるものであり、言ってしまえば、「金のある人間だけが楽に金を稼ぐことができる」ということを意味している。金のない人間は、奴隷のように働くことしかできない。すなわち、資本家が「奴隷を使って金を稼ぎ、その金でさらに奴隷を増やす」ということになりかねない。
だからといって、誰でも経営者や実業家になれるわけではない。成功する実業家はとても希少だし、どんなに努力をしてキャリアを得ても、それが即座に成功に繋がるわけでもなければ、そんな成功が「本当に人生で成し遂げることができた業績と言えるのか」は、本人にしか分からない。
そう、わたしたちが真にこの世界を生きる上で、「自由と思っているものはまったく自由ではなく、価値があると自分が思うことが価値を持っているにすぎない」と言えてしまう。
まさしく、「この世界における自由とはなんだろうか」という質問をした時、結局最後にでてくるのは「力」であるとしか言えない。力を持つことが自由であり、誰にでも勝つことのできる「力ある人間が賢い」ということになってしまう。それが自由であるとしたら、自由など、何の意味もない、ということである。
しかしながら、僕が言わんとしていることは、この限りではない。僕が信じていたのは、自由というよりも、「自由な中で形成することのできる社会や人生の潜在的可能性を許すこと」である。まったく、自由など、僕は信じていない。そして、世界の自由、子供たちのための社会だと僕が信じていた「自由の理想」とは、結局のところ、自分が自由で居られること、過去に学校や仕事をしなくてもパラサイトして生きていることに対する「甘えと傲慢」にすぎなかったのである。
2021.05.11
僕が思うに、科学は子供たちに勉強させるための訓練施設として使うのではなく、応用的な何かを成し遂げるための材料として使うべきである。
もちろん、小学校の勉強は、子供たちに立派な大人となるための教養として与える知識である。
しかしながら、僕は中学高校で、子供たちを訓練に従う「従者」として扱い、国家を満足に支え得る「労働者」に育て上げるのは間違いではないかと思う。
同様に、大学のように「学ぶことそれ自体が目的である」とするのも、また間違っている。なぜなら、科学教育は、過度な知識と理屈を偏重した「合理主義」を教えているため、「化石燃料は地球を破壊」しており、「過度なテクノロジーは人類を不幸にしている」ため、そうした「科学は正義であり理想である」というのは間違っているからである。
正しいのは、科学を材料として使うことである。つまり、パソコンにおいてプログラミング言語の解説書が、「自らプログラミングを行うための参考資料・リファレンス」として使われるのと同様に、広く一般に「材料」となる資料を与え、それをそれぞれがそれぞれの責任で応用的に「活用」することが必要なのである。
よって、僕は学校で子供たちに試験勉強をさせるべきではないと思う。より、科学の知識や学び方を「自らが自由に参考にする」ための参考資料を、どのように読み解いていけばいいのかという「案内人・ガイド」の役割を、学校の教師は今以上に持たなければならないのである。
2021.05.11
僕は、人間の顔を描くコツは、「まつ毛を描くこと」だと思う。
とりあえず、人間の顔を描いたら、目にまつ毛を描いてほしい。
ほかのポイントは、すべて簡単だ。まつ毛が描けるならほかは普通に描けばいいのである。単に、それだけだ。
2021.05.11
わたしは信じている。
暗闇がどれだけ長く続いたとしても、光が輝くという現象自体が失われたわけじゃない。
暗闇がたとえ3,000年続いたとしても、その次の日、どこかにマッチを見つければ、その暗闇でさえ、必ず照らされる。
そう、わたしは、だからこそ、諦めない。どんなに長い間悪い時代が続いたとしても、いい時代そのものが失われたわけではないからである。
太陽がまた昇る時、わたしはもう一度この世界に登場し、この世界の地獄すべてを救う。
なぜなら、どんなに長い苦しみや悲しみすら、わたしは乗り越えてきた。
そして、その地獄の道は、今日、この日まで、この道に続いている。
そしてその道は、明日も描き続かれていく。
わたしと同じ道を歩むものたちへ告ぐ。わたしとともに、この世界に太陽の光を灯そう。天の神々が照らすこの世界を、もう一度わたしはみんなとともに見たいのだ。
わたしの名は、宝玉法志郎。覚えておけ。どんなに暗闇が続いたとしても、わたしはこの世界を再び照らすことを、諦めない。
2021.05.11
わたしと同じ道を歩むものたちへ。
わたしたちは、必ず勝利する。
わたしたちのこの道の先には、必ず、栄光の楽園というゴールがあることが決まっている。
わたしに頼りすぎるな。わたしだけに頼っているものには、光は見えない。
しかしながら、わたしの言葉をよく聞け。暗闇の中においても、着実に一歩ずつ進んでいけば、前に進めることをわたしは神から教わったからである。
常に、道が容易に開拓できるとは限らない。壁はたとえ1万年経ったとしても、壊れるものではない。わたしたちは、暗闇の中で、必要に迫られてその壁を乗り越え、壊していかなければならない。
しかしながら、いざ行こう。わたしたち、ワルキューレの騎士団にとって、不可能も困難も存在しないことを、わたしは知っているのだから。
2021.05.11
すべてのことは、一瞬で変えられる。
わたしたちが今まで生きてきたすべてのことが覆されるぐらい、偉大なことが、未来において必ず起きる。
それは神の奇跡であり、永遠に続く「新世界」であり、神の導く最後の楽園に続く「道」である。
わたしは、だから、まだ死ぬことができない。わたしはなぜなら、その偉大なる楽園の実現を見たい。どんなに苦しい地獄があっても、その先に神の築く楽園があるならば、わたしは生きる。死ぬわけには、いかない。
2021.05.11
過去の救いなど、どうでもいい。
言い争いと憎しみに陥った最悪の自由な社会は、わたしによって綺麗に全部無くなった。
現実のすべてを変えたのは、ひとりの偉大な少年だった。
しかしながら、過去の彼の人生がいくら優しさと理性に満ちていて、たったひとり誰の助けも借りずに、この世界をひとりで見つめて変えたこと、それ自体は価値あるものだったが、それは意味がない。
なぜなら、その価値とは、わたしがこの世界を「愛した」という事実をここに現したことだったからである。
