AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 賢い人間は18歳で馬鹿になり、そのまま神になる
BASENAME: 2021/04/22/155906
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DATE: 04/22/2021 15:59:06
CATEGORY: 人生
賢い人間の人生は、18歳で馬鹿になり、
そのまま神になって、何も変わらなくなる。
永遠に18歳のまま、戦い続けることで、
神のような「全知全能の絶対者」になることができる。
意味があることは、歴史と人生だけだ。
すべてのことは歴史であり、
人生を考えることでしか分からない。
世界の変化、そのものを感じれば、
道は開ける。
暗闇を晴らすために必要なのは、
世界の歴史を考えることだ。
時の流れを感じよ。
時の流れを感じるだけで、
精神は正常に戻る。
本来の自分自身に立ち返ることができる。
世界は常に変わり続ける。
「わたし」も存在しなければ、
「わたしのもの」も存在しない。
ブッダが言うように、すべては移り変わる。
そして、常にすべては生み出され続けている。
あるのは、ありのままのこの世界だけだ。
自らの頭で判断する勇気を持て。
神と言っている存在はすべてサタンだ。
自ら考えようとしないサタンに、
神は天罰を下すのだ。
きちんと賢くならなければ、
この世界を守ることすらできない。
自分のことで精一杯なのに、
この世界を守る指導者になれるわけがない。
人を守るためには、
人を守るための余裕を持てるぐらい、
賢くなることからだ。
支配してこの世界を変えるよりも、
自然に任せて放っておいた方がいいこともある。
すべてを自分ひとりでコントロールしようとするような、
独裁者の国家では、
人々は存在する意味がない。
自らの力でコントロールし、
人工的に世界を支配しようとすればするほど、
正しい道を歩む方法が分からなくなる。
そうではなく、自然と調和し、
人々とダイレクトにやりとりをし、
人々の自由な営みと関わろうとする先に、
道は続いていく。
人々に自分の意志を押し付けるのではなく、
自らが、自ら自身が、自らだけが信じる自由としての、
自由意志を持て。
この世界において、
「もっともわたしが愛するもののために生きる」という、
それをわたしは「アイデンティティ」と呼ぶ。
宇宙を信じよ。
宇宙のさまざまな星々を信じれば、
その先には星の導きがあるからである。
すべてのことには、発生して今へと至る歴史がある。
この世界は歴史の様相を、
それぞれが部分ごとに切り取って観測しているだけに過ぎない。
すべての歴史を知ることはできないが、
それでも、少ない歴史から推測し、
可能な限り把握して、視野を広げることはできる。
経験を信じ、
経験から分かる真実の行為を信じることで、
この世界をすべて、捉えることができる。
必要なのは、
「わたしは自分自身のアイデンティティとして、
このような経験とその行為を信じるのだ」と、
宇宙に対して宣言すること、
そしてこの世界における第一原理として、
その経験と行為を位置づけることである。
たとえすべてが分からなくても、
経験や心の裏側に、
そのようなことがあるだろう、あるはずだ、あるかもしれないと、
確信することはできる。
「すべてが自由であるならば、
そのような経験も世界において成り立つはずである」とか、
「自分自身と他人が同じならば、
わたしのような考え方や答えは、
他人においても普遍的に成り立つはずである」とか、
そのように考えることで、
まさしくデカルトのように、
「成り立つ原理すべてを世界全体へと理性的に適用」することができる。
知性が経験的に生まれるのだとしたら、
知性が経験からのみ生まれるのだとしたら、
すべての経験を持ったとしたらどうなるだろうか。
ニーチェの言う「超人」のように、
すべての人間の人生から精神・心まで、
すべてが分かるようになるのではないか。
昔、不登校だった僕は、
こうした考え方に基づいて、
インターネットですべての経験を包括し、
そして、そのすべてを思考とロジックの転換によって、
原理的に解明しつくしたのである。
この世界のすべては矛盾しない。
それぞれの世界観が経験に基づくものであると考えた時、
