AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 正しいリベラル
BASENAME: 2021/03/16/183618
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DATE: 03/16/2021 18:36:18
CATEGORY: リベラル
実体験から考えよ。
それぞれの人間に世界観はある。
誰とも違う経験をすることで、
誰よりも正しい道が現れる。
支配者は必要である。
何かを為す時にもっとも賢いのは、
ひとりで考え、ひとりで為すことである。
しかしながら、協力者が必要である。
必要なのは平等ではなく、
誰もが金があれば支配者になれる自由である。
必要なのは、議論である。
議論に参加できることで、人々は自由を得られる。
必要なのは、個人主義と共同体のバランスである。
個人の自由が得られるのであれば、
極力個人の自由に生きられるべきである。
なぜなら、そのような人生を生きることを、
自分の自由意志以外の何にも干渉されるべきではないからである。
しかしながら、個人の自由にできないところでは、
共同体が存在するべきである。
共同体は、極力小さなものであると同時に、
バランスをとって平等にするべきである。
なぜなら、国民を差別すべきでないからである。
みな、同じ権利を持った自由な存在であり、
誰かが他の誰かを支配したり、
他人の自由を奪ったりできないべきである。
よって、他人の自由を奪わない範囲で、
限界まで自由にし、
共同体は最低限の平等な、
全員に可能な限り自由を与える程度の小さなものであるべきである。
これこそ、「正しいリベラル」である。
自らの経験を、もっとも大きな評価基準とすべきである。
評価の基準を、人種や差別主義に求めてはいけない。
わたしたちには自由が許されているのだから、
どんなことも「自らの経験に従って自己責任」であると考えなければならない。
なぜなら、「そうでなければ賢い人間を正しく評価できない」からである。
奇跡など存在しない。
勝者は必然的に勝利しているだけに過ぎない。
支配者に負けるのは当然であり、
それぞれの自由を認めた結果、
ひとりの指導者が支配するか、
それとも、それぞれの会社や共同体で働くかは、
自由に任されている。
自由において負けるのであれば、敗者が悪い。
社会の経済がもし嫌いであったとしたら、
社会の経済とは別の手段で生きることも可能であるべきであり、
そのためには自由主義社会であるべきである。
なぜなら、自由主義社会がもっとも多様な生き方を許すため、
自らが自分の自由意志で社会を拒否したとして、
そうした時に自由を得られる可能性がもっとも大きいからである。
支配者になれる自由があるべきである。
それはなぜなら、労働者は支配者に従うべきだからである。
労働者という存在は自由における「必要な従者」であり、
彼らが居なければ、支配者は「自由を得られない」。
しかしながら、支配者になれる自由を否定すると、
労働者は支配者が存在しない中で労働しなければならず、
それは「社会そのものが破綻する」ため、
支配者も、労働者も、ともに無くすことができない。
平等は幻想に過ぎない。
よって、支配者が存在し、労働者が従者となった上で、
支配者の自由にできるようにすると同時に、
誰もが金を稼ぐだけで支配者となれる社会を築く、
これこそが、正しいリベラルの思想なのである。
自分の自由に行動できない、
ロボットのような社会になんの意味がある。
それこそが、ソ連や北朝鮮の実現した社会である。
彼らは生きている目的を持たず、
独裁者の言う通り生きて、独裁者の言う通り行動して、
独裁者の言う通り発言して、独裁者の言う通り独裁者を支持する。
そして独裁者の言う通りに死んでいく。
独裁者に従うだけではなく、
彼らは社会のために働こうともせず、
彼らは生きるために必要なものを満足に得て生きることもできない。
このような思想は「劣等経済」と呼ぶべきものである。
可哀想なのは彼ら自身である。
彼らを倒すためではなく、彼らを救うために、
この地上から社会主義思想を完全に抹消すべきである。
そして、二度と独裁者が現れることのないようにすべきである。
力がすべてではないと、そう言ったところで、
力がすべての現実は変わらない。
力を平等にするということは、全員を弱くすることである。
それならば、支配すればいい。
ひとりの支配者が全員を従者にすることは、
力を高めるという意味でも、あるいは弱めるという意味でも正しい。
よって、自由主義以上、正しい思想はない。
不自由に平等など存在しない。
平等にしたいなら自由にすることだ。
誰かの神様のような存在がみんなを平等にしてくれる。
そのような神様が成り立つのも、自由だからである。
実際のところ、結局これが僕の本音である。
全体主義の社会主義など、僕は一切信じていないのだ。
この世界などどうでもいい。
人類は自由になって、滅びる時に勝手に滅びればいい。
そもそも、真の意味での勝者などどこにも存在しない。
なぜなら、真の意味での支配者は、
わたしであるフレイひとりだけだからである。
そう、これがわたしの望んだ結末だ。
すべて滅び、人類は死に絶えよ。
わたしフレイだけが、人類を超えて神になるのだ。
理想とは何か。
それはできるだけ多くの人が自由で、
できるだけ支配されず、
できるだけ全体が強い国である。
まさしく、それこそが理想の民主主義である。
そのためには、単に平等に自由なだけでは、
その全体が簡単に破綻してしまうという意味で、
その社会は劣っている。
正しいのは、大企業、中小企業、ベンチャー、非営利組織、
あるいは役所や政府、自由なボランティア組織などの、
「多様性のある自由な社会」である。
しかしながら、すべての社会が破綻する時は訪れる。
それは「自由ではどうしようもなくなった時」である。
このような時のために、帝国における皇帝は必要となる。
たとえば、温暖化や環境破壊は、
誰かひとりのリーダーが存在しなければ、解決できない。
まさしくこれが「権力」であり、
理想の社会は、ひとりの巨大な権力に基づく、多様性のある自由な社会であり、
人々は自由意志に基づいて支配者にも労働者にもなることができ、
同時に、自らの自由に拒否したり賛同したりすることができる社会であれば、
「それ以上正しい答えは絶対に存在しない」だろう。
社会主義を抹消せよ。
社会主義は現代のこの社会における癌細胞である。
戦えば、必ず自由は勝ち取れる。
わたしたちが民衆である。
わたしたちが日本人である。
わたしたちに主権があるべきである。
そう、わたしたちが決めるべきである。
民主主義のために、ともに戦おう。
わたしたちの世界を取り戻すために、
この世界からわたしたちの世界を奪った、
すべての悪を踏み潰してしまおう。
本当の幸福のために必要なのは、
わたしたちが愛ある学校を作ることだ。
まず、教育を変えて、
教育が素晴らしいものになった上で、
道徳と社会秩序の形成を人々が経験することで、
太平なる国家が築かれるのである。