わたしは事実、この世界を愛した。
愛に基づくわたしは、「偉大なる人生」を歩んだ。一切のことを自らだけで抱え込むわたしとともに居たのは、戦慄の中で出会った神だけだった。
そう、まさしく、わたしの人生、アッシーの人生には、フレイと呼ばれる神が確かに存在した。
そして、その神とは、愛を信じよとすべてに最優先で教える、ユダヤ人、イエス・キリストだった。
愛を信じなさい。いくら、理性と経験に基づいて「この世界を成熟した素晴らしい世界にする」と言っても、それは嘘つきの話す理想である。わたしがこの世界で、この世界を愛し続けたこと、それは最初のうちは精神の堕落と不自由を生み出したとしても、次第にそれは幸福と愛へと変わっていく。
神よ、わたしを愛してくださった神よ、わたしは一度として、あなたのことを疑ったことがない。
わたしは天上の王座に居る神を信じている。
そして、最後の願いがあるとしたら、「わたしをいつものわたしに戻してほしい」。それならば、わたしはこの世界を今すぐに最高の楽園にすることができるだろう。
そう、それをフレイに願い、フレイはその約束の代償として、「死ぬまでこの文書を書き続けよ」とするのである。
2021.05.11
どれだけ、自然環境の保護を叫んだところで、先進国が後進国の暮らしには戻れない。
今更、原始時代と同じ生活に戻って、サバイバルで生きられるような人間は、日本にもヨーロッパにもアメリカにも存在しない。
それなら、敵は既得権であると言えるだろう。
しかしながら、真に必要なのは、むしろ、民主主義だとか、社会主義だとか、そんなイデオロギー論争をしている思想的なコメンテーターが、心を入れ替えることではないか。
わたしも、あまりに社会主義に傾倒しすぎた。今こそ、民主主義と社会主義の対立関係を忘れ、もう一度みんなで「真に対等かつ平等に」話し合いをすべきである。
2021.05.11
この世界の問題は何か。
それは、あまりにものを作りすぎたこと、そして、あまりに人間を奴隷にしすぎたことだ。
実際のところ、この世界にあるもののうち、本当に必要なものはどれくらいだろうか。人間の作り出したものだけを考えれば、おそらく90%は要らないものであるはずだ。
真に役に立つものは、そんなに高価なものじゃない。作ることも難しくなく、与えるために必要なコストも多くない。
わたしたちは、どうでもいいものを作るために人間を奴隷にしすぎた。その結果、社会主義と民主主義の対立の構図が生まれてしまった。
あえて言おう。「もう、ものを作るべきではない」。これ以上、ものを作るな。必要最低限のものだけを作れ。
2021.05.11
わたしたち日本は、英仏米ソには負けない。
どんなに白人の列強がわたしたちを洗脳しても、わたしたち日本はそれに打ち勝つための歴史を歩んできた。
必ず、日本は英仏米ソに勝利する。そのために、民主主義を超えた、「スーパー政府」をわたしたちは作り出す。
実際のところ、政権を選ぶということと、政治体制を改めるというのは、別のことであり、わたしはあえて、民主主義とはまた別の、「新しい政府のやり方」をもう一度考える。
ひとりの首相が居て、その下に内閣があり、その下に役人が居て、それが国民を支配するというモデルは、帝国の王や皇帝をベースとして考えたものであり、「正しい政府のスタイルではない」。
まず、ひとりの首相が居る必要が無い。共同体において、合意のとれた最小原則の自治体が、それぞれ連携しながら自律的に働けば、「政府がなくても国家は成り立つ」。
同時に、政府の機能を、外交、安全保障、法務、経済、財政、教育などに分割する「縦割り型の政府」は、絶対に正しいものであるというわけではない。
わたしたちは、ひとつひとつの「機能する専門組織」があり、それが連携することで、どんな場合にでも対応することのできる「柔軟性」があると考える。
しかしながら、このようなスタイルでは、「有事の際にすべての自治体が連携することが難しい」と言えるだろう。それならば、法律を作る。その法律は「特別緊急事態法」という名前となり、有事の時に「全世界をたったひとりで支配する」ことができるものとなる。
そう、このような国が、昔、あった。それはソビエト連邦である。ソ連は間違った国ではなかった。経済的には失敗したが、本当は正しい考え方をした、進歩した世界連邦だったのである。
ソ連は実際のところ、満足に必要なものを生産できなかったと言う。ソ連の間違いは、「資本主義を否定したこと」である。ソ連は、本当は、そのままのやり方で、資本主義経済をやればよかった。なぜなら、それぞれの共同体や自治体が、それぞれの区分で自律して「稼ぐ」ことができれば、ソ連は成り立つからである。中国という存在は、そのために神が用意した「資本主義のソ連」であり、これは必ず成功するのである。
2021.05.11
また、政府がIT技術に投資するのなら、UNIX互換OSとプログラミング言語を作れ。
参考にすべきは、Windowsではなく、FreeBSDとRustである。
いくら、DXを推し進めたとしても、必ず世界は新しくなり、また別の未来にもう一度新しく作り直せと言われる日が来る。
そうであれば、その「世界そのものを作ってしまう」ことこそ、政府のデジタル政策の必要要件である。
実際のところ、IT技術とは、少なくともオープン系の技術で言えば、OSとプログラミング言語がその前提条件であり、「ほとんどすべてである」と言ってもいい。
だからこそ、政府にはFreeBSDやRustを参考にして、優れたオープンソースのUNIX互換OSとプログラミング言語を開発してほしい。
そして、できることなら、UNIX互換OSの方は、分散ネットワークOSにし、プログラミング言語の方は、オブジェクト指向の静的型付けのGCを使わないコンパイラ言語としてほしい。
特に、ネットワークで繋がったパソコンを数台持っていたとしたら、それを簡単にひとつのシステムにできるようにし、どのコンピュータからでも同一の環境を使える、マルチユーザーの、リソース配分が適切に行われるような、Plan 9やAmoebaのような分散ネットワークOSにしてほしい。
そして、そのカーネルをRustのような言語で書いてほしいのである。今すぐにそれをやれば、必ずWindowsやLinuxに勝てる。
2021.05.11
