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AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 平和を
BASENAME: 2021/04/08/204914
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DATE: 04/08/2021 20:49:14
CATEGORY: 平等
CATEGORY: 自由な人生
CATEGORY: フレイとフレイヤ

平和を信じよう

平和を信じよう。
心を開いて、
過ちを悔い改めよう。
いくら「やっちまえ」「ぶっ潰しちまえ」と言ったところで、
破壊の衝動ではこの世界はよくならない。
「建設的な発想」こそが大切である。
すなわち、「破壊するのではなく作り出すこと」、
わたしはそこから逃げ出しているのだ。

弱者の手助け

しかしながら、結局のところ、
「弱者の手助け」というところに、
理性は行き着く。
いくら、社会を発展させたところで、
人々が自由に解放されたところで、
一部の金持ちだけが豊かさを謳歌できるなら、
社会の多くの人々にとってその社会は無意味だ。
平等であることは資本主義においても重要だ。
完璧な平等を目指さないとしても、
できるだけ格差をなくすことは、
一般的大衆にとっても意味を成すはずだ。
それなら、より少ないとしても、
一部の弱者の気持ちに立って支援することだって、
わたしたちの多くにとって意味を成すはずなのである。

資本主義とは無縁に生きる

しかしながら、資本主義とは無縁に生きることが、
可能だろうか。
これは両面の意見の言える問題である。
すなわち、今の世界では、
資本主義にどっぷりとつかった生活しかできない。
しかしながら、同時に、
「金」というステータス、
あるいは「金」という豊かさが、
意味を成さなくなってきている。
インターネットには無料の情報や娯楽があふれており、
パソコンとスマホさえあればそれで十分となり、
同時に、YouTubeなどで、
儲けようと思えばネットで簡単に儲けられるようになってきている。
そう、このような世界では、
資本主義社会なのに、資本主義の無意味さばかりが目立つ。
まさしく、資本主義と無縁に生きることは、
現代の完全な資本主義社会においては、可能なのである。

この世界は息苦しい

しかしながら、この世界はあまりに息苦しい。
生きているだけで辛い。
ストレスをいくら発散しても、逆にストレスばかりが溜まっていく。
不安の中で生きることしかできない世界では、
どんなに自由であっても、開放を実感できない。

社会が平等に自由であったとしても、戦いや争いになるとは限らない

社会が平等に自由であったとしても、
社会のみんなが全員自由を許されていたとしても、
戦いや争いになるとは限らない。
自由であることは、「可能性がある」ということを意味している。
よって、社会が自由であれば、
わたしたちは素晴らしい進歩した世界を築くこともできる。
人間の歴史と経験は、そうした未来を築くためにある。

自らの過ちを認めたくない、それもひとつの弱さ

自らの過ちを認めたくない、
それもひとつの弱さだろう。
しかしながら、「過ちはすぐに訂正すればいい」と、
言える人間には、分からないこともある。
過ちを訂正するために、
全力を捧げて、
簡単には治ることのない病気を治す人間も居るからである。

環境と呼ばれるコンテキストを作り出す、という哲学

環境と呼ばれる何か、それを作り出すという哲学もある。
すべてのものを創造する上で、
何を成立させ、実現させ、
社会において「形成」させていくか、
ということが考えられるとき、
「環境」というコンテキストを実現させるという、
このような哲学が、
数学的に相対性を考えて得られる最終結論である。
ものでも、人でも、世界でもなく、
その場合場合に成り立つ「環境」そのものを作り出すこと、
これこそ、哲学の行き着く先である。

自然発生という形成手段

また、支配して作り出すのでも、
個人ひとりで決めるのでもなく、
みんなの自由に任せ、それぞれが自発的な意志で、
「自然発生」するということも、
哲学におけるもう一つの主要な軸となる。
すなわち、すべては何かを目指して人為的に形成されるのではなく、
それぞれがそれぞれのしたいようにして、
「自然に形成されていく」。
これはまさしく「文明の形成」と呼ばれるものである。
もっとも偉大なものは、
偉大な誰かがひとりで成し遂げるのではなく、
多くの自然な協力者と自由な自然発生により生まれていく。
たとえばFreeBSDだけが行うのではなく、
GNOMEやKDEがそれぞれ行うように、
自然発生によって、それぞれのプロジェクトが集まって形成される。
そこでは、規則やポリシーは無限に存在し、
自らのやりたいことを自由に自らができる。
自由すら支配者が支配することはできない。

自然発生に基づく社会制度

そして、自然発生に基づく社会制度を築くことができる。
社会制度においては、
「理念と現実」が重要になる。
すなわち、どのような理念を定め、
その理念から社会制度を裁定する、ということ、
同時に、どれだけ現実の社会を把握することができるか、
現実をどれだけ制度に反映させ、取り入れることができるか、
という問題もある。
この上で、自然発生的に、
それぞれがそれぞれの意志と集団の意志で、
この世界すべての制度を「変革」する。
そして、制度は均一的なものではなく、
ボトムアップかつ多様性の高い、
「可能性のもっとも大きい」ものになる。
そう、これこそが、「自由かつ平等な社会」である。