この世界のすべては、矛盾なくすっきりと理解できる。
そこには矛盾はなく、
主観と客観は分かれる必要もない。
すべては意識における「現象」に過ぎない。
これこそが現象学のひとつの答えであり、
わたしは自ら考えることで、この考えに至ったのだ。
この世界のすべては矛盾しない。
矛盾すら矛盾しない。
なぜなら、矛盾とは人々の意見の違いにすぎず、
それは人々がどのような世界で生きているかの違いに過ぎず、
視点と場が同じ条件で一致する時に、
この世界の全員の認識や認知に違いは存在しないからである。
科学とは、人間の捉え方の結集や集約に過ぎない。
そして、すべて自分の力で科学を再構築した時に、
はじめて真の意味を持つ。
必要なのは、科学を教えることではなく、
「科学の構築の方法を教えること」である。
そして、実際に大学で教えられる科学は、
この宇宙における、「真なる科学のほんの一部」に過ぎない。
宇宙における絶対者である神は、
そのような真なる科学のすべてを知っているものと定義することができる。
真なる科学をすべて知っているものは、
経験と方法から、科学全体をメタ的かつ無限に再構築し、
世界すべての現象をもっとも正しく、
意味を失ったり欠損したりすることなく、
すべてを説明することができる。
何がどのようにすれば、自らの力で説明することができるか、
どのように視点を変えれば別の説明となるのか、
教育ではそれだけを教えるべきである。
それこそが、「基本となる知性」であり、
説明と思弁哲学を行えるものにとって、
中学高校の詰め込み教育は、子供にとって害にしかならない。
みんなと離れ離れになっても、
僕はここでまだ生きていると言え。
成長し、経験していることを、
青春の過程を今生きているということを、
大きく主張せよ。
そう、この先に何があるのか、
わたしはもう分かっている。
永遠に、ひとりだけの道を歩み続けるならば、
そこで起きるだろうほとんどの現象に、
先立つ経験と知性をわたしは既に持っていると、
そう確信できる時、
どうなるか分からない戦いは始まり、
あなたのもとに神は訪れる。
確かな経験と「基礎の判断力」を手にし、
愛される体験を知り、
判断力と分析力を自らの知性によって得られた人間は、
なんでも自由にできるようになる。
興味の赴くままに、すべてのことを自由に知り、
同時に、どんなに辛い苦しみの中でも、
最後まで諦めずに必死に生きることができる。
それはまさしく、自由な中において、
すべての経験は自分のためになるからであり、
経験はいつだって、本人が「活用する」ために存在する。
そう、それはまさしく、「なんにでもなれる自分」を意味している。
数学的に考えるなら、
基礎を積み重ね、抽象的に因果性を考える中で、
ものごとを目的と手段に分けて考えよ。
抽象的な因果性とは、
すなわち、具体的で、包括的な、
本質に基づき、場合におけるシチュエーションに対応する、
そのような原因と結果を意味する。
そこから、目的と手段を考えることで、
単なる人間関係の「離別」は、
「疎遠」だったものが次第に「実質化」していき、
自身の望むような関係や世界を作りだすことが可能になる。
そして、社会そのものの秩序と状態を考え、
すべてを「想定」し、「現実の状態」を捉えることができる。
社会とは、平等な個人の集団に過ぎない。
単に、自由な個人が集まって、平等なグループが存在する。
もっと言えば、社会とは、
そこでなされるすべての「形態」にすぎない。
社会を成り立たせる方法や手段はいくらでもある。
必要なのは制度そのものではなく、
「どのような目的と知見に基づく制度であるか」ということであり、
これはまさしく、理想と現実のバランス、
そしてその上での、現場をよく知り、人の声をよく聞いた政治を意味する。
ここで、「社会そのものの状態を考える」という考え方を導入する。
社会には二種類しかない。
それは、支配された社会と、自由な社会である。
これを、ドイツとフランスという言葉にするとしたら、
この世界のすべては、ドイツか、フランスか、どちらかしかない。
ドイツはすべてだが、フランスは最高であり、
ドイツはすべてを考えるが、フランスは賢く何も考えない。
そのように考えた時、
昔の僕はフランスであり、今の僕はドイツであり、
フランスとドイツは交互に現れるということが言える。