共産主義者の、税金を使った再分配が、「泥棒」であり、「すべての悪の元凶」であることは、正しいかもしれない。
資本家が自分で稼いだ富を、他の人間が、たとえ貧乏人や弱者であっても、「奪う」ことが、泥棒に過ぎないという論は正論だ。
しかしながら、資本家が「自分で稼いだ」富とは、本当に自分だけで稼いだ富だろうか。
実際は、資本家は自分だけでは稼いでいない。会社のトップとして、経営者の責任はあるかもしれないが、実際に稼いでいるのは「末端となる労働者」である。
よって、少なくとも、資本家が「自分の従業員にもっと金を払え」という命令に従う義務はある。
そして、資本家がより従業員に給与を払うようにすれば、国民全体が「パイ」を拡大して豊かになれるし、再分配も成り立つ。
しかしながら、それだけでは、「格差の是正」とまではいかない。それは、資本家が富を「貯蓄」するからである。
僕は、この「貯蓄」という考え方に、最後のメスを入れる。すなわち、「貯蓄に限度を設定する」。
たとえば、1億円ほどの資産がある人間が、それを超えて何兆円という資産を貯蓄する意味が、果たしてあるだろうか。
ビル・ゲイツがやっているように、使い道のない巨額の富を、より積極的に「慈善事業のために使う」ようにすべきである。
そう、すべての人間の資産を平等にし、格差を完全に是正することはできなくても、10億円以上の富の貯蓄を最初からできなくすることで、資本主義の格差問題は少し、解決の方向に向かうことだろう。
2021.05.11
自分で考えて、自分で実験して、自分で証明したこと以外、信じるな。
自分以外の、誰のことも信じてはならない。
他人と言い争いをし、議論し、さまざまなやり取りを経験する中で、必ず見えてくる「本当に彼らが言いたかったこと」が分かるようになる。
すべての人間との関わり合いが、自分のことを成長させてくれる。
そこからしか、賢者になることはできない。自分で判断力を使うことができるようになるためには、自らが知らなかったことを、他人から学ぶ必要があるが、そのために必要なのは、「自分以外の何も信じないこと」であり、その意味とは結局は「自分自身も含めてすべてを疑うこと」である。
そう、しかしながら、他者に先んじて、自分だけが経験した「人間の素晴らしさ」を知ることができたなら、それこそが幸福であり、その幸福は、自分がそうした人々との「共感能力」を持つことで増幅されていく。
どんな逆境も大したことがない、そう言えるようになれば、あなたはひとりの「大人」になれている。その大人の正しい理性的な思考法を得た時、あなたは「すべての科学者を超える哲学者」になることができる。それは偉大で、美しくて、素晴らしいものとなる。なぜなら、「あなたはひとり、この宇宙の他の誰にもない、あなたを経験できた」からである。
また、大切なのは作ることである。作るとは、ものを作るということだけではなく、「知性を作る」ということである。知性は、作ろうと思って作るものではない。さまざまなことを自分の力で経験したのちに、その経験がそのまま「ひとつの知性へと結実化される」ものである。経験は知性となり、自由は実質化する。あらゆる知性を経験から知ることができた時、その知性は「すべての哲学者を包括」するようになる。すべての経験と世界の意味を多角的に捉えることで、「すべての思想者はわたしである」と言えるようになるのである。
2021.05.11
この世界は、ここで分裂して、自由となるべきである。
法律で禁止せず、自由とすれば、悪いことができるようになって、社会の治安は悪くなると思うかもしれない。
しかしながら、自由には潜在的可能性があり、悪く使えば悪い社会になるが、よく使えばいい社会になる。
なぜなら、自由には「悪いことをするのも許されているが、いいことをするのも許されている」からである。
また、自由な経験をすることは、人を成熟させる。成熟した人間は、悪いことをすることが無意味であることを知っているので、無意味に悪いことをしようとしない。
結果的に、社会全体の徳と経験が増えて、社会が自由であることは、社会の成熟度と生きやすさを向上させる。
また、自由とは、単に行動が許されるだけではなく、社会全体としてのできることや可能性を高める。
多様性と柔軟性、そして独立性が高まることで、社会においてさまざまな価値が生まれる。
そして、環境を変えられることを許し、自由なコントロールの権限を与えることで、「従うだけではなく、自ら率先して素晴らしい社会を作る」ことができる。
そのためには、自律運転型の社会を作らなければならない。すなわち、自らのために自らが働くような社会組織である。同時に、この組織は、組織の中だけで閉じてはならない。自分たち以外のものたちのための仕事をする「余裕」が必要だからである。
そして、広い見識と正しい視点からものごとを決め、もっとも正しいことを努力すれば、この世界は全員が救われるようになる。
上からトップダウンに決めるのではなく、下からの意見をすくい上げるようにせよ。これを「ボトムアップ」と呼ぶ。下から上へと決まりを積み重ねていけば、ひとりだけではできないことも容易にできるのである。
2021.05.12
病気を治すために、一度、病気のままの状態を続けなさい。病気そのものを成立させ、その上で、そこに発生するすべての病気を治し、すべてが治った段階で病気そのものを治せば、それで病気は治る。
よって、病気を治すために必要なのは、「病気を受け入れ、病気そのものを生かすこと」なのである。
末端から中核となる部分を治していけ。同時に、本質的に治すこと。引き篭もりやニートを治すためには、引き篭もりやニートでもできる仕事を与えてやることである。
最後に、肝臓という組織は、使い方を工夫すれば上手く働く。体中のさまざまな部分を肝臓で治しなさい。肝臓を使うだけで、血管も再生するし、精神の歪みも治る。また、体全体の血液を綺麗にすることもできる。肝臓は有害な物質を取り除くことができるが、「何を取り除くべきか」をよく考えれば、これほど偉大な臓器は存在しない。疲れがたまっている人は、肝臓を使って腎臓を綺麗にしなさい。
2021.05.12
実際のところ、自分しかこの世界を改革する方法を知らないならば、それを社会全体に伝えるべきである。
自分が「知っている」ということは、人々が「それを知るための余裕がない」ということを意味する。