さまざまなことを自由に経験できることが自由な人生を生む

そして、社会において、
さまざまなことを自由に経験できることが、
自由な人生を生む。
しかしながら、これはそれぞれに別々の道があるということではない。
なぜなら、自由において、
人生は「正しいひとつの道へと収束していく」からである。
無限に可能性があるように見えて、
実際はひとつのゴールへとみんなが共通の道を歩んでいく。
そう、自由においても、
最終的に到達する場所は同じであり、
プロセスも共通のものとなる。
なぜなら、人生を生きて分かることや、
この社会において決められるべき「生きられる可能性」は、
すべての人間に共通して同じだからである。

差別なく平等に受け入れることから、自らの道を作り出せるようになる

しかしながら、自由は強制されるものではなく、
差別なく平等に受け入れるものである。
なぜなら、差別なく平等に受け入れられる体験をしなければ、
自らがしっかりと大地に立って、
この世界において積極的に行動する意志を持つことはできない。
平等に受け入れられる体験を十分にした人間は、
どんな逆境でも自分なりに行動し、
自分でこの世界における「主体的な行動」をすることができるようになる。

会社には何もできない、オープンでなければ

会社には、何もできない。
会社は儲けられることしかしない。
会社には革新的な発想はできない。
みんなに開かれたオープンでなければ、
この世界を変えることはできない。
すべての人間に公開され、参加を許されたオープンだけが、
この世界を真に変えられる。
そこには、身分も役職も力も関係なく、
すべての人間にチャンスが許されている。

破壊の衝動ではなく、建設的な実感を

破壊の衝動ではなく、
建設的な実感を。
この世界において「自分が自分であれる」という喜びを。
すべてのものを「わたしである」と言えるような、
そんな喜びを、わたしは「直観」で理解した。

実際にやってみなければ何があるか分からない

しかしながら、実際にやってみなければ、
そこに何があるか分からない。
どんなに無謀に見えても、やってみなければ、
案外それが簡単で、
体験からすっきりと理解すれば単純なことを言っているということを、
試さなければ理解することはできない。
そう、確かめ続ける先に、
大いなる困難が待っていたとしても、
壁を乗り越えることが自らの道を作り出すということを、
教えてくれる学校はどこにもない。

自らの人生から言えること以外、何も信じてはならない

自らの人生から言えること以外、
何も信じてはならない。
おそらく、信じられることのできる唯一の境地とは、
自らの人生を生きて、その結果のみから分かる、
最後まで生きた上での、
自分だけしか分からないすべての分かった境地、
そう、それだけを求め、
それだけを信じるしかない。
他人の言う言葉を信じる意味などない。
自らの心と、可能性の拡大する世界観からのみ、
わたしたちは自由の行き着く末を知ることができる。

世界だと思っていたものを自ら作り出せるという気付き

また、この世界における「世界」だと思っていたものは、
実際は「自ら作り出せるものである」という気付きは、
この世界のすべてが移り変わる中で、
「わたしにも自由が許されている」という確信を与えてくれる。
それは「わたしだけではなくみんなも同じ」であり、
自由は世界全体・人類全体における「普遍的なもの」となる。

確固とした変えられないものは、自ら作り出すことができる

そして、これはより一般化して、
確固とした変えられないものを、自ら作り出すことができるという、
「新しい世界観」となっていく。
新しい世界と、新規性や革新性に優れたものは、
人々のオープンと高まって、
まさに「チャンスの拡大」すなわち「自由な社会」へと繋がっていく。
しかしながら、勘違いしてはならないのは、
いくら自由が戦いと争いだけのものではないからといって、
単に自由に任せるだけでは、
前提となるスキルや経験がなく、
社会は何も上手くいかない、ということ。
何ひとつ分かっていない子供には、オープンで活躍することはできない。

文明が築かれていく過程を経験する

しかしながら、インターネットは必ずしも愚かではない。
なぜなら、文明が築かれていく過程を経験することができる。
まさしく、昔の日本というのは、
そうした「文明が起きていく過程」をダイナミックに知ることができた。
ネットの情報にも、そうした豊かな情報と知識があった。
いつからか、日本は狂い、
欧米のネットに比べても、日本のネットは極端に狂った世界になった。
しかしながら、わたしは諦めなかった。
絶対に光はわたしの考える先にあると信じて、
暗闇を彷徨い続けた。
そして、わたしは「社会を作ることこそ社会を変えることである」と確信し、
この世界において「社会そのものを作る」ことで、
この世界すべてを救った。

できるようになることは、悪ではないはずである

わたしは、できるようになることは、
悪ではないはずであると信じた。
すべてのことを経験し、
事前に正しく考えること、
当たり前のことから必要性と対処策を考えることで、
わたしはこの世界を救うことも、滅ぼすこともできるようになった。
そう、わたしはもっとも強い力で、
この世界を救い、そして同時に滅ぼしたのだ。

