AUTHOR: schwarz1009
TITLE: それぞれ理想を信じるか、さもなくばひとりを信じるしかない
BASENAME: 2021/04/11/161626
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DATE: 04/11/2021 16:16:26
CATEGORY: 理想
CATEGORY: 知性
結局、それぞれ自分の理想を信じるか、
さもなくばひとりを信じるしかない。
あるいは、ひとつの同じ理想を信じるしかない。
自由なんか意味がない。
自由と言う若者は、
支配からの自由か、
あるいは経験から学ぶ自由を信じているが、
ひとりひとりが自分と同じ理想を信じるなど、
幻想に過ぎない。
実際は、学校で習う理想を信じると、
狂った自暴自棄の人間になる。
地位的な平等と、
個性を尊重する平等があれば、
自由は不要である。
みんな一緒の自由は遊んでいるだけにすぎない。
子供を自由にするな。
子供は、賢い人間になるために、
勉強と経験と思考をさせるべきである。
子供にインターネットをさせるから、
日本人は全員愚か者になりつつある。
インターネットは、日本人を白痴にしている元凶だ。
平等や商売には意味がない。
みんなそろって平等とか、
商売繁盛とか、
無意味極まりない。
社会主義は実現できないし、
金や成功で得られるものに意味などない。
しかしながら、「みんな同じ人間である」という理想、
それだけが意味がある。
特別な人間などひとりも存在せず、
みんなが同じで、
自らに当てはまることはみんなにも当てはまる。
これ以外、人間の「正しい考え方」は存在しない。
精神は、タンパク質をアミノ酸に分解して再構築すれば治る。
恐怖は、昔やっていたことをもう一度やれば消える。
また、女になればなんでも治る。
真実めいた嘘を信じるな。
根拠のない固定観念や自分だけの経験は、
すべて信じるに値しない。
真に真実でないすべてを疑え。
自らが本当に正しいと思ったこと以外、
嘘をひとつも真実であるかのように信じなければ分かる。
根拠のない「真実らしきもの」や「常識らしきもの」は、
すべて間違っている。
そうしたものを信じられるのは、
経験から「より深いレベルで正しい命題」を知った時だけだ。
下流よりも上流だ。
下流工程を行うより、上流工程を行え。
最初に決めたことに基づいてさまざまなことが決められるなら、
最初を決められる人間にしか価値はない。
賢くなるとは何か。
賢くなるとは、
決定せず、留保することである。
決定を保留にすれば、
それを行うことも、行わないことも自由であり、
選択することも、選択しないことも自由である。
それをそのようなビジョンで行うことも、
別のビジョンが現れてからその時点で行うことも自由だ。
これこそ、「自由」である。
そして、これこそが子供の知恵である。
世界を知り、その上で自分なりに行動し、
さまざまな経験をして、
すべてのことを「自分のみの経験から悟る」ことはできる。
しかしながら、警戒せよ。
その道は、地獄に続いているかもしれない。
すべてのことが自分にしか分からなくなった時、
なぜ、分からなくなったのかが分からなくなる。
それはあなたが「人の道を外れたから」である。
しかしながら、選択肢を増やし続けても、何もできない。
実際に何かをしたいなら、
決断が必要となる。
しかしながら、「もっとも正しい決断」とはなんだろうか。
それが分かるためには、
まず決断し、その決断を維持する必要がある。
なぜなら、迷路の奥に出口があるか、それともないかは、
迷宮の中に入ってみなければ分からない。
自分が、何かの行動をし、
その行動が相手に対して行われた場合、
その結果何が起きるのか、
それが何を意味しているのかを考えよ。
その場に友人がいないなら、
思い出して考えよ。
そこができる人間は知性がある。
そして、そうした時にどのようにすれば世界を変えられるのか、
どのようにすれば戦うことなく友人になれたのか、
過去の経験から反省して考えればよい。
人々を幸せにするためにどうすればいいかも分かるようになる。
また、環境を想定し、
集団における社会を仮定して考えることで、
そのまま、「自らの経験からこの世界を変えられる」ようになる。
それは「世界と繋がっている実感」であり、
それこそが、「環境、すなわち自らを規定するもの」と変貌していく。
経験していく中で、
「自らを規定するものは何か」という考え方が生まれる。
自らがなぜ自らなのか、
自分自身を自分自身であると決めたものはなんであろうか。
そもそも、自分は何から生まれ、
何を目的に生き、何をしようとしているのか。
自分が何によって決められているのかを考えると、
「環境こそが自分を決めている」と言うこともできるのだ。
なぜなら、それは、
「自分が自分であることに先立って決められていること」だからだ。
そして、その先だって決められていること、
すなわち、自分がそれによって決められていることを、
自分で決めることができるという自由がある。
この世界における、さまざまな前提条件を、
自分で決められるようになること。
あるいは、人々が自分と同じように、
最大限の可能性で自由に決められること。
これこそが、「可能性」であり、「ボトムアップ」である。
この世界はわたしたちにおいて「自由に任されている」。
わたしたちがこの世界をどのような世界にすることも、
本来わたしたちの自由であるということが、
まさに「自らが知った世界の可能性から気付くことができる」のである。
社会が自由である、自由になれるということが、
何を意味しているかを考えよ。
それが「自由であった場合」と「自由でなかった場合」を比べて、
どちらがどのように意味を持っているか、
何を意味しているのかを考えれば、
なんであろうとすべて分かるようになる。
なぜなら、「できる」と「できない」を「社会的」に考えれば、
すべての社会の可能性を自らの頭の中で「再構築」できるからである。
その時、「自分の心はこの世界すべてである」と言えるようになる。
敵対する相手を許すことが、
自らの心を自由にする。
いつまでも「憎い」「嫌い」「恨んでいる」と考えるのではなく、
一度きちんと否定して、
その時点でその人間から離別し、
そして「過去の自分も悪かった」と反省して許すことで、
執着心が消えて、「自分の心が自由になれる」のである。
世界をどうにでも変えられるということが、
この世界の「歴史の実感」に繋がる。
すべての歴史が「かつてそこにあった」ということが、
あらゆるすべての「歴史的様相」から見えてくる。
すなわち、「歴史はすべて事実だったのだ」ということに、
人生そのものからありのままに気付くことができる。
社会における「できる」ことを、
促進する媒介としての「チャンス」がある。
たとえば、議論、報道、社会的改革、啓蒙、ボトムアップ、
すべてのことが、「自由に世界を変えるチャンス」となる。
それを社会の「制度」にすることで、
この世界すべてが「自由になっていく」、
これこそが「歴史の目的」であると言える。
「自由そのもの」というものがもしあるとすれば、
それは「自然に任されている」ということだ。
この世界で、可能性それ自体が常に存在し続けることが、
自由に世界を変革していく「モチベーション」となる。
これこそが、「自由そのもの」、
すなわち自然に任されているということである。
プログラミングをするなら、
Lispで関数型プログラミングをせよ。
ひとつの引数を与えた関数が、
さらに別の引数を与えた同じ関数を再帰的に実行するように、
そのように考えることで、
この世界のすべては「論理的にすっきりと考えられる」ようになる。
そこには、この世界における、
「人間の知り得ることすべて」がある。