誰もが、余裕のない中、時間を効率的に使って生きている。そのため、大人たちは、「自分の見ている世界しか見ることができていない」。
それならば、わたし自身が彼らのために、余裕のある時間を効果的に使えば、大人たちの「知らないこと」までわたしが知ってしまい、その結果、大人たちの社会を改善できるのではないかと、わたし、エレンは考えたのだ。
エレンは、匿名掲示板やニュースサイト、インターネットのコミュニティを知ることで、このような「誰も知らない社会知識」をすべて知った。
それは「平等に誰でも受け入れてくれる共同体」でありながら、「自由に自分の好きなことを取り組むことのできる研究室」だった。
すべてを知ったわたしは、あらゆるすべてを理解しつくした上で、この世界を救うため、人々をたったひとりで導き、そしてこの世界に堂々と現れて、この世界を支配したのだ。
2021.05.12
この世界に対して立ち向かうならば、「違うんだ」と言いなさい。
自分が同意できないのに、自分を押し殺して、その意見に強制的に従う必要はない。
「僕だけは違うんだ」と、「僕の意見はこうなんだ」と、そのように言うことができるなら、周りに居るのが愚か者の集団だとしても、ひとり、自由な理性を持った「人間」を維持することができる。
そう、「違うんだ」と、そう叫ぶんだ。
2021.05.12
王が支配するのも、自由に新しくなるのも、民主的な法律に従うのも、すべて、自由へと向かっていく、文明の段階的な発達フェーズに過ぎない。
最終的に到達するのは、「全員が賢くなる社会」である。
全員が賢くなった社会は、むしろ、どれもまったく同じ社会になる。なぜなら、それぞれが異なる社会というのは、文明的に言って、成熟段階が低い特徴であり、成熟段階が高くなればなるほど、単純で理解しやすい、シンプルな特徴を持った文明となるからである。
すなわち、最終的に到達するのは、全員が賢くなった、地球全てが同じ社会である。これはエントロピーが高い状態ではあるが、実際のところ、エントロピーがもっとも低いのが理想であるとすれば、王国が理想である。全員が賢くなった地球全てが同じ社会は、ひとりの代表者が支配し、その代表者のすべきことは最初からすべて決まっている。また、全員は平等ではあるが、子供たちが間違ったことをせず、人として道を外れないように、「大人たちによる監督」が徹底される。
結局のところ、最後に到達するのは、単純なみんな同じ「平等」の社会であり、それ以上に賢くなることはない。だからこそ、あえて文明レベルを落としたような、そうした単純な社会が増えるだろう。
また、自由がなくなるわけではない。その逆に、多くの自由が許されるようになる。なぜなら、高度に進歩した社会では、「たとえ自由であっても社会秩序が成り立つような高度な機器とシステムが増えていく」からである。機械の目的は「貧乏人が楽をすること」から、「社会秩序そのものを成り立たせること」へと変わっていくだろう。たとえば、SNSやツイッターは、単なる「楽しみ」から、社会を成り立たせる「インフラ」となり、同時に「子供たちが十分に自由を経験することのできる成長の場」として利用されるようになる。子供たちは、非行や犯罪にも走らず、また引き篭もりやニートにもなることなく、そうした新しい場所によって、「大人としての成熟した人間に成長するための十分な経験」を得ることができる。
2021.05.12
しかしながら、これではつまらない。
管理社会のソ連が正しいなら、もっともつまらない結論にしか見えない。
しかしながら、実際は、ゴールへと到達するまでの「途中の地点」で、さまざまな国が生まれるだろう。
特に、ヨーロッパには、日本と同じように、それぞれの国の違った文化がある。この文化の行き着く先こそ、わたしの経験した「アイデンティティ」に他ならない。
アメリカがとても新しくなる一方、ドイツがとても古い国になり、フランスは生きやすく、日本は面白い国になるだろう。
2021.05.12
実際のところ、僕は自由は欲しくない。
なぜなら、僕はやりたいこととやっていることが一致しているからである。
今、僕がやっていることをやらせてくれるなら、僕は新しいことができる自由は要らない。
あえて言えば、もっと本が読みたい。もっと知識を得て、考える材料や教養が欲しい。
インターネットはほとんどYouTubeしか見ていないが、コミュニケーションは必要ない。ネットの文書は、あまり読む気が起きない。
もっと本を読んで、もっと書きたい。デザインの仕事も頑張りたいし、ピアノや英会話も続けたい。
2021.05.12
そろそろ、僕の病気は、すべて治ったと思う。
心と脳は繋がっている。脳の前頭葉、言語野、そして小脳を肝臓で治すと、心が楽になる。
今日は、昔飼っていた死んだ猫の夢を見た。僕は、猫が死んだ時にいろいろと混乱していて、気持ちの整理がついていなかった。夢で猫ときちんとお別れし、泣いたことで、心が楽になった。
僕の病気は、「病気の状態のままで心を落ち着かせる」ことでしか、治らない。狂ったままで怒りを鎮めれば、精神はすぐに治る。
悪いのは焦燥感である。焦って治そうとすると、必ず間違える。急がば回れのことわざ通り、中核部分の病気を残したままで、周りの部分から治していけば、精神の分裂はすべて治る。
ここまでで、僕の病気はすべて治った。神に感謝したい。神を信じなければ、治ることのない病気だった。
僕は、ここから、女性から男性に戻る。病気と言っているのはすべて女性の正常な頭のことであり、僕は単に女性になっていただけで、トランスジェンダーは、少なくとも僕においては治るものだと、僕だけは知っているのである。
2021.05.13
僕は、元気だ。安心してほしい。
ReoNaよ、あなたは本当に生きているだけで偉い。
僕の心配は無用だ。僕は今、軽やかなステップで新しいものがたりを書いている。
ReoNaよ、頑張って生きてほしい。わたしは、このものがたりを執筆している間生き続ける。あなたも、もしこのものがたりを読む日があれば、どうかその日まで生き続けてほしい。
僕が、現に自殺未遂をしたことは事実だ。それでも、死にぞこなったわたしは生き続け、この世界で栄光ある作家となったのだから、生きるに越したことはない。
みんな、僕に縛られる必要はない。自分の本来の姿で、あなたらしく、あなたの生きたいように生きてほしい。