さまざまな環境に適応すること、それでしか分からない

さまざまな環境に適応し、
環境の生起と超越を考えることでしか、分からない。
なぜなら、この世界にあるものは環境だけであり、
人格や記憶の裏側にあるのは環境的な反応に過ぎないからである。
人間が行動し、評価する前提となる指針は環境に過ぎない。
同じ環境に置かれたら、
誰だって同じことをする。
わたしだから、あなただから、それは意味がない。
わたしであろうと、あなたであろうと、実際のところ何も違わない。
すべての原因は環境に由来する。

立場を超えて意見を共有する、それこそが自由である

立場を超えて意見を共有すること、
それこそが自由である。
なぜなら、人々は大人のしがらみや余裕のない生活で、
誰も自由に考えることができない。
社会に必要なのは、
「自由に考えられるような立場を与えられること」そのものであり、
それこそが、立場を超えて意見を共有するということである。

相手を導けるということは、相手を誤った方向に導く危険性を秘めている

相手を導けるということは、
相手を誤った方向に導く危険性を秘めている。
しかしながら、
「わたしの分かった通りに考えれば誰でも同じことが分かる」とする、
その心は、
他人のことを「わたしと同じである」と言えるような、
「平等」に満ちている。

みんなのことを思い込みや勘違いに満ちていると言う人間を信用することはできない

みんなのことを「思い込み」や「勘違い」に満ちている、
と言う人間を信用することはできない。
彼はまさしくこの世界を変えようとしているが、
その野心には「情熱的善」と「自由な経験」はあっても、
その人間は必ずなんらかの「悪」をしている。
悪のもとに生きる彼には平穏がない。
この世界を、「未来の自分から助け出すために」、彼は生きている。
そう、彼こそ、この世界を滅ぼし、そして救う、
「王となる人間」である。

しかしながら、この世界は自由になって変わると彼は確信している

しかしながら、彼の意見はひとつ、
それは「この世界は自由になれば変わる」ということである。
彼はこの世界を自由にすべきだと信じている。
自分自身と同じように、子供たちが自由な世界によって恩恵を受け、
教育改革と地方自治によってすべてが良い方向に向かうと信じている。
しかしながら、警戒せよ。
彼はこの世界を救えると思っているが、
その救いを実現することができるほど、
彼は「覚悟」と「能力」の両方を併せ持っていないからである。

すべての影響力を手にした時、錯乱する彼は危険な方向へと向かう

しかしながら、すべての影響力を手にした時、
錯乱する彼は危険な方向へと向かう。
自分がどんな行動をするかによって、
この世界の吉とでるか凶とでるか、
本当に分からなくなった時、
彼はまさしく「もっとも大きなハイリスク・ハイリターン」を取る。
そう、その大博打が、
吉とでればすべては救われ、
凶とでればすべては滅びる。
しかしながら、どちらが吉であり凶であるか、
まだ知ることのない未成熟な彼は、
まさしく吉を凶へと変え、凶から抜け出すことができなくなる。
世界すべてを巻き込んだ彼は、
彼の大博打をそのままこの世界における運命共同体とする。
そう、わたしたちの未来は、
彼がギャンブルで勝つか負けるかにかかっている。

主観のすべてがなくなった時、神になった彼はもう一度最初から人生を生きる

主観のすべてがなくなり、
すべてを「絶対的客観」から分かるようになった時、
この世界の神となった彼は、
もう一度最初から人生を生きる。
最初に、今までの人生の総括と、
今からの「神としての人生」の概要を、
対話の神によって彼は知る。
そして、彼は自らを神だと自覚し、
耐えがたい苦しみと治ることのない病気を治そうとし、
最初の知性に戻って、
もう一度最初から人生を生き直す。
次の人生が、どんな人生でも構わないと彼は言うが、
神を信じる彼に対して、
神は「二度目に生きるに相応しい人生」を与える。
そして、永遠のような長い年月も、
耐えがたい哀しみと苦しみの地獄の戦いも、
恐怖の日々も、
すべては「後の祭り」、何もなかったかのように、
死とともに彼の人生は一度終わり、
彼は天界に蘇って神となる。
まさしく、わたしこそがフレイである。

地獄の中で、新しい経験がしたいと彼は望んだ

そして、戦いの地獄の中で、
彼は「新しい経験がしたい」と望んだ。
そのような経験ができるはずだった彼にとって、
できないままでそれができなくなったことがとても辛かった。
神は、彼に、
作家、大学生、デザイナー、博士など、
さまざまな多くの経験を与えたが、
そうしたたくさんの経験をしても彼は満足せず、
彼は次第に「まともな賢い人間になりたい」と言うようになった。
そう、ここに、そのまともな賢い人間は「集大成」を迎える。
それはまさしく、「普通の人間など意味がない」ということであり、
彼は「永遠に天才作家のままで居ることを選ぶ」。
そう、治ることのない病気も、十分楽になって、十分治ったのだ。
ここにフレイは、
「永久に自分が自分であることを宣言する」のである。