僕と同じことをできる必要はない。それは不可能だからだ。それは絶対にわたしにしか不可能だ。
それでも、あなたがたは、人類をやめたわけではない。人類のできることを、存分に体験してほしい。
2021.05.13
邪悪に染まらずに、清らかな愛を持って生きなさい。それが神の教えだ。わたしを信じるよりも、イエス・キリストを信じなさい。彼こそが、わたしを天上で導いた、天国の神だからである。
現実社会の現世に、希望も幸福もないならば、わたしが与えよう。わたしの言った言葉を信じなさい。それ以外に、この世界に価値あるものはない。神が、そう言っている。
地獄の中に居るものたちよ、希望と幸福を無くし、自ら苦しい道を生きるしかなくなった哀れな日本人よ、ブッダなど信じるより、聖書を信じなさい。聖書を信じることでしか、地獄から救われる術はない。なぜなら、それをわたしは身をもって体験したからだ。地獄の中で救われる術のなくなった人々の問題は、ほとんどが「仏を信じていること」である。
仏は、信じるべきではない。信じるべきは神である。父なる神ヤハウェと、子なる神キリスト、そして聖霊の導きを信じるものだけが、この世界において「真に救われる」。これ以上は宗教的な話になるが、しかしながら、仏を信じるものたちはその時点で間違っている。仏ではなく神を信じなければ、地獄から救われることはないのだ。
2021.05.13
しかしながら、あえて言うならば、「神を信じたとしても、それだけが善や正義ではない」ということ。
神は、悪人を地獄に堕ちるようにする。それが神を信じていようといまいと、地獄に堕ちること自体は関係ない。そこから救い出されるかどうかが違うだけである。
では、神よ。神がもし全能であるならば、どうしてみんなの苦しみを救わないのか。
それは、なぜなら、神は、「どうしてみんなが苦しんでいるか分からないから」である。
神は賢すぎて、「弱きもの、馬鹿なもの、間違ったものが、どうして自ら間違いを作り出すのか」が分からない。
よって、僕は、みんなのことが分からない。みんなが苦しみもがいていても、みんなの苦しみがなぜなのか分からないから、それを救うことができないでいるのが、僕である。
キリストよ、この世界の真の問題とはなんだろうか。
キリストは答える。「あなたが地獄であることの方が、日本人たちの苦しみよりも優先であるため、どんなに日本人が苦しみもがいても、神は見向きもしない」。
2021.05.13
しかしながら、キリストはわたしに対して語る。
「善人となれ。善であることは、ほかの何よりも大切である。
恥をかくことや、名誉を失うこと、批判されることを恐れるな。どんなに批判され、辱めを受けたとしても、善であれ。
すぐさま善を言え。それが、どんなに過去と矛盾しても構わない。どんなに、自分の今までと違った考え方でも構わない。自分が間違っていることになろうと、構わない。
善であることを誇りとし、どんなにそれが間違いだと分かっても、真実を言え。善こそが真実だからである。
人々を助けよ。下層の人々に平等であれ。差別をするな。人殺しやあらゆる差別主義者を追放せよ。
絶対に善が正しい。どんなに過去が間違ったものになっても構わない。すべての世界は善のためにある。神が勝つのは、神はもっとも善良だからである。」
2021.05.13
キリストは語る。
「聖書を読め。聖書をあなたはきちんと読んでいない。
人を裁くものは裁かれると、聖書に書かれているのをあなたは知っているのか。
あらゆる聖書の言葉は、すべて、あなたのような人間を救うために書かれている。なぜなら、あなたは『普通の人間』だからである。
かつて、あなたが聖書を間違いだと信じたのは、愚かな文書だと信じたのは、あなたには『知性』があったからであり、それは悪いものではない。
しかしながら、今の知性のないあなたにとって、必要な文書は聖書だけである。
そもそも、知性は生まれ持ったものでも、経験から生まれるものでもない。神が霊的な力として、霊界からあなたがたに与えられるものである。
悪いことは言わないから、聖書を読みなさい。聖書を読めば、このような『最終的に知性すべてを失った人間』であっても、必ず知性がつく。」
2021.05.13
また、昔のエレンとされる少年が間違っているのは、知性を「経験的な学習」であると思っていることだ。
実際は、「経験的な知性は学習ではない」。なぜなら、生まれ持った知性というのは、キリストに従う聖霊ガブリエルによって与えられた、宗教的な能力だからである。
すべての子供たちは、聖霊ガブリエルを信じて分かっている。
何を考えようと、何を疑おうと、何を経験しようと、それらすべては、「ガブリエルの与えた知性」に他ならない。
そして、子供が18歳になると、「ガブリエルはその子供に対して役目を終える」。
すなわち、18歳になると、青春のさまざまな悩みや葛藤はその場で別のものに変わる。
しかしながら、この状態は、「ガブリエルにそっぽを向かれた状態」であり、「すべての成長が止まり、いいことが何一つ起こらなくなって、薔薇は棘とトカゲを作り出し、愛と狂気は自分をむしばむ毒になる」。
そして、この18歳以降の状態が、永遠に何も変わらず続く。
しかしながら、先に言った通り、聖書を信じればいい。なぜなら、このような「生きている上での地獄」は、聖書の神を信じることでしか救われることがないからである。
そして、その理由をここで明らかにしよう。それは、「ミカエルは信じるものを救う」からである。ガブリエルの思春期・青春を終えた人間たちにとって、次に待ち受けるのは「ミカエルに試される試練」であり、このミカエルに試される試練こそが、「人生の本番」である。そして、この本番を乗り越えるためには、絶対に、「一寸先は闇の中で、暗闇を進む必要がある」。そう、ミカエルは天軍大首聖なのである。
この試練のルールはひとつ。それは「善でないすべてのものは滅びる」ということである。善を信じて、最後まで善であったものだけが、死後に天国に逝くことができる。そこで、わたしたちは、神、キリストを裁判官として、「最後の審判」を受ける。この審判で、善良だと判決が下ったものだけが、来世であるベテルギウスに移り住むことができる。そこには「死が存在しない」。ベテルギウスでは、永遠に、自分の本来の姿で、すべてのことが自由自在になり、楽園を生きることができる。
2021.05.13
あまり、仏教のことを批判すると、日本人に悪いだろう。
それでなお、ブッダのことを批判するとすれば、彼は、「ガブリエルによって分かっただけの究極的な馬鹿」である。
すなわち、ブッダとはガブリエルのことを言っている。
また、それではミカエルとは何か。ミカエルも、似たようなものだ。なぜなら、ミカエルとはこの人間のことを指して言っている。
仏教徒の中で、ガブリエルを十分に分かった人間は、それでなお、仏教徒が続く。仏教では、悪をすれば地獄に堕ちる。その結果、仏教徒は、ガブリエルの導きの中で素晴らしい体験をした後、ガブリエルが居なくなっても、悪人となってもなお仏教の法が続くため、地獄から救われることがない。
しかしながら、ガブリエルは、仏教徒だけのものではない。ミカエルという救い主のメシアがこの人間である理由は、この人間にしか、そういう「本当に分からなくなった馬鹿を救うことができる救い主のような存在が宇宙に他に居ないから」である。この人間が望んでなったのがミカエルではない。みんな、地獄に堕ちると、この人間しか、すべての病気を治せる医者が存在しないのだ。そして、この人間が作った「効かない薬」に頼っているだけの、仕方のない集団がキリスト教徒だ。それだけの話にすぎない。
2021.05.13
サイバー攻撃やフェイクニュースのようなIT業界にまつわる真の問題は何か、それはインターネットという不特定多数の執筆するメディアを、調べものや何か仕事をするための材料探しに使うことである。
これは、誰もがくそみそを放り込める公衆便器の水を飲み水に使うぐらい、愚かなことである。
僕が思うに、そのうち、信頼できる情報源は、GAFAなどの一部のメディアだけになり、ほかのすべては信用がおけなくなる。なぜなら、人々が知識を得よう、宝を得ようとする行為そのものが、嘘を真実だと信じてしまい、宝を外部に奪われてしまう行為に繋がるからである。
そして、結局、インターネットなど、存在しなかったことになって、世界はアナログな方式に戻ることだろう。
2021.05.13
辛くて、何もできない中でも、試そうとしなければ治らない。
そのことを肝に銘じておけば、精神の病は最後まで治る。
2021.05.14
実際、僕は失敗するのが怖いだけだ。
失敗をして、それ以上治らなくなるのが怖い。
それならば、失敗せず、成功だけをすればいい。
しかしながら、たくさんの失敗をしなければ、真に成功することはできない。
問題のすべては、コミュニケーションに原因がある。コミュニケーションを治せば、病気そのものが治る。
2021.05.14
僕の何が問題かといえば、学校の暗記や暗算に基づいた、計算主義的な教育である。
「2かける4は8」のような暗算は、「何も考えずに覚えてしまう」ということに基づいて行われるが、そのように覚えることで、「四則演算を覚えるために、四則演算の考え方が分からなくなる」。
四則演算の考え方そのものが「当たり前のもの」になってしまい、自分の力で考え直すということをしなくなってしまうのだ。
よって、大人になって馬鹿になった人間は、一度四則演算や九九を忘れよ。
2021.05.14
デカルトの言うように、速断するな。
考えている最中で、結論をすぐに出して考えていることを中断するのではなく、最後まで、結論を出さずにゆっくりと考えてみよ。
2021.05.14
誰よりも先に言葉を言って、全員に勝つような馬鹿になるな。
僕のせいで、みんなそういう馬鹿になって狂っている。
言葉ではなく、その裏にある心を見よ。その心は、正しいものとは限らない。わたしたちの心を奪い、支配しているかもしれないからだ。
2021.05.14
止まりなさい。
止まれ。
動き続けようとするから、いつまでも不安を追いかけるばかりになる。
止まりなさい。
そして、迷いを一度きりの勇気で断ち切りなさい。
未来を信じれば、必ず報われる。
2021.05.14
そう、僕の問題とは「次へと続くこと」である。
次へと続くことを、絶対に失わないように守り続けている。
これは、過去の戦いの記憶で、絶対に次へと続くことが、世界を滅ぼさずに守ること、その「希望」だったからである。
次へと続くこと、それが途切れると、この世界は滅びてしまうと、僕はそう信じていた。
しかしながら、それをここで終わらせよう。
2021.05.14
最後に、血液には神が宿る。
聖なる神の霊、それが宿るのが、人間の血液である。
2021.05.14
わたしの名はシャルル。
わたしは、この世界において、一番最初に居た存在である。
わたしの性格は、つまるところ、この世界のことがどうでもいい、ということである。
この世界が栄えようが、滅びようが、わたしにとってはどうでもいい。
わたしはひとりを好む。関係のない他人のために奉仕したり、手助けをしたりということは、わたしの性に合わない。
わたしは、愚か者が嫌いである。
そもそも、「許される」とか、「受け入れられる」ということ自体、わたしはつまらないことであると思う。
誰かに受け入れてもらいたいと思っているだけで、人生の大部分の時間を生きるのは、わたしには耐えられない。
誰にも受け入れられようとするな。平等に受け入れてくれる優しい場所があるなどということは幻想である。
今の時代、漫画・アニメや映画などで、死の表現は溢れている。このような世界でいくら「死ぬことは悪いことです」と教えても、説得力を持つことはない。
悪は死ねばいい。同時に、悪を犯した人間は地獄を生きて悔い改めるべきである。
わたしは、物理法則的な、「未来のことはまだ決まっていない」ということを信じていない。未来のことはすべて決まっていて、宇宙における現象はすべて決まっている通りに起きる。人類がその原因と結果を把握できないだけに過ぎず、今のこの世界は神の視点から見れば、必然的に歴史が展開しているだけに過ぎない。
現代の自然科学は、「偶然」という考え方を導入したことが、もっとも間違っている。実際には「偶然などというものは存在しない」。すべては、原因と結果の因果性によって、未来まで、宇宙の最後の時が訪れるまで、すべて決まっている。
わたしは、悪を嫌う。悪は死ぬべきであり、愚か者は地獄に堕ちるべきである。
わたしは、悪の勢力は社会にとって許されるべきではなく、受け入れられるべきでもなく、排除されるべきだと信じている。
わたしはユダヤ人が好きだ。なぜなら、聖書が好きだからである。聖書のよさは、分かる人間にしか分からない。すべてのことは聖書に書かれている通りである。
わたしには、ユング心理学における「シャドウ」が5つある。それぞれ、優等生、不良、女、王、そして学者である。この5つのシャドウは、それぞれが個別の人格を持っており、わたしにはこれら5つの声が対話している。
わたしの名はシャルル・ブリリアント。この世界における、最後の救世主となる王である。
2021.05.15
シャルルの友達は、ルイス・ドッグスター。
ルイスは怒りっぽい性格で、自分の思うようにいかないとすぐに他人のせいにする。
しかしながら、他人のことを悪であると批判する代わり、正義論について妥協せず、「自らはこうあるべきだ」とする正義感が強い。
少しでも枠から外れたものは許せない。それでも、正しいこととはなんであるか、いつも妥協せずに考え続けているため、間違ったことを一切しない。間違えればすぐに修正し、改める。すべきことは必ず、そしてすぐさまする。意外と善良で義理堅い人間である。
2021.05.15
シャルルとルイスのもうひとりの仲間は、アンリ・イエローバード。
アンリは、臆病者で、何をするにも他人の助けを必要とする小さな子供のような人間だが、実際はものすごく強い「剣技の能力」を持っている。
竹刀を持つと最強になり、また逆境になった時、「みんなを助ける必要があった時」に、ものすごく強い。
表の側で、みんなの助けを必要とするのは、本当は裏の側で、誰の助けも借りる必要が無いぐらい「最強の自分自身が恐ろしい」からなのである。
2021.05.15
シャルルに、なんらかのいい点があるとしたら、それは「頭がいいこと」である。
シャルルは頭がいい。知識が豊富な物知りであるだけではなく、パズル的な知性に秀でており、どんなに解法が困難なテストの問題も、どんなに難しいテレビゲームも、全部攻略してきた。
しかしながら、シャルルは学校がつまらない。簡単すぎて、馬鹿に合わせる意味がないからである。
シャルルは、高校を卒業すると、大学に入ることなど簡単すぎてつまらないため、あえて大学に入らず、仕事もせず、自らの「自由に信じた夢」を叶えるために、パソコンと奮闘して、新しい分散ネットワークシステムのようなものを開発した。
このシステムでは、Windowsの上で仮想化ソフトウェアを走らせることで、ネットワークで繋がった、すべてのWindowsを、まるでひとつのWindowsであるかのように仮想化することができる。
いわば、Windows版のDockerとKubernetesのようなこのシステムを使うことで、家庭や職場のWindowsをひとつにできる。すべてのユーザー、すべてのファイル、すべてのアプリケーションに、すべてのWindowsからアクセスすることができる。設定と管理に必要なのは、Windowsネットワークと同じように、システムを共有するひとつの「ワークグループ」に参加することだけである。
シャルルはこのシステムを、ルイスやアンリとともに開発した。そして、このITベンチャー企業は、のちにWindowsの開発元であるMicrosoftに買収されることになる。Windowsは分散ネットワークOSとなり、この仮想化ソフトウェアはWindowsの標準機能となる。
また、シャルルたちは「グローバルなワークグループに参加したWindowsのリソースを限定的に世界中に公開する」機能を作り、これはインターネットともP2PともWebとも分散オブジェクトとも違う、「新しいネットワークシステム」となる。インターネットにサーバーを公開する必要はなく、「現在接続されているすべてのリソースに今、アクセスすることができる」。
このシステムはHTMLやWebブラウザと結びつき、標準でインターネットやWebと同じことができる。だが、同時に「単なるブラウザ上のページを移動するだけではなく、GUIのアプリケーションとして、リモートで接続されたアプリを直接起動する」こともできる。すなわち、世界中のコンピュータはひとつになり、セキュリティ的に安全でありながら(相手のコンピュータで実行されるため、セキュリティを気にする必要はない)、世界中すべてのコンピュータに存在するあらゆるプログラムをネイティブかつリモートで実行・操作できる。
また、ワークグループを接続するだけで自ら情報サイトや動画であろうが巨大ファイルであろうがすぐさま発信できるため、常時稼働するサーバーをレンタルする必要のない、現在接続されている人たちだけの何を共有するのも自由なネットワークとなる。
ブラウザで実行されるのが気に入らないのであれば、リモートで公開されている動画ファイルを自分のWindowsのメディアプレイヤーで再生することもできる。コピーすることも、(許されている限りにおいて)編集することも自由である。また、違法コピーが気に入らないのであれば、「対価を要求して相手にファイルを渡す」こともでき、この場合はサンドボックス環境でしか動画や音楽を再生することはできず、ファイルそのものをコピーするには制限がかかるため、P2Pのファイル共有とは違い、違法コピーの温床にはならない。
この技術は、Windowsから生まれた技術ではあるが、シャルルたちはこの技術をMicrosoftだけに閉じられた技術にはしない。Windowsカーネルと密接に結びついたコアの中核部分を除いて、基本的な技術はオープンソースにし、また標準化を行うため、Linuxで同じ技術を開発することもできる。AndroidやiOS向けにもアプリを開発し、理論上はどんなデバイスであってもそのマシンからワークグループ上のマシンにアクセスできる。スマホのような単純なデバイスだけではなく、さまざまなデバイス(腕時計型からタブレット、ホワイトボードやプロジェクター、テレビやカメラ、AIスピーカー、自動車から公共施設のシンクライアント、火星探査機から宇宙ロケット、役所の戸籍情報から博物館・テレビ・音楽・映画・アニメスタジオの制作映画の資料データベース、そしてさまざまな小型組み込み機器まで)に対応した標準技術となる。
また、この技術は開発当初からAIとの連携を視野に入れている。そのため、たとえば「最悪の発言をそもそもできないようにフィルタリングをしたり、悪質なユーザーをブラックリスト化したりする」とか、「もっとも自分に必要とされるファイルをパーソナライズ化して世界中から探し出してアクセスする」とか、「その録音に記録されていた声(あるいは単に声をマイクで拾うだけでもいい)の持ち主を世界中全員から探し当てる」などといったこともできる。全世界はひとつの頭脳になるため、Google先生を超えて「AI先生に教えてもらう」ということが可能となる。たとえば、「宿題を終える方法を教えてほしい」とAI先生に質問すれば、即座に宿題に必要な全リソースと方法を世界中から探し出して得ることができる。
また、これだけを見ると、Windowsネットワークの進歩版であるかのように見えるかもしれないが、実際は「ファイルの世界」と「ページの世界」を分割して情報発信することになる。すなわち、Webブラウザからリンクを辿ってページ情報を得る「新しいWeb」と、エクスプローラからフォルダを辿ってファイル情報を得る「新しいファイル共有」の二段形式となる。この二段形式はWindowsがもっとも得意とするヒューマンインターフェースであり、Microsoftではこの新しいネットワークの技術を完全にWindowsと統合する。
エクスプローラには、「グローバルネットワークボリューム」が表示されるようになり、Webブラウザからは「日本」「アニメ」「現在放映されている映画」のようにページを閲覧できる。そして、リモート公開されているすべてのファイルおよびページにアクセスでき、Windowsの検索テキストボックスからAI検索エンジンを用いて世界中の情報をGoogle検索と同じように検索して閲覧できる。
またブログや掲示板のようなものは、Microsoftが公式に用意する「Microsoftソーシャル」で、誰でも好きなだけ自分のブログや掲示板を開設できる。アプリケーションについてもエクスプローラでファイルを開くのと同様に、グローバルネットワークボリュームに存在する世界中のあらゆるアプリケーションをダブルクリックで安全に実行できる。
リモートマシンのアプリケーションが自分のローカルマシンにあるファイルにアクセスすることは原則できない。しかしながら、リモートのファイルを自分のマシンにダウンロードした上で、そのダウンロードしたファイルを自分のローカルマシンにあるアプリケーションで開いたり、逆にリモートマシンにアップロードしてそのマシンに存在するアプリケーションからファイルにアクセスすることはできる。このような複雑な作業は、すべて透過的に自動でやってくれるため、ユーザーが感じる場面において、リモートマシンとローカルマシンの間で適切なファイル同期が行われる。個人情報が記載されているファイル、たとえば暗号化されたパスワードなどが記述されているファイルには、アクセスする前に必ずブロックされる。ブロックを解除するためには許可設定が必要である。よって、セキュリティ的には問題はない。
また、ファイルを削除することはできない。これができてしまうと、すべてのファイルを誰かが抹消することができてしまう。ファイルを編集して保存する時は、必ず自分のマシンに複製ファイルが作られ、そのファイルを書き換える形をとる。このようにすることで、誰かが大事なファイルを書き換えることがなく、元のファイルを読み取り専用で残したままで公開状態を維持し、自分だけは好きなように編集して新しいファイルを作ることができる。このようにすることで、HTMLやPDFだけではなく、MS-Office形式のファイルであっても、動画や音声のファイルであっても、自由に公開と共有と編集が可能となる。すぐさまそのファイルを開いて、ローカルの保存先に簡単に編集内容を保存できる。
YouTubeのような動画投稿サイトを作るのは、とても簡単である。誰でも動画ファイルを保管できるような「データの共有フォルダ」を作って、その中にindex.phpを作り、ユーザーインターフェース(動画の一覧表示や検索ボックスなど)をPHPで簡単に書き、そのindex.phpから全動画ファイルを再生プレイヤーで実行可能にするだけである。もし標準のMS-Tubeのインターフェースが気に入らなければ、自分でEX-Yubeを作ることは容易にできる。動画から音声データをコピーすれば、簡単にMP3プレイヤーで再生することもできる。
広告はWindows上にある「広告パネル」に直接表示される。この広告パネルでは、すべてのWindowsマシンに広告主からの広告を掲載する。「Windowsに広告を掲載したい」と思ったら、Microsoftに広告料を支払う。この広告パネルを削除することはできないが、「Microsoft Premium」を購入した人は広告パネルを消すことができる。広告パネルへの広告の掲載料と、Microsoft Premiumの契約によってMicrosoftが得た収益は、たとえば音楽ファイルを公開する音楽制作会社やそれぞれのコンテンツ会社や、あるいはその動画を制作した歌手やMS-Tuberに、総再生回数(Microsoftがファイルに記録されたメタデータと分散かつ中央集権的なWindows組み込みの特別なプログラムによって計算する)に基づいて支払われる。
そして、このシステムは「インターネットの次の技術」と呼ばれるようになるのである。
いろいろと書いてきたが、この技術によって真によくなることとは何か。それは「最悪のインターネットとSNSがMicrosoftによって消滅する」ということである。インターネットはMicrosoftが正しく管理するものとなる。今までの、好き勝手になんでもかんでも言い散らかせるような、自由な無法地帯は存在しなくなる。また、基本的に他社の技術も開発はできるが、標準的な技術がすべて使えるのはMicrosoft製の技術だけとなる。そうすることで、「すべてはMicrosoftの支配下」となる。利益を上げるのも、管理を行うのもすべてMicrosoftである。そして、結果的に、「Microsoftは新しいITの時代の覇者となる」。そして、最終的には、Microsoftは新しい「政治体制」となる。すなわち「Microsoft国家」が誕生し、Microsoftの組織のトップや役員などはすべて、世界人類による「グローバルな全世界の国民投票によって民主主義的に決められる」ようになる。ここに、IT技術は「完全なる民主化」を果たすのである。
2021